第二十三話 雨

 五月の連休は、特に何かをしたという実感の無いまま小熊の両脇を通り過ぎていった。

 家に閉じこもっていたわけでもなく、連休前にはそれなりに予定など立てていたが、去年の冬にバイトをした医療検査会社から、バイク便の人手が急に足りなくなったからとヘルプを頼まれ、前回より上乗せされた時給に釣られた小熊は、休日の間ずっと仕事でカブに乗っていた。

 冬よりは楽だと思って請け負った仕事だったが、初夏の暑さの下でカブに乗るのは意外と過酷で、バイクに乗っていて気持ちいいと思える季節というのは意外と短いことを知った。

 礼子はといえば連休の初日にいきなり季節はずれのインフルエンザに罹り、休日をずっと寝て過ごしたらしい。椎は自宅ベーカリーのイートインスペースを自分好みにする計画に本格的に手をつけるらしく、妹の慧海に手伝わせながら大工仕事をしていたという。


 連休明け。また学校に通う日々が始まる憂鬱と、変わらぬ日常を取り戻した安堵の混じりあった気持ちで、小熊は授業を受けた。

 進学については教師に薦められた公立大学の指定校推薦を受けたい旨を既に伝えていて、教師の話では現在の小熊の成績と出席率、何より両親が居ないという事実が持つ効果を最大限に利用すれば、推薦に必要な審査は問題なく通るらしい。

 無事推薦が決まれば、多額の借金を抱える高校までの貸し付け型奨学金ではなく、海外の教育基金から無償給付される奨学金で学費を賄うことになる。

 小熊が八王子の南大沢にある大学を実際に見に行った時、大学ではなく学生寮に対して抱いた違和感については、今は考えないことにした。

 何もかもが順調に進み、うまくいけば来年からはそこそこの暮らしが出来るようになるであろう進路に、波風を立てることを恐れた。


 昼食の時間。小熊と礼子はいつも通り駐輪場で自分のカブに座って弁当を広げる。少し前から同級生の椎と、妹で一年生の慧海が加わるようになった。

 小熊はいつも通りメスティン飯盒で炊いたご飯。ここ最近缶詰と白いご飯ばかりで、少々飽きてきたので、今日は山菜の炊き込みご飯と茹で卵。

 病み上がりの礼子は、家でブっ倒れていた時に食べられなかった分を取り戻すように、分厚いローストビーフとクレソンのサンドウイッチにかぶりついている。

 椎はここ数日で出回り始めた夏野菜とトマトソースのパスタ。毎日違う物を食べている慧海は、今日も風変わりなものを昼食にしていた。手鍋の中で湯気をたてるチキンラーメン。お湯は職員室で貰ってきたらしい。


 独身男のような昼食を礼子がからかうと、慧海は何ら恥じる様子もなく答える。

「数多くの冒険家や登山家、また被災者に支持されている、非常に合理的な食料です」

 そう言いながらも自分のアルミ手鍋を見て、それから小熊が炊飯器を兼ねた弁当箱として使っているメスティン飯盒をちょっと羨ましそうな目で見た。

 慧海のみならずアウトドアライフを愛する多くの人たちは、学生時代に最初のキャンプに行った時、専用設計されたアウトドアグッズではなく、家の台所から持っていたような鍋や普段から寝床で使っている毛布を手にしていたという。それから経験や経済的余裕に合わせ、目的に適した装備を選別し入手していく。

 そんな人たちの中で少なからぬ人間が、やっぱり日本の環境ではこっちのほうがいいと知り、ごく普通の家庭用の鍋に戻るということを慧海もいつか知るんだろうかと、小熊は思った。

 もしかしたら、ツールとしてのカッコよさがあれば実際に使った時の不便は見ないフリをする礼子より、気づくのは早いかもしれない。


 手鍋の蓋を開け、箸を手に取ってチキンラーメンを食べようとしている慧海は、湯気をたてる麺をすくってから手を止めた。チキンラーメンの縮れた麺を、生まれて初めて食べるものであるかのように眺めている。

 小熊は慧海が猫舌なのかと思ったが、何度か食事を共にした時の経験を思い出してもそんな様子は無かった。熱さや味ではなく、麺そのものに腰が引けている感じ。

 姉の椎は慧海の動きが止まった理由について知っているらしく、手を伸ばして自分より三十cm近く長身な妹の肩を叩いた。

「慧海ちゃん、ラーメンくらい食べられるようにならきゃダメよ」


 小熊は自分の山菜ごはんを喉に詰まらせそうになった。妹の前で偉そうにしている椎も、パスタは好きでもラーメンや蕎麦のような啜って食べる麺をうまく食べられず、小熊や礼子と行動を共にするようになって、やっと人並みに食べられるようになった。

 小熊は無理に食べることは無いと助け舟を出そうとした。自分の山菜ごはんと取り替えてあげてもいいと思っていたが、早々にサンドウイッチを食べ終えた礼子がコーヒーを飲みながら言う。

「麺を食べることが出来れば、アジアのほぼ全域で生きていけるわよ」


 慧海の目つきが変わった。小熊や礼子に対する視線はいつも通りだが、今まで食べるのを躊躇していたラーメンを、夢や憧れを抱いた瞳で見ている。きっとチキンラーメンの湯気の中に、ベトナムのフォーやタイのバーミーを見ているんだろう。

 慧海はチキンラーメンを口に入れ、そのまま音をたてて啜った。さっきまで慧海にラーメンを食べるように言っていた椎はちょっと悔しそう。他の色んなことでそうであったように、また自分が一足飛びに追い抜かれたような気分なのかもしれない。

 椎は慧海を褒めてあげるのを忘れ、自分のトマトソースパスタをラーメンみたいに音たたて食べているので、小熊はヘソを曲げた姉の替わりに慧海のオレンジがかったポニーテイルの髪を撫でてあげた。

 慧海は一度口にすると麺への苦手意識などどこかに飛んでいったらしく、目の前のチキンラーメンを食べることに集中していた。

  

 昼食と午後の授業を終え、小熊と礼子、椎は駐輪場で自分のカブに跨る。椎は先日スワップミートで買ったランドセルのようなボックス型デイパックを気に入って使っている。自転車通学時代から使っていたメッセンジャーバッグは椎のカブの後部に着けられた荷物箱より微妙に大きく、無理に詰め込むような感じだったが、ボックス型のディパックはぴったりと収まる。

 三年生の小熊たちより一時間早く授業の終わった慧海は、早々に徒歩で帰ったらしい。放課後や休日は暇さえあれば山に登ったり林道を踏破している慧海にとって、家までの一km少々の上り坂はフィットネスにすらならない。

 椎や礼子と反対方向にアパートのある小熊は、校門前で軽く手を振って二人と別れ、県道を日野春駅方面へと走った。

 進行方向に灰色の雲が広がっていた。朝の登校時も、昼食時でさえ、空は雲ひとつ無い快晴だった気がする。

 帰りに買い物でもしようかと思い、小熊は牧原の交差点でカブを右折させたが、甲州街道を走っていると雨粒が顔に当たった。

 既に雲は空の大半を覆っている。この雨はこれから強くなると思った小熊は買い物を中止してカブをUターンさせ、雨雲に追われるように自宅に帰った。

 何とか本降りになる前にアパートに着き、制服もそれほど濡れることは無かったが、部屋で着替えた小熊は窓に当たる雨を忌々しげに見た。

 バイクに乗る人間にとって、冬の厳寒期に並ぶ試練の季節と言われる、梅雨が始まった。

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