第五仏滅 小町草紙
吹き抜けていくのは秋風のようだった。清右は古ぼけた庵の前に立ち、空を泳いでいく鰯雲を眺めていた。少し離れた場所からお横たちの会話が聞こえてくる。
「この説話……小町、あんたとこれを演じるのは初めてだけど、ひょっとして」
「はい。お察しの通りでございます。皆様、お世話になりました」
「そうかい。まあ、いつかこの日が来るとは思っていたけどね。梵天、あんたも気付いていたんだろう」
「うむ。これも仏の思し召しであろうな。小町殿、喜怒哀楽に彩られながらも愉快な日々であった」
「今となっては全てが良き思い出でございます」
「え~っと、皆さん、何を喋っているんですか」
三人の会話の意味が清右にはさっぱり分からない。涓泉も怪訝な表情をしているが、それとなく思い当たる節があるようだ。
「清右様、ご存じないのであれば後ほどお話いたしましょう。此度の説話は小町草紙。小町たる私が東国へ下り、
「小町草紙! じゃあ小町さん、最後に命を落としちゃうんですね。それは悲しいなあ」
「別に馬鹿正直にそこまでやる必要はないよ。死んだフリで十分さね」
「なんだ、よかった」
お横の言葉を聞いて一安心の清右。これまでも本来の粗筋から大きく外れて話を進めたことは何度かあったが、説話は全て終了した。死なずにそのフリをする程度なら、さしたる不都合もないのだろう。
「で、ボクは何の役かな、もしかして
「いや、それは拙者の役だ。はて清右殿は何であろうな」
首を傾げる涓泉。他の三人も同様に難しい顔をしている。
「小町が小町、涓泉が業平、あたしが小町の侍女、梵天が業平の従者、清右は……役無しだね」
「はあ?」
これには驚かざるを得ない清右である。歓迎されるはずの新しい書の持ち主に役がないとは、一体どのような了見かと招いた書を問い詰めたくなる。
「いいえ、役無しではございません。恐らく清右様はその他大勢の役なのでしょう。若い私に言い寄る公家様の役、年老いた私を嘲笑う
「なるほどね。ならさっそく小町に求婚しなよ、清右」
いきなりのお横の無茶振りである。和泉への告白すらままならなかった清右。求婚しろと言われてできるものではない。
「えっ、いや、突然言われても」
「私を和泉様と思えば
そう言われると小町が和泉に見えてくる。勇気を出して言葉を口にする。
「小町様、私の嫁になっていただけないでしょうか」
「お断りします」
粗筋通りとはいえ、滅多に見られない小町の完全拒絶である。一同大爆笑だ。清右もまた照れ臭そうに笑った。ここまでキッパリ言われるとかえって清々しい。
「断られても笑っていられるのならば、和泉様とはうまくやっているようですね」
「あ、はい。おかげさまで」
いつでも清右と和泉を気に掛けてくれる小町。二人の幸せのために尽力してくれる小町。その小町自身の幸せは間もなく失われてしまうのだ、涓泉の自刃という悲劇によって。それを思うと清右の胸は痛んだ。
「そういや、業平も求婚するんだったね。涓泉、あんたもお遣り。小町は未婚で絶世の美女。今度ばかりは武士というだけで断る理由はないだろ」
「そ、それはそうだが……」
「ならお遣りよ」
確かに断る理由はない。涓泉は小町の前に立った。が、すぐには言い出せないのだろう、唇を固く結んで小町を見詰めている。お横がにやにやし始めた。
「小町、涓泉にはこれまで散々冷たくされてきたんだからね。ここで仕返ししてやりな」
前回の説話で自分がしたことを、小町にもさせてやろうと思っているのだ。清右もまた遣り込められる涓泉の姿を期待して二人を眺めていた。
「こ、小町殿、拙者と夫婦になってくださらぬか」
「喜んで!」
「小町っ!」
予想外の返答を聞かされたお横が怒りを爆発させた。鬼のような形相になっている。
「何を嬉しそうに『喜んでっ!』なんて言ってるんだよ。ここは断る場面だろ。業平の求婚を受け入れちまったら、小町草紙の説話が台無しじゃないか」
「お横様もこれまで多くの説話を台無しにされました。ひとつくらい我儘を言わせてくださいませ」
これにはさすがのお横も反論できなかった。遣り込められたのは涓泉ではなくお横になってしまった。
「分かったよ。夫婦でも何でも小町の好きにしな。さあ、東下りを始めようか」
「あのう、老いた小町さんを嘲笑う都人の場面がまだですけど」
「そんな場面、清右だって遣りたかないだろ。飛ばすよ」
相変わらず好き勝手に話を進めるお横である。が、清右自身も同感なのでここは素直に従う。
五人は都を出て一面
「ねえ、お横さん。あの二人随分いい感じですよね」
「ああ、前回のあたしの説教が効いたんだろうね。涓泉も以前に比べると丸くなってきたし。きっと現世でも仲良くしているんじゃないのかい」
並んで歩く小町と涓泉。その後姿は本当に仲睦まじく見える。この幸福をずっと続けさせてあげたい。この説話の中だけでなく二人の現世でもずっと。
「お横さん、梵天さん、聞いてくれるかな。これは和泉さんの希望でもあるんだ。実は……」
前を行く二人に聞こえないように清右は小声で話した。梵天は事情を一切知らないので涓泉の自刃の説明もした。
「自分たちを結び付けてくれた小町さんを放っておけない、なんとしても幸せにしてあげたい、それが和泉さんの望み、そしてボクの望みでもあるんだ」
「なんたることじゃ……」
梵天が呻くように言った。困惑と悲しみが表情に滲み出ている。
「あの優しき小町殿にそのような運命が待ち構えておるとはのう。どうにかして救ってやりたいものじゃ」
「でしょう。だから二人も協力してよ。自刃なんかせず現世でも小町さんと夫婦になるように涓泉さんを説得するんだ。お横さんと梵天さんに言われれば、あの涓泉さんだって……」
「それはできぬ」
確固たる口調で梵天が言った。今度は清右が困惑の表情になる。
「どうしてですか、梵天さん。今、救ってあげたいって言ったじゃないですか」
「そうじゃ、救ってやりたい、その気持ちは変わらぬ。だが救ってはならぬのだ。運命が既に決まっておるのなら、それを変えるは摂理に反する。生きるが摂理なら死ぬも摂理。清右殿が行おうとしているのは死者を生き返らせようとするに等しい暴挙。そなたの世では三日後の涓泉は死んでおる。ならば生き返らせてはならぬのじゃ」
「で、でも……」
考えてもみなかった梵天の拒否。清右は縋りつくようにお横を見る。その表情はやはり冷たい。
「あたしも梵天と同じだよ。言っただろう、清右。歴史は変えられないってね。どんな言葉も行動も涓泉の自刃を止められやしないのさ。だからこそあたしは前回説教をしたんだ。そんなことしたって無駄だって分かっているからね」
「そんな……」
「和泉だって分かっているはずなんだ、無理だってことはね。なのに清右にそんな言付けするなんて、よほど小町に恩を感じているんだろうね」
膨らんでいた希望が萎んでいくのを清右は感じた。何をしても小町は救えない、その事実が清右を圧し潰そうとしているかのようだった。
「お三方、ここを終焉の地といたします。よろしいですね」
立ち止まった小町が声を上げている。最後の和歌をここで詠もうというのだろう。
「ああ、構わないよ。さっさとやっとくれ」
お横の返事を聞いて、小町が上の句を詠む。
「暮れごとに秋風吹けば朝な朝な」
続いて涓泉。
「おのれと言わじ薄の草むら」
小町が行き倒れ白骨転がる野に立った業平が、風に乗って聞こえてきた上の句に下の句を付ける、小町草紙最後の場面である。
「これでこの説話も終わりだね。清右、あんたの歓迎の儀もこれが最後なんだろう」
そう、これが最後の仏滅。四日後に満月が昇れば、本から名が消され持ち主としての資格を失う。しかし清右は終わらせたくなかった。こんな中途半端な気持ちではとても現世に帰れない。
「二人とも待って!」
清右は小町と涓泉の前に立った。二人は驚いて清右を見る。
「如何された、清右殿」
「聞いて。ボクは後の世の人間。だから涓泉さんと小町さんがどんな人で、これからどんなことが起きるか知っているんだ」
「清右、やめな!」
走り出そうとするお横。が、梵天がそれを止めた。
「清右殿の好きにさせてやろうではないか。無茶な物言いをするような御仁ではない」
梵天の右手がお横の腕を掴んでいる。お横は唇を噛み締めながらも、それを振り解こうとはしなかった。
「涓泉は俳号、本当の名は萱野重実、改易された浅野家の家臣。討ち入りの意思を持つ同士たちへの義理と、大島家への仕官を勧める父親への孝行の狭間で揺れている」
涓泉が無言で頷く。清右は続ける。
「そして小町さんは大島家の娘。涓泉さんを追って江戸から摂津へ出てきた。二人は江戸にいる時からの恋仲、そうですよね」
小町もまた恥ずかしそうに無言で頷く。清右は大きく息を吸うと、一気に言った。
「ボクは二人がどうなるか知っています。二人は夫婦になるんです。主君への忠義や親への孝行なんかより、もっと大切なことを涓泉さんは見つけたんです。それがボクらの歴史。ボクらの世の歴史書にはそう書かれているんです。だから二人は説話から出て現世に戻ったら、必ず夫婦になってください」
「清右……」
お横の口から息が漏れた。清右は嘘が下手だ。息が荒くなり、鼻の穴が開き、体が小刻みに震える。お横も梵天も、そして涓泉も小町も、清右の嘘は分かっていた。だが、誰もそれを言わなかった。
「ありがとう、清右様。よくぞ教えてくださいましたね。そのお言葉、肝に銘じておきます」
「清右殿、我らへのお心遣い、感謝いたす」
頭を下げる小町と涓泉。と、涓泉の口から発句が詠まれた。
「晴れゆくや日頃心の花曇り」
不意に空一面を覆っていた鰯雲が消え始めた。野には明るい日差しが戻り、澄み切った秋空が頭上に広がっている。
「これまで拙者の心にわだかまっていた思いは、この空のように晴れ渡った。もはや何の心残りもない。清右殿、改めて礼を言う」
「いえ、そんな。ボクも言いたいことが言えてスッキリしました。小町さん、この説話で今回の歓迎の儀は終わりです。でもすぐ和泉さんに本の持ち主になってもらって、次の歓迎の儀を開くつもりです。その時にはきっとまた小町さんと……」
「会えないよ。小町とはもう永遠に会えない」
いつの間にかお横が清右の隣に立っていた。不吉な言葉を聞かされ清右は声を荒らげる。
「会えないって、そんなはずないでしょう。和泉さんの時も前回のボクの時もそして今回も、小町さんは『客』として招かれている。だったら次も」
「いいえ、お横様の言葉はまことです。梵天様から聞いておりませんか。二十三話全てを演じた者は再び『客』として招かれることはないのです。そしてこの説話、小町草紙が、私に残されていた最後の説話」
「あっ……」
清右は思い出した。梵天と初めて会話をした時、確かにそう言われた。小町とはもう二度と会えない……清右の胸に悲しみが押し寄せてきた。
「こんなに急に別れがやって来るなんて。そうと知っていたら涓泉さんを押し退けてでも小町さんとお喋りしたのに。和泉さん、悲しむだろうなあ。小町さんのこと本当に気に掛けていたから」
「私も和泉様とお別れの挨拶ができず残念でございます。さりとてこれでよかったのでしょう。会えば悲しみは否応なしに募りますからね。これまで私は多くの説話で『客』を演じて参りました。ただこの説話、この小町草紙だけは一度も割り当てられることはなかったのです。今、その理由がようやく分かりました。清右様、書はあなたを待っていたのです。私にあなたを会わせるために、私と共に小町草紙を演じさせるために、あなたを待っていたのです。清右様に会えて、そのお言葉が聞けて、小町は幸せでした。やがて私も涓泉様も現世に戻りましょう。そこでどのような運命が待っていようと、小町の幸せが終わることはありません。清右様からいただいた幸せ、末永く守り通していくつもりです」
「小町さん……」
清右は胸が詰まった。自分はそんな大人物ではない、小町に対してどれほどのこともしていない、にもかかわらず小町に深く感謝されていることが嬉しかった。
「さあ、涓泉様、参りましょう」
小町と涓泉は手を繋ぐと、薄のなびく野を西方へと歩き始めた。夕日の逆光の中に二人の後姿が浮かび上がる。
「いつまでも閉じなければいいのに。この説話の中なら二人は永遠に別れることはない。ずっと小町と業平のままでいられるんだから」
「そうじゃな。されど説話は必ず閉じる。小町殿も涓泉殿もそして我らも現世に戻らねばならぬ。己の運命を生きるためにな」
遠ざかる二人は夕日の中へ消えていく。その姿は小町草紙の説話に描かれている通り、紛うことなき如意輪観音と十一面観音の化身として清右の目には映っていた。
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