第二十五話 コットン

 梅雨は続いていた。

 小熊と礼子、椎はプレハブの空き部室を臨時の駐輪場として確保したことで、雨晒しにならぬ保管スペースやレインウェアから制服への着替えなど、降雨の中でカブを生活道具として使う上での利便性を得たが、小熊には何だか閉塞感も増した気がした。

 カブを買う以前は雨の日や特に外出の用の無い日は、ラジオしか娯楽ツールの無い部屋の中でずっと過ごしていても平気だったが、今は天候と時間、それからガソリン残量が許せば外を走りたくなる。

 その天候が現状、まことに芳しくない。放課後の空き部室で、小熊は窓越しに雨空を睨んだ。

 

 それがいいことなのか、それとも意味の無い無駄なことなのか、梅雨になってから小熊は学校を終えた後の時間を、礼子や椎と空き部室で過ごすことが多くなった。

 最初は一時的に降りの強くなった雨が落ち着くまでの時間潰しだったが、そのうち雨の降りに関係なく空き部室でお喋りやカブの整備をしてから、夕方になる頃に各々が帰路につく。

 椎は殺風景なプレハブ部室の居心地をよくするためコーヒーセットを持ち込み、礼子はキャンプテーブルとチェアをカブに積んで持ってきた。小熊は臨時の駐輪場をゴテゴテ飾るなんて馬鹿らしいと思っていたが、音楽が足りないと思った時、自分の部屋にあるラジオを思い出した。


 何度目かの梅雨空の午後。礼子はスマホで雨のマークばかりの天気予報サイトを見ていた。椎は部室棟で共用している水道で洗ってきたティーカップを籐のピクニックランチケースにしまっている。

 学年が違うけど授業の終了時間が重なる時には顔を出すことの多い慧海は、一年生の学級で催される行事に出ているとかで姿を見せない。

 元々三人ともそれほどお喋りな人間ではない。沈黙が支配することも多い部屋の中で、小熊は一つ気になっていたことを聞いた。

「それ、大丈夫なの?」

 小熊が指差したのは椎のリトルカブ。後部には資源ゴミ回収用のプラスティックケースにジッパー付きトートバッグを被せた特製の荷物入れを装着している。

 行き帰りの道中で、椎はレインウェアに身を固めていても後部のボックスは雨に晒される。帆布と呼ばれる分厚い木綿布には、朝の通学で雨に降られた時の湿り気が残っていた。


「これ意外と雨には強いんですよ。濡れると布目が詰まって水を通さないんです」

 椎はカブの後部ボックスに使うには贅沢なLLbeanのトートバッグを自慢げに指差している。小熊はジッパーを開けてみた。なるほど中のプラスティックケースは濡れていない。でも、小熊が心配しているのは中身だけではない。

「木綿は毎日濡れっぱなしだとカビたり腐ったりする」

 椎はハっとした顔で自分のリトルカブを見た。オフホワイトに水色のラインの入ったお気に入りのジップトートを、椎は心配そうに撫でている。色合いが椎の好む下着の色と同じなので、小熊には椎が自分のパンツを触っているように見えた。


 椎が彼女にはあまり似合わない眉間にシワを寄せた表情で、パンツ色のトートバッグを眺めていると、礼子が助け舟を出した。

「大丈夫じゃないの?」

 小熊はいつもと変わらず楽観的な礼子に反論しようとした。カビたバッグを後ろに乗せたカブなんて見たくないし、腐食で強度が低下したバッグが後部荷台から剥がれ、後輪にでも巻き込まれれば命に係わる。

 椎は両親が自分のことで衝突を始めたような顔で狼狽している。礼子は小熊の視線など意に介さぬ様子で、外の雨音に耳を澄ませていた。

 代わり映えのしない連続音の中に、小熊の耳に馴染んだ音が混じった。聞き間違うはずもないカブのエンジン音。礼子が部室の入り口になっている引き戸を開けた。

 部室から見える学校の敷地内を、雨合羽に身を固めた老人がカブで走っていた。牛乳販売店の屋号が書かれた古いカブ。後部にはプラスティック製の牛乳ボックスが載せられ、後部キャリアの左右と前部には布製の袋が付けられている。

 この辺りの牛乳配達業者は軽バンで配達をしていて、早朝にはよく牛乳メーカーのロゴが入った配達車姿を見かけることがあるが、学校の購買部に毎朝納品している牛乳屋が時々、集金や新製品のサンプルを届ける用で学校に来る時は、軽バンが導入される以前から配達に使っているというカブでやってくる。


 牛乳屋の老人は、風雨に晒された固く分厚い布袋を付けられたカブに乗って、教務課のある方角へと消えた。

「あれも帆布よ」

 礼子が誇らしげに言いながら付け加えた。

「椎ちゃんはカブのトートバッグより自分のパンツにカビが生えないように気をつけなきゃね」

 椎の顔が真っ赤になる。

「はえてません!」

 椅子の上で体をのけぞらせながら笑う礼子と、スカート越しに自分のパンツを気にしている椎。小熊は別のことを考えていた。梅雨入りして間もない頃の思いつき。高性能なセパレートのレインウェアとは別に、小雨の時に気軽に着られる雨具があればいいなと思ったこと。


 小熊の頭の中に数日前の梅雨の晴れ間に行った中央市の大型リサイクル店の映像が浮かんだ、そこで見つけたが、買おうかどうか躊躇した古着。

 小熊は立ち上がり、自分のレインウェアを手に取った。

「用を思い出した、もう帰る」

 何かに気づいたらしき礼子もハンターカブの後部ボックスを開けながら言う。

「わたしも行く」

 椎がもじもじしながら言った。

「わたしもついてっていいですか」

 さっき小熊に、あるいは礼子に言われたことをまだ気にしているらしき椎は付け加えた。

「このままじゃカビが生えちゃう」

 

 誰が来ようと関係無い。小熊には行くべき場所がある。三人でレインウェアに袖を通し、雨の中を三台のカブで走り出した。

 中央市のリサイクルショップに着いた小熊は、売り場で奇跡的に残っていた古着を買う。コットン生地のコート。

 丈が膝上でロングコートとショートコートの中間くらい、ウエストをベルトで締める、トレンチコートと呼ばれる米軍用のコート。

 試着してみるとサイズも合っていて、値段もファッションブランドのコートに比べて安い。色も軍用コートに多いオリーブグリーンではなく紺色。緑色のミリタリーウェアを着ていると同じくミリタリーの好きな礼子の舎弟にでもなった気分になるが、このダークブルーなら許せる。


 礼子はやっぱりこのコートに関していらぬウンチクを垂れる。このコートはトレンチコートという名前の通り塹壕での防寒用に作られた軍服だということ、雨具としても優れていてオートバイ兵に愛用されたこと。小熊にはどうでもよかったが、機能に優れたものに実績という保証書がついているのは悪くない。

 帰り道でおあつらえ向きの小雨になったので、早速着てみる。羽織ってウエストベルトを締めるだけで、着たり脱いだりするのにも時間がかからない。ウールのコートと違って洗濯機で洗えそうな木綿製なので、気兼ねなく雨具に使える。

 帰路でトレンチコートを着てカブで飛ばしてみたけど、走行風によるバタつきも無く、いい感じだった。長距離の走行ならむしろセパレートのレインウェアより疲労度が少ないかもしれない。


 甲州街道の牧原交差点で礼子や椎と別れ、自分の家に向かった小熊は、アパートの駐輪場にカブを停め、自分の部屋に向かう。

 部屋の明かりの下で、小熊は今日買ったトレンチコートを見た。小降りの雨でコート全体が水玉模様になっている。

「悪くない雨」

 明日もこのコートが似合うような雨になるだろうか。もしそうなったら、今度は高性能レインウェアの頼もしさが必要になるような豪雨が恋しくなるのかもしれない。

 傘をさして歩くだけではわからない、雨とバイクの妙味というものの存在を感じながら小熊はコートを壁に架けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る