第二種職務が割り当てられたとき、小夜子の心は完全に死んでいた。

 彼女の好きだった音楽家たちは反動分子として歴史から遠ざけられ、そのかわり、繰り返し繰り返し、皇国のための教育を施された。

 しまいには、何もかもに無関心な、透明な存在に成り果てた。

 だが小夜子は、苦痛ではなかった。

 かつての音楽が奪われるときの、あの灼熱の中に焚べられるような苦しみはもう、やってこないのだから。

 ゆえに『その老人』を消すことを命じられたときも、何の感慨もなかった。

 ……本人に、出会うまでは。


 老人は、街はずれの小屋に一人で住んでいた。

 見つけるのは実に簡単だった。

 当局によれば、その老人が隠し持っているものは、この国にはあってはならない存在だという。

 灰色の瓦礫の壁に身を隠しながら、小夜子はそれを、禁止された兵器か何かであると想像した。


 その時だった。

 彼女の耳に、旋律が聞こえてきたのは。


 はじめ、耳を疑った。老人の潜伏している場所からだ。なんだろう、これは。

 しばし耳を澄ませてから……ざわつく。

 これは、音楽だ。シューベルトの『小夜曲セレナーデ』。

 ……許せなかった。

 何より、胸がかきむしられた。早く止めなければと思った。

 衝動に背中を押されて、行動に出た。

 建物に飛び込んで、老人のところに向かった。


 粗末なボロを着込んだ高齢の男がひとり、小さな鍵盤楽器の前に座っていた。

 彼は……ピアノを弾いていた。この国にはもう、存在してはならないもの。

 手は踊り、音色を雨だれのように奏でていく。その前には、五線譜。

 こちらに気づいた老人は、小夜子を一瞥すると……音楽を止めて、諦めたように息をついた。

 小夜子は――彼を撃った。

 だが、即死ではなかった。

 血溜まりのなかに、小柄な身体が倒れ込んだ。


「バカなことをした、あなたは。自分の命を縮めるだけなのに」


 自分に向いた銃口が見えているのかいないのか、瀕死の老人は苦しげに咳き込んだ後、仰向けになって小夜子を見た。

 その濁った瞳が、こちらの姿をとらえていた。


「かつてはヴィトルオーソとまで讃えられたあなたなら、オートコフィンにだって順応できたはずなのに」


 銃口を向け続けたまま、嘲るように言った。

 さぁ、怒れ、にくめ、私を。せいいっぱい罵れ。

 そうすれば私は、躊躇なくあなたを殺せる。


 その時には既に、小夜子の心臓は破裂寸前にまで鼓動していて、汗で背中が水浸しになっていた。

 一刻も早くここから立ち去る必要があった。

 目の前の楽譜が、先程の音楽が、私のなかにあるものを、再び目覚めさせようとしている。

 それは理屈抜きの感覚。


 老人の対応は、違った。


「ああ、君が、奏者か……君は……知っている……」


 聞くな。撃て。今すぐ。

 そうして、部屋の隅に重なっているあの紙の束を、五線紙を全て焼き払え。

 演奏するより、ずっと簡単なはずだ、早くしろ――。


「君の死んだ父は、かつてオートコフィン開発に関わっていた。そうだろう、その顔に面影がある……私はこの目で見た……ああ、君だったのか。なんという運命だ」


 老人の目には、涙。

 さらに、腕がこちらに伸ばされる。届くはずもないのに。

 後ずさることも、引き金を引くこともできず。

 麻痺したように、老人の言葉を聞いている。


「悲しいことだ……私は、君がおもちゃの鍵盤で遊んでいるのも、見たことがある」


 彼は血の中を這いずりながら、既に力を失って膝立ちになっている小夜子に近づいた。

 ――その枯れた手が、小夜子の手を、つかんだ。


「何かを創り出すことの出来る指先が、こうして命を奪うことに使われるなんて……私には、耐えられん。君は、そんなものを持つべきじゃない。君はもっと、自由に――」

「やめて」


 た、たん。リズムを刻むように銃声が響いて、老人は彼女の膝に倒れ込んだ。

 それが、最初の仕事だった。

 当局が、わざとこの仕事をあてがったことを知ったのは、随分あとだった。



 ――いま、自分の周りに散らばっているのは、あの日燃やすべきだったはずのものだった。

 秘密裏に持ち帰って、こうして過去の残滓として、ここにあった。

 なんと滑稽なのだろう。

 自分が、これまで消してきた者に告げていた言葉は、翻れば、すべて自分に向けられた戒めでもあったわけだ。


「そうですよ。私はそういうやつです。捨てられなくって。だけど捨てたほうが楽になると思ってたから。隅っこにおいやって、そうだと言い聞かせ続けてきた」


 笑みが、こわばってくる。

 皮肉に身を浸すことすら出来ず、決定的な存在が食い込んでくる。


「……その先に、あいつを見つけた。レイを」


 その名前を吐き出した時、彼女はひどく孤独になった。

 だが、全ては自分がやったことだ。


「道連れが出来たと思った。自分みたいな存在が居ると思った。宙吊りになって虚しさを感じてる存在が居るって。だから、あいつと一緒なら、もう思い出さなくて済むって思った」


 先生は聞き続けていた。

 小夜子は力なく座り込み、楽譜を下敷きにして続ける。


「だけど、あいつは変わってしまった。そのせいで、私も……昔に戻りそうで、それで、分からなくなった……」

「……小夜子ちゃん」

「分かってる。分かってるんです。これを捨てられないのが、何よりの証拠だから。私は、自分の中にある何かにまだ、引っかかってる。だけどそんなの認めたくない。だからあいつが、昔の私であることを願い続けた。それなのに、それなのに」


 くしゃり。

 楽譜を掴む。紙が小さな塊になって、壁に投げつけられる。

 もっと、もっとだ。くしゃり、くしゃり。


「それなのにあいつは、あいつはっ」


 もっと捨てないと、あいつの顔が、次々浮かんでくる。

 もっと忘れなきゃ……今、目に溜まっている涙が、床に染み込んで、一生、消えなくなってしまう。 くしゃり、くしゃり。


「あいつは、私より先に進もうとした。私を、置いてこうとした。私より多くのものを見ようとした。それで、私のなかの何かをもう一回目覚めさせようとした。許せない、許せない……忘れたいのに、忘れられない。あいつの何もかもが……あああっ」


 その時。

 部屋の隅に投げ捨てられた端末から、けたたましいアラートが鳴った。

 続いて、メッセージが再生。『未帰還者が見つかった』というものだった。


 反射的に、小夜子は動いている。


「…………レイ、」


 先生を押しのけて端末にかじりついて、続きのメッセージを聞く。


 ……つづいて報告されたのは、まるで違う者のことだった。

 廃墟の街で、死体で見つかった兵士を一体回収したということだった。

 スカベンジャーに群がられていたが、機密は盗まれずに終わったとのことだった。

 当然、レイについては欠片も触れられていない。


「……」


 長い沈黙。

 いま、何もかもをぶちまけた。

 何かが明白に終わりを迎えた。


「先生」


 振り返る。

 彼女はそこにいた。変わらない微笑をたたえたまま、そこに。


 ずっと聞いていた。

 ひどく醜い暴露を聞き届けて、そこにいたのだった。


「先生、私、わたし」


 つづいて、我に返って、自分が何をやったのか、気付く。

 壁の傍に、丸めて捨てられた楽譜。

 あの老人が、そしてもしかしたら、どこかで過去の自分が持っていたかもしれない、はじめの自分にとっての喜びだったものが、転がっていた。

 自分でやったのだ。

 自分の手で、また、失いかけていた。何かを。


 ――小夜子は、とっさに銃を探そうとした。

 消えなくちゃ。もうここには居てはいけない。

 自分はもう終わりだ。ごめんなさい、ごめんなさい……。


 その時、小夜子は、やわらかな感触に包まれた。

 腕が脱力して、その場にとどまった。

 先生が、自分を抱きしめてくれていた。

 彼女は、自分よりも泣いていた。


「もう、いいでしょ。あなたは十分に吐き出した。いまので、分かった」


 ……その優しい声で、小夜子の中に築かれていたものがとけだして。


「本当のことを言ってもいい。言うだけなら、いくらだって聞いてあげられる」


 涙が溢れ出しはじめた。

 先生の服を濡らしてしまう。だから、止めなきゃ。


 止まってくれなかった。

 ずっと、我慢していたのかもしれなかった。

 それが今、いっきに溢れているのかもしれなかった。

 アラートの残滓が響くなか、小夜子は先生の腕をぐっと掴んで、泣き続けた。


 その果てに彼女は、小さく、本当に小さく、聞こえないほどの声で、言ったのだった。


「――私、レイに、会いたい」


 先生は、それも黙って聞いてくれていた。


 涙のあと、自分の胸の内側が空っぽになっていくような感覚をおぼえた。

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