第二十四話 巣篭もり

 季節には少しずつ変わっていくものとそうでないものがある。

 初夏の暑さを冷ます気持ちいい雨に降られたと思ったら、突然別の場所に放り込まれたように、湿潤の日々が始まった。

 小熊がカブを買ったのは去年の梅雨明けで、秋の長雨がそんなに降らなかったこともあって、今まで雨の苦労というものをそれほど味わうことは無かった。それより前、自分がまだカブに乗っていなかった頃の梅雨がどうだったのかは、よく思い出せない。ホームセンターで数百円で買った頼りない雨合羽を着て自転車に乗っていたような気がする。雨脚の強い時は奨学金の残金を気にしつつバスに乗っていた記憶も、今となっては別人のようなもの。


 雨というものはバイクに乗っている人間に色々と制約を与える。歩行している時とは比べ物にならぬほど服を濡らし、タイヤが滑りやすくなり視界が妨げられる。

 こちらが雨天への備えを整えていても、周囲を走る他の車がそうであるとは限らない。小熊もレインウェアに身を固め、ヘルメットのシールドに曇り止めを塗って、いつもと変わりないと言い聞かせつつカブで走っていたところ、横を走るカブの姿を見落としたらしき車に危険な車線変更をされて肝を冷やしたことがある。

 去年の夏に少し無理して買った高性能レインウェアは充分な仕事をしてくれているが、それだけに着たり脱いだりするのにいささか手間がかかる。ブレザーとスカートの高校制服の上に着ると色々と見苦しくなるので、雨の日は体育ジャージの上にレインウェアを着て、制服をカブの後部に詰めて学校に行き、運動部の更衣室やトイレで制服に着替える。授業を終えた帰りにも同じことをしていると、もう雨具も何も着ず制服をビショ濡れにさせながら帰りたくなる。 

 もう少し軽く、制服の上から簡単に脱いだり着たり出来る小雨用のレインウェアがあると便利だろうかと思った。雨は小熊を経済的にも圧迫してくる。


 手間と面倒の多い雨の日通学の現状は、小熊が何か行動を起こすまでもなく少し変化した。

 梅雨になってからカブを停める場所は、申し訳程度のトタン屋根のある駐輪場から、校舎とプールの間にある部室棟の一室に変わった。

 延々と降り続く雨に小熊以上の不満を漏らし、しばしば空に向かって英語圏では人前で言っちゃいけない類の罵倒の言葉を吐いていた礼子が、学校にかけあって空いている部室を使わせて貰うことになった。

 他にも原付や自転車で通学している人間が居る中で、小熊や礼子だけが特別扱いして貰うことなど通常ではありえない。無理な要求が通った理由の一つは、自治体が配信しているメール。

 犯罪の発生を伝える治安情報では、自動車とオートバイの盗難が頻発していることについての注意が喚起されていた。文中には自動車のハイエースと二輪車のスーパーカブが、特に盗難が増加している車種として挙げられていた。


 小熊や礼子の暮らす北杜市だけでなく全国あらゆる場所で、よく盗まれる原付としてスーパーカブが名指しされていた話はよく聞く。特に東日本大震災直後のガソリン供給停滞時に顕著だったという。

 それゆえ学校側が読まずに削除していたメールを礼子はしっかり保存していて、学校PCのごみ箱からサルベージしたメールを見せながら、今の駐輪場に停めていることは盗難を呼び寄せるようなものだと出張した。

 自論を相手に呑ませるため助け舟が必要となった礼子と、それを止めてほしいと思った教職員の両方から意見を求められた小熊は言った。

「わたしなら学校の駐輪場で盗む。外部の人間の侵入に意外と甘いし、必要があって移動させている風に装えば、怪しまれることなくトラックに積み込める」

 その日は検討するとだけ言って話を打ち切られたが、図らずも小熊の言った通りの原付盗難事件が他校で発生し、防止に努めるべしという連絡が回ってきたことで、事態は小熊たちに有利に進んだ。

 結局、空いている部室の一つが通学バイクの第二駐輪場という名目で小熊たちのアジトになる。


 あてがわれた部室は錆びの浮いたプレハブで、空調も何もないコンクリート敷きのスペースだったが、とりあえずカブを頼りない屋根の下で半ば雨ざらしにすることなく駐められて、着替えも出来るようになったことで、朝夕の通学時間を少し節約することに成功した。

 小熊と礼子が部室を確保した頃、椎もちゃっかりと自分のカブを部室に駐めるようになった。

 当初は雨が降るとカブでの通学を諦め、妹の慧海と仲良く色違いの傘をさしなが徒歩で通学していた椎は、雨具としてセリエAラツィオのウインドブレイカーを買ったことをきっかけに、雨の日もカブで来るようになった。

 姉は別々に通学することになった妹の慧海は、雨など負担にならないといった感じでランニングや競歩をしながら登校している。身長も歩幅もだいぶ違う姉の椎と一緒に帰っていた時には出来なかったこと。

 姉妹だけに通じる以心伝心で、互いが重荷になっていることがわかっていたのかもしれない。

 もっとも慧海は家を出る頃には一人でも、クラスの内外で女子にもてるらしく、お目付け役の姉が居なくなったことで一緒に通学したいという同級生や上級生の女子が寄ってきて、学校に着く頃には別の重荷を何人も抱えていることが多い。

 

 小熊と礼子が確保した部室は、他の部活生徒から「カ部」とからかわれながらも、三台のカブを停め、通学時には着替えを行い、雨具を干す場所として役に立った。 

 昼食の時間も、今までは駐輪場の雨避けには足りぬ屋根の下で弁当を広げていたが、部室の中で雨風に晒されることなく食べられるようになった。

 カブしか無かった部室は、礼子が自宅ログハウス近隣の別荘を取り壊している現場を見つけて貰ってきた折りたたみのテーブルとキャンプチェアを置いたことで、よく自動車雑誌に理想的な男の隠れ家として出てくる、自分の愛車を見ながらお茶を飲めるガレージのようになる。

 椎は殺風景な壁にタペストリーを架けたいとか、いつでもコーヒーが飲めるようにエスプレッソマシンを置きたいと言い出し、ここにカフェを作る勢い。女は巣を作るのが上手いというが、その能力があるのはここに居る面々の中で椎だけのようなので、教師や他部活の生徒に睨まれない程度にとだけ言って後は任せた。


 放課後。かつて駐輪場でそうしていたようにカブを停めた部室に集まった小熊は、いつものようにレインウェアに着替えてカブで帰路につくでもなく、キャンプチェアに腰掛ける。

 せっかちな礼子も小熊に釣られるようにチェアに座る。椎はいつのまにか部室に置いていた直火でエスプレッソを沸かすマキネッタを取り出し、慧海がなぜか通学用のディパックに入っていたオプティマスのガソリンも灯油もアルコールも使えるコンロに火を点ける。

 香ばしい香りを発しながらマキネッタのコーヒーが沸き、ポコポコと音をたてる中で、少し蒸してきたので部室のガラス戸を開けた小熊は、自分のカブと雨空を眺めた。

 そういう情緒とは無縁だと思っていた礼子も、灰色の景色と自分の真っ赤なハンターカブを見比べている。

 ただ、そうしていたい気分だった。

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