第四楽章

 フェンスの前、二人は居た。


 レイは小夜子に手を差し伸べたが、それには応じず、自分で立ち上がる。

 スカートの雪をはらって、膝を伸ばす。それから、沈黙。

 ……やぶったのは、小夜子。


「生きてたんだ」


 その言葉をいうとき、口の端がこわばった。

 場にそぐわない、ふざけた調子を込めた。

 だから、返事がこわかったのに。


「ああ。なんとか生きてた」


 レイは、あっさりとそう言った。


「どうやって……」


 思わず顔をあげようとするがやめて沈黙、あとは続かない。

 しばらくしてから、仕切り直す。


「実家にね。帰ろうと思う」

「そうか」

「出来ること、もう何もないから」

「……そうか」

「なんで何も言わないの」

「いいよ、続き、言えよ」

「何よ、それ――」


 そこではじめて、顔を上げた。レイが居た。

 彼は、うっすらとした笑みを浮かべていた。眉の下がった。

 コートのポケットに手を突っ込んで、本来なら何かに寄りかかっていそうなバランスで立っている。

 そのシルエットは、雪の降る灰色の中に消えてしまいそうで。

 空はもう藍色で、時間はとうに遅くなっていて。

 もう夜が来る。

 漠然と……『時間がない』という言葉が浮かんだ。

 それが、小夜子を急き立てた。


「言うことなんか、何もない」


 ――そうじゃない。

 レイは、一歩後ろに下がった。

 足元でざっという音がした。

 彼との距離が、そのまま少し、のびた。

 頭の中で否定しても、言葉が止まらない。


「会っちゃ駄目じゃない。会ったら私、あなたを、あなたを……」

「じゃあそうしろよ。今のお前なら、俺なんか簡単に振り切れるだろ」

「……」

「なんでだ」

「それは」

「言いたいこと、やっぱりあるんじゃないのか」


 レイは気づけば、小夜子の目の前まで進んでいた。

 その手が、とられた。

 心臓が強く鼓動する。


 自動的に思い出すのは、あの出会いの日。

 あの日も、こんな風に、強く雪が。


 間近な距離で、小夜子は顔を完全に上げることも出来ずに居た。

 レイがこちらに視線を向けてくるのを感じる。

 鼻と頬が赤い。吐き出された白い息が、二人の距離のはざまでまじわる。


「だったら言えよ。言っちまえばきっと、」 

「やめてっ」


 腕を前に出して、レイを突き飛ばす。

 彼は、あっさりと尻もちをついて倒れ込んだ。


 愕然とする。彼の身体の感覚が、あまりにも軽く思えたからだ。

 ――こんなに弱いのか。あれほど、空を駆け巡っていたのに。


「なんで、あんたはそんなにも」


 レイは、座り込んだまま、雪に塗れていた。

 アスファルトの上のそれは泥にまみれて茶色だった。

 彼は腕を左右に投げ出したまま、苦々しげな笑い声を出していた。

 まるで自嘲するように。その動作が、耐えられなかった。

 歯を食いしばって、気がつけば、フェンスのそばの、少し新雪が盛り上がっているところに手をやって。


 まるめた雪を、彼に投げつけていた。

 ぽすっ、という音とともに砕けて、コートに白い欠片が広がった。

 顔を上げて、目を丸くしてくる。


「悪かったわよ、私が悪かったのっ」


 さらに、投げた。

 今度は振りかぶって投げたから、彼は腕でガードした。


「なんかわけのわからないものにあなたが取られるくらいなら、足引っ張ってやるって思ってたのよ。なんにもないもん、私には。あなたにはどう、そうでしょう」


 言葉を投げる、投げる。

 雪がぶつかる、はじける。

 彼は抵抗しない。その場でまみれていく。


「だってそうでしょ、寿命だって短いし、なんにも知らないし。だけど、何にもない私を信じてくれるもん、バカみたいに。気持ちよかったぁ、これまでずっと、あはは……あんたは私の傍に居なきゃいけないの、ずっとずっと、それなのに……」


 息がどんどん上がってくる。

 雪玉を作るのも苦労するようになる。

 寒かったのに、あつくなってきた。

 彼はまだそこに座り込んでいる。

 黙って、うつむいている。

 余計に腹がたったから、さらに言いたいことをぶつけてやることに決める。


「それなのに、あんたが先に行くから、クズは私だけになったじゃない。それが嫌だったの、嫌だったの」


 続ける。投げる。


「だけどあんたは逃げたんだもんね。それは生きたいってこと。生きたいあんたを、死にかけの私が引っ張った。私はクズ、どうしようもないクズ。だから謝らなきゃいけないの、私が、私が……」


 そろそろ限界だった。

 だから一息に、一番勇気のいる言葉を、せいいっぱい空気を吸い込んでから、吐き出した。


「……私なんか置いといて、逃げればよかったのよっ!」


 そこまで言って、後悔がよぎる。

 そうだ、こんな時だってこいつは、されるがままで……。

 フェンスにふらふらともたれて、顔をうつむける。


「小夜子」


 声。顔を上げた。


「うるせーぞ、このバカ」


 レイが、雪玉を投げてきた。

 それは、小夜子の顔面に直撃する。



 呆然、顔から雪の粉が剥がれ落ちる。

 レイは立ち上がっていて、むすっとした顔をしていた。

 そんな風に表情に色づくのを、彼女はついぞ見たことがなかった、はずだった。


「さっきから黙って聞いてりゃ、自分に都合のいいことばっか、喋りやがって」


 レイはしゃがんで、足元の雪をかき集めてギュッと固める。


「その挙げ句にごめんなさいだと。お前ほんと自分のことしか考えてないよな、昔っから。いい加減、うんざりだ!」


 それから、ぶん投げた。


「勝手に俺の気持ち代弁したつもりになりやがって、お前は、お前の話してる間に……ちょっとでも俺の言葉を、聞いたのかよ」


 もう一発。今度は肩口に、雪玉があたった。

 衝撃でよろめく。冷たい。


 顔を見た――レイは、怒っていた。

 眉根を寄せて、目を見開いて、口を開けていた。

 そんな顔を、見たことがなかった……。


「一緒にずっと住んでたのに、お前は自分の話ばっかりしやがって。勝手に俺をお前と同じにして、挙げ句に俺に色んなもの背負わせやがって。俺は俺だ。そんなだからお前は」


 さらに、もう一発、言葉とともに、雪玉が飛んできた。


「そんなだからお前は、自分の好きな音楽だって、適当に汚しちまうんだろ」


 その言葉で――小夜子のなかで、何かが弾けた。

 気圧されていた気持ちがすっかりなくなって、爆発しそうな胸の奥底を抱えながら、自分も雪をかき集め始めた。

 それを受けて、レイもまた雪を、泥だらけの雪を手元で集め始める。

 互いを見て、息を荒げながら、どちらが早いかを競い合いはじめる。


「このっ……」


 はやかったのは小夜子だった。 


「よくも言ったなっ」


 左腕を振りかぶって、雪玉を投げた。

 レイは避けようとしたが、脇腹にぶち当たった。

 鈍いうめきが聞こえた。

 それをいいことに、小夜子は更に、もう片腕で持っていた雪玉を投げた。


「違うのかよ、だったら言ってみろ――」

「私はね、ずっと昔っから音楽が好きで好きで好きだったのよ、それをそんなふうに言うなんて、あんただって許さないから!」

「じゃあなんで……」


 レイが、空気を吸い込みながら、右腕を思い切り振りかざして、投げた。


「簡単に、捨てたんだっ!」


 また、ぶち当たる。

 今度は足にあたった。

 雪玉とはいえ、レイはよほど固く作っていたらしい。

 小夜子は小さく悲鳴を上げて、足をすくませた。

 だけど負けない。顔を上げれば、レイは地面にしゃがみこんで次の雪玉を用意している。

 自分の足元を見る。くそっ、車の轍で汚されて、ろくに残っちゃいない。

 背中にレイの気配を感じながら、フェンスのそばによって、ふかふかの部分から、シャベルのように雪玉をすくい取った。

 振り返る。レイはまだ準備中だった。逃さない。

 小夜子は答えとともに、投げた。


「そうするしか、なかったからよ! だから私は、なにもない私になるしかなかった! 私には音楽しかなかったのに、この国が全部持ってったのよっ!」

「音楽しかない? お前はその音楽を自分で殺したんだろうが、じゃあ、何もないじゃねえかっ!」


 新雪の玉を食らってレイは顔面がびしょびしょになった。

 しかし顔を歪めているのは冷たさが理由ではなさそうだった。


「さっきから、そう言ってるでしょ!」

「違う、違う違う違う!なんにもわかってないのはお前だ、わからず屋っ! お前がやってきたことが、なんにも成果なしだって、ほんとに言いたいのか!?」

「そうよ、よくわからないくせに褒めちぎる連中も! 自己満足で自分の気持を代弁された気になってる連中も! 何もかもが鬱陶しいのよっ! 大嫌い大嫌い、みんな、だいっきらいっ!」


 言葉を吐いて、白い息が空中に舞った。

 胸の内側から何かが出ていったが、小夜子はまだ気付いていなかった。

 必死だった。レイも同じだった。


「じゃあお前は――お前は、あいつらのことを、なんだっていうんだ! あいつらは、お前の音楽しか聞いてなかったんだぞ! お前を信じて翔んできた! お前は、それさえ否定するのか!」


 ……手痛い反撃だった。


「それは……」

「スキありっ!」


 とびきり大きな雪玉が飛んできて、それは小夜子の身体にまたもや直撃した。


「たっ……」


 たたらを踏む。藍色のコートが白く染まる。

 レイはぜいぜいと息をついていた。

 彼はまたもや雪玉を作ろうとしていたが、何度か口元で罵声を吐き出した後に諦めて、再度顔を上げる。

 レイは、小夜子に指をさした。

 糾弾するように。違う、逃げられないようにだ。


「あいつらはな……お前の音楽があるから、怖いのも痛いのも我慢して飛べるんだ、こんなに情けないお前のことを女神、女神って言いながら翔んでいって、死んでいくんだ……そいつらのことを少しでも考えたことがあるのかよ!」


 小夜子は首を横に振った、何度も何度も。

 聞こえない、聞こえないと言うように。


「私が弾かなきゃ、死ななくて済んだかもしれないじゃないっ! あんただってそうでしょう! 私がいなけりゃ、とっくに……」

「じゃあなんで、ここに俺が居るんだっ!」


 また、手痛い反撃だった。


「……っ」

「答えてみろよっ!」

「それは、あんたが、私を許せないから……」


 しどろもどろになっても、レイは容赦がなかった。

 かつて、そんな様子の彼を一度たりとも見たことがなかった。

 いま小夜子は、まったく知らないレイを見ている。

 その衝撃が、頭の中にぽっかりと空白を作って、これまでの何もかもを塗り替え始めていた――雪のように。


「そんなわけあるか、あってたまるか。俺は――お前に、もう一度会いたかったんだっ!」

「そんなの、そんなのっ!」


 それこそ、自分のせいだ。

 そんな風にレイに思わせて、一体何になる。

 純粋さから離れるほど、辛さが増していくだけなのだから。

 だから、それ以上、私を肯定しないで。そう叫ぼうとした。

 その気持ちでレイを見た瞬間、彼はよろめいた。


 かがみこんで、膝が地面についた。

 おかしい。


 そして彼は咳き込んで――まっしろと茶色のまだらの上に、ぼたぼたと、血を吐いた。

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