「どうしたんですか、先生」


 開けた扉からは際限なく冷たい風が吹き込んでくるので、小夜子としては早く閉めてほしかった。相手は腕を揺すりながら、落ち着かなさそうに言った。


「あなたに……話したいことがあって来たの」


 分かっていたことだった。

 だが小夜子はそっぽを向いたまま、突き放したように答える。


「私とは、もう無関係のはずです」

「そうよね。だからここに来たのも、迷いながらだったの」

「私、実家に帰るんです。その準備をしてます」

「そう……上がってもいいかしら」


 小夜子はため息をついて、背中を向けたまま返答した。


「ご自由に」


 先生は薄暗い部屋を見回しながら、所在なさげに立っていた。

 それでも小夜子に促され、やっと床に座ることを選んだ。

 それでも隅にいる。

 生徒の私室に入るなんてことは、まずないのだろう。


「ここでの暮らしは、どうなの」


 小夜子はダンボールを組み立てて、その中に自分の衣服や生活用品を積み込んでいた。

 その沈黙を破るように、先生が言った。


 迂遠な問いだった。

 本当はもっと、本質的なことを聞きたいに違いなかった。


「不便ではないですよ。それ以上でもないですけど」


 こう答えた。先生はそこからはすっかり黙ってしまった。


 ……しばらくの時間が経過した。

 再び沈黙を破ったのは、やはり先生だった。


「彼とは、どんな暮らしだったの」


 予想できた。

 ここに来る以上、聞きたいことは、レイのことか、音楽のことか、どちらかだ。

 だから小夜子は、ほんの少し心の奥に起きたさざなみを押さえるようにして、あらかじめ用意した文言を放った。

 すらすらになりすぎないよう、自然な調子を意識して。


「残念ながら、期待するようなものは何も。彼については、子守みたいなものでしたから」

「……そう」


 そこでも先生は、何も言えなかった。

 小夜子は少し苛立って、髪の毛を掻いた。

 それから、わざと呆れたような調子を作る。


「聞きたいんじゃないですか。本当は、私が、レイについてどう思ってるかって」


 そこで薄笑いを浮かべて先生を見ると、案の定。

 図星、というような顔をしている。なにか、悪いことをしたような。

 余計に苛立つ。こちらが意地悪をしているような気持ちになる。

 だから、彼女が「ごめんなさい」とか、それに類するようなことを言う前に、続ける。


「もう終わったことです。だから、忘れるために一度ここを離れるんですよ。これ以上、私の人生に波風立つのはごめんです」

「……」

「期待に添えなくて、ごめんなさい」


 もう一度、そっぽを向く。

 先生は、まだ居る。沈黙。

 ……作業が、全然進まなかった。

 後ろに誰かが居る。

 無視を出来るわけでもない。

 先生は好きだった。

 だから、その先を言うことが不利益にしかならないとしても、小夜子は、続けた。


「ああ、もう。はっきりしてくださいよ、大人なんだから」


 一度ダンボールの蓋を閉じて、先生に向き直る。

 本当に、怯えた小動物のようなひとだ。

 彼女が、泣きそうな申し訳無さそうな、あの笑顔を浮かべる前に、問う。


「そんなこと、聞くためだけに来たんですか」


 じっと顔を見ると、先生は少しだけ目をそらし、視線を泳がせる。

 胸の前に腕を何度か持ってきて、その動作を繰り返して……やがて、小夜子のほうを改めて向いて、答えた。

 意を決したらしかった。


「違うわ」

「では、なんですか。先生」

「あなたに、『音楽』の顧問をやってほしいの」


 ――今度は、こちらが固まる番だった。

 小夜子は何も言えなかった。

 音楽。

 改めて聞かせられるその二文字には、なにか呪術のような効果があった。

 身体がしびれて、変な汗が出てくる……。

 勢いを殺すことをおそれてか、先生は続ける。


「どういう形であれ、あなたはアレと関われたほうがいいと思うの。それで、」

「そんなのいいです。私にはもう、そんなのいらない」


 ぴしゃりと、大きな声で言った。

 少し、部屋に反響する。

 しまった、やってしまった、と思う。

 バツが悪くなって、うつむく。

 取り繕うように、言葉を継ぎ足す。


「よくやってますよ、後続の子たち。私は必要ないです」

「だけど。難しいの。技術だけじゃない。戦争への関わり方とか、心構えとか。あなたしかわからないことが、いろいろ」

「だから、それも終わりなんですって。もう関わりたくないんですよ、私」

「じゃあどうして、音楽室をよく覗いてるの」

「……っ」


 息が詰まる。

 返答に窮して、小夜子は追い詰められる。

 知らず、後退りをする。

 先生はそこに、問いをかぶせてきた。


「まだ、関わりを持っていたい。繋がっていたい。そう思っているんじゃないの……」

「――そんなことないっ!」


 だから、小夜子は否定するために叫んだ。

 空気をびりびりと引き裂き、声が何回も反響した。

 先生はびくりと身を震わせた。

 一瞬罪悪感のようなものが宿るが、もう止められない。

 口の端を露悪的に曲げて、嘲るように言う。


「もう、うんざりなんですよ……悩むのも苦しむのも、何もかも」


 翻って、本棚に歩み寄る。

 指を天板に踊らせて、ほこりをすくっていく。演奏するように。

 その下に詰まっているものは……楽譜だ。

 小夜子にとっての、苦い記憶。

 目を走らせて、わずかにのぞく表紙の文字を見る。

 その瞬間、ぞわりと背中が粟立つ。

 石の下の虫たちを見てしまったときのように。

 喉の奥でうめいて、先生に言葉をぶつける。


「音楽なんて、演奏なんて……そんなものがあったせいで、私はこんなにも!」


 そこで、本棚をドンと叩いた。

 瞬間、ばらばらと詰まっていたものが吹きこぼれて、彼女の足元に散った。


 それは、楽譜。

 五線紙の上に音符が踊り、メロディを、和音を奏でている。

 それらは、現在のどの音楽にも属していない。

 遠い昔に切って捨てられた、人の手による音楽の遺産。

 知らない外国の人々の名前が踊り、主張する。

 これは――人の手によって演奏され、人の耳によって完成するものであると。


 小夜子はすぐにでもその散らばった紙をかき集めて、ぐしゃぐしゃにして捨ててしまうべきだった。 少なくとも、皇国の人間の手元にあるべきものではなかった。

 だが彼女は、しゃがみこんだ。

 目の中に、『音楽』が、焼き付いていく。かつての『音楽』が。

 好きだった頃の、音楽が。


「それがあなたの、未練の証」

「……」


「あなたは、ずっとそれを捨てられなかった。そうでしょう」

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