③
レイの心のなかに、無限の疑問が芽生えた。
解きほぐせない糸の絡まりのような。
どうしてだ。
あいつは、もうとっくに俺から離れていって、皇国の音楽そのものになったんじゃなかったのか。
あの冷徹な、突き放すような最後の言葉と、いま蔵前から告げられた情景が釣り合わない。
「どうして、なんのために……」
「分からない。私もずっと、理由を探してた。トップクラスの実力を持ったエージェントのはずだったのに、なんでそんなことをしたのか。バレたら、ただじゃ済まないのに。ここまで逃げながら、考えない日はなかった」
窓の傍でカップのかけらを拾いながら、蔵前は言う。
「いまだって、完璧には分からない。でも、ヒントはあった。ここに落ち延びたあとも、私は皇国の戦いの情報を仕入れてた。それで知った……あなたが『処刑』されるとき、音楽が一度とまった。覚えてるでしょう」
「……」
その通りだ。無我夢中ゆえ、その時は反応が出来なかったが。
「あれは彼女が、あなたにとどめを刺すことをためらったからじゃないかって思うの」
「そんなはずはない、あいつはもう……」
「知ってる。あの子って、もう、演奏できないのよ。あなたを仕留めきれなかった責任をとって、演壇から降りたの。これまでの彼女ならありえないこと。ましてや、単純なミスでそこまで追い詰められることなんて、絶対にナンセンス」
レイは、呆然とした。
彼女がでまかせを言っている可能性も否定できないのに、何故かその言葉に飲み込まれるようだった。
小夜子のことを想像して、更に愕然とするようだった。
――お前は、何もかもを諦めたんじゃないのか。俺のことも、音楽のことも。
いつぞや、自分は小夜子に問うた。
お前はなんで、俺と一緒に居るんだ、と。
単に事実だけを答えればいいのに、彼女はわざわざ答えてみせた。
自分と同じだから、と。何もかもを諦めている自分と、この俺が。
……もし、それが、願いだったとしたらどうだろう。
本当はもう、互いにすれ違っている事に気づいているのに、同じであることを祈っていたからだとすれば、どうだろう。
レイは、あの日の、あの暗くて寒い部屋での動作を脳内で繰り返す。
そうだ、あのときあいつは、そう言って薄く笑ったんだ……それから、触れた。
何に。本棚に……一瞬じゃない。
何秒か。名残惜しそうに、何かを思うように。
――あそこには、何が入ってた?
外で轟音が響いて、まもなく光が入ってこなくなった。
一転して、静かになった。
どたどたと階段を上がってくる音。蔵前は入り口の扉を見る。
「大変だ、クラマエ」
扉を開けたのは、外套を着込んだ泥だらけの若者だった。
「大収穫だ……翔機が墜落した。形がそのまま残ってる……パイロットも、まだ死んでない!」
蔵前が驚いた声を出した。
こちらを少し見つめて、弾かれたように外に出ていった。
取り残されたレイは、どうするか考えた。
そこで不意に、思い出した。
――本棚に詰まっていたのは、楽譜だった。
ホコリをいっぱいに浴びた、古い楽譜。
その時、小夜子は言っていた。
――音楽が、好きだったと。
答えは急に、天から降り注ぐようにやってきた。
小夜子は、まだ……音楽も自分も、捨てきれていないのだ。
◇
戦闘が終わった後の廃墟街は凄惨な有様だった。
至るところに翔機や敵の残骸が散らばっており、焦げ臭い匂いを放っていた。
それらの殆どはかさぶたのように黒焦げになってへばりついていたので、原型をとどめていなかった。
しかしそんな中にあって、一箇所だけ人だかりが出来ていた。
蔵前のあとをおって、廃墟のはざまにあるあばら家から出たレイは、そこに向かった。
近づいていくと、スカベンジャー達が何かを囲んでいる。
その最前列に蔵前が居た。
彼女はこちらに気付くと、なぜかバツの悪そうな顔をした。
「生きてるぞ」「本当だ」「どうする、バラすか」
口々にささやきあう彼らをかき分けながら先に進むと、何があるのかが見えた。
墜落してぐしゃぐしゃになった翔機があって、その身体の真ん中、臓腑をさらけ出すようにして、パイロットが……つまりは、
彼は透明な液体と血に塗れていた。
服は黒焦げで機能しておらず、何度もヒューヒューと喉が鳴っている。
一度見るだけで、レイにも分かる。もう、長くはない命だ。
ただ、進んだときに頭に浮かんでいたのは、純粋に、同胞への思いだった。
しかし、それ以上先へ歩こうとしたとき、問いが膨れ上がって、溢れた。
兵士の目が、こちらを見た。何の感情も浮かんでいない。喜びも、恐怖も。
――お前は。俺は。おれたちは。このままくたばるだけの命だ。
――奪うことは出来ても、与えられることはない。
――死に損なったのはつらいよな。今、痛いんじゃないか、苦しいんじゃないか。本当なら、そんなもの、必要ないのにな。
――なぁ、お前。おれたちは散っていくだけの存在だ。何も残せない。残せたとしても、見届ける前にいなくなる。そんな存在に、価値なんてあるのか。
――結末が決まっているものが、何かを考えたり、悩んだりする必要なんて、あるのかな。
知らずのうちにレイは、死にかけている兵士の傍でしゃがみこんでいた。
周囲のざわめきは耳に入らず、血まみれの手を、そっと取った。
「……ああ」
声。顔を上げる。
兵士と目があった。
「あなたか……そうか、来てくれたのか……思い出した」
すぐには答えられなかった。驚いたからだ。
「探してたんだぞ、レイ……どこに行ってたんだ……」
「お前……俺のことを」
「ああ……どうにも記憶がハッキリしない。でも安心した、ちゃんといるじゃないか」
後ろで蔵前が何かを言っていたが聞こえない。
ナンバーテン、と刻印された男は血を吐いた。
赤黒い粘液が手の甲にこびりつく。それは生温かかった。
「教えてくれ。俺たちはなんのために生きて、なんのために死ぬんだ」
「はは、そんなこと、考えたこともないな、君はすごいな……」
「はじめから意味がないなら、なんでおれたちは人間の形をしてるんだ。こんなの……こんなの、ひどすぎる」
それ以上言葉が出てこない。
レイは奥歯を噛みしめる。
しかし、どれだけやっても、涙が出てこなかった。
それが、途方も無い断絶を告げられているようで、なおさら苦しかった。
「意味なんて、ないかも、しれないな……でも、おれはいま、悪くない気分だ」
ナンバーテンは、綺麗とも言えない灰色の空を見上げながら言った。
眼球が、徐々に白濁していく。
「憧れた君が、手を握ってくれた。それは嬉しいことだ。それだけで、いいじゃないか」
「いいのかよ、たったそれだけで。他にも、もっと色々……」
やはり続かない。
なぜなら、『他』なんてものは、兵士にはありはしないからだ。
しかし。自分には。
俺には、小夜子が居る。
いまもなお心を苦しめる存在が。
その存在もまた、自分と同じように苦しんでいるとすれば、自分には何ができるのか。
気付くのが、あまりにも遅かった。
多くの時間が過ぎ去った。
距離も何もかも、遠ざかってしまった。
いまさら、あいつに、何ができる。
追いついた頃には、もう死にかけているかもしれないのに。
「ああ……そろそろだ。おれは、よく生きて、死んだ……」
「やめてくれ、死ぬな――」
「……そうだ、おもいだした、もうひとつ、おもいだしたぞ」
ナンバーテンはそこで、目を見開いた。
急激に生気を取り戻したかのように起き上がり、レイの手をにぎりかえす。
つよく、つよく。
「音楽が途切れたとき、不安になったんだ。そこで、彼女のことが浮かんだ。そうだ……いま思えば、おかしいんだ。あれから後の音楽は、ぜんぶ違う。彼女じゃない、別の誰かが演奏してる……いや、誰も演奏してない。彼女だ。音楽を俺たちにくれたのは、彼女だけだ――」
「お前、何を」
「君はいつも、彼女のそばにいたんだろ。だったら、ここに居ちゃいけない。彼女のそばに行ってくれ。みんな騙されてる。みんなが聞いてるのは音楽じゃあないんだ。それを、教えてやってくれ……頼む、」
血を吐きながら、懇願するように、彼は叫んだ。
「おれ達は――彼女じゃなきゃ、だめなんだ」
「……!」
その言葉に、はっとする間もなく。
ナンバーテンは、そのまま力を失って、事切れた。
レイの手には、血がべっとりついている。
考える時間は、決して多くはなかった。
しかし、それでも十分だった。
たった今、託されたものがあった。
確かにここに、短い人生を駆け抜けていった存在が居て、その炎は、自分の内側に入り込んでいき、内側から全身に染み渡るようだった。
それは、この瞬間まで溜め込まれていた葛藤を吹き飛ばすような効果を秘めていた。
――彼女じゃなきゃ駄目だと言って死んだ男が居た。
――あいつは、それを知らない。
――だったら、教えてやらなきゃいけない。お前は、そこよりも、もっと先に行ける。
「……」
もう、迷いはなかった。
「あなた……」
後ろから、蔵前が声をかけてくる。
レイは立ち上がる。
「……教えてくれたよ。こいつが、みんなが、俺に」
「何を、」
振り返る。二本の足でしっかりと立って、答えた。
「俺が生きて、死ぬ意味だ」
「それは、一体なんなの」
ゆっくりと翔機の残骸から降りていく。
皆が道を開けた。視線が注がれる。
もう振り返ることはない。
何があっても、ぜったいに。
「あいつと一緒に、あいつの音楽で、翔ぶことだ。だから、あいつにもう一度、奏でて欲しい」
「だけど、もう無理よ。役割は交代したんだもの」
「関係ない――あいつはまだ、捨てちゃいない。はっきり分かった」
レイの瞳は、もう濁っていなかった。
まっすぐに蔵前を見つめた。
全身に力がみなぎっていて、これからすることに対して前のめりになっていた。
彼女の目の前まで降りてきて、言った。
「行かなきゃ。悪いけど、ヒゲって、どうすれば消えるんだ」
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