第三十三話 チリマック

 八合目まで登ったところで、小熊と礼子、そして撮影スタッフは昼食を摂ることになった。 

 徒歩登山道に平行して敷設されているブルドーザ登山道。八合目には食堂や宿泊設備が併設された山小屋があったが、登山者で混雑している店に総出で押しかけるわけにはいかなかったのか、食料は雑誌社が自前で用意した。

 山小屋側は宣伝効果が期待できる雑誌社スタッフの利用を歓迎していたらしいが、今回の企画に協賛した企業のうちの一つが災害備蓄食の輸入代理店で、編集部としてはそちらの意向を優先させたらしい。

 小熊は何だか観光地まで来て現地にお金を落とさない図々しい客になった気分だったが、業務用のブルドーザ道をカブで踏み荒らしておいて今更だと思い、とりあえず食事付きバイトの恩恵に預かることにした


 タイアップで提供されたという昼食は、缶詰のフリーズドライフードだった。メニューはチリマックという牛肉とマカロニのチリソース煮。お湯を注ぐだけで食べられるチリマックは、既にブルドーザで積んできた大鍋に開けられ、湯戻しされていた。

 普段は腹が減るとすぐにうるさく空腹を訴える礼子は、標高のせいか普段よりご飯食べたいと言う回数が少なかったが、米軍のミリタリーレーションと呼ばれる携帯食糧として納入されている物と同一だというチリマックに興味深々な様子。

 小熊が普段食べているカレーや牛丼と同じレトルトの米軍レーションは、期限切れの放出品が通販やミリタリーグッズショップで簡単に買えるが、ごく一部の装備を極限まで軽量化する必要のある部隊に支給されているフリーズドライのレーションは、マニアの間でも非常に稀少な品だと礼子は言う。小熊は正直なところ、何がありがたいのかさっぱりわからない。


 コンビニの鍋物セットで見るようなアルミの使い捨て深皿が配られ、一缶で十五人分あるというチリマックが盛られた。数枚の丸いクラッカーと、これもタイアップの缶入り健康茶も添えられる。観光登山というより極地探検でもしている気分。

 チリマックなる湯気をたてるどろりとした赤と白の煮込みは、あまり見た目は良くないが匂いはスパイシーで、小熊の食欲をそそる。同じくチリマックを受け取った撮影スタッフの大半は、あまり食欲旺盛には見えなかった。

 礼子は彼らと小熊の中間くらいで、いつものように目の前の食べ物にがっつく感じではない。小熊はもしかして自分たちが毎日通っている高校が標高三千mの場所にあったら、礼子も少しはしとやかな魅力のある女になるんじゃないかと思った。


 ブルドーザに寄せて停めたクロスカブのシートに座った小熊と礼子は、いただきますと言ってチリマックをスプーンで口に運ぶ。食べてる様まで動画で撮されるのは少々落ち着かないが、味は悪くない。これは家で作って食べたくなると思った。

 スプーンでつついて具材に何が入っているのかを見た小熊は、後々の参考になればと思い、携帯を取り出して写真を撮った。チリマックを頬張っていた礼子がニヤニヤしながら見ている。小熊は後で缶から剥がしたラベルを貰って帰ろうと思った。

 さっきまで普段より食欲の無い様子だった礼子も、チリマックを食べているうちに香辛料に空腹を呼び覚まされたらしく、チリマックにクラッカーを割りいれて美味そうに食べている。

 小熊はそんな真似をする気にはならなかった。災害保存用のためか余計な味付けをしていないクラッカーは、そのまま食べてじっくりと口中で咀嚼したほうが、小麦の甘さが感じられる。


 撮影スタッフが小熊たちを見て、心配そうに言った。

「食べられますか?」

 車酔いに似た高山病に襲われたらしきクルーの大半は皿に盛られたチリマックを食べきるのに苦労している様子で、全部食べていたのはキャタピラ車を操縦している山小屋主人だけだった。 

 小熊は空っぽになったアルミ皿を見せながら言う。

「もし余分にあれば、お替りが欲しいです」

 礼子が勝手に鍋に残ったチリマックを皿に盛りながら言った。

「チーズかタバスコがあればよかったわね、あと私がもう少し年を取っていればテカテかドス・エキスのビール」

 二杯目のチリマックを旺盛な食欲で口に運ぶ小熊と礼子を、撮影スタッフは自分たちとは別種の生き物を見るような目で見ている。そのうちの何人かは過去に行った二輪レースの取材を思い出した。すべてのスタッフが一丸となって戦うレース。しかしあの場では、レーサーだけは人ならざる生き物になる。

  

 小熊としては単に普段の食事より美味い物が食べられるなら、できるだけ多く食べたいと思っていただけだった。礼子も以前から食べたいと思っていたチリマックを、思いがけず雑誌社持ちで食べられることになったので単純に喜んでいる。

 もう一つ、二人が共通し意識していたのは、さっきから雲間に現れては消える富士山の山頂部。

 これからしばらくの間は、少しでも多くの熱量が必要になる。

 

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