第四楽章
①
フェンスの前、二人は居た。
レイは小夜子に手を差し伸べたが、それには応じず、自分で立ち上がる。
スカートの雪をはらって、膝を伸ばす。それから、沈黙。
……やぶったのは、小夜子。
「生きてたんだ」
その言葉をいうとき、口の端がこわばった。
場にそぐわない、ふざけた調子を込めた。
だから、返事がこわかったのに。
「ああ。なんとか生きてた」
レイは、あっさりとそう言った。
「どうやって……」
思わず顔をあげようとするがやめて沈黙、あとは続かない。
しばらくしてから、仕切り直す。
「実家にね。帰ろうと思う」
「そうか」
「出来ること、もう何もないから」
「……そうか」
「なんで何も言わないの」
「いいよ、続き、言えよ」
「何よ、それ――」
そこではじめて、顔を上げた。レイが居た。
彼は、うっすらとした笑みを浮かべていた。眉の下がった。
コートのポケットに手を突っ込んで、本来なら何かに寄りかかっていそうなバランスで立っている。
そのシルエットは、雪の降る灰色の中に消えてしまいそうで。
空はもう藍色で、時間はとうに遅くなっていて。
もう夜が来る。
漠然と……『時間がない』という言葉が浮かんだ。
それが、小夜子を急き立てた。
「言うことなんか、何もない」
――そうじゃない。
レイは、一歩後ろに下がった。
足元でざっという音がした。
彼との距離が、そのまま少し、のびた。
頭の中で否定しても、言葉が止まらない。
「会っちゃ駄目じゃない。会ったら私、あなたを、あなたを……」
「じゃあそうしろよ。今のお前なら、俺なんか簡単に振り切れるだろ」
「……」
「なんでだ」
「それは」
「言いたいこと、やっぱりあるんじゃないのか」
レイは気づけば、小夜子の目の前まで進んでいた。
その手が、とられた。
心臓が強く鼓動する。
自動的に思い出すのは、あの出会いの日。
あの日も、こんな風に、強く雪が。
間近な距離で、小夜子は顔を完全に上げることも出来ずに居た。
レイがこちらに視線を向けてくるのを感じる。
鼻と頬が赤い。吐き出された白い息が、二人の距離のはざまでまじわる。
「だったら言えよ。言っちまえばきっと、」
「やめてっ」
腕を前に出して、レイを突き飛ばす。
彼は、あっさりと尻もちをついて倒れ込んだ。
愕然とする。彼の身体の感覚が、あまりにも軽く思えたからだ。
――こんなに弱いのか。あれほど、空を駆け巡っていたのに。
「なんで、あんたはそんなにも」
レイは、座り込んだまま、雪に塗れていた。
アスファルトの上のそれは泥にまみれて茶色だった。
彼は腕を左右に投げ出したまま、苦々しげな笑い声を出していた。
まるで自嘲するように。その動作が、耐えられなかった。
歯を食いしばって、気がつけば、フェンスのそばの、少し新雪が盛り上がっているところに手をやって。
まるめた雪を、彼に投げつけていた。
ぽすっ、という音とともに砕けて、コートに白い欠片が広がった。
顔を上げて、目を丸くしてくる。
「悪かったわよ、私が悪かったのっ」
さらに、投げた。
今度は振りかぶって投げたから、彼は腕でガードした。
「なんかわけのわからないものにあなたが取られるくらいなら、足引っ張ってやるって思ってたのよ。なんにもないもん、私には。あなたにはどう、そうでしょう」
言葉を投げる、投げる。
雪がぶつかる、はじける。
彼は抵抗しない。その場でまみれていく。
「だってそうでしょ、寿命だって短いし、なんにも知らないし。だけど、何にもない私を信じてくれるもん、バカみたいに。気持ちよかったぁ、これまでずっと、あはは……あんたは私の傍に居なきゃいけないの、ずっとずっと、それなのに……」
息がどんどん上がってくる。
雪玉を作るのも苦労するようになる。
寒かったのに、あつくなってきた。
彼はまだそこに座り込んでいる。
黙って、うつむいている。
余計に腹がたったから、さらに言いたいことをぶつけてやることに決める。
「それなのに、あんたが先に行くから、クズは私だけになったじゃない。それが嫌だったの、嫌だったの」
続ける。投げる。
「だけどあんたは逃げたんだもんね。それは生きたいってこと。生きたいあんたを、死にかけの私が引っ張った。私はクズ、どうしようもないクズ。だから謝らなきゃいけないの、私が、私が……」
そろそろ限界だった。
だから一息に、一番勇気のいる言葉を、せいいっぱい空気を吸い込んでから、吐き出した。
「……私なんか置いといて、逃げればよかったのよっ!」
そこまで言って、後悔がよぎる。
そうだ、こんな時だってこいつは、されるがままで……。
フェンスにふらふらともたれて、顔をうつむける。
「小夜子」
声。顔を上げた。
「うるせーぞ、このバカ」
レイが、雪玉を投げてきた。
それは、小夜子の顔面に直撃する。
◇
呆然、顔から雪の粉が剥がれ落ちる。
レイは立ち上がっていて、むすっとした顔をしていた。
そんな風に表情に色づくのを、彼女はついぞ見たことがなかった、はずだった。
「さっきから黙って聞いてりゃ、自分に都合のいいことばっか、喋りやがって」
レイはしゃがんで、足元の雪をかき集めてギュッと固める。
「その挙げ句にごめんなさいだと。お前ほんと自分のことしか考えてないよな、昔っから。いい加減、うんざりだ!」
それから、ぶん投げた。
「勝手に俺の気持ち代弁したつもりになりやがって、お前は、お前の話してる間に……ちょっとでも俺の言葉を、聞いたのかよ」
もう一発。今度は肩口に、雪玉があたった。
衝撃でよろめく。冷たい。
顔を見た――レイは、怒っていた。
眉根を寄せて、目を見開いて、口を開けていた。
そんな顔を、見たことがなかった……。
「一緒にずっと住んでたのに、お前は自分の話ばっかりしやがって。勝手に俺をお前と同じにして、挙げ句に俺に色んなもの背負わせやがって。俺は俺だ。そんなだからお前は」
さらに、もう一発、言葉とともに、雪玉が飛んできた。
「そんなだからお前は、自分の好きな音楽だって、適当に汚しちまうんだろ」
その言葉で――小夜子のなかで、何かが弾けた。
気圧されていた気持ちがすっかりなくなって、爆発しそうな胸の奥底を抱えながら、自分も雪をかき集め始めた。
それを受けて、レイもまた雪を、泥だらけの雪を手元で集め始める。
互いを見て、息を荒げながら、どちらが早いかを競い合いはじめる。
「このっ……」
はやかったのは小夜子だった。
「よくも言ったなっ」
左腕を振りかぶって、雪玉を投げた。
レイは避けようとしたが、脇腹にぶち当たった。
鈍いうめきが聞こえた。
それをいいことに、小夜子は更に、もう片腕で持っていた雪玉を投げた。
「違うのかよ、だったら言ってみろ――」
「私はね、ずっと昔っから音楽が好きで好きで好きだったのよ、それをそんなふうに言うなんて、あんただって許さないから!」
「じゃあなんで……」
レイが、空気を吸い込みながら、右腕を思い切り振りかざして、投げた。
「簡単に、捨てたんだっ!」
また、ぶち当たる。
今度は足にあたった。
雪玉とはいえ、レイはよほど固く作っていたらしい。
小夜子は小さく悲鳴を上げて、足をすくませた。
だけど負けない。顔を上げれば、レイは地面にしゃがみこんで次の雪玉を用意している。
自分の足元を見る。くそっ、車の轍で汚されて、ろくに残っちゃいない。
背中にレイの気配を感じながら、フェンスのそばによって、ふかふかの部分から、シャベルのように雪玉をすくい取った。
振り返る。レイはまだ準備中だった。逃さない。
小夜子は答えとともに、投げた。
「そうするしか、なかったからよ! だから私は、なにもない私になるしかなかった! 私には音楽しかなかったのに、この国が全部持ってったのよっ!」
「音楽しかない? お前はその音楽を自分で殺したんだろうが、じゃあ、何もないじゃねえかっ!」
新雪の玉を食らってレイは顔面がびしょびしょになった。
しかし顔を歪めているのは冷たさが理由ではなさそうだった。
「さっきから、そう言ってるでしょ!」
「違う、違う違う違う!なんにもわかってないのはお前だ、わからず屋っ! お前がやってきたことが、なんにも成果なしだって、ほんとに言いたいのか!?」
「そうよ、よくわからないくせに褒めちぎる連中も! 自己満足で自分の気持を代弁された気になってる連中も! 何もかもが鬱陶しいのよっ! 大嫌い大嫌い、みんな、だいっきらいっ!」
言葉を吐いて、白い息が空中に舞った。
胸の内側から何かが出ていったが、小夜子はまだ気付いていなかった。
必死だった。レイも同じだった。
「じゃあお前は――お前は、あいつらのことを、なんだっていうんだ! あいつらは、お前の音楽しか聞いてなかったんだぞ! お前を信じて翔んできた! お前は、それさえ否定するのか!」
……手痛い反撃だった。
「それは……」
「スキありっ!」
とびきり大きな雪玉が飛んできて、それは小夜子の身体にまたもや直撃した。
「たっ……」
たたらを踏む。藍色のコートが白く染まる。
レイはぜいぜいと息をついていた。
彼はまたもや雪玉を作ろうとしていたが、何度か口元で罵声を吐き出した後に諦めて、再度顔を上げる。
レイは、小夜子に指をさした。
糾弾するように。違う、逃げられないようにだ。
「あいつらはな……お前の音楽があるから、怖いのも痛いのも我慢して飛べるんだ、こんなに情けないお前のことを女神、女神って言いながら翔んでいって、死んでいくんだ……そいつらのことを少しでも考えたことがあるのかよ!」
小夜子は首を横に振った、何度も何度も。
聞こえない、聞こえないと言うように。
「私が弾かなきゃ、死ななくて済んだかもしれないじゃないっ! あんただってそうでしょう! 私がいなけりゃ、とっくに……」
「じゃあなんで、ここに俺が居るんだっ!」
また、手痛い反撃だった。
「……っ」
「答えてみろよっ!」
「それは、あんたが、私を許せないから……」
しどろもどろになっても、レイは容赦がなかった。
かつて、そんな様子の彼を一度たりとも見たことがなかった。
いま小夜子は、まったく知らないレイを見ている。
その衝撃が、頭の中にぽっかりと空白を作って、これまでの何もかもを塗り替え始めていた――雪のように。
「そんなわけあるか、あってたまるか。俺は――お前に、もう一度会いたかったんだっ!」
「そんなの、そんなのっ!」
それこそ、自分のせいだ。
そんな風にレイに思わせて、一体何になる。
純粋さから離れるほど、辛さが増していくだけなのだから。
だから、それ以上、私を肯定しないで。そう叫ぼうとした。
その気持ちでレイを見た瞬間、彼はよろめいた。
かがみこんで、膝が地面についた。
おかしい。
そして彼は咳き込んで――まっしろと茶色のまだらの上に、ぼたぼたと、血を吐いた。
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