④
「どうしたんですか、先生」
開けた扉からは際限なく冷たい風が吹き込んでくるので、小夜子としては早く閉めてほしかった。相手は腕を揺すりながら、落ち着かなさそうに言った。
「あなたに……話したいことがあって来たの」
分かっていたことだった。
だが小夜子はそっぽを向いたまま、突き放したように答える。
「私とは、もう無関係のはずです」
「そうよね。だからここに来たのも、迷いながらだったの」
「私、実家に帰るんです。その準備をしてます」
「そう……上がってもいいかしら」
小夜子はため息をついて、背中を向けたまま返答した。
「ご自由に」
先生は薄暗い部屋を見回しながら、所在なさげに立っていた。
それでも小夜子に促され、やっと床に座ることを選んだ。
それでも隅にいる。
生徒の私室に入るなんてことは、まずないのだろう。
「ここでの暮らしは、どうなの」
小夜子はダンボールを組み立てて、その中に自分の衣服や生活用品を積み込んでいた。
その沈黙を破るように、先生が言った。
迂遠な問いだった。
本当はもっと、本質的なことを聞きたいに違いなかった。
「不便ではないですよ。それ以上でもないですけど」
こう答えた。先生はそこからはすっかり黙ってしまった。
……しばらくの時間が経過した。
再び沈黙を破ったのは、やはり先生だった。
「彼とは、どんな暮らしだったの」
予想できた。
ここに来る以上、聞きたいことは、レイのことか、音楽のことか、どちらかだ。
だから小夜子は、ほんの少し心の奥に起きたさざなみを押さえるようにして、あらかじめ用意した文言を放った。
すらすらになりすぎないよう、自然な調子を意識して。
「残念ながら、期待するようなものは何も。彼については、子守みたいなものでしたから」
「……そう」
そこでも先生は、何も言えなかった。
小夜子は少し苛立って、髪の毛を掻いた。
それから、わざと呆れたような調子を作る。
「聞きたいんじゃないですか。本当は、私が、レイについてどう思ってるかって」
そこで薄笑いを浮かべて先生を見ると、案の定。
図星、というような顔をしている。なにか、悪いことをしたような。
余計に苛立つ。こちらが意地悪をしているような気持ちになる。
だから、彼女が「ごめんなさい」とか、それに類するようなことを言う前に、続ける。
「もう終わったことです。だから、忘れるために一度ここを離れるんですよ。これ以上、私の人生に波風立つのはごめんです」
「……」
「期待に添えなくて、ごめんなさい」
もう一度、そっぽを向く。
先生は、まだ居る。沈黙。
……作業が、全然進まなかった。
後ろに誰かが居る。
無視を出来るわけでもない。
先生は好きだった。
だから、その先を言うことが不利益にしかならないとしても、小夜子は、続けた。
「ああ、もう。はっきりしてくださいよ、大人なんだから」
一度ダンボールの蓋を閉じて、先生に向き直る。
本当に、怯えた小動物のようなひとだ。
彼女が、泣きそうな申し訳無さそうな、あの笑顔を浮かべる前に、問う。
「そんなこと、聞くためだけに来たんですか」
じっと顔を見ると、先生は少しだけ目をそらし、視線を泳がせる。
胸の前に腕を何度か持ってきて、その動作を繰り返して……やがて、小夜子のほうを改めて向いて、答えた。
意を決したらしかった。
「違うわ」
「では、なんですか。先生」
「あなたに、『音楽』の顧問をやってほしいの」
――今度は、こちらが固まる番だった。
小夜子は何も言えなかった。
音楽。
改めて聞かせられるその二文字には、なにか呪術のような効果があった。
身体がしびれて、変な汗が出てくる……。
勢いを殺すことをおそれてか、先生は続ける。
「どういう形であれ、あなたはアレと関われたほうがいいと思うの。それで、」
「そんなのいいです。私にはもう、そんなのいらない」
ぴしゃりと、大きな声で言った。
少し、部屋に反響する。
しまった、やってしまった、と思う。
バツが悪くなって、うつむく。
取り繕うように、言葉を継ぎ足す。
「よくやってますよ、後続の子たち。私は必要ないです」
「だけど。難しいの。技術だけじゃない。戦争への関わり方とか、心構えとか。あなたしかわからないことが、いろいろ」
「だから、それも終わりなんですって。もう関わりたくないんですよ、私」
「じゃあどうして、音楽室をよく覗いてるの」
「……っ」
息が詰まる。
返答に窮して、小夜子は追い詰められる。
知らず、後退りをする。
先生はそこに、問いをかぶせてきた。
「まだ、関わりを持っていたい。繋がっていたい。そう思っているんじゃないの……」
「――そんなことないっ!」
だから、小夜子は否定するために叫んだ。
空気をびりびりと引き裂き、声が何回も反響した。
先生はびくりと身を震わせた。
一瞬罪悪感のようなものが宿るが、もう止められない。
口の端を露悪的に曲げて、嘲るように言う。
「もう、うんざりなんですよ……悩むのも苦しむのも、何もかも」
翻って、本棚に歩み寄る。
指を天板に踊らせて、ほこりをすくっていく。演奏するように。
その下に詰まっているものは……楽譜だ。
小夜子にとっての、苦い記憶。
目を走らせて、わずかにのぞく表紙の文字を見る。
その瞬間、ぞわりと背中が粟立つ。
石の下の虫たちを見てしまったときのように。
喉の奥でうめいて、先生に言葉をぶつける。
「音楽なんて、演奏なんて……そんなものがあったせいで、私はこんなにも!」
そこで、本棚をドンと叩いた。
瞬間、ばらばらと詰まっていたものが吹きこぼれて、彼女の足元に散った。
それは、楽譜。
五線紙の上に音符が踊り、メロディを、和音を奏でている。
それらは、現在のどの音楽にも属していない。
遠い昔に切って捨てられた、人の手による音楽の遺産。
知らない外国の人々の名前が踊り、主張する。
これは――人の手によって演奏され、人の耳によって完成するものであると。
小夜子はすぐにでもその散らばった紙をかき集めて、ぐしゃぐしゃにして捨ててしまうべきだった。 少なくとも、皇国の人間の手元にあるべきものではなかった。
だが彼女は、しゃがみこんだ。
目の中に、『音楽』が、焼き付いていく。かつての『音楽』が。
好きだった頃の、音楽が。
「それがあなたの、未練の証」
「……」
「あなたは、ずっとそれを捨てられなかった。そうでしょう」
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