エピローグ-coda-
少女は背中にフェンスを押し付けて、立ち続けている。
誰かを待っている、というわけではなさそうだった。
少女はただそこに居た。何かの習慣のように。
じきに春が来る。
冬の嵐はとうに過ぎ去っていた。
寒さの中に少し暖かさが混ざっている。
しばらくして、彼女のもとに一人の男がやってくる。
彼は何も言わずに隣に来て、顔を合わせず、手紙をよこした。
少女はそれを読み、息を呑む。
「ドクターが……」
「自室ごと、全ての翔機の機密ごと全焼しましたよ。それが彼の覚悟なのでしょう」
彼女にはそれ以上、何も言えなかった。
手紙を返すと、彼は丁寧に折りたたんで、懐にしまい込んだ。
二人はしばらく、沈黙の中に居た。
合間には、無数の喪失が挟まっている。
――先生、こっち。
――はいはい、急がないで。先生はまだ完治してないんだから。
ころころと笑う可愛らしい声が、目の前を通り過ぎた。
少女が顔を上げると、そこには見知った先生と、生徒たち。
手を引っ張り合いながら、もう既に春の中に居るように笑顔だった。
少女はそちらに手を振る。彼女たちと目があった。
……期待していた反応はなかった。
みんな、知らない人間に会ったように一瞬で目をそらして、すぐに遠くに消えていった。
「……」
まだ刺々しさの残る大気に手を伸ばしたまま、何も掴めなかった。
そのままゆっくりと下ろしていく。
エンジン音が響いて、物々しい黒い車両が目の前までやってきた。
男に促されると、少女は乗り込む。
◇
がたがた揺れる車内で、物々しい武装の男たちに囲まれながら、少女は窓の外を見る。
手首には手錠。
その身柄は安全に『保護』されている。
すべては、様変わりしていた。
かつて、街を染めていた街宣のプロパガンダは消え去って、かわりに、この街の新たな指導者の顔写真が、あらゆる装飾とともに、至るところに貼り出され、覆っていた。
灰色の倦怠はもはやそこにはなく、寒々しい工業地帯にも、今まで一度も見たことのないような服装の人々が出入りして、知らない言葉を使っている。
そして、音が溢れている。
世界が塗り替えられたことをしめす、けたたましい金管楽器。
道を行く人々はその音色に耳を傾けると、うっとりとした表情を浮かべるが……彼女には、理解できそうになかった。
何もかもの定義が、変わったのだ。
――では。変革は、これまでの全てを、消し去ったのか。
がたがた、がたがた。
タイヤが地面とこすれて、音を鳴らす。
それもまた、音楽だ。
「……そんなこと、ない」
呟き、顔を上げる。
そして、向かい側に座っている男を――霧崎を見た。
互いに無言だったが、意図は伝わった。
「さぁ、停めなさい」
指示を出すと、部下らしき大柄の男は狼狽えた。
「いいんですか。彼女は重要な参考人で」
「構いませんよ。どうせ逃げやしません」
そう言うと、傍らの部下に合図。
少女の手錠は外されて、自由になった。
小さく「ありがとう」と告げると、霧崎は鉄面皮のまま肩をすくめた。
道の端に停められた車両から降りると、荷台から自転車がおろされた。
懐かしいそのサドルにまたがる。
……すぐ真横は、かつて、この街の基地だった場所だ。
今は、フェンス越しに、全く違う何かが運び込まれているのが見える。
これまでとはまるで違う『兵器』。
――自分の目が狂っていなければ、それはヒト型をしていた。
だとしたら、この先の戦いは、もっと常軌を逸したものになるのだろうか。
彼女は、前を向く。
すぐそばに、霧崎が来た。
「アパートまで行く」
「本気で言ってますか、それ。おおかた、解体済みでしょうよ」
「それでも行く。あるかもしれないもの」
「……なるほど」
霧崎のそばに、部下がやってきて耳打ちした。
「良いのですか」
「コースから外れたら拘束しろ。それだけです」
……丸聞こえだった。あるいはわざとか。
苦笑して、ペダルに足を乗せる。
◇
風が吹いて、彼女の身体を柔らかく打った。
身を震わせて、もう一度空を見る。
それは数秒前と変わらぬ調子で、そこにあった。
少女は、白い息を吐いた。
小さなさえずりとともに、ハンドルに小鳥がとまった。
白いふわふわした毛が生えた、本当に小さな子だ。
吹けば、かんたんに飛んでいってしまいそうな。
だけど、その黒い瞳は、彼女のことをじっと見てくれていた。
くすりと笑って、その子に告げる。
「いいよ。一緒に行こうか」
小鳥はもう一度鳴いて、先導するように両翼を広げ、前に翔び立った。
新たな国の、新たな街の標識はいくつも前方に立ち並んでいて、かつての面影は数えるほどしか見えない。
どれも空気の向こうで霞んで見える。
道はどこまでも続いている。
どのように進んだとしても、どれだけ時間をかけたとしても、誰も咎めるものは居ないようだった。
寒空の下、ゆきさきは、いくらでもあった。
小夜子は小さく微笑んでから、ハンドルを握る指先に力を込める――。
銀細工とセレナーデ 緑茶 @wangd1
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