第三十二話 散歩

 富士山に登っていると砂が石になり、やがて岩になるという。

 今までの人生で登山の経験など数えるほどしかない小熊は、身を以ってその言葉を知ることとなった。

 七合目付近から、それまでクロスカブでも巡航可能だった石の道は、岩の道になる。

 標高は既に三千m近い。五合目では暑苦しいと思っていた借り物のモトクロスジャケットが山の冷気を遮断してくれているのがわかる。きっとさらに標高が上がれば寒くなるんだろう。下界では関東を中心に猛暑日となっていることが信じられない。

 小熊と礼子はクロスカブに乗って、岩の道を相手に悪戦苦闘していた。


 六合目で長めの休憩を取ったこともあって、七合目ではごく短い小休止の後、登山を再開させた。

 道は賽の河原でも走っているかのように不規則なデコボコで、絶えずバランスを取らなくてはいけない二輪車のカブでは、まっすぐ走ることもシートに尻を落ち着けることも出来ない。

 直線と百八十度近いUターンを繰り返すブルドーザ登山道で、小熊は悪路の踏破と転回を単純作業のように繰り返した。

 単純作業と思えるようになったら危ない。


 道の山側は見上げても上の見えない壁で、谷側は三千m下の麓まで続く急斜面。ガードレールなどの防護が何も無い道で、もし車体を谷へ倒したら、そのまま転がり落ちて自分もクロスカブも命無き塊になる。

 七合目までは走行といえる形で移動していたが、今は走るというより歩く速度になっている。

 小熊は街中でスーパーカブを走らせていて、混雑した道で周りを歩行者に囲まれた時、歩く速度で進むことの出来るカブのエンジン特性とバランスに優れた車体に満足感を抱いていたが、スーパーカブがそういうバイクである理由が、人の歩行に合わせた速度までスピードを落とすためではなく、こんな道を通ることになった時、最大限のスピードを出しても歩く速度しか出せない時のためでもあったということに、今さらながら気づかされた。


 先行していた礼子の赤いクロスカブが、何度も一緒に走った小熊にしかわからない僅かな変化を見せた。さっきから少しふらついている。岩石の道で最適の進路を選ぶ反射神経はまだ持続しているらしいが、障害物に進路を阻まれて走ろうとしないカブを力で抑え込む膂力が。目に見えて落ちている。

 酸素の薄さが体に影響を及ぼしつつある。小熊はクロスカブの速度を歩行の速さから小走り程度に上げ、礼子のカブを追い抜いた。すれ違い様に横顔を見ると、礼子の息が早くなっているのがわかる。小熊のカブを抜き返そうとした礼子は、自分より安定した様子で走る小熊の背を見て、大人しく後ろについた。


 小熊は走りながら、どうやら自分はまだ集中力と膂力を維持出来ていることに気づく。

 高山病と船酔いは、体質によってかかる人間と全く縁の無い人間に分かれるというが、たぶん自分には、礼子より酸素の貯金が余分にあるんだろうと思った。

 お金も酸素も普段から無駄使いをしないように努めていれば、アリとキリギリスのように時々いいことがある。礼子もこの登山を機に、自分のしたいことだけをして生きるキリギリスのような生活を少しは改めてくれるだろうかと思ったが、たぶん礼子はアリとキリギリスのような説教臭い話より、真面目に貯金していた弟と酒ばかり飲んでいた兄を戦争によるインフレが襲い、弟の貯金が紙くずになり、兄は酒瓶を売って大もうけした、ドイツの兄弟の話のほうが好きだろうと思った。

 小熊が考え事をしながらクロスカブを走らせている間、礼子も似たことを思っていたらしく、小熊の背を追う礼子の走りが安定してきた。それまでカブによる富士登山の最速記録を樹立する気分で走っていたらしき礼子も、ほどよく力が抜けたらしい。


 小熊は以前、礼子から彼女の母の話を聞いたことがある。仕出し弁当屋の跡取り女社長として、製造から配達、経理や営業まで何でもやっていた礼子の母は、受け継いだ都下住宅地の弁当屋を同業者に負けない店として存続させるため、脇目も振らず働いたらしい。

 仕事に応じた実入りがあるとは限らない自営業。働いても働いても店はうまくいかず、逆に自分にも他人にも厳しく、いつも怖い顔で愛想の無い女社長からは、従業員や出入り業者、それに客が離れていった。道場気取りのラーメン屋によくある現象。

 いよいよ商売を畳むしかないと思った時、礼子の母の中で何かが変わった。ヤケクソのダメモトで、もうこの店は潰すものと割り切り、再就職先を探すまでのアルバイト気分で弁当屋をやっていたところ、夕食を自炊せず弁当で済ますような無精者の客たちは、同種の怠け者店長が作って売る手抜きの弁当に集まってきた、客が増えた最大の理由は充分な儲けを乗せる価格設定もサボり、その日の気分でいい加減な値段を付けていた事らしいが。

 他にも店を構えていた場所の近くにあった寺が過剰投資した霊園と共に倒産し、跡地に大手通販会社の倉庫が出来たことで大きな需要が生まれた事や、同業者の廃業と大手弁当チェーンの内紛による分裂などの幸運が重なり、礼子の母は弁当屋の仕事を人に任せて遊びに行けるようになった。

 そこで何度目かの社長やめる宣言と共に旅立った先のバックパッカー宿で礼子の父と出会い、そのまま結婚したらしい。


 小熊と礼子は人の歩く速度を維持しつつ、カブでの登山を続けた。人間の反射神経や動体視力は、一般的な歩行速度の時速四km程度で最適の性能を発揮するよう設計されているらしく、この速度を守っていれば、今のところは岩の中で前進に最適な走路を選ぶことが出来る。

 本七合目にさしかかったが、キャタピラ車の撮影スタッフがヘルメットのスピーカー越しに通過を指示した。息が荒いのが声からもわかる。キャタピラ車に乗客として乗っていて疲れるものなのかと小熊は思ったが、高山病はバイクでも車でも、徒歩で登る人間にも等しく負荷を与える。

 指示通り本七合目を通り過ぎる。カラフルな登山ウェアに身を包んだ徒歩の登山客が指を指している。このカブによるブルドーザ登山は許可を得ているとはいえ、登山の混雑期に行われているため、取材協力を得られる山小屋や設備は限られているらしい。


 小熊は礼子と時々先頭を交代しながら走り続けた。前からの映像が撮りたくなったのか、途中でキャタピラ車が二台のクロスカブを追い抜いて先行する。砂煙が上がり、オフロードヘルメットに付属しているゴーグルに石ころが当たるのは鬱陶しいが、前を走って道を均してくれたおかげで、走行状況は少しマシになる。

 幾つかの建物が見えてきた。観光地化した本七合目までの施設とは異なる、殺風景にも見える山小屋の集落。

 八合目に到着。先に停車したキャタピラ車を降りてきた撮影スタッフの顔色は青ざめていた。何人かはキャタピラ車を操縦する五合目山小屋の主人の手を借りながら降車している。

 動画を撮るカメラマンは覚束ない足ながら仕事意識を発揮し、ヘルメットを取った小熊と礼子にカメラを向けている。小熊はどうすればいいか少し迷った。こういう時、カブに乗る人間はどうすべきか。


 とりあえず礼子がずっと前から知っていて、最初にそれを聞いた時は否定していた小熊も最近になって認めざるを得ないと思っていたことを、そのまま言葉にすることにした。 

「やっとカブで走れる」

 礼子が返答する。小熊の答えはもう知っているといった感じ。礼子もまた自分自身が小熊に教えたことくらいは、言行の一致を守る積もりになっているらしい。

「ここまで走ってきたんじゃないの?」

「今までのは散歩」

「カブで散歩するのって楽しいわね」

「走るともっと楽しい」

 バイクに乗る人間というのは、見栄を張る生き物。

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