第四仏滅 唐糸さうし

「参るぞ、清右殿」


 早々と旅装束を整えた女が二人、清右の前に立っている。若い娘は袖をまくって二の腕を見せ、年増女は左手の平を見せている。そこには『客』の文字。涓泉と梵天だ。


「ああ、この組み合わせで始まるのは木幡狐と同じですね。もしかしてボクはまた二人の従者ですか」

「うむ、従者の五郎丸じゃ。端役ばかりで済まぬのう。さりとてこれは新しき持ち主を持て成す歓迎の儀。重き役より軽き役の方が気も楽であろう。我らの芝居を存分に楽しまれるがよい」

「梵天殿、お喋りはほどほどにして早く出発いたそうではないか。此度は我らが動かねば話は進まぬ。清右殿、よろしいな」


 これまで説話の進行には無頓着だった涓泉にしては、珍しくヤル気になっている。それだけ重要な役なのかもしれないなと清右は思った。


「あ、はい。ボクは大丈夫ですよ。じゃあ行きましょうか」


 屋敷を出て街道を歩き出す三人。清右は晴れ晴れとした気分だった。ずっと頭を悩ませていた和泉と萌美の問題にようやく決着がついたのだ。これからは歓迎の儀を心行くまで楽しもう、と思ったところで重大なことに気が付いた。


「そうだ。まだこれが何の説話か分かっていなかったんだ。梵天さん、教えてくれませんか」

「涓泉殿は万寿まんじゅ姫、わしはその乳母の更科さらしな。向かう先は鎌倉。どうじゃ、これでもう分かるであろう」

「はい。唐糸からいと草子ですね」


 鎌倉が舞台と言われればこれが真っ先に思い浮かぶ。木曽義仲追討の命を出した頼朝に対し暗殺を企てる女房、唐糸。しかし露見して敢え無く牢に入れられてしまう。それを聞いた娘の万寿が乳母の更科と共に鎌倉へ行き、頼朝の前で見事な舞を披露。無事母を救い出すという孝行話である。


「小町殿の役は唐糸で間違いなかろうが、この説話はむしろ万寿が主役と言える。涓泉殿は大役であるな」

「これまで同様、虚心坦懐に務めるのみでござる」


 あれだけわがままを言っておいて虚心坦懐もないもんだ、と清右は思ったが、涓泉にとってはあれが虚心な振る舞いなのだろう。


「でも梵天さんが女の役って珍しいですね。初めて見たような気がするなあ」

「かつてはわしも女の役を多く務めておった。歳を取ったせいかもしれぬな。翁に娘の役は無理だと書が判断しているのであろう」


 口振りから察するに、梵天は書の持ち主となってから相当な年齢を重ねているようだ。温厚さも面倒見の良さもこの書によって培われたのかもしれない。


「ひえっ!」


 突然清右がおかしな声を上げて立ち止まった。連れの二人も立ち止まる。


「如何した、清右殿」

「い、いえ、別に。何でもありません」

「そうか。ならば参ろう」


 再び歩き出す二人、その後に従いながら清右はそっと右尻に手を当てた。誰かにやんわりと撫でられたような気がしたからだ。


(今のは間違いなく和泉さんだ。でもどうしてこんな所で……)


 その意味を考える清右。すぐに思い出した。昼間、日乃出神社で聞かされた和泉の頼み――涓泉さんについて詳しく調べてくれないかしら……


(そうだ、のんびりと歩いている場合じゃなかったんだ。涓泉さんに訊かなくっちゃ)


 清右は直ちに調査に乗り出した。


「あの涓泉さん、ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「構わぬ」

「えっと、何を訊こうかな……そうだ、ボクらの世では昨日が元旦だったんですよ。涓泉さんの世でも元旦でしたか」

「元日は三日前に終わった」

「あ、そうなんですね。因みに元号はなんですか。ボクらの世では平成っていうんですけど」

「元禄だ。今日は元禄十五年一月五日。何か気になることでもあるのか、清右殿」

「いえ、単なる好奇心です。ありがとうございました」


 涓泉の機嫌が悪くなってきたので、一旦質問を打ち切る清右。取り敢えず涓泉の生きている時代についての情報は手に入った。


(和泉さん、これで満足してくれないかなあ)


 しばらく無言で歩き続ける三人。再び清右が声を上げる。


「痛っ!」

「先程から如何された清右殿」

「い、いえ。気にしないでください、梵天さん」


 と答えるが今度は尻を抓られたのだ。和泉の催促に違いない。清右は思い出した。締め切りを過ぎた後の事象は本には記載されない。先程尻を撫でられて涓泉にした質問と回答は、和泉が読んでいる文章には反映されないのだ。この場面は黙々と鎌倉へ向かう三人の姿しか記述されていないはず。和泉は相当腹を立てているに違いない。だからこそ今度は本を抓って催促したのだ。


(本に書かれないとなると、現世に戻ってから直接話すしかないよな。和泉さんの怒りを静めるためにも、もっと情報を集めなておかなくちゃ)


 どのように涓泉に話し掛けようかと思案する清右。が、話好きの梵天が助け舟を出してくれた。


「此度は親孝行の説話。祖先を敬い父母に礼儀を尽くすは武士の本分。涓泉殿も現世ではさぞや孝行者なのであろう」

「父は存命ながら、母は既に亡くなっております」

「これは済まぬことを訊いたな。許せ」

「いえ」


 せっかくの助け舟もすぐ沈んでしまった。再び訪れた沈黙の中、黙々と先を急ぐ三人。次に和泉からどんな催促が来るかと清右は気が気ではない。ずっと尻に手を当てて歩いている。


(もうすぐ頼朝の館かあ。お横さんが出てくると涓泉さんの機嫌が悪くなるから、今のうちに色々訊いておきたいけど……)


 説話では信濃から鎌倉までの旅路であるが、これまで同様、半日もかからず到着する設定になっている。次第に焦りが募り始める清右。と、


短夜みじかよや百の夢路をかちはだし」


 次の助け舟を出してくれたのは涓泉本人である。迷わずその船に飛び乗る清右。


「涓泉さん、今、俳句を詠みましたよね。何か意味があるんですか」

「皮肉な話だと思ったのだ。親不孝な拙者に孝行娘の役をあてがうとはな。母上が逝かれたのは昨年のこと。が、拙者は葬式に出ておらぬ。母上の死を知っていながら素通りしたのだ」


 思ってもみなかった話を聞かされ返す言葉もない清右と梵天。涓泉の中で何かが弾けたのだろう、堰を切ったように話し始めた。


「登城していた者から急報が届いた時、江戸屋敷は騒然となった。直ちに国許へ大事を知らせるべく拙者と早水はやみ殿が選ばれ、その日のうちに江戸を発った。徒歩ならば二十日、飛脚でも十日はかかる道のり。我ら二人は四日で駆け抜けた。母上の死を知ったのはその道中。摂津に立ち寄った時、葬列に出くわしたのだ。『一目だけでも顔を見せてやれ』速水殿はそう言われた。だが一家の大事より御家の大事を重んずるのが家臣の務め。母上の棺に一礼しただけでその場を去った。それから百日後、この弔句をもってようやく母を弔うことができたのだ」


 清右は江戸時代にさほど詳しいわけではない。それでも涓泉の言葉と元禄十五年という元号を聞かされれば、思いつく出来事はひとつしかない。和泉が何を知りたかったのか、ようやく分かりかけてきた。


「あの、もしかして涓泉さんの国許は播磨国の赤穂ではないですか」

「そうだ」

「では、仕えていたのは浅野家……」


 涓泉が立ち止まった。怪訝な表情で清右を見詰めている。


「そうか。清右殿は後の世に生きているのであったな。我らの騒動はそなたたちの世にまでも伝えられているのか。面目なきことだ」


 間違いない、涓泉は赤穂の浪士の一人なのだ。これまで三度も顔を合わせていながら全く気付かなかった。自分の雑事ばかりにかまけて他人への気配りを忘れていた自分を清右は恥ずかしく思った。


「頼朝殿の館に着きますぞ」


 梵天が指し示す方を見ると立派な屋敷が待ち構えている。三人は中に入り、謁見の間へ通された。


「遅いよ!」


 頼朝はお横である。狼の皮を被った虎のような配役に三人は苦笑する。


「へえ~、万寿は涓泉かい。こりゃ好都合だね。ちょいと、唐糸、じゃなくて小町をここへ連れてきな」


 いつも威張っているが今回は特に威張っている。一番権力のある役なので仕方がない。ほどなくして唐糸役の小町が四人の前に姿を現した。


「お三方、遠いところをご苦労さまでした。清右様、和泉様とはどうなりましたか。仲直りされましたか」

「あ、はい。おかげさまで」


 小町はずっと気に掛けていてくれたのだろう。その心遣いは本当に有難いと清右は感じた。『客』の四人が揃ったところで初詣の出来事を簡単に話す。小町の笑顔は一層明るくなる。


「仲直りができて良かったですね。これに懲りて、言い寄る女には気を付けなさいませね、清右様」

「ふん、喉元過ぎればなんとやら。また痛い目に遭わなきゃいいけどね。さあ、説話を進めるよ」


 上段の間でお横がふんぞり返る。小町が恭しく頭を下げる。


「頼朝様、我が娘、万寿の働きにより命を救っていただき、まことにありがとうございます」

「早合点はおよしよ。あんたを牢から出しただけで、まだ舞も見せてもらってないんだからさ」

「ならばさっそく舞うと致そう。お横殿はさっさと終わらせたいのであろう。舞が終わり、小町殿が自由になればこの説話は終わる」


 立ち上がって扇子を取り出す涓泉。しかしお横が手を振ってそれを止める。


「いいよ。あんたの舞なんか見たくないからね」

「ならば何もせずとも小町殿を許すと申されるか」

「世の中それほど甘くないよ。元の説話にも書いてあるだろう。母の命に代らんと思いこれまで参りて候ぞや。此度の今様の御引出物には、母が命に自らを取りかえてたび給えってね。小町を助けて欲しいのならあんたの命を差し出しなよ、涓泉」


 お横が短刀を取り出した。唐糸が頼朝の寝首を掻こうとした「ちゃくい」という宝刀である。それを涓泉の前に置く。


「説話の中では万寿姫、だけどあんたは武士。これまで散々あたしにそう言ってきたよね。武士なら小町のために腹を切るくらい簡単だろう」

「お横さんっ! いくら何でもやり過ぎだよ。元の説話はそんな粗筋じゃないでしょう」


 清右は黙っていられなくなった。これまで涓泉は自分が武士であると言い張って、さんざんお横を怒らせている。その腹いせにこんな無理難題を押し付けてきたのだ。


「なんだよ、清右。心配はいらないさ。説話の中で命を落としたところで現世の体には傷跡ひとつ残らないんだからね」

「いや、わしも黙ってはおれぬ。涓泉殿を快く思っておらぬお横殿の気持ちは分かる。だが、説話の筋を変えてまで、その憂さを晴らそうとするのは間違っておる。お横殿らしくない遣り方ではないか」

「うるさいねえ、梵天。今のあたしはお横じゃない、頼朝なんだ。平気で義仲や義経を死に追いやった男なんだよ。娘の命のひとつやふたつ、奪ったところで痛くも痒くもないのさ。さあ、涓泉、どうする。このままじゃ説話は終わらないよ」

「雑作もないこと」


 涓泉が短刀を手に取った。女の身とあっては腹は切れぬ。鞘から抜いた刀身を白い首筋に当てた。少しの迷いもない所作を見せられ清右は体が震えそうになった。


「おやめください」


 涓泉の腕を小町が掴んだ。これまで一度も見せたことのない険しい表情で涓泉を見詰めている。


「涓泉様の命を犠牲にしてまで助かりたいとは思いません。あなた様が命を落とすなら私も後を追います」

「それでは話が違いすぎよう。助かるはずの二人が共に命を落としてしまっては、この説話、永遠に閉じなくなるやもしれぬ」

「構いませぬ。涓泉様と二人、永遠にこの説話の中で屍を晒し続けましょう」


 思わず顔を見合わせる梵天と清右。二人はそれでいいかもしれないが、屍と共に説話に閉じ込められる方はたまったものではない。


「小町殿……」


 涓泉の表情が幾分穏やかになった。小町の手が涓泉の手を優しく開き、握り締めていた短刀を奪い取る。険しかったお横の顔が緩んだ。


「ははは。分かったよ。説話が終わらないんじゃこっちが困っちまう。猿芝居はここまでにしておこうかね。ごほんっ、これ万寿よ、唐糸の露の命、そなたに取らせよう。共に手塚の里に戻るがよい」


 お横にしては珍しく芝居がかった言い方だった。良い役を与えられて少し気合いが入ったようである。ようやく頼朝から粗筋通りの返事がもらえた唐糸と万寿は、二人並んで深々と頭を下げた。


「やれやれ一時はどうなるかと思ったわい」


 梵天が額の汗を拭った。清右も緊張が解けて安堵の息を吐いた。


「涓泉、ひとついいかい」


 お横はまだ何か言い足りないようだ。小町を傍らに置いたまま涓泉がお横に向かう。


「構わぬ」

「あんたは躊躇なく小町のために命を捨てようとした。孝と忠の狭間で揺れているあんたが、何の迷いもなく命を捨てようとしたんだ。何故だか分かるかい。小町は生きているからだよ。命は生きている者のために使うもんさ。死んでいる者のために命を捨ててどうするのさ。あんたの結論はもう出ている。一番大事なのは大島家の娘だってね。あたしが言いたいのはそれだけさ」

「……余計なお世話でござる」

「そう言うと思ったよ」


 苦笑いをするお横。渋い顔の涓泉。しかし小町だけは違っていた。満開の桜のような笑顔でお横を見ている。そしてもう一度頭を下げると涓泉の腕を取って立ち上がった。


「これで私たち二人は自由の身。館を出ればこの説話も終わりましょう。清右様、梵天様、参りましょう」


 小町と涓泉が並んで謁見の間を出ていく。それに続こうとした清右はお横に止められた。


「二人だけで行かせておやり。あんたが行かなくてもあの二人が館を出れば、この説話は終わるんだからさ」


 お横は気を利かしているようだ。男勝りだが一応女、それくらいの気配りはできるようだ。


「ねえ、お横さん、涓泉さんって赤穂の浪士なんですよね」

「何だい、気付いちまったのかい。ああ、そうさ。柄にもなく説教しちまったよ。歴史は変えられない、それは分かっちゃいるけど黙ってられなかったんでね」

「はて、二人は何を話されておるのかな」


 戦国時代に生きる梵天は完全に蚊帳の外だ。


「あんたは知らなくていいんだよ。梵天」


 お横が適当にあしらう。そう、何も知らない方が良いことだってある。しかし自分はもう知ってしまった。あの二人が幸せになるにはどうすればいいのだろう、そんなことをぼんやりと考える清右であった。

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