衝撃混乱思い交錯
「電話しよう」
ベッドを出たボクはすぐにスマホを手に取った。和泉さんから頼まれた涓泉さんの情報収集。それなりに頑張ってそれなりの成果は得られたが、二度も尻を撫でられている。
説話外からの介入による粗筋変更は本には掲載されない。尻を撫でられた後にした涓泉さんへの質問と回答は書かれなかったはずだ。和泉さんがどれだけ涓泉について知り得たか、それを確かめておきたかった。
「やっぱりダメか」
今日くらいは電源を入れておいてくれるかと思ったが、いつもと同じメッセージ「おかけになった電話は……」が流れるだけだ。当然メールも意味がない。
「大学が始まるのはまだ一週間近く先だし、どうしよう、はうっ!」
突然、右尻をミミズが這いまわり始めた。いや、それに似た感覚に襲われた。
「こ、これは、もしや」
気持ち悪さと気持ち良さに耐えながら、パジャマのズボンとパンツを脱いで尻を鏡に映す。「駅前十時」と書かれている。和泉さんだ。どうやら十時に大学前駅へ来いと言いたいらしい。
「こ、こんなことにあの本を使うなんて。ボクの尻を何だと思っているんだ。いや、それよりも本なんか使わずガラケーの電源を入れておいてくれればいいんじゃないか。何を考えているんだ、まったく」
と言いつつも内心は喜び一杯である。昨日に続いて今日も和泉さんとデートなのだ。嬉しくないはずがない。平日に大学へ行く時と変わらぬ手早さで身支度を整えると、正月二日目の空の下へと繰り出した。
「いくら何でも早く来すぎたかな」
駅前には九時半に着いてしまった。浮かれていたとはいえ、考えなしの行動に反省である。和泉さんは時間厳守。遅れることはないが早く来ることもない。向こうが誘ったのだから少しは早く来るかもしれないが、それでも五分程度のものだろう。
「暇だし、調べてみるか」
涓泉さんが赤穂の浪士であることは分かった。問題は元禄十五年に吉良邸へ討ち入った四十七士の中に涓泉さんがいるかどうかだ。スマホで検索して討ち入った浪士の名を一人ずつ探していく。
「……いないみたいだな」
涓泉という文字は見当たらなかった。この名が本名である保証はない。だが涓泉さんの性格を考えると、たとえ説話の中であったとしても偽名を名乗るとは考えにくい。
「討ち入りに参加していないのなら、あまり心配することもないな」
ひとまず安心である。ついでに赤穂事件の詳細でも調べてみるかと再度検索していると、
「行くわよ」
いきなり声が掛かった。和泉さんだ。すぐに時計を見る。十時ジャスト。君は歩く日本標準時かと言いたくなる。
「あ、おはよう。昨日は楽しかったね」
「ボクの尻に字を書くな」と言いたくなる気持ちをぐっと抑え、一般的挨拶から始める。その程度の社交性はボクにも備わっているのだ。が、和泉さんは無視してスタスタと歩いていく。かなり機嫌が悪いようだ。
(まずいな。やっぱり尻を撫でられた後のボクの質問は本に書かれていなかったんだろうな。ここはしばらく様子を見よう)
和泉さんに連れられて入った店はお洒落カフェ。昨年のオープン時、光源次郎が萌美とのデートに使おうとした喫茶店だ。あの時の勘違いのおかげで大変な目に遭ったので、正直この店は好きではない。しかし和泉さんが有無を言わさず入店してしまったので、それに従うしかない。
「あなたどういうつもり」
席に着くなりこれである。やはり尻を撫でられた後のボクの努力は完全に無になってしまったようだ。
「えっと、その前にひとつ聞かせてくれるかな。あの説話はどんな風に書き換えられたんだい」
「万寿姫、乳母の更科、従者五郎丸の三人が鎌倉へ向かう。道中、更科が万寿に問い掛ける。万寿が俳句を詠む。自分語りをする。鎌倉に着く、そして……」
「ありがとう。そこまででいいよ。もしかして和泉さん、ボクが涓泉さんについて何も探ろうとしなかったことを怒っているのかな」
「そうよ。昨日お願いしたでしょう。涓泉さんについて詳しく調べてって。あなた、何もせずに歩いていただけじゃない。梵天さんやお横さんの方がよっぽど役に立ったわ」
「違うよ。ボクはちゃんと質問した。君が尻を撫でたりするからボクの質問が無効化されてしまったんだよ」
「尻なんか撫でていません。私が撫でたのは本です」
ボクらの置かれた状況を考えれば、本を撫でるのと尻を撫でるのは同義である。和泉さんの無意味な口答えに閉口しつつ、ボクは弁解を続ける。
「君が本を撫でたりしなければ、君の言葉を思い出して涓泉さんに質問できたかもしれないんだよ。そうすればボクの言葉だって本で読めたはずなんだ。和泉さんにだって責任の一端はあるよ」
「今、君の言葉を思い出して、って言ったわね。やはり忘れていたのね。思い出せたかどうか怪しいものだわ」
しまった。余計なことを言って墓穴を掘ってしまった。確かにあそこで尻を撫でられなければ、涓泉さんと会話することなく鎌倉に行ってしまったかもしれない。返す言葉をなくしたボクはぬるくなってきたコーヒーを口に含んで窓の外を見る。
「もういいわ。過ぎたことをあれこれ言っても始まらないし。それで、清右君は何を訊いてどんな答えが返ってきたの」
「えーっと、涓泉さんの世は元禄十五年」
「そんなの分かっているわよ。他には」
「他には、えーっと……何だったかな」
もうひとつ何か訊いたような気がするが、すぐには思い出せない。やってられないと言わんばかりのため息が和泉さんの口から漏れる。
「はあ、たったそれだけ? 役立たずもいいところじゃない。清右君に期待した私が愚かだったわ」
「待って、思い出した。涓泉さんの暦とボクらの暦は三日しか違わないんだって」
「三日しか違わない……早いの、遅いの」
「三日前が元旦だって言っていたから、向こうが進んでいるんだね。今日は一月二日だから、涓泉さんの世では一月五日のはず」
急に和泉さんが黙った。あまりにもどうでもいいような情報なので呆れて声も出ないのだろう。
「ま、まあ、これも取るに足りない話だよね」
「ううん、お手柄よ、それはかなり重要な情報だわ。ところで説話から出た後、涓泉さんについて何か調べた?」
「うん。ネットで調べてみたけど、涓泉さんは討ち入りには参加していないんだよね。歴史的に有名な人物でもないみたいだし、どうして和泉さんがそんなに気にするのか、ちょっと不思議なんだ」
「……情けない」
和泉さんが憐れむような目でボクを見ている。いつものことではあるが、今回はどんな落ち度があったのか皆目見当が付かない。もう一度調べ直してみたほうがよさそうだ。
ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出そうとすると、和泉さんが一冊の本を差し出した。題名は「史実に基づく赤穂事件」わざわざ持参してくれたようだ。
「その中の
「かやの、しげざね……」
本の目次を見てそれらしき名を探す。ページをめくってその項目を読む。
「こ、これって……」
正月気分は一遍に吹き飛んでしまった。知らなかった、では済まされない文章がそこにはあった。ボクは自分の無知を恥じた。同時に、何故和泉さんが涓泉さんに関心を持ったのか、その理由も理解できた。
涓泉は萱野重実の俳号。十三才から浅野家に仕え、元禄十四年に赤穂事件が起きた時は国許へ第一報を届けている。浅野家お取り潰しの後は摂津に移り、父が家老を務めていた大島家への仕官を勧められる。が、無念のうちに逝った君主への忠義と、仕官を望む父への孝行の板挟みになり、元禄十五年一月十四日、自刃して果てる。享年二十八。
「この大島家って……確かお横さんが言っていたよね。一番大事なのは大島家の娘だって。もしかしたら小町さんは……」
「そうよ。推測でしかないけれど、旗本、大島義也の娘と考えていいでしょうね。旗本の娘として小町さんは江戸に住んでいた。涓泉さんも中小姓として浅野家の江戸屋敷に仕えていた。二人の仲はその頃からずっと続いていたのだと思うわ。そして浅野家が改易されると涓泉さんは摂津に戻り、それを追って小町さんも江戸から摂津に移った……」
和泉さんの言葉を聞いてやり切れない気持ちで一杯になった。本当に助けが必要だったのはボクなんかじゃない、小町さんだったのだ。
「小町さん、現世では随分辛い立場にあったはずなのに、そんな素振りは全然見せなかった。いつも優しくて親切で笑顔で、ボクや他の人の心配ばかりして……」
小町さんが涓泉さんと夫婦になることを望んでいるのは痛いほど分かっていた。涓泉さんも本当はそれを望んでいるに違いない。けれども武士としての本分がそれを許さないのだ。説話の中でいつもそうだったように。
「それで清右君、これだけのことを知った今、あなたはどうするつもりなの」
「どうするって……そりゃ涓泉さんに自害を思い留まらせて、小町さんと夫婦になるようにしてあげたいよ。でもそれは無理だよ。お横さんも言っていただろう。どんなことをしたって歴史は変えられないって。ボクらにしてあげられることなんて何もないよ」
「じゃあ、このまま小町さんが不幸になるのを黙って見過ごすつもりなの。今の清右君の幸福は誰のおかげ? 私にために、清右君のために、あんなに親身になって心を砕いてくれた小町さんに何もしてあげないつもりなの」
「いや、小町さんには本当に感謝しているよ。でも歴史を変えるなんてこと……」
「分かっているわ。私だってそれが無理な話だってことくらい分かっている。でも、あの本を見て思ったのよ。月暦仏滅御伽物語。締め切りを過ぎてしまえば、読み手がどれだけ説話に介入しても書き換えられることはない。それは私たちの歴史も同じ。もう小町さんたちの物語の締め切りは過ぎている。今更私たちが介入したところで、私たちの歴史書が書き換わることはない。でも介入した事実は残るはず。だってそうでしょう。清右君の中には残っているのだもの。尻を撫でられ涓泉さんに質問した事実は、たとえ本に書かれなくても清右君の中に残っている。だったら歴史だって同じことが言えるはず。たとえ私たちの歴史書に残らなくても小町さんや涓泉さんの中には残るのよ。書き換えられた物語が」
驚いた。こんなに熱く語る和泉さんを見たのは初めてだった。そしてこんなに燃えるような情熱を感じたのもまた初めてだった。
梵天さんは言っていた。「和泉殿はそなたが考えているような冷たきおなごではないぞ。あれほど情け深く思い遣りのあるおなごは滅多におらぬ」そうだ、和泉さんにとって小町さんを救えないことは、きっと死ぬよりも辛いことなのだろう。
「そんな真剣な目で語られたら反論なんかできなくなるよ。それで和泉さんはボクにどうして欲しいんだい」
垂れ込めていた雨雲が切れて明るい光が差し込むように、和泉さんの顔が明るくなった。ボクも心なしか嬉しくなる。
「もちろん涓泉さんを説得して欲しいのよ。今回、私たちは運に助けられている。前回の歓迎の儀では仏滅は四日しかなかった。でも今回は五日、最後のチャンスが残されている。しかも小町さんたちの日付とは三日間だけのずれ。次回の仏滅は一月八日。向こうは一月十一日。涓泉さんが自害する三日前に最後の説話が開かれる」
確かにツイている。前回は下弦の月が過ぎてから持ち主になったので三週間足らずで満月になってしまった。しかし今回は満月の二日後から始めている。そのおかげで次の満月までに仏滅が五度回ってくるのだ。
「その運の良さに乗っかって、涓泉さんが翻意してくれるといいんだけど、あんまり自信ないなあ」
「梵天さんにも事情を話して協力してもらって。お横さんは前回涓泉さんに説教していたから、今回も頼りにできると思うわ」
「分かった。できるだけ努力してみるよ。あと、ひとつだけお願いがあるんだけど」
「何?」
「読んでいる最中に本を撫でたり抓ったり字を書いたりしないこと。ボクらの熱演をきちんと本で読んで欲しいから」
「了解。あ、今朝書いた文字、帰宅したらすぐ消すわ。心配しないで」
すっかり忘れていた。いきなり現実に引き戻されたような気がして可笑しくなる。ボクの笑顔に釣られたのか、和泉さんも笑みをこぼした。この笑顔を永遠に見ていたい、そして小町さんにも永遠に笑顔でいて欲しい、ボクはそう願わずにはいられなかった。たとえそれが叶わない願いだとしても。
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