Mission6 彼方よりの来訪。数多の星々を越えて。青い星に降り立つは『天敵』

 観測データによる疑惑が確信に変わり、襲撃という非常事態に対処しなければいけなくなった。


 規模は不明確。どれだけの数が攻め込んでくるのか判らない。そうである以上、戦力が多いに越した事はない──なのに──。


「でーすーかーら! お送りしたデータを再度改めて下さい! ヴェクターの襲撃が十分に考えられるだけの要素を記載しています!」


 アンリが大型トレーラーの運転席で、スマートデバイスに向かって張り上げる声をドロシーは聴いた。支援を期待していたのに、重い腰を上げたがらない政府への怒りと失望を交えた説得は、もう十数分に及んでいる。


 イスルギ重工はヴェクターの飛来を現実的なものとして捉え、対策準備を間もなく終える段階にいた。


 ──A.U.G二機をトレーラーで運び、出現予測ポイントで撃破する。A.U.Gの飛行速度を前にして、陸路なんて億劫もいいところだけれど、許可がなければ航空法に触れるのだからしかたない。ましてや兵器であるA.U.Gを飛ばすとなれば、その許可を貰う時間的余裕は最初から無かったも同然だった。


 非常事態だというのに、政府はそれを呑気にマニュアル対応で片付けようとしている。何よりも、アンリを恨めしく、ギリギリと歯軋りさせるくらい悔しがらせているのは、数週間も前に送った資料について、返信が一切無かった事だ。


 アンリの立場からすれば、社員がせっせと資料を拵え、時間を掛けて吟味したというのに、襲撃が予想される当日になっても『そういえば、そんなのもありましたねぇ』といった態度で流されれば、そのショックは罵声に収まらないほど大きいだろう。


《そう言われましても……我々の観測衛星は、粒子の飛来に異常性を認めず、専門家を交えての報告会議においても問題は無いと決定しておりますので……》


 回線を同期させたヘッドセットから、ノロノロとした政府の返事を聴いているうちに、ドロシーはアンリに代わって文句を言ってやりたくなった。恐らく、送った資料を参考にしていない独自調査で政府は納得している。面倒事を嫌った事無かれ主義は、デジタル主体の時代で息づく判子と同じくらい変わっていない。


 聞く耳持たない政府の対応を歯痒く思いながら、ドロシーはアンリから任された仕事を不備なく終える事に尽力していた。


 大型トレーラーに搭乗させたA.U.Gと、その武装を完璧に仕上げる──それが、ドロシーに任された仕事だった。


《イスルギ重工様の事業は手広く、それぞれにおいて素晴らしい成果を挙げられているのは存じております。しかし、政府が一企業の見解を証左するために動く訳にはいかないと御理解下さい。他企業様も同様の意見を持っていらっしゃるならまだしも、貴社のみが予測された資料では、我々も対応のしようがありません。本件については貴社に御理解と御安心下さいますよう御願い申し上げ――》


 ウンザリだ。ドロシーは呆れた嘆息を短く溢し、PDAのデータだけを意識した。政府と企業では、状況の認識にあまりにも隔たりがある。事を論じるには同程度の能力がなければ話にもならない。


『もしも』とか『万が一にも』といった危惧を想定しないのは、危機感の欠如の他ならないのだけれど、裏を返せばそれだけ此処の管轄は平和だと言えた。何が起こっても何とかなると本気で思っているんだろう。


 その〝何とか〟をするのが、今のイスルギ重工の仕事だった。本来なら政府の仕事である危機的状況を打破するために、彼女達は本来の業務から逸脱した闘いに乗り出そうとしている──。


「あ~もー!」


 スマートデバイスを切ったアンリの声は諦め一色だった。どうやら説得は叶わず、いよいよ自分達だけでやるしかないという覚悟の思いが強まる。


 アンリはドリンクホルダーに挿していた炭酸飲料を一気に飲み干し、盛大な一息を吐き出して『よぉーし!』と意気込んだ。──元気を振り絞るのはとっても結構ですが、回線、オープンですよ、アンリ──。


「ドロシー! そっちはどう!?」


「チェック完了です、アンリ。問題ありません」


「オッケー! オーグナイザー二名に通達します! 準備はどうですか!?」


《あいよー、01【サツキ皐月】スタンバイ。何時でもいーよ》


《02【ヤヨイ弥生】スタンバイ完了しています。……いよいよ実戦ですね》


 トレーラーの格納庫コンテナで、A.U.Gに乗り込んでいるディナとイナミがコールサインで応答する。二人とも宇宙での防衛戦が契約なのにも関わらず、快く引き受けてくれた。


 といっても、二人からすれば契約外の報酬を喜んで――というよりは〝暴れたい〟あるいは〝企業との関係を作りたい〟といった美味しい事情あっての受諾なのは間違いない。つまりはイレギュラーな事態であったものの、win-winの関係で承諾して貰えたのは幸いだった。


《ハハッ! 何言ってんだよイナミ! アタシ等の本番は宇宙に行ってからだろ! コイツはってやつだ!》


 意気込みながらジョークを飛ばすディナは、専属契約を交わしてから初の戦闘を心底感激していた。その態度は傭兵時代からのブランクを全く感じさせない。


 どこまでも好戦的でタフな彼女は、実に頼もしい。けれど、やり過ぎないだろうかという僅かな不安を、ドロシーは感じずにはいられなかった。


《前哨戦という訳ですね。望むところです》


 対してイナミは冷静に、淡々と状況に順応していた。緊張も興奮も感じさせない姿勢は、安定した戦闘を期待できる。出過ぎる事も引き過ぎる事もなく、自分に与えられたポジションをしっかり遵守してくれるだろう。


《そーいうこった。空きっ腹には丁度良い前菜アペタイザーになるだろうぜ。満腹になんなよ、イナミ》


《大丈夫です! 夕食前の運動といきましょう!》


《……ちょっとは不満の解消になるだろうって話しなんだけど。ホントに腹減らしてどーすんだよ……》


 ズレてる。二人の会話は絶妙に噛み合わずに空振った。食事のことばかり考えていると、とうとう露見したイナミは『うぇあ!?』と間抜けな声を発し、アンリがそれをケラケラと笑った。


 イナミは自分の立場を遵守してくれる……筈だ。たぶん。戦場で妙な天然を発揮するのだけは止めて欲しい。本当に。


「じゃあ、行こっか皆! よろしくお願いします! ドロシー、乗って!」


 運転席から手招くアンリに導かれるまま、コンテナを降りたドロシーは助手席へ向かう。これから学校の責任者へ話しを通すために、運転まで手を回せないからだ。


 尤も、運転したがりのアンリがハンドルを握り締めたまま鼻息を荒げているのだから、役割分担はこれで良いだろう。ハイヒールまで脱いで、準備万端といった感じだった。


 トレーラーの荷重分は、車載AIによってコントロール制御されるため、どんな重量であってもバランスを崩して横転するなんて事は無い。トレーラーの運転経験があるとはいえ、アンリがA.U.G二機分もの重量を気にせずハンドルを握れるのはこの為だ。そもそも、そういった仕様が自動運転と組み合わさると、安全重視で速度を落としがちになるので、時間が惜しい今はどうしたってマニュアルでやるしかない。


 助手席に上がろうとタラップを前にして、ドロシーはふと立ち止まった。彼女の足を止めたのは、ずっと胸に秘めていた蟠りのせいだった。


 ──言わないままで済むのなら、いっそ隠し通していた方が良いと思っていたこと――オイガミ・イザヤが生きているという事実。それも、これから向かう学校に、彼は在籍している。


 トキオミから与えられた情報。それを、ドロシーは二ヶ月ばかり密かに調査していた。U.N.Sのネットワークから拾い出したと匂わせる彼の言葉を、事実かどうか判断するために。


 U.N.Sは批判の対象であるムーンチャイルドという負の遺産を、いっそ管理せずに放棄して、正誤入り雑じった広大な情報の海に葬り去るつもりだったのではないかと考えた。それを、たまたまトキオミが誤って掴んでしまっただけなのではないかと。


 それでもアライヴが示すデータを事実だと仮定して、あらゆる機関を捜査し続けた。ムーンチャイルドという問題を福祉の働きで支援し、社会にひっそり組み込もうとしている活動を見つけ出すのは難しくない。


 そして探り当てた――オイガミ・イザヤ本人であるというIDの発行履歴。そして、在籍する学校の記録を。


 そこがイスルギ重工によって支援されている学校だと突き止めた時、大きなショックを受けた。心の何処かでは生存を認めてはいても、まさかイスルギ・グループの内側に居るとまでは想ってもいなかったから。


 トキオミは正しかった。そして、自身が行った裏取りによって気付かされる──オイガミ・イザヤを関与させるなら、イスルギ重工の手が及ぶ範囲に置くだろう、と。


 トキオミは全てを知っていた。そして、知らん顔でオイガミ・イザヤの生存を伝えた。自分が土壇場で抜ければ、その穴に彼を組み込むだろうとまで先読みして。


 オイガミ・イザヤを再び月へ向かわせようとする動き。それが、一傭兵でしかないトキオミに、どんなメリットがあるというのだろう。アンリの過去を思いやって、あれこれ行動して回るような輩では無い筈だ。


 傭兵──多重契約というタブーを想像する。雇用主はイスルギ重工ではなく、他に本命がいるとしたら。


 信頼と職を一度に喪う禁じ手──もしもそうならば、確信となる証拠がいずれ発覚する筈だ。それを持って告発すれば、トキオミ・ナザレというオーグナイザーは二度と雇用されなくなるだろう。


 それすら意に介さないというのだろうか。A.U.Gのパイロットである経歴を捨て去ってまで従う存在──傭兵という立場以上の背景が彼にはある。


 トキオミ・ナザレを行動させた陰の意思──それが全てを仕組んでいる。


 ――何のために? ムーンチャイルドの所在を操作できるだけのパイプを持ち、オイガミ・イザヤを月に送り出そうとしている存在──その真意は何なのだろうか。


 それらに気付いた時、もう身動きは取れなくなっていた。アンリに打ち明けるための時間も、ヴェクターの襲撃という一大事によって奪われてしまったから。


 それも、よりによってオイガミ・イザヤが在籍している学校に――。


 ドロシーは確信を得るために学校へも赴いていた。どれだけ事実を強める資料を集めても、記録だけを信じることがどうしても出来なかった。アンリの心に刻み込まれた傷の痛みが、まだまだ続くだなんて思いたくなかったから。


 しかし──彼はそこに居た。確かに存在して生きていた。


 ──信じられなかった。死亡したとされていた青年が、同学年の子達と笑い、語り、恐るべき事にそこでもA.U.Gという呪縛に触れて、生きているなんて。


 悪い夢でも見ている気分だった。何が起きたにしろ、オイガミ・イザヤは確かに生きていて、彼という存在はそれでも尚、A.U.Gに縛られ続けている。


 恐怖を感じた。これが彼の運命だというのなら、終わりのない円環の中に居るも同然だ。オイガミ・イザヤという青年は、何度生まれ変わっても、戦うためだけに存在し、死に続ける――そんな気にさせられた。


 それが、アンリに告げるべきか迷い続ける足枷でもあった。少女が想いを寄せた少年の行き先には、地獄しかないんだと言える筈もない。


 ドロシーは誰にも打ち明けられず、独りで迷い、悩み、抱え込んだまま時間だけが過ぎていった。話せる可能性があった人物とすれば、トキオミしか居なかっただろう。


 けれど、彼はとっくに行方を眩ませていた。重すぎる難題だけを残し、煙みたいに消え去ってしまったあの男だけが、唯一ドロシーの苦しみを分かち合える存在だった。


 本当に──居ても居なくても腹立たしい想いをさせてくれる男だ。なのに──今は彼に無性に会いたかった。


 この苦悩を、のらりくらりと解消してくれるんじゃないか。そんな叶わない期待を、ドロシーは流れる月日の中で抱いていた。


 ──馬鹿馬鹿しい。ドロシーは不意に沸き立った想いを振り切る。そもそもとして、この案件を持ち出しておきながら、無責任に放っぽり出したのはあの男だ。問題だけ起こして知らん顔している奴に、助けを求めるなんてどうかしている。


 そう、アンリが関わっているからこそ、押し付けられたなんて微塵も思わずに尽力したのであって、あの男の代わりに頑張っている訳じゃない。全てはアンリのためだ。


 まず、あのロクデナシは、どうして自分から話そうとしなかったのか。アンリを傷付けてしまうのではないかと考えるような、ナイーブな人間じゃなかったくせに。


 繊細という言葉が人格面から腐り落ちているような奴だからこそ、掛けられる言葉もあった筈だ。時には無神経に、人の重荷をずり落ろす役割だって必要だろう。


 結局のところ、トキオミ・ナザレという人物は不明瞭で掴み所のない、いい加減なテキトー男に間違いなかった。そんな奴に何かを期待するなんて、その方が大馬鹿だ。


 ──やはり、アンリに全て話さなくちゃいけない。土壇場になって吹っ切れるなんて、愚かにも程があるけれど。


 過去という傷をほじり、再び血を流させてしまうかもと恐れるあまり、失態へと繋げてしまった。ヴェクターの襲撃が話す切っ掛けに成るなんて思いもしなかったけれど、ミスをこれ以上広げる訳にはいかない。


 ──死んだ筈の少年が生きている。乗り越えるべき過去が、形として目の前に現れる。


 その事実を、アンリはどう受け止めるだろうか――受け止めきれるだろうか。ドロシーの胸の内に、暗く重い不安感が滲む。


「……ドロシー? どうしたの?」


 不安げなアンリの声。返す言葉が詰まる。


 大切な時期だ。先代の責務を引き継いだ彼女は、それを全うできると今回のプロジェクトで社会に示さなければならない。そこに、思い悩ませるような事実を与えてしまって本当に良いのだろうか。


 何が正解なのだろう──ドロシーには解らない。受け止めるのは、一番傷ついているアンリ本人だ。いつも、いつだって、自分の関われない部分で彼女が傷付いていく。


 そして今、良き理解者であろうとする自分が、最も彼女を傷付けてしまうかもしれなかった。アンリの心だけでなく、守ると誓ったその両親すら裏切ってしまうかもしれない──。


 それでも――それでも踏み出さない限り、何も事態は進まない。現実を知らん顔していては、未来へは進めない。アンリと、その両親が目指していた遠い明日へは――。


「……アンリ、私はずっと貴女に黙っていた事があります。……本当に……こんな状況になるまで言い出せなかった自分が、情けなくて仕方ありません……それでも、私は貴女を支えると誓ったから……裏切りたくはないから……今、この場で告白します」


 デバイスの通信を切り、運転席側へ回って言葉を紡ぐ。アンリもそれに倣って、ヘッドマイクを外したのが心苦しかった。吸い込む息が重い。


 まるで肺に鉛を溜め込んでいく気分。もう充分過ぎるぐらい重苦しい胸は、詰まるあまりに張り裂けそうだった。


 それでも伝えなくてはいけない。アンリにこれ以上、事実を隠したくなかった。決断の連続を強いられる彼女と歩んでいくのなら、自分もまた、決断を躊躇したりしてはいけないから──。


「オイガミ・イザヤが……生きています。その理由は……一つとして得られませんでしたが……事実です。……以前、トキオミ・ナザレから渡されたU.N.Sのデータバンク情報を基に、私が個人で調査しました。彼は……生きています。私達がこれから向かう学校で……」


 強烈な疲労感があった。今までこんなに重い言葉を口にした事なんて無い。吐き出した分だけ楽になった胸の隙間に、心臓の激しい鼓動が痛いくらい響いていた。


「イザヤが……生きてる……」


 噛み締める様に呟いたアンリの言葉は、まるで現実感が無く、気抜けしていた。与えられた事実と、自分の内にある感情が重ならず、剥離しているみたいに。


 静かだった。トレーラーの周囲で、従業員が作業をしているのに、あらゆる音が遠かった。ゆったりとした空気の流れが、とてつもなく重い。アンリの胸中に渦巻く感情を不用意に触れないよう、呼吸すら無意識に抑えていた。


 イザヤと両親の死。今の彼女を形成したバックボーンの一端──それが生存している。


 その衝撃は他人にはとても計り知れなかった――最も身近にいるドロシーにすら。


 アンリは俯く。項垂れた髪の下で、その瞳はどんな色をしているのだろう。混乱と、非現実的な事実に挟まれ、脱力しきっていてもおかしくはなかった。ヴェクターと戦わなければいけない、最悪のタイミングで――。


「……アンリ……私は――」


「――イザヤ、生きてるんだ! 生きてるんだね! 良かったぁ!」


 ドロシーの絞り出すような声を掻き消しながら、アンリは『ヤッター!』両手を振り上げる──そして、ドアの縁へ拳を思い切りぶつけて呻いた。


 それは──気丈な振る舞いでも、空元気という訳でもない。普段通りの、アンリらしい素があった。


 面食らったドロシーが目を丸くして硬直する。周囲の遠ざかっていた音が少しずつ戻り、却ってちょっとばかり喧しいくらいだったと気付く。そして、自分が感じていた重荷をアンリが取り払ってくれたのだとも──。


「……ドロシー。私の代わりに、辛い想いをしてくれてたんだね。……私って駄目だね。自分が皆を引っ張ってるつもりでも、誰かに支えて貰っているんだって、ちゃんと気付けないんだから……」


 打ち付けた手を摩るアンリの顔には、自責の念があった。アンリはこういう子だ。自分の責任ではないのに、それに気付けなかった事を思い悩んで、他人の傷を受け持とうとする。


 その危うさを、ドロシーは理解していたのに、他ならない自分がそうさせてしまったのを悔やんだ。どうする事もできなかったけれど、最善という術が彼女に負担をかけてしまっていた。


「そんな事ありません。アンリは充分に配慮してくれています。貴女が責任を感じる必要なんて……無いんです」


 行き場の無い悔しさを口ごもる。どうしてアンリには穏やかな日々が続かないのか。何かが起こる度に、何かが彼女を傷付けようとする。


 アンリと視線を重ねた──そして気付かされる。その瞳にある輝きが、決して振り返って立ち止まったりしない力強さだと。


 アンリの人生に落とされた大きな影。ようやく抜け出た先で、再びのし掛かられたとしても、彼女はもう暗い部屋で蹲ったりしないだろう──ドロシーは、そう確信した。アンリの真っ直ぐな眼差しを真っ向から受けて──。


「ゴメンね、ありがとう……。私はもう悩んだりしないよ。ドロシーが想っていてくれた事、全部受け止めるから。イザヤが生きていてくれた事──それが私は嬉しくて、しょうがないんだから!」


 アンリは応えた。爛漫の笑顔で。悩んで、苦しんで、小さな蕾みたいに閉じきっていたあの少女はとっくに花開いていた。立ち止まらなかった時間だけ、歩き続けた日々だけ、成長していたのを実感する。


 ドロシーは心のどこかで、アンリが気丈に振る舞っているんじゃないかと、ずっと気の毒だった。いつか限界を迎えるんじゃないかと、不安になったのも少なくなかった。


 けれど、それは思いやるばかりの無理解だった。あまりにも身近過ぎて、何も見えてなかった。日常を共にした緩やかな変化は、かえって観念を固定化する過ちだった。


 思い過ごしだったなんて楽観はしないけれど、それでもアンリはただ守られる少女ではなくなっていた。自分という支えなんて必要無いくらい──立派にアンリは現実と向き合っている。


「月でイザヤが戦ってくれたから、今の私がいる。私は自分が関われない場面で、彼に助けられていたんだ。もう、私は同い年の男の子に寄り掛かるだけの子供じゃない。今度は私が──彼を守る番だね!」


 口にした決意。過去ばかりを振り返ったりしないと。見定めた未来に向かっていくためには、後悔なんかに足を引っ張られている場合じゃない。


 止まってなんかいられなかった。今よりも、きっとこの先にある未来は輝いているだろうから──。



 走れ。走り続けろ。止まった瞬間だけ脅威が迫る。


 校庭として扱われる滑走路を駆け抜けて、格納庫に着くまでどれだけ掛かるだろう。交通手段として普段使いしている四輪やバイクは仕舞っているし、一般向けの駐輪場は反対側だ。頼れるのは自分の足しかない。


 ツナギの胸ポケットでスマートデバイスが鳴動する。音声入力で回線を開き、スピーカー出力した声は、普段なら聞けもしない焦りに染まっていた。


《イザヤ君! 今、どこに居るの!?》


「ヒイラ! 皆と地下に逃げられたか!? 俺は今A.U.Gの格納庫に向かって走ってる!」


 イザヤの返答に、ヒイラが息を呑んだ。予想外――というよりも、可能性としてあった行動が的中して、むしろ驚きを隠しきれていない様子だった。


《そんな……君が、もう戦う必要なんて――》


 ヒイラが言葉を詰まらせる。そこには、どれだけの感情が押し込められているんだろうか。


 自分に代わってヒイラは苦心してくれている。それに気付かなかった訳じゃない。痛々しいくらい、彼が想ってくれているのをイザヤは知っている。


 こんな状況では尚更──それでも、イザヤが止まる訳にはいかなかった。


「戦えるのは俺だけだ! 人が殺されるかもしれないのに、黙ってなんかいられない! 俺がやらなくちゃいけないんだ!」


 ヒイラの気遣いを掻き消してまで、イザヤが訴えた。何もしないまま、ただ殺される瞬間を待つなんて出来ない。


 ヴェクターに無抵抗は通じない。虐殺の本能を抑えたりする生物では決してないから。


 ──迎え撃つ。一分一秒でも抵抗して、この事態を外部が対処してくれる迄の時間を稼ぐ。


 集団で攻め込んでくるヴェクターに対して、個人が処理出来る範囲は狭い。ましてや学校内に武器や弾丸なんて物が有る筈もなかった。


 それでも――奴等を倒す。倒さなくちゃいけない。一匹でも逃がしたりすれば、街で起こるのは虐殺だ。基地だった名残が、広大な敷地面積をバトルフィールドにしてくれたのは不幸中の幸いだった。


『君が戦う必要なんて』――。


 ヒイラの言葉を思い返す。確かにそれだって一つの答えかもしれない。


 月という前線から離れて、一人の学生になった自分に戦う責任なんて無い。皆と同じ様に地下シェルターで息を潜めたって、誰も責めたりしないのは判っている。


 けれど──それが出来なかった。傷付かないために、何もしないフリがどうしても出来なかった。


 生きる事と戦う事──その二つが同じだって、ムーンチャイルドである自分は知っていたから。


 ──自分の中の声が『往け』と叫んでいる。それは『此処でも逃げ出すなんて許さない』とも聴こえた。


 月から落ちた過去の自分が息づいて、今のオイガミ・イザヤという存在を衝き動かしている。


 だから、行かなくちゃいけない。過去の自分を見ないフリなんて出来ない。俺には俺の出来る事をする。そしてこれは、俺にしか出来ない事だ。


 もう逃げ出さない。月でやり残した分を──此処で戦う。戦わなくちゃいけない。誰も殺させないために──。


《……解ったよ。君は……そうするんだね。地球でも、月での日々と同じ様に……。だったら僕は――君のために全力でサポートする!》


 イザヤに同調したヒイラの決心。迫る脅威を前にして、彼もまたムーンチャイルドとして戦う選択をした。最悪の光景に立ち向かうために──。


《僕は管制室に潜る! 学校施設内のコントロールを支配下に置くから、君は何も考えずにひたすら格納庫へ走って!》


 かつての戦友──そして、友人という何よりも頼もしいバックアップ。緊迫した状況の中で、イザヤの頬が思わず緩んだ。


 独りで戦う訳じゃない──その安堵感が、この上なく嬉しかった。


「助かる! それとついでに窓ガラスをブチ割った映像も消しといてくれ! 必死こいた後で先生に怒られたくない!」


《呑気なこと言ってないで走って! 全速力だよ! 格納庫のロックはこっちで解除するから!》


 ヴィジュアル・グラスを着けて、ARコンソールを叩くヒイラが思い浮かぶ。自分のために力を貸してくれる友人は、どんな存在よりも心強い。


 自分はひたすら走るだけで良い――何も考えずにひたすら――。


「……! ちょっと待て! ヒイラ、まさかお前――!」


《! なに?》


 神妙な声音でイザヤが問い掛ける。その気付きは、強い意思でもって戦友に質さなければいけなかった。ヒイラが小さく唾を飲む音を聴く──。


「まさかお前――この状況でメイド服着たまんまか!?」


 ――スマートデバイスの向こう側で、引きつった呼吸音がした。それは一割の怒りと九割の呆れを溜め込んで、一息に吐き出される。


《──本っっ当に、馬っっっ鹿じゃないの!? この状況でその情報いる!?》


「いるよ! だってメチャクチャ空気読めてない人みたいじゃん! ダハハ! ウケる!」


《空気読めてないのどっちだよ!!》


 日常と何ら変わりない――寧ろ一層にふざけたやり取りをする二人に、これから戦うという緊張感は欠片もなかった。


 お互いの信頼がヴェクターに対しての恐怖を和らげているのか、それともムーンチャイルドとして戦闘に関わるのが日常として組み込まれていたせいか――ともかくとして、二人はヴェクターという脅威を決して恐れたりしていなかった。


「……それじゃ今度は空気を読んで、ちょっとばかりマジな話しをさせてくれ。……さっき、俺の過去がどうとか言う変わった奴に会った。これが、どういう意味なのか……俺には判らない。ただ──アイツは俺の知らない事を絶対に知っている。それを、後で訊き出したいんだ」


 僅かに呼吸を乱し、それでも走り続けながらイザヤは伝えた──自分の過去を知る誰かが此処に居る。見覚えの無いそいつは、確かにオイガミ・イザヤという存在の過去を知っていた。


《過去……? 君の――》


 ヒイラはどう言ったら良いのか、あぐねている様だった。記憶が曖昧だと言っていたイザヤに、何て返せば良いのか迷っているのだろう。


 その優しさをイザヤは信頼していた。だからこそ暗い陰りを帯び始めた過去の繋がりですら、ヒイラに託せた。他の誰でもない親友だけに──。


「それに──もしかしたら、この騒動の原因かもしれない。そいつはみたいだった」


《……え?》


 困惑の反応──無理もなかった。人類種の天敵である存在を呼べる人間なんて、有り得ない。


 イザヤ自身、口にしていながらまるで実感が無かった。けれど、そう考える他に、この状況を招いた切っ掛けは無い。偶然なんて言葉では、とても片付けられる状況じゃなかった。


「信じられない話だと思う。けど……俺はその男に『試してやる』と言われた。これから起こる事態は筋書きだって言ってるようなもんだ。ただ、理由は解らない。……ボサボサの目立つ金髪だから、すぐに見つけられると思う──シェルターを隠れ蓑にしているなら、カメラできっと追える筈だ。俺は……俺に何があったのか知りたい。ヒイラ、頼むよ」


 イザヤには、自分個人の問題をどうにかするという手立てが無かった。過去を知るには、あの青年から訊き出さなくちゃいけない 。なのに、彼を追う事すらヒイラに頼りきっている。


 無力だと痛感していた。自分の事すらままならないのは歯痒くて、ひたすらもどかしい。


 だから今は、せめて出来る事に全力を尽くしたかった。A.U.Gに乗り込んで戦う事が、唯一のそれだとイザヤは強く想っている。


 もしかしたら自分の出来る事を対価にして、ヒイラを巻き込んでいるのかもしれない。それも、月での日々を思い起こさせるような――そんな嫌な予感が胸の奥にあった。


 もし、そうなったりすれば、そこから先は独りで行く。行かなくちゃいけない。親友を自分の事情に巻き込んだりは出来ないから──。


 ヒイラには平和な日々の中に居て欲しかった。せっかく月から落ちれたっていうのに、此処でも同じような生き方を続けるなんて、あんまりだ。


 戦い続けるのは俺だけで良い。そうやって生きてきた。これからだって構いはしない。


 敵がいるのなら――までだ。あの青年が、仮にそうなのだとしても──。


《そんな……人がヴェクターを呼び寄せたっていうの? そんな事……》


「俺だって信じられないさ。でも、そいつは俺がヴェクターとやり合えるのを知っていた。だからこそ、『試してやる』なんて言葉を使ったんだ。俺が今も戦えるかを確かめるために──」


 ――そう。あの男は俺を戦わせたがっていた。A.U.Gに乗り込む自分の姿を見たがっていた。


 そうしなければならない状況。という明確な答えを、敵意としてあの青年は持っていた。


 拒否する権利のない思惑に、嵌められているという実感がある。けれど、それにイザヤは乗らなくちゃならなかった。誰も見殺しにしないために。


《……もしも本当にそうなら、絶対にマークしておかないといけない──カメラの映像は探しておく……。だから君は、余計な心配しないで集中して。……気を付けてね》


「あぁ、任せとけって! スゲー格好良いところ見せちゃうよ、俺!」


「……馬鹿」


 あえておどけて見せたイザヤに、呆れながら頷き返すヒイラの声。


『過去の中に君はいるんだね』――そう言いたげな陰りを感じつつ、イザヤは一瞬たりとも躊躇わずに走り続けた。


 広大な滑走路を横切って駆けるイザヤは、ちょうど巨大アンテナと格納庫の狭間に位置している。ようやく半分ほど走ったばかりなのに、足は水の中を掻いているみたいに重くなっていた。


 そして──そんな彼に対して敵は待ってくれたりしない。確実に、真っ直ぐに、その怪物はイザヤへと迫っていた。


 ──衝撃。──振動。鋼鉄の杭を打ち付けているみたいなヴェクターの足音。それを聴きながら横目に見たシルエットは、熱気にぼやけていながらも、明らかに異様な姿形をした四脚の怪物を映していた。


 ――ヴェクターα型。純白の装甲に、蜘蛛を彷彿させる平たい身体。口に位置する部分にはイソギンチャクみたいな触手が蠢いていて、そのビジュアルは多くの人に嫌悪感を与えるだろう。


 そのサイズは全高三メートル程度しかなく、十六メートル近いβ型に比べると威圧感はだいぶ薄い。けれど、小型故の大群を成すというシステムこそがα型の問題だった。


 β型なら単体、あるいはトゥループ群れとしても五体以下であるのに対し、α型は十体以上もの大群をスタンダードとして機能する。


 武装した人間で取り囲み、撃破したという記録はあるものの、実際にそんなケースは稀であって、A.U.Gを使用しない交戦は現実的じゃなかった。


 あるゆるタイプのヴェクターに対して、A.U.Gを使うのは推奨どころか鉄則とされている。それは、裏を返せばA.U.Gなら勝てるという意味にも繋がっていた。


 人間が持てる火力を遥かに凌駕する人型兵器。その戦闘力を持ってすればα型の撃破は容易い。例え、一切の重火器を装備していなくても、強靭な無機質の筋肉はそれだけで単純な暴力として機能する筈だ。


 決して賭けなんかじゃない。イザヤには勝てるという自信があった。古強者の機体と、ヒイラによって組まれたコンバット・アセンブリなら。


 ――異様な雄叫びと、粉塵の風が背中を抜けた。イザヤのすぐ後ろをヴェクターが駆けている。激震に足がもつれ、転倒しそうになるのを堪えながら、思わず振り返った。


 無機的でいながら、有機物にも見えるグロテスクな怪物の雪崩。純白の装甲がいっそうそんなイメージを強くさせる。あれに巻き込まれれば、とても人の形なんて保てないだろう。後に残るのは血溜まりとバラバラに飛び散った肉片だけだ。


 噴き出していた汗が、全て冷や汗に変わった。背筋まで凍り付きそうな恐怖。叫び声の一つでも溢せたらどれだけ楽だろう。


 でも、そんな事をすれば余計に体力を消耗するだけだと解っていた。立ち止まってしまう訳にはいかない──絶対に。


《――マズい……!》


 血の気が引いたヒイラの声。それが意味するのをイザヤも感じ取っていた。人類にとっての天敵が、傍にいる獲物を見過ごす筈がない。


 ――群れから外れた数体に追われている。のし掛かるようなプレッシャー。激震の足音は明らかに近付いている。機械的で淀みのない、冷たい殺意の音が。


 格納庫は既に開いている。シャッターの先で、鋼鉄の巨人が影の中に佇んでいるのが見えた。


 現状を打開する希望――それは陽炎の先で、恐ろしく遠くに感じられた。


《もう無理だよ! 逃げて!》


 叫び声に近いヒイラの訴え。格納庫に向かう前のカタパルトが僅かに起動し、地下に通じるメンテナンスハッチが開く。此処に逃げ込んで欲しいと、望んでいるのが痛いほど伝わった。


 イザヤはそれに一瞬だけ視線を向ける──けれど、決して飛び込もうとしなかった。


 彼は格納庫だけを見ている。真っ直ぐに。それ以外の選択は無いと──戦う意志を捨て去ったりしなかった。


! ヒイラ!」


 振り絞るように、イザヤが叫ぶ。その意図を咄嗟に理解するのは、イザヤ自身も不可能だと思った。けれど、応えて貰わなくちゃいけなかった。この戦いに勝つために。


 そして――ヒイラはそんな咄嗟の指示を、躊躇いもなく受け止めてくれた。バックアップに徹するムーンチャイルドの応答──格納庫が静かに閉じ始める。


 イザヤの意思をヒイラは解ってくれた。カタパルトのメンテナンスハッチは、通り過ぎている。もう後戻りは出来ない。


 すぐ後ろで、金属のひしゃげる音を聞いた。ハッチが砕かれたと判断するのは、振り向くまでもなかった。


 格納庫を真っ直ぐに捉える。シャッターは既に半分よりも下がっていた。それは今も狭まり、潜らなければならないほどの低い壁と成りつつある。


 ふと、太陽の熱を遮る影がイザヤを覆った。鋭く伸びたそれは、今にも振り落とされようとする――ヴェクターの足だ。


 無機質の冷たい一撃が空を裂く――その瞬間、イザヤは自身を放るみたいに、頭から前方へと飛び込んでいた。


 空振りしたヴェクターの足が滑走路を砕いて衝撃を響かせた。それはイザヤの全身に走り、骨まで軋ませる。


 それでもシャッターの僅かな隙間へ滑り込み、格納庫内に到達した。通り抜ける異物を検知したシャッターが緊急停止し、それはそのままヴェクターの突撃を防ぐ盾となって、盛大な音と共に歪む。


 勢い余ったままイザヤは格納庫の床を転がり、何度も身体を打ち付けた後で、ようやく起き上がった。全身に鈍痛がして、身体のあっちこっちがバラバラになった気分だ。がなければ、どこかしら骨折していたかもしれない。


 立ち上がって早々、ヴェクターの足がシャッターへ突き刺さる。徐々に引き裂かれていく金属は、叫び声に似た音を立てて、虫食いみたいな穴を何ヵ所も空けられていく──。


「クソッ!」


 悪態を口にしながらも、イザヤの動きは正確で素早い。ツナギのジッパーを一息に下ろし、着込んでいた蛇腹の装甲服姿――コネクティブル・ジャケットだけになると、立て掛けていたハーネスを右手に巻き付け、もう左手はA.U.Gの起動信号を打ち込んでいた。


 見えないコンソールを叩くみたいに踊る指先が送った信号は、A.U.Gのセンサーに受信され、規定のプログラムを実行する。


 胸部装甲が展開。コックピットブロックがせり出す。その下部からガイドレールが出現して、イザヤの前へ垂直に下ろされた。


 腕に巻き付けたハーネスのフックをガイドレールのリフトに取り付け、管理者コマンドで巻き上げを実行する。


〖ハーネスの取り付け状態を確認して下さい〗──そんな訴えかける警告ガイダンスも虚しく、イザヤの身体は急速で上昇していった。


 普段の学校生活なら怒鳴られるだろう危険行為。けれど──今は日常じゃない。命の危機が迫った非日常だ。安全を優先する暇なんて微塵もなかった。


 頂上部に到達し、ガイドレールから出現したタラップを踏んで、コックピットに乗り込む。シートの上に置かれたフルフェイス・ヘッドカムを被って正面を見据えると、シャッターはズタズタに引き裂かれていて、破られるのは秒読みの段階だった。


 ヘッドカム・アジャスト。


 オペレーションシステム・スタートアップ──身体に沿ってシートが展開し、コネクティブル・ジャケットの各部に神経伝達ケーブルが接続される──神経系システム・リンク開始。


 コックピットブロック格納。装甲部位閉塞。気密性の確保と同時に、ヘッドカムのモニターでインターフェースが起動する。


 エラーコード無し。全システム・オールグリーン──ゴーアヘッド。


 A.U.Gのアイカメラが通した最初の映像は、シャッターを突き破り、鋼鉄の爪を振り上げるヴェクターの姿だった──。


 ──激突。金属が激しくぶつかる衝撃音。強烈な一撃に、ひしゃげた金属片が中空に飛び散る――ヴェクターの装甲片が。


 ヴェクターが吹き飛ばされていた。集積回路を構築する液体を撒き散らしながら、天井で跳ね返り、その勢いのまま窓ガラスを破って枠にぶら下がる。


 膝立ちのまま、A.U.G――ムツキが振り上げた右拳は、金属繊維の強靭さとマシンパワーの単純な力強さでもって、格納庫の床を抉り取りながら、ヴェクターを殴り付けていた。


 ムツキ――起動ブート。アイカメラの周囲と、駆動部の隙間でエネルギーラインが迸る。軍人然とした人型兵器が、凄まじい戦闘意欲を持って立ち上がった。


 イザヤはマニュピレーター・グリップを握る感覚を何度も確かめる。A.U.Gのセンサー系から返されたフィードバックを、掌全体で味わうように。


 ――高揚。戦いの場にカムバックした実感が、胸の内から込み上げてくる。


 喜んでいるのか――俺は。否定したい脳と、興奮している心にイザヤ自身が戸惑った。


 あれほど苦しんだのに。恐いと逃げ出したかった筈なのに、どうしようもなくA.U.Gに乗って戦える自分を嬉しく思っていた。


 どれだけ月から離れても。どんなに月日を過ごしても。自分の居場所は戦いの中にしかない――そんな絶望感が沸き立ち、感情に揺すぶられて胸が苦しくなった。


 心拍の上昇。呼吸が乱れているとモニターが注意を表記する。精神安定のインジェクションを使用提案されたけれど、学業の備品に薬物なんて搭載されている筈もない。


 自制する精神が必要だった。孤独に、自分自身を制して、困惑を静めなくちゃいけなかった。


 足掻けば足掻くほど、戦いの記憶が断片的なフラッシュとして甦る。それは細やかな破片となって心に突き刺さり、血を流す。


 過去という痛み──傷痕。自分が通ってきた道にはそれしか残っていないのだろうか。生きるために心を殺し続ける日々へ、また戻ろうとしているんだろうか――。


 ――『イザヤは凄いね、格好良いよ』


 子供の頃に聞いた励まし。少女の声が、思い出の中で鮮やかに聴こえた。


 力を与え続けてくれた言葉。初恋の女の子がそう言ってくれた思い出だけで、小さな男の子だった自分は、どんな苦痛だって乗り越えられてきた。


 そうだ、傷痕だけじゃない。確かに自分には小さな幸せがあった。イスルギ・アンリという少女と出会えた事は、どんな苦しみにも勝る幸福だった。


 二度と会う事の無い少女との思い出。それに、イザヤは慰められ、再び励まされた。子供の頃と同じように。


 そうとも、俺は格好良いんだ。好きだった女の子にそう言われたんだから、間違いない。


 胸を張ってやる。俺の過去は苦しみだけなんかじゃないって。あの子が証明してくれたんだ。何も無かった人生の中で、アンリが与えてくれた初恋。それだけが自慢だった。


 否定のしようがない自分の中の真実。戦いを望み、嫌い、逃げ出したいと思っていながら求める矛盾した心を、彼女は受け止めてくれた。


 ──自分は壊れてなんかいない。そう留めてくれたのはアンリだ。死んだって良かった戦いを、生きる戦いに変えてくれたのは彼女だ。


 死ぬ訳にはいかない。その想いが、戦いに立ち向かう勇気になっていた。そしてそれは今、もう一度イザヤに与えられている。


 決して死ぬためなんかじゃない。生きるために戦うんだ。生きるためには、戦わなくちゃいけない。


 乗り越えるべき障害が目の前にいる。振り払わなくちゃいけない敵意が、溢れ返りそうなくらいの殺意が周囲に漂っていた。


 この全てを撃破し、生還しなくちゃいけない。穏やかな学校での日々へ。そして、巻き込まれた人々を昨日と同じ日常へ還すために――。


 それを壊すことなんて許されないし、許さない。ヴェクターという脅威は、絶対に排除しなくちゃいけなかった。


 誰も傷付けたりはさせない。殺させもしない。向けられた敵意の分だけ、相手になってやる──。


 純粋な闘争心だけがあった。怒りも憎しみも越えて、守るためには戦わなければいけないという意志だけがあった。


 過去の苦痛は、この瞬間のためにあった気すらする。そして、行き着いた此処を乗り越えるために、戦うという歩みを止めては行けなかった。


 ムツキ──ゴーアヘッド。

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