第二十六話 夏のはじまり

 新しく買ったトレンチコートの性能と効果を確かめているうちに、梅雨は明けた。

 結局このコートに袖を通したのは数回のみだったが、意外と強い雨にも耐えることがわかり、とりあえず損をした気分にはならなかったが、礼子が雨に濡れたトレンチコート姿で登校してくる小熊を見て「西部戦線の連絡兵みたい!」と興奮するのは少し煩わしく、ヘルメットを脱いだのがマックィーンやサザーランドのような好男子ではなく見慣れた小熊であることに落胆している様を見た時は、礼子だけ少し前の梅雨の世界に蹴り戻してやりたいと思った。

 椎も梅雨の間は雨に濡れっぱなしで、なかなか洗うことが出来なかった後部ボックスのトートバッグを、やっと洗濯して陽の下に干したらしく、新しいパンツをはいた時のように清々とした顔をしていた。


 梅雨の間も変わることなく山野の踏破に熱中していた慧海は、梅雨明けの空を見ながら呟いていた。

「今年もやりたいことを半分も出来なかった」

 バイクに乗る人間にとっては早く過ぎ去ってくれることをひたすら待つ梅雨の季節の終わりを、一年に一度の僅かな期間しか味わえないものとして惜しんでいる人間が居る。

 小熊には理解できなかった。もしかしてカブを降りればわかるようになるのかもしれない。それは今の自分にとって考えられないこと。ただ、この冒険に人生を費やしている少女を見ると、小熊は自分が普段見ている人生を生きているのか死んでいるのかわからない人たちが哀れに思えてくる。


 小熊はもしも慧海がカブに乗ったらどうなるのかと少し考えた。出会ってすぐの頃に誰にでもカブの良さを宣伝する礼子からカブを薦められた時は、自分自身の足以外の移動手段を信じない彼女は拒否していた。でも、誰かが押し付けるように乗らせたら、彼女は最初は拒みつつもカブとの暮らしを受け入れるのではないかと思った。

 小熊はその先を見てみたいと思った。ちょうど一年前の小熊がそうであったように、自分で移動出来る距離が伸び、自らを取り巻く世界が広がった時、この何になるのかわからない、何にでもなれそうな少女はどんな姿になるんだろう。

 それも慧海にカブを譲渡するような都合のいい人間が居ればの話。そんなうまい話があるなら慧海より先に自分に回って来て欲しいと小熊は思った。


 夏本番を迎え、高校生としての小熊たちを取り巻く環境も流動していた。

 梅雨の時期にカブを駐め、皆で過ごすスペースとして確保したプレハブの空き部室が、夏の間は耐え難くなるほど暑くなることを知り、カブを駐め四人で昼食の時間を過ごす場所は屋外だけど日陰になっていて昼は涼しい駐輪場に戻った。 

  一学期の期末試験を終え、試験休みを迎えた高校三年の三人と高一の一人は各々の目的に向けて動き出す。休みの間に四人で何かしようという予定は立てなかった。


 去年の今ごろ、小熊は礼子と夏の予定を話し合っていた。今年は色々とやらなくてはいけない事があった。

 礼子は東京の実家に帰省し、自身の進路について両親と相談、というより申し開きをしなくてはいけないという。一般受験での大学進学を目指す椎は夏の間、娯楽を絶って家に篭り、受験勉強をするらしい。慧海は身に着けている合皮のブーツや釣具屋の偽物サバイバルベストを本物にすべくバイトに励むと言っている。

 小熊も指定校推薦による進学と奨学金給付について、具体的な話し合いや決定をしなくてはいけない時期を迎えていた。

  


 小熊は試験休み中も学校に通いつめ、北米の事業家が設立した基金による奨学金給付に必要な手続きを進めた。高校三年間の学費は貸付型の奨学金で、結果として現在の小熊は高校卒業までに多額の借金を重ねることとなる。

 高校も給付型ならば良かったと思ったこともあったが、それは無理だったと教師に聞いた。母親が突然失踪するという突発的な事態では、高い競争率と幾度もの審査、相応の事前準備期間を要する給付型奨学金を得られる可能性は皆無だった。ただ、その借金は大学からの給付型奨学金の支給決定を得る最大の要素にはなった。


 小熊が試験休みの間を費やした面接と論文提出による審査を経て、奨学金の支給は無事決定した。金銭の問題が片付き、いよいよ大学進学に向けた手続きが始まる。

 今まで成績は中の上ながらほぼ安定していて、出席率もほぼ皆勤の小熊は、指定校推薦の手続きも順調に進む。高校生活中に部活に励んでいることも推薦の要素になると聞いた小熊は、部活と聞いて真っ先にあのカブを停めていたプレハブの空き部室を思い浮かべたが、いくらなんでもカ部なんてのが認められるわけ無いと思ったので、数ヶ月前に防寒服の自作で世話になった手芸部の教師に頼み込み、籍だけ置かせて貰った。


 教師は文句をつけるような粗も無く、淡々と何もせず過ごしてきたかのように見える小熊の経歴の一番下、無しとだけ書かれている賞罰欄を見ながら言った。

「警察に捕まるようなことはしないように。そうなったら推薦の話は無くなると思って」

 そんな物は自分に縁の無い事だと思った時、小熊の頭の中にスーパーカブが思い浮かんだ。カブで幹線道路を走っている時、それが車の流れに乗った現実的な速度でも、運が悪ければ赤灯を点けた車やバイクに捕まり、その速度がほんの少し違うだけで、行政処分の青い切符、あるいは刑事罰に未成年なら裁判所呼び出しというオマケがつく赤い切符を頂戴することになる。


 今日出来る範囲の手続きを終えた小熊は、校舎を出て駐輪場に向かう。

 試験休み中で他に誰も駐めていないバイク駐輪場では、いつも通り小熊のカブが待っていてくれた。

 ポケットから出したキーを挿してキックレバーを蹴り下ろし、カブのエンジンを始動させてヘルメットを被る。グローブを着けた小熊は、跨る前にカブのシートに指先で触れた。

 スピード違反だけでなく、信号無視や事故、礼子のカブと違って改造の類をしていない小熊のカブでも、灯火の玉切れでも起こせば無縁ではない整備不良も刑事罰対象の赤切符を切られる。

 エンジンが冷え切る冬季より調子のよさそうなカブは軽快なエンジン音を発てている。去年買って以来、いつも小熊に生活の利便と楽しみを与えてくれたカブの音が、今の小熊には自分が母親の失踪以来ずっと取り戻したい願い、やっとこの手で掴み取れそうな人並みの暮らしを破滅させる旋律のように聞こえた。

 小熊はいつもより慎重にカブを操縦して帰路についた。もう何度も走った日野春駅前のアパートまでの道は、どんな走り方をしても事実上捕まることのない自転車に乗っていた頃より、遠くに感じた。

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