②
戦乙女が見える。
刃を構えて振りかぶってきた。
だが、レイのほうが速い。
風と音楽とひとつになり、彼は翼の切っ先を一番鋭い角度で固定し、弾丸の如く懐に飛び込んだ――。
……刃の軌道は、自分の真上をかすめた。
その時には視界を奴の装甲が埋めていて、レイはそこに翼を突き立てて、一瞬の重みを感じたあと、強引に身体をねじり、その向こう側へ、突っ切るように通り過ぎた。
一撃。
戦乙女はよろめいた。
後ろを振り向く。
翼竜たちと、同胞たちが見えた。
ミサイルが無防備になった腹部に全て命中し、無残な内部機構を晒した挙げ句、自爆の特攻を浴びて、甲高い絶叫を上げながら死んでいく翼竜が見えた。
その鋭い牙で真上から食いかかられ、ついばまれるようにして装甲をむしり取られ、コクピットごと捻り潰され、その隙間から肉と血と臓物が一緒になったものが見えた。
必死に叫びながら、目の前にやってくる翼竜に攻撃をし続けて、最後には、機首を咥えこんだまま放たれたレーザーに黒焦げになり、歯の残骸だけが大地に落ちこんでいくのが見えた。
加速し続けた代償にエネルギーが切れ、空中に留まったあと、味方の撃墜の巻き添えを食らい、コクピットから投げ出された蛮国の兵士が見えた。
彼は四肢が異様にねじれ、口から何か袋のようなものを吐き出しているようだった。
死があった、死があった。
そのそれぞれに名前がある。
レイは……全て、記憶した。
ここから先の、燃え尽きるまでの時間全てに、その刹那の連なりを刻印した。
――なぁ、お前が俺にくれたのは、呪いだ。
――呪い?
――お前に出会ってから、たくさんの他のことを知った。知ってしまった。その分、俺は世界が俺以上に広がっていることを知った。
――それが、呪い。
――そうだ。だから、俺はこんなにもたくさんの死を覚えていられる。その一秒一秒が、俺の中に入り込んでいくんだ。
――……。
――でも、俺は、だからこそ、それがあるからこそ、それ以外のたくさんをしれたんだ。
――この世界のことを。お前と過ごした日々の中で得たものを。よろこび、悲しみ。あたたかさ、さむさ。おいしさ。そのすべてだ。
◇
演奏は徐々に激しさを増し始める。
紡がれていた世界がやがて変貌していく。
世界は変化せずにはいられない。
全ては運命が飲み込んで、何もかもを変えていく。
少女は汗を背中に滲ませながら、激しく鍵盤に感情をぶつけていく。
そこで描かれるのは、春が過ぎたあとだ。
そう、夏。
どこまでも鳴り響く機械音とともに、狂乱の夏がやってきたのだ。
父がいなくなって、自分たちは大勢の女生徒たちと都市に向かった。
通り過ぎていく灰色の都。
誰かが、それを墓石のようだと言った。
でも墓石にしては、あまりにも多くのものがついていた。
ぎらぎらと輝くガラスが、自分たちの視界を奪った。
そこからが、何もかも変えていくはじまり。
思想があった。法があった。
内側から侵食し、当たり前が別の当たり前になっていく。
長い長い墓石が、いくつも急ピッチで生えていく。
その中で、絶えず鳴り続けていく機械音。
あの暑い日を、音色に刻んでいく。
連弾、連弾、連弾。
◇
激しい攻防が続く。
レイは幾度も銀色の身体に傷を負ったが、一向に止まる気配はなかった。
翼竜の何体かが自分たちの間に入ろうとしたが、それも全て阻止した。
それから追いついて、食いついて、その身体を後方からずたずたに引き裂いた。
その瞬間――赤黒い血が視界を覆う一瞬前に、敵の恐怖する顔が見えた。
それは人間だ、紛れもない人間の顔だ。自分は人間を殺している。
時間がその瞬間だけ緩慢になり、そこに全てが流れた。
空中で一枚の絵画が描かれるように。
いくつもの血の帯と、光の明滅と、雲の炸裂が交錯した。
その感覚をもたらしたのは、音楽と自身が閾値を超えたからか。
レイは知らない。
だが気づけば自分は戦乙女と果てしないドッグファイトを展開していて、その狭間に、何人もの死が自分の肩を叩いた。
彼らは頭が裂けて脳をむき出しにしていたり、黒焦げで眼窩がぼっかりあいていたり、舌が消えていたりした。
肩を叩いてきて、あとを頼むと言ってくる奴もいれば、肩をつかんで、呪いの言葉を吐いてくる者も居た。
いずれにせよ、レイは全てを受け入れて、呑み込んだ。
そのたびに血を吐いた。
内臓の内側が溶けているのだとおもう。
そして気づけば、目の前には憎悪に満ちた戦乙女のパイロットの顔があって、そばでまた、誰かが死んだ。
気付けば、最初のひとりのあとに、二人死んでいて。
残る味方は、自分の傍で辛抱強く食い下がっている二体だけになっていた。
――あのさ。俺はどうやら思ってしまったらしいんだ。俺が俺以外である可能性について。
――貴方以外の、貴方。
――それを思った時に俺は、もし俺が戦い以外で死ねるなら、っていうことを考えてしまったんだ。そんなこと、ありもしないのにな――あぁ初めてだよ。俺が、この先も生きていたいなんてことを少しでも考えたのは。
――今も、変わらないの?
――それは。
後方に位置取った敵の砲火が火を噴いた。
レイはそれに対応することが出来なかった。
背中を、一体がかばった。また一人死んで、その死に向けて叫んだ。
戦乙女が、無防備になった前方に居る。
彼のいびつな両腕が、不死鳥の機首に重い打撃を食らわせた。
胎内が激震して明滅し、溶液がぐらぐらかき回された。
死んだ。死んだ――ひとり、死んだ。
これで……そうか。あと、もうひとりだけなんだ。
あと一体で、俺は一人になる。
とっくに自分たちのものでなくなった、暁の近い空に手を伸ばし、レイは堕ちていく。
◇
人々は沈黙していた。かつての狂騒はなかった。
姿が見えぬことにも怒りを顕にすることはなかった。
廃墟同然となった街のなかで、人々は手をつなぎながら、遠くの空を見ている。
「みんな……勝つと思ってるのか」
「違う。きっと、祈ってるの。ただ、祈る……」
円になって、列になって。
街中に散らばった人々が、おのおのの振る舞いで、遠くのレイに思いを馳せている。
かすかに聞こえるオートコフィン……ピアノの音色に耳を傾けながら。
――いま、この瞬間こそが。既に、過去を超えているのだとしたら。
霧崎は、蔵前より一歩前に進む。
「だったら」
彼もまた、レイを思った。
レイと、そのそばに居た者たちのことを思った。
「だったら――私も……見届けよう。彼らの全てを。終りが来る、その時まで」
◇
憑かれたように演奏する小夜子。
だがそのタッチは先程から更に進んでいる。
狂騒の夏が終わり――やってくるのは、静寂の秋。
知っている。
それは、自分が何もかも諦め始めた時期。
この街の中に溶け込んでいく頃。
灰色の空に、灰色の町並み。
その中に、父との記憶も、何もかもが埋もれていった頃。
紅葉なんて見られるわけがなかったから、ただその時期は肌寒さしか覚えていない。
だから今、レイが堕ちていった今、鍵盤が描くのは、沈鬱な音色。
拍子は境界を失い、緩やかな下降する、短調の旋律だけが流れていく。
それに伴い、小夜子もまたゆっくりと絶望へと下降していく……ああ、レイが。レイが堕ちていく。血を吐いて……死に、近づいていく。
◇
――あぁ、でも、駄目だ。駄目なんだ。俺は結局こうやって死ぬんだ。それは運命なんだ。変えられない。
――逆らったって無駄なんだ。
――嫌だ、死んじゃ嫌だ、レイ。貴方が死んだら私、どこにもいけない。
――本当にそうなのかな。もう少しで俺は、何かを掴めそうなんだ。それと、俺が死ぬの、どちらが早いのかな。
小夜子にもきっと分かっているだろう。
自分の運命はもう決まっているのだと。
しかし彼女は、それを徒に引き伸ばすことを要求している。
愚かにも。
そう思った瞬間、レイは何よりも、小夜子のことを抱きしめたくなって。
そうして思い出す。
夕暮れの部屋、お互い帰ってきたあと、薄暗い光に照らされたブラウスの背中。
そこに腕を伸ばして、そっと抱きしめてやりたかった。
そして、何かを言ってやるべきだった。何かを。
目を閉じて、落下するに任せる。
その下は針の山か、それとも煉獄か。
何れにせよ既にレイの装甲の半数は剥げ落ちて、防御力は激減していた。
だが攻撃は止まない。
その身体をばらばらに引き裂くまで続くことだろう。
レイは、諦めたように目を瞑る――。
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