②
何度も何度も、引きつったような音を喉から鳴らしながら、彼は血を吐いた。
衝動的に駆け寄ろうとする。
彼は苦しげな笑みを浮かべて、自嘲するようにつぶやく。
「畜生……やっぱ駄目だ、ドクター居ねえと……はは」
そこで小夜子は、自分たち二人が雪投げの途中であることを思い出した。奇妙な話。
その場で地団駄を踏むような状態で立ち止まっていると、レイは顔を上げた。
彼の顔は雪と血でぐちゃぐちゃになっていて、喉は絶えずひゅーひゅー音を立てていた。
「ためらうなっ!」
しかし彼はそう言った。
「俺はな、小夜子……。お前のせいでいろんなもん背負ったんだ! お前の言ういらないものたくさん! だけどな、俺は嬉しかったんだ、分かるか……こいつを見ろ!」
彼はポケットに腕を突っ込んで何かを取り出す。
くしゃくしゃになった小さな栞のようなもの。
乾いた血と、油に塗れている。
何の説明もなかった。
だが、それがなんであるかを悟る。
小夜子は動けなくなる。
「ただの兵器がこんなもん作って。それを受け取って、嬉しいって思えるところまで来たんだ。それがいいことじゃなくって、なんなんだ!」
「でもそれで、あんたが変わるわけじゃ……」
「変わるんだよ、変わったんだよ! 俺はっ、見てきたっ!」
二人の距離は、近くも、遠くもなかった。
彼らの傍らを、拡声器を取り付けた車両が通り過ぎていった。
何かのメッセージを発信していたが聞こえなかった。
何かが起きている。
知ろうとしなければ、そのままだ。
「お前によって変えられた俺が、他の誰かを変えていった。俺は見たぞ、全部見た……思い出したんだ、死ぬ直前に、俺のことを!」
「そんな、ありえない。みんな、催眠かかってて……」
「だけど笑ってたんだぞ、死ぬ前に。俺の手を握って……それでもお前は、俺がなんにも出来ないやつだと、本気で思ってんのか……俺が、お前のために何にも出来ないって、本気で思ってんのか!」
「そうよ、なんにもできない! もうすぐこの国は終わる、全部チャラにする気で奴らがやってくる、あんたはどうするの、翔ぶの!?」
「――翔ぶさ」
ためらいなく、彼は答える。
「もう、弾くのは私じゃない」
「知るか。お前は生きてるだろ」
「勝てるわけない」
「知るか」
「なんでそんなに飛びたがるの、痛いし怖いって言ってたのはあんたじゃない、どうして――」「翔ぶのが――楽しくなったからだよ! お前のおかげでなっ!」
みたびの、衝撃。
今度こそ小夜子はなんと言っていいのか分からなかった。
何かとんでもないことを言われた気がして、それで……なぜだか、顔が真っ赤になった。
どうしてだ、ここは呆然として、顔を真っ青にするところではないのか。
何もわからなくなってしまった。
とにかく今すぐ、レイから逃げたくなった。
「いいか。俺は今から、お前をぶん殴りにいくからな。いいか。動くなよ」
宣告とともに、彼はずんずんと前に進み始めた。
小夜子は怯えたようになって、雪玉を投げ始める。
「来ないで、来ないでっ……」
投げる、投げる。
しかし、何度ぶつけてもレイは近づいてくる。
雪玉を食らうたび彼の身体はよろめいて後ろに下がるが、決して諦めなかった。
前進。彼が、目の前までやってきた。
後ろには、フェンス。
そして、積もって山のようになった新雪の塊。
逃げられない。どうしよう。
小夜子はとっさに目を瞑って、腕で顔を覆った。
殴られる、ということを、疑っていなかった。
その時、レイは小夜子を抱きしめた。
一瞬何をされたのか分からなかった。
周囲に舞う雪の欠片がスローになった。
身体を、腕の周りを、確かな熱が覆った時、はじめて気付く。
その吐息、存在のなかに、自分がつつまれていた。
間近で、耳元で、息を吐く音がした。
視界の端が白く染まる。
「お前……俺より小さくて、俺より。ずっと軽いんだな。知らなかった」
自分が足元から乖離してどこかに行ってしまいそうな。
そんな感覚の中で、言葉をかえす。
「バカ……ばかばか、離して」
「やなこった、離してたまるか。絶対に離さない。もう二度と」
沈黙。
彼は、小夜子をぎゅっと抱きしめていた。
強かった。
その肉体が、筋張った身体が、ダイレクトに感覚として伝わってくる。
その周りを冷たい大気が取り巻いている。
空はくろく、そこから白い雪だけが色づいて降ってくる。
世界がモノクロになっていて、足元だけがスポットライトのようになっている。
遠くのエンジン音。畑のざわめき。
それだけしか聞こえないなかで、小夜子は息を吐いた。
その自分の真横に彼の顔があった。
彼の耳は赤くなっていて、自分もそうなのだろうかと思った。
骨っぽい耳たぶを見つめながら、言った。
「……いつから」
レイは答える。
「多分ずっと前から。気付くのが、遅くなっちまった。ごめんな」
「もっと、謝って」
「ごめんな……って、なんで俺が謝ってんだ」
レイはそこで離れようとしたらしかったが、びくりと身体を震わせた。
なぜなら、小夜子は既に、彼の腰に手を回していて、自分たちが動けないようにしていたからだ。
「当たり前でしょ。気付かなくてもよかったんだ。私が、奪うだけじゃないなんて、そんなの疲れるだけ……ああめんどくさい」
「おまっ、俺がなんのためにここまで……」
小夜子は、レイの胸を小突く。
そして彼を見つめた。
「自惚れないでよ。とっくに離れたと思ったのにわざわざ戻ってきたバカは、あんた。あんたはバカなの――私と、同じくらい」
小夜子はひどく自然と笑うことが出来ていた。
「――っ」
その表情を見た時、レイはどきりと心臓が跳ねていた。
頬も僅かに紅くなっていた。
小夜子は、気付いていない。
「あー……えーっと。同じなら、バカじゃなくてもいいんじゃないか」
ごまかすように顔を逸して、レイは後ろに下がろうとする。
「はぁ、じゃあ今までの私の話はなんだったの」
「いや、そうじゃなくってだな、」
「はっきりしなさいよ、このっ……」
自分から離れようとする彼に苛立って、小夜子は腰をぐいっと引っ張った。
途端に、バランスが崩れる。
二人は、雪のかたまりの中に倒れ込んだ。
「……」
二人は横倒しになって、互いを見つめる構造になった。
その上から、絶え間なく雪が降り続けている。
そのままだと、すっかり埋もれてしまうだろう。
ぽかんと口を開けたままのお互いの顔が見えた。
どちらも呆然と、間抜けな表情をしている。
「……くっ」
なんだか、それがとてもおかしなことであるように思えて。
「っははは」
互いが、互いの瞳を見た。
その色を確かめて。
笑いが爆発した。
小夜子は、レイは、雪の中に二人で倒れ込んだまま、仰向けで笑った。
なんだか、何もかもが馬鹿らしくて、それでいて、本当に楽しいような気がして、二人は笑った、雪を、空を真上にしたまま、笑い続けた。
それから随分と時間がたった。
それからも雪は降り続けている。
二人のかじかむ指は今、絡まりあおうとしていた。
◇
その時、降りしきる静寂を引き裂くようにして、サイレンが鳴り響き始めた。
フェンスの向こう側、基地を周回するスピーカーから流れる悲鳴のようなそれは、赤い赤い光とともにレイと小夜子の居場所を断続的に染める。
赤と暗闇の明滅。
二人は眠りから覚めたように雪の中から身を起こす。
けたまましい声が、事態の急変を告げる。
『蛮国の敵戦闘部隊、本国に向けて急襲――市民は速やかに地下シェルター街へ退避せよ』
道路の側を見ると、同じような合成メッセージを放ちながら、何台もの走行車両が通っていく。
麦畑の向こう側で、豆粒ほどに見える人々が右往左往している。
何もかもが原色の移り変わりにヒステリックに照らされながら、動き始めた。
回転灯の、帯のような光。
互いの恰好も寒さもすっ飛んで、レイと小夜子は互いに顔を見合わせて、唾を飲んだ。
「……奴らが」
「遅かれ早かれ、ありえることだった。あいつらは……」
「ここに来るのか。奴らが」
唸るサイレンアラートが、まるで遠雷のように聞こえる。
それは、この基地の向こう側から、災厄のようなものが攻め込んでくることを予感させるようだった。
何かが、変わっていく。否応なしに、唐突に。
「その通りです。奴らはここを攻めてくる。そして全てを蹂躙するつもりだ」
声、振り返る。そこには車から降りたばかりの霧崎が居た。
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