何度もその名を呼びながら、彼女は音色を奏で続ける。

 演奏は既に終局へと向かっていた。

 そうだ、もうすぐ春が来る。

 全てが終わった後に現れるもの。

 そこでは全ての業が清算されて、本来あるべき姿を取り戻す――そうして全てを受け入れるようになる。

 演奏は加速していく。今度は滑らかに、歌うように。

 少女はいつの間にか――笑っていた。

 今、自分が音楽に触れているということ。

 奏でられるということ。

 そのことだけに喜びを感じているらしかった。

 過去と未来が切り離されて、その時間だけがあるようだった。

 少女はその瞬間に、圧縮された人生のすべてを感じ取った。

 自分の存在全てが、その刻のためにあるようだった。


 ――その境地に、レイも引き上げられていた。

 彼が感じているのは、自分が知り得なかった世界のすべて。

 太陽、月。山や海。

 モノクロームに染められていた世界ではなく。

 どこまでも色彩が溢れて、自分が進んでいく限り、道が拓ける。

 そんな世界だ。


 レイは、いつの間にか両腕で身体をかき抱いていた。

 不意に、自分を取り囲んでいたものすべてが無くなったような感覚がした。

 だがそれは――不愉快ではなかった。

 むしろ、心地よくすらあった。


 少女は笑っていたが――しかし、ふとそれをやめた。

 間もなく涙が目を覆って、とめどなく溢れてきた。

 心の通じる相手が今何をしているのかが、理屈ではなく心の奥底で理解できた。

 出来てしまった。

 レイが。

 今、私の先を翔んでいる。



 今、傷だらけで。

 それなのに笑って。

 あぁ、レイ、レイ――今、そこに行くことが出来ない――そこで少女は激しく鍵盤を叩き始めた。


 奏でるのは最後の季節――それは、永遠の冬。

 すべての再生の春の前に訪れる、死の数ヶ月だ。

 何もかもを打ち据える吹雪が、世界の中に希望も何もかもを閉じ込める。

 その闇は、どこまでも、深い。

 いま、白鍵と黒鍵が描くのは、それを表現するための熾烈で苛烈な音色。

 終局の音色。

 誰も彼もが息を呑む。

 先生は、口を抑えて泣いている。

 演奏が続く。


 翼の集団をめがけて、ぼろぼろの銀の翼が特攻する。

 殺意の火花が降り注ぐ。

 その全てを甘んじて受け止める。

 そのさまは異常だった。

 翼竜たちが恐慌して、更に攻撃する。

 だがレイは接近した。

 その度に傷ついて、痛みの涙を流す。

 いつ終わるともしれない猛吹雪が吹き荒れる。

 だがそれが終われば、やってくる季節は――。


 ――ひとつきりのいのちだから、すべてをあきらめるのか。

 ――みちがひとつしかないから、すべてをなげだすのか。


 火線をかいくぐった先に奴が居た。

 戦乙女。分かっている。

 ずっと自分を追ってきた。

 その理由も、執念も。

 分かっている……ごめんな。

 俺は逃げていたんだ。

 でも、もう逃げないよ。


 真正面から飛び込んでくる、自分と似た異形、どこかでそうなっていたかもしれない姿に向けて、レイは光の鞭の残弾全てを放出した。

 迎撃のために撃ち放たれたレーザーの光条がぶつかって、空中を彩った。

 その閃光を突破したあとに、無防備になった相手が居た。


 レイは二対の鋭い翼をパージさせて、前方に向けてミサイルのように飛ばした。

 それは彼の懐に飛び込んで炸裂。

 爆発が晴れたあとには、相手の四肢の半数が奪われている。

 だが同時に彼もまたこちらに攻撃を仕掛けていた。

 レーザーが、身体を焼く。


 衝撃が胎内に波及し、腕がちぎれて骨が見える。

 痛みの絶叫が口から漏れる。

 彼には聞こえない。

 世界から音楽以外の音が消え去って、自分を穿つ衝撃さえもどこか遠くに聞こえる。


 彼は、前だけを見ていた。

 その暗い空の向こう側に見えてくるはずのものだけを。

 その瞬間彼は、それまでで一番の速度を叩き出していた。


 ――――バケモノめ。


 その声が聞こえた。


 ――――知ってるよ。


 自分を取り囲む、追いつけなかった翼竜たちの攻撃を受ける。

 全身に浴びる、焼き尽くされる。

 だがまだだ。

 まだ操縦系統は生きている。

 武装は何もない。

 しかし、推進剤は残っている。


 奴は、残った最後の腕で刃を構えていた。

 こちらを迎え入れるように静止していた。

 さぁ行こう。

 エンジンのリミッターを解除して、スピードに焼け付いた皮膚が引っ張られていきながら、彼は風の中に飛び込んで、まっすぐに、まっすぐに。


 ――違う。俺は抗う。運命に。そして、生きてみせる。


 ――


 咆哮。

 切っ先が見えた。

 一つの流星が光の軌跡を描いて、特攻をかけた。

 銀色の身体に刃が突き刺さり、轟音と誰のものでもない絶叫が響いた。


 演奏はいよいよ幕を下ろそうとしていた。

 激しい連弾も終わりを告げ、結びの美しい音色が奏でられていく。

 少女は顔を上に向けて、頬を涙に濡らしている。


 絶叫は長く伸びて、取り残された翼竜達を戦慄せしめた。

 間もなく彼は、その身を炎と化して戦乙女に突き刺さり、その身ともどもに焼き尽くしながら、断末魔の声と共に、加速の向こう側へと、空の向こう側へと、翔び立った。


 

 激しい爆発が空の上で花開いた時、少女はいよいよ演奏を終える。

 最後の一音を、しごく丁寧に、ゆっくりと奏でた――。


 ……数秒後。

 まばらな拍手が起きる。

 それは徐々に大きくなり、やがてホール全体を揺るがすほどの大歓声となった。

 少女にはそう聞こえた。

 実際は誰もが呆然として、何もしていなかったのかもしれない。

 しかし、どうでもいい。

 少女は手をだらりとピアノから離して、立ち上がる。


 ちょうどその頃、一つのとある物体が激しく燃え盛りながら地上へと落下しつつあった。

 それは赤い欠片を周囲に振りまきながら落ちて行く。

 やがて、閃光が迸り、その物体は爆発した。


 少女が壇上から静かに一礼している頃、無数の小さな赤い星の欠片が地上へと降り注いでいた。

 それが元々、一人の生命であったことを知る者は、誰も居ない。


「……」


 霧崎は、遠くの空に咲いた炎の花、地上の人々と共に見ていた。

 誰もが、何があったのかと口々に話し合っている。

 だが、自分たちは理解している。

 隣で、瞑目している蔵前も同じだろう。

 何が起きて、何が燃え尽きたのかを理解していた。


 ――それ以外の何も、空の上になかった。いや、あるいは――。


 彼は、翻ってこちらに再度戻ってくる幾つもの光を見た。

 確かに、戦いは終わった。

 だが、勝利ではない。

 そして今、炎の花びらの最後の一片が、空中で小さく爆ぜて燃え尽きた。


 霧崎は見届ける。

 その場で姿勢を正して、敬礼を送った。



 小夜子は壇上を去ろうとしていた。

 舞台を降りると、そこには呆然と佇む兵士たちと傭兵たち。

 先生は後輩たちに支えられながら寄ってきて、聞いた。


「……あの、曲に、名前をつけるなら」


 小夜子は、返事をしなかった。

 そのままこじ開けられたドアの向こうにある廊下を目指して、重い服を引きずって歩く。

 兵士たちは、黙りこくったまま銃を手放して、彼女に対して道を開けた。

 海が左右に分かれるように。


 コンクリートの廊下には小さな窓があって、そこから外が見えた。

 暗い明け方の空――終わりに近づいた、冬の空。


 小夜子はしばらくそうしていた。

 先生が後ろから歩いてくるのを感じたが、振り返ることをしなかった。

 小夜子は、雲に覆われた空を見続けていた。

 その後で小さく、とある青年の名を、呟いた。

 

 もう、涙は流していない。


 その後しばらくして彼女が廊下から去った時、最後の雪が、外に降り始めた。

 何もかもを、なかったことにするように。

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