何度も何度も、引きつったような音を喉から鳴らしながら、彼は血を吐いた。

 衝動的に駆け寄ろうとする。

 彼は苦しげな笑みを浮かべて、自嘲するようにつぶやく。


「畜生……やっぱ駄目だ、ドクター居ねえと……はは」


 そこで小夜子は、自分たち二人が雪投げの途中であることを思い出した。奇妙な話。

 その場で地団駄を踏むような状態で立ち止まっていると、レイは顔を上げた。

 彼の顔は雪と血でぐちゃぐちゃになっていて、喉は絶えずひゅーひゅー音を立てていた。


「ためらうなっ!」


 しかし彼はそう言った。


「俺はな、小夜子……。お前のせいでいろんなもん背負ったんだ! お前の言ういらないものたくさん! だけどな、俺は嬉しかったんだ、分かるか……こいつを見ろ!」


 彼はポケットに腕を突っ込んで何かを取り出す。

 くしゃくしゃになった小さな栞のようなもの。

 乾いた血と、油に塗れている。

 何の説明もなかった。

 だが、それがなんであるかを悟る。

 小夜子は動けなくなる。


「ただの兵器がこんなもん作って。それを受け取って、嬉しいって思えるところまで来たんだ。それがいいことじゃなくって、なんなんだ!」

「でもそれで、あんたが変わるわけじゃ……」

「変わるんだよ、変わったんだよ! 俺はっ、見てきたっ!」


 二人の距離は、近くも、遠くもなかった。

 彼らの傍らを、拡声器を取り付けた車両が通り過ぎていった。

 何かのメッセージを発信していたが聞こえなかった。

 何かが起きている。

 知ろうとしなければ、そのままだ。


「お前によって変えられた俺が、他の誰かを変えていった。俺は見たぞ、全部見た……思い出したんだ、死ぬ直前に、俺のことを!」

「そんな、ありえない。みんな、催眠かかってて……」

「だけど笑ってたんだぞ、死ぬ前に。俺の手を握って……それでもお前は、俺がなんにも出来ないやつだと、本気で思ってんのか……俺が、お前のために何にも出来ないって、本気で思ってんのか!」

「そうよ、なんにもできない! もうすぐこの国は終わる、全部チャラにする気で奴らがやってくる、あんたはどうするの、翔ぶの!?」

「――翔ぶさ」


 ためらいなく、彼は答える。


「もう、弾くのは私じゃない」

「知るか。お前は生きてるだろ」

「勝てるわけない」

「知るか」

「なんでそんなに飛びたがるの、痛いし怖いって言ってたのはあんたじゃない、どうして――」「翔ぶのが――楽しくなったからだよ! お前のおかげでなっ!」


 みたびの、衝撃。

 今度こそ小夜子はなんと言っていいのか分からなかった。

 何かとんでもないことを言われた気がして、それで……なぜだか、顔が真っ赤になった。

 どうしてだ、ここは呆然として、顔を真っ青にするところではないのか。

 何もわからなくなってしまった。

 とにかく今すぐ、レイから逃げたくなった。


「いいか。俺は今から、お前をぶん殴りにいくからな。いいか。動くなよ」


 宣告とともに、彼はずんずんと前に進み始めた。

 小夜子は怯えたようになって、雪玉を投げ始める。


「来ないで、来ないでっ……」


 投げる、投げる。

 しかし、何度ぶつけてもレイは近づいてくる。

 雪玉を食らうたび彼の身体はよろめいて後ろに下がるが、決して諦めなかった。

 前進。彼が、目の前までやってきた。

 後ろには、フェンス。

 そして、積もって山のようになった新雪の塊。

 逃げられない。どうしよう。

 小夜子はとっさに目を瞑って、腕で顔を覆った。

 殴られる、ということを、疑っていなかった。


 その時、レイは小夜子を抱きしめた。


 一瞬何をされたのか分からなかった。

 周囲に舞う雪の欠片がスローになった。

 身体を、腕の周りを、確かな熱が覆った時、はじめて気付く。

 その吐息、存在のなかに、自分がつつまれていた。

 間近で、耳元で、息を吐く音がした。

 視界の端が白く染まる。


「お前……俺より小さくて、俺より。ずっと軽いんだな。知らなかった」


 自分が足元から乖離してどこかに行ってしまいそうな。

 そんな感覚の中で、言葉をかえす。


「バカ……ばかばか、離して」

「やなこった、離してたまるか。絶対に離さない。もう二度と」


 沈黙。

 彼は、小夜子をぎゅっと抱きしめていた。

 強かった。

 その肉体が、筋張った身体が、ダイレクトに感覚として伝わってくる。

 その周りを冷たい大気が取り巻いている。


 空はくろく、そこから白い雪だけが色づいて降ってくる。

 世界がモノクロになっていて、足元だけがスポットライトのようになっている。

 遠くのエンジン音。畑のざわめき。


 それだけしか聞こえないなかで、小夜子は息を吐いた。

 その自分の真横に彼の顔があった。

 彼の耳は赤くなっていて、自分もそうなのだろうかと思った。

 骨っぽい耳たぶを見つめながら、言った。


「……いつから」


 レイは答える。


「多分ずっと前から。気付くのが、遅くなっちまった。ごめんな」

「もっと、謝って」

「ごめんな……って、なんで俺が謝ってんだ」


 レイはそこで離れようとしたらしかったが、びくりと身体を震わせた。

 なぜなら、小夜子は既に、彼の腰に手を回していて、自分たちが動けないようにしていたからだ。


「当たり前でしょ。気付かなくてもよかったんだ。私が、奪うだけじゃないなんて、そんなの疲れるだけ……ああめんどくさい」

「おまっ、俺がなんのためにここまで……」


 小夜子は、レイの胸を小突く。

 そして彼を見つめた。


「自惚れないでよ。とっくに離れたと思ったのにわざわざ戻ってきたバカは、あんた。あんたはバカなの――私と、同じくらい」


 小夜子はひどく自然と笑うことが出来ていた。


「――っ」


 その表情を見た時、レイはどきりと心臓が跳ねていた。

 頬も僅かに紅くなっていた。

 小夜子は、気付いていない。


「あー……えーっと。同じなら、バカじゃなくてもいいんじゃないか」


 ごまかすように顔を逸して、レイは後ろに下がろうとする。


「はぁ、じゃあ今までの私の話はなんだったの」

「いや、そうじゃなくってだな、」

「はっきりしなさいよ、このっ……」


 自分から離れようとする彼に苛立って、小夜子は腰をぐいっと引っ張った。

 途端に、バランスが崩れる。

 二人は、雪のかたまりの中に倒れ込んだ。


「……」


 二人は横倒しになって、互いを見つめる構造になった。

 その上から、絶え間なく雪が降り続けている。

 そのままだと、すっかり埋もれてしまうだろう。


 ぽかんと口を開けたままのお互いの顔が見えた。

 どちらも呆然と、間抜けな表情をしている。


「……くっ」


 なんだか、それがとてもおかしなことであるように思えて。


「っははは」


 互いが、互いの瞳を見た。

 その色を確かめて。


 笑いが爆発した。

 小夜子は、レイは、雪の中に二人で倒れ込んだまま、仰向けで笑った。

 なんだか、何もかもが馬鹿らしくて、それでいて、本当に楽しいような気がして、二人は笑った、雪を、空を真上にしたまま、笑い続けた。


 それから随分と時間がたった。

 それからも雪は降り続けている。

 二人のかじかむ指は今、絡まりあおうとしていた。



 その時、降りしきる静寂を引き裂くようにして、サイレンが鳴り響き始めた。


 フェンスの向こう側、基地を周回するスピーカーから流れる悲鳴のようなそれは、赤い赤い光とともにレイと小夜子の居場所を断続的に染める。

 赤と暗闇の明滅。

 二人は眠りから覚めたように雪の中から身を起こす。

 けたまましい声が、事態の急変を告げる。


『蛮国の敵戦闘部隊、本国に向けて急襲――市民は速やかに地下シェルター街へ退避せよ』


 道路の側を見ると、同じような合成メッセージを放ちながら、何台もの走行車両が通っていく。

 麦畑の向こう側で、豆粒ほどに見える人々が右往左往している。

 何もかもが原色の移り変わりにヒステリックに照らされながら、動き始めた。

 回転灯の、帯のような光。

 互いの恰好も寒さもすっ飛んで、レイと小夜子は互いに顔を見合わせて、唾を飲んだ。


「……奴らが」

「遅かれ早かれ、ありえることだった。あいつらは……」

「ここに来るのか。奴らが」


 唸るサイレンアラートが、まるで遠雷のように聞こえる。

 それは、この基地の向こう側から、災厄のようなものが攻め込んでくることを予感させるようだった。


 何かが、変わっていく。否応なしに、唐突に。


「その通りです。奴らはここを攻めてくる。そして全てを蹂躙するつもりだ」


 声、振り返る。そこには車から降りたばかりの霧崎が居た。

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