任務二日前・深夜
数哉は湯船に浸かり、水滴が滴り落ちる天井を何気なく見上げていた。
「なんなんだろうなぁ」
数時間前の出来事が嘘のような、ふわついた思考のまま、今日を終えようとしていた。
「夢じゃ、ないよな」
そう呟くと、数哉は湯の中で両腕を大きく伸ばし、首元まで深々と浸かって目を閉じた。
不意に、数哉の脳裏を、あの〈6〉という数字があしらわれたペンダントが過った。
同時に、そのペンダントを受け取った後の事が思い出された。
別室で受けた、〈6³〉についての説明。
〈6³〉にある研究部門の主任らしいのだが……。
どういうわけか、数哉はその神原の説明をすんなりと受け入れる事ができた。
やはり、自分が〈影滅〉をしているからだろうか。
「……
数哉はゆっくりと目を開けて呟くと、数時間前の説明を思い返した。
影滅者とは、自分のように〈影〉と対抗する力を使役する人間のこと。
そして、その影滅者を集めた極秘の公的機関……〈6³〉。
〈影〉とは、人間に危害を加える存在のことであり、一般的には、魔物、妖怪、悪魔などと呼ばれている。
そもそも、人間と〈影〉は同じ空間を共有しているが、存在している層がそれぞれ異なる。
そして、〈影〉と人間がお互いを認識できる窓のような層があり、それを〈リンク〉と呼んでいる。
〈影〉を認識するためには、自身の認識レベルをその〈リンク〉に合わせることが必要になる。
また、人間が持つ認識レベルを数値化したモノを〈m値〉と呼び、〈影〉を認識できる〈m値〉は数値で表すと〈666〉となる。
数値が〈666〉でなくても、微小の誤差であれば、〈影〉を認識することは可能。
そして、その〈m値〉は、〈影〉を認識できる値であるということから〈認識値〉と呼び、通称〈6³〉とも呼ぶ。
影滅者の集団である極秘の公的機関は、この通称からその名を取っていた。
「公的機関かぁ」
そう呟きながら数哉は風呂から出ると、タオルで身体を拭き、洗面所の端に置いておいたペンダントを手に取った。
よく見ると、あしらわれた〈6〉という数字の右上に、小さく〈3〉の数字が付いていた。
「細かいなぁ」
ペンダントを目の前に掲げ、まじまじと眺めると、これを自分に与えた老婆の事を思い出す。
一見、上品そうに見えたが、実際は言動がぶっきらぼうで高慢な印象。
おそらく、組織のトップに位置する人間なのであろう。
〈6³〉は影滅者の集まりであり、云わば、特殊な人間の集まりと言っても過言ではないだろう。
その中で、あの老婆はどれほどの力を持った存在なのか。
「俺のm値はどうなんだろう?」
説明をしてくれていた神原が、途中であの老婆に呼び出され、数哉はその時点で家へと帰されたということもあり、自身の〈m値〉を知ることが出来なかった。
そもそも、その〈m値〉を計測できるのかどうかも定かではなかった。
神原の説明で、人間には各々に〈m値〉の基準値というものがあり、その値は鍛練で変動させることが可能だと言っていた。
そして、人間の〈m値〉はあらゆる影響を受けやすく、状況や精神状態によって、大きく変動するらしい。
要するに、〈影〉を認識できるかどうかは、自身の〈m値〉を如何にして〈認識値〉に近付けるかということになる。
また、理論的に言えば、誰もが〈影〉を認識できるということになり、どうやら、〈6³〉にはそれを実現させる技術があるらしい。
「……影滅か」
数哉はタオルを腰に巻き、ペンダントを洗面所に置くと、そう呟いた。
神原の説明の中で、数哉が最も着目したこと。
それは、〈m値〉が〈認識値〉に近ければ近いほど、〈影〉を滅する力が強力になるということ。
「そもそもm値のm、って何だよ?」
数哉は洗面所から、そう独り言をいいながら居間へと向かった。
「それはね、メートルのmよ!」
「わぁっ?!」
数哉は突然の返答に軽く飛び退くと、外れ落ちそうになったタオルを押さえた。
「えっ?! ええっ?! 栄月さん?! ええぇーっ?!!」
居間の二人掛けソファの中央に腰掛ける美紅を見受け、数哉は驚愕の声を上げた。
「美紅でいいわよ」
美紅はそう言ってウインクをすると、数哉の体を舐めるように眺める。
「結構、いい身体してるねぇ。それに、傷だらけ……キミ。ずっと、一人で……」
「あ、ははは、服着ますね!」
美紅の言葉を遮るように、数哉はそそくさと隣の寝室へ入っていった。
「ふふっ! ……ところで、数哉くん? 何でメートルなのか、分かる?」
美紅は軽く笑って足を組むと、隣の部屋で着替える数哉に問い掛ける。
「あ、いえ! 分かりません! 説明してくれてた神原さんが途中で何処かに呼び出されちゃったんで!」
「だよね! どうせ、いつか分かる事だから教えてあげるよ! ……あ! ふふっ! おかえり~」
着替えを終えて居間に戻ってきた数哉に、美紅は組んだ足に頬杖を突いて微笑んだ。
「どうも……ただいま、です」
頭を掻きながらそう答えると、数哉は美紅と向かい合うように床に腰を下ろす。
「あっ、もう! こっちこっち。……こ・こ、ね?」
美紅は足を解き身体を横にずらしながら、開けたスペースをポンポンと叩いて、数哉にウインクをした。
「えっ?! あの、その……てゆーか! 栄月さん! 何でウチに居るんですかっ?!」
美紅の魅了から、数哉は我に返ると、そう問い質した。
「もうっ! ミ・ク。ふふっ! 別にいいでしょ? キミに興味がある。それでいいでしょ?」
「興味って。俺は、大した人間では」
「大したことあるよ。それより、早く座って? さっきの続き、聞きたいでしょ?」
「え? あ、はい。聞きたいです……では、失礼します」
数哉はおずおずとソファの隅へと腰掛けた。
「もぉ。まぁいいか……さて、と。なんで、m値のmがメートルなのか、だったわね?」
美紅は少し不服そうな溜息を吐くと、数哉を見据えながら、そう言った。
「はい、あの……メートルって、長さの単位の、ですよね?」
「そう! そのメートル! じゃあ、何でメートルなのか……その答えは、速度!」
「速度ですか?」
「そう、人間が影を認識できる速度からきてるの。そして、その速度は分速666メートル……いわゆる、認識値よ」
「分速666メートルですか……」
「時速にして、約40キロメートルね」
「そうですか……って、あれ? それだと、車とかに乗ってたら、誰でも影を認識できるんじゃないですか?」
数哉はそう言いながら、無意識に美紅との距離を詰める。
「ふふっ! 良い所に気が付いたね! 理論的に言えばそうなるよね。だけど、一般的にその速度で走れる車とかは製造されてないんだよねぇ……というか、その速度を維持できないように、どれも調整されてるの。秘密裏にね」
「なるほど。でも、自転車は? それに、自分の足で走ったりしたら?」
「自分の足で、って……数哉くん? 百メートルを9秒で走れる?」
美紅はそう言いながら、数哉の膝に手を置いた。
「……いえ」
「だよね? それに、走れたとしても、ほんの一瞬。その速度で走り続けられる人間はそうはいない。だけど、自転車はねぇ……まだ、ちょっと危険かも」
「ですよね! 自転車なら簡単にその速度で走れますよ」
「うーん。簡単ではないと思うけど、可能なんだよねぇ」
「そうですよ! 自分の足で走るよりは簡単です!」
「うん。だけど、〈6³〉の働きかけで法改正もされてきてるし、なにより、電動自転車が普及してきてるから、その点は大丈夫そうよ」
美紅はそう言って、数哉にウインクした。
「なるほど。やっぱり、公的機関、なんですね」
数哉はそう言うと、〈6³〉という組織が持つ力を改めて推し量った。
「……さて、帰ろうかなぁ?」
美紅はそう言って、数哉の顔を物欲しげな表情で覗き込んだ。
「え? あ! は、はい!」
数哉は美紅との距離が身体が密着する程に近い事に気付き、慌てて立ち上がった。
「ふふっ! あっ! そうそう、あのペンダント、ちゃんと身に着けててねっ! ……じゃあね~」
美紅は微笑み立ち上がると、数哉に手を振り、玄関へと向かった。
「……なんなんだろうなぁ……はぁ」
数哉は玄関のドアが閉まるのを見届けて、溜息混じりにそう呟いた。
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