第三仏滅 さいき

 和泉はこちらに背を向けていた。清右が呼び掛けても振り向かない。返事もしない。


「ああ、そうだ。あの日からずっとこうなんだ。学食でのランチも大学から駅への帰り道も、ボクはいつでも独りぼっち。講義室で会っても、廊下で擦れ違っても、ボクらは言葉ひとつ交わさない。あの本を手に入れる前の自分に戻ってしまったんだ」


 遠くから誰かが歩いてくる。光源次郎だ。和泉が声を上げた。嬉しそうな声。これまで一度も清右には聞かせてくれなかった喜びに満ちた声。


「そうだよね。君に相応しいのはボクなんかじゃない。最初から分かっていたんだ」


 二人は手を握り合うと歩き始めた。遠ざかっていく後姿。小さくなっていく声。それと同時に清右の名を呼ぶ声が次第に大きくなってくる。


「清右殿、清右殿!」

「誰だろう、ボクを呼ぶのは」

「清右様、お目覚めになってくださいまし!」

「目覚める? ボクは起きてるよ」

「いい加減にしな、清右。あんたが起きなきゃ話が終わらないんだよ」


 思いっ切り頬っぺたを引っぱたかれたような衝撃を感じ、両目を開ける清右。二人の男と一人の女が自分を見詰めている。どこかの座敷で眠っていたようだ。


「あ、あれ、ここは……ああ、そうか。説話の中に入ったのか」


 清右はぼんやりした頭で昨晩の自分を思い出した。和泉とは仲違いしたまま四日間を過ごし、かつてないほど落ち込んだ精神状態で仏滅の零時を迎えたのだ。


「一体いつの間に引き込まれたんだろう。全然覚えてないや」

「覚えてなくて当たり前だよ。最初から今までずっと寝ていたんだからね。丸一日経っても起きないから引っ叩いてやったら、ようやく目を覚ましやがった」

「説話の中で寝ていた! 丸一日も! 嘘でしょう」

「まことでございます。説話が始まった時、清右様は既に眠りに落ちておられました。しばらく待っておりましたがまったく目覚める気配がなく、已むを得ず馬に乗せてここまで運び、皆で目覚めるのを待っていたのです」


 姿は男だがこの喋り方は小町に違いない。言うまでもなく頬を引っ叩いた女はお横だ。


「歓迎の儀にて祝われるはずの持ち主が、眠ったまま書に引き込まれたのは初めてのこと。正直驚いたわい」


 僧の姿をしているのは梵天のようだ。清右は申し訳ない気持ちで一杯になった。


「迷惑かけてすみません。で、今回はどんな説話なんですか」

「さいきだよ。小町は主役の佐伯さいき。あたしゃその本妻。梵天は文を届ける僧、涓泉は、たぶん佐伯が惚れる女だろうね」

「で、ボクの役は?」

「ああ、あんたは佐伯の使いっ走りをする小僧のたけまつだね。まあ、居ても居なくても話が進む端役だけれど、眠ったままじゃ話が終わらないから、心を鬼にして引っ叩いたのさ」

「さいきかあ……」


 随分と皮肉な説話が選ばれたものだと清右は思った。今の自分の境遇にどことなく似ているからだ。


 豊前から京に出た佐伯は清水きよみずで美しい女に惚れ、好い仲になる。が、結局女を残して豊前に戻る。それを知った佐伯の妻が女を豊前に呼んだところ、余りに美しいので哀れに思い、身を引いて出家する。女も後を追って出家し、妻と女の両方に逃げられた佐伯も出家してしまう、という説話だ。


「でもどうして涓泉さん以外の皆がここにいるの? おかしくない」

「あんたが起きないから、待ちきれなくて集まったんだよ。清水にいるはずの涓泉もそのうち来るだろう」

「失礼する」


 お横が言い終わるや若い女が姿を現した。中へ入ると袖をまくり二の腕の『客』を見せる。涓泉だ。


「一日清水で待っておったが誰も来ぬ。この説話に引き込まれるのは二度目、佐伯殿の宿所は知っているので来てみたのだ。何故話を進めようとせぬ」

「ごめんなさい、ボクが寝ていたからです」


 恐縮する清右を尻目に事の次第を説明するお横と小町。涓泉も納得したようだ。


「ならば話を進めよう。清右殿の役はたけまつ、佐伯と私を引き合わせるのが務め。頼むぞ」

「あ、はい。えっと、すみませんが、ボクのあるじがあなたと是非話がしたいと言っています。一度会ってくれませんか」

「断る」


 いきなり話の進行が止まってしまった。お横が怒りだす。


「ちょいと、話を進めようと言ったのはあんただろ。断ったら話が進まないじゃないのさ」

「伴侶を持つ男とねんごろな仲になるなど、武士としてあるまじき振る舞い。断って当然だ」

「この説話の中では、あんたは武士じゃなくてただの女だ。いい加減に割り切りなよ」

「体は女でも心は武士。体と心を割ることなどできぬ」


 またも始まった涓泉とお横の言い合いである。頑ななまでの意地っ張り、その頑固さを清右は羨ましく感じた。涓泉の心の強さは欠点ではなく、むしろ誇れるのものだとさえ思った。


「涓泉さんは偉いな。どんな状況でも武士としての本分を忘れない。ボクとは大違いだ。中途半端で優柔不断でどっちつかずで。そしていつかこの説話の佐伯さんみたいに、大切な人を全て失ってしまうんだろうな」


 いつになく意気消沈している清右。お横も涓泉も言い合いをやめてしまった。さすがに様子が変だと気付いたのだ。


「清右様、現世で何かありましたか。説話に入ってもなかなか目覚めなかったのはそれが原因なのではないですか。もしよろしければお話しくださいまし」

「こ、小町さ~ん、ボクは、ボクは心底駄目人間なんだよお~」


 小町に優しい言葉を掛けられた清右は半泣きになりながら事の次第を語って聞かせた。恥も外聞もなく偽りも虚飾も取っ払ってありのままを話した。萌美の誘惑に負けて和泉との大切な約束を破った自分が如何に愚かだったか、清右自身も身に染みて分かっていたからだ。


「ま、そりゃ和泉でなくても愛想が尽きるだろうね」


 話が終わって最初に口を開いたのはお横だ。


「その萌美とかいう女もただの遊びなんだろう。二兎を追う者は一兎をも得ず。諦めな。この説話の佐伯同様、高野山にでも籠りなよ。そして一生女と縁を切って一人で生きていくんだね」

「そ、そんなあ~」


 相変わらず辛辣である。お横は半分楽しんでいるので適切な助言とは言えない。


「和泉殿に詫びるしかあるまい。それでも許してもらえぬとあらば、高野山に入ればよい。そして仏に一生を捧げるのじゃ」

「このままだと高野山に入ることになりそうです」


 梵天は僧だけあって出家に抵抗を感じていないようだ。恋愛関係の相談相手としては少々不適切である。


「くだらぬ。武士ともあろう者が女にかまけてどうする。高野山で修行のやり直しだ」

「いや、ボク武士じゃないし。あと三人共、高野山から離れてくれませんか」


 涓泉には最初から期待していない。心意気は立派だがとても真似できない生き様である。


「こうなるのではないかと危惧しておりました。これまで女には一切無縁の人生だっただけに、その反動が一気に出てしまったのでしょう。女に言い寄られれば男はそちらになびくもの。自然の摂理でございます」

「こ、小町さん、あなただけです。ボクのことを分かってくれるのは」

「ふん、小町は甘いね。せっかくあたしたちがお膳立てをして和泉との仲を取り持ってやったのに、自分でそれをブチ壊したんだよ。自業自得さね。放っときゃいいんだよ。清右にはいい薬さ」

「お横さん、それは本当に申し訳ないと思っています。反省しています。だから今回だけは許してください」


 浮気現場へいきなり女房に踏み込まれ、平身低頭する亭主のような姿である。情けないと思いながらも謝罪するより他にどうしようもない。


「ところで清右様、あなたはひとつ勘違いをなさっております。和泉様はあなたに愛想を尽かしてなどいません。それどころか此度の振る舞いは清右様を大事に思ってのこと」

「そんなはずないよ。和泉さんは光源次郎と一緒に食事をしていたんだよ。しかもボクの居場所が分かっているのをいいことに、その姿をわざわざ見せつけに来たんだよ。もうボクには幻滅して関心がなくなって嫌気が差して口を利くのも嫌になったに違いないよ」


 清右の自信喪失ぶりは小町の予想を超えていた。それは他の三人も同様だった。梵天もお横も涓泉も、救いようのない清右の愚かさに閉口してしまった。が、小町はまだ諦めてはいなかった。


「清右様、頭を冷やして考えてくださいまし。もし和泉様が清右様の不実を責めるおつもりなら、男を伴わず一人で清右様の前に現れたはずです。一人ならば『私は他の男には目もくれなかった、なのにあなたは他の女と仲良くしている。悪いのは全てあなたです』と非難できるでしょう。なのに和泉様は男を連れて現れたのです。何故だか分かりますか」

「だから、ボクに見せつけるために……」

「違います。清右様に謝って欲しくなかったからです。清右様と同じ罪を犯すことで、清右様が感じる罪の意識を少しでも和らげようとしたのです。私もあなたと同じことをしている。だからあなたも気にしないで欲しい、そう言いたかったのです」


 小町の言葉の意味がようやく分かりかけてきた。もしあの時和泉が一人で現れたら、自分の行為の醜さを今よりもっと強く感じたに違いない。しかし和泉は光源次郎を連れて現れた。清右と同じ行為をしている自身の姿を見せるために。それによって清右の後ろめたさは大きく軽減された。和泉が同じ罪を犯してくれたおかげで。


「あーあ、小町がみんな喋っちまったねえ。それは清右一人で気付かなきゃいけないことだったのにさ」

「お横殿の言う通りじゃ。清右殿、和泉殿はそなたが考えているような冷たきおなごではないぞ。あれほど情け深く思い遣りのあるおなごは滅多におらぬ」


 小町の説得、それに続くお横と梵天の言葉を聞いて、清右はようやく和泉の真意を理解できた。だが、その表情は暗いままだ。


「……分かったよ。やっと分かった。でも、もう遅いよ。分かったところでどうなるものでもない。以前と同じボクらに戻ることなんてできないよ」

「いいえ。和泉様は待っておられるのです。清右様はまだ全てをお話になってはいなのでしょう。ならば、今、ここで和泉様に語り掛けるのです」

「ここで? この説話の中で?」

「そうです。和泉様はこの説話を読んでおられるはず。新しく書き換えられる時、清右様の言葉が一字一句違わずに綴られるかどうかは分かりません。けれども気持ちは通じるはず。勇気を出して語り掛けるのです。あるいは和泉様がすぐに返事を書いてくれるやもしれません、清右様のお尻に」

「で、でも……」


 小町に励まされてもまだ躊躇している清右。お横がじれったそうに背中を叩く。


「何を愚図ってるのさ。ここにゃ和泉はいないんだよ。見えない相手に向かって喋るんだから気も楽だろ」

「左様。仏に慈悲を請うつもりで喋るがよい」


 梵天からも声を掛けられ清右は心を決めた。ピンと背筋を伸ばし、見えぬ和泉に向かって声を張り上げる。


「和泉さん、聞いて欲しいことがあるんだ……」


 それから清右は全てを正直に話した。ノートを萌美に貸したこと。盗み聞ぎをして恥ずかしい写真を撮られたこと。弱みを握られて仕方なく食事に付き合ったこと。


「六日前、木幡狐の報告をしている時に初詣の約束をしたよね。ボクにもう一度チャンスをくれるなら、その約束を果たさせてくれないかな。元日の朝十時、日乃出神社の鳥居で待っている」


 言い終わった清右は深い息を吐いた。腹の中にわだかまっていたものを全て吐き出した気分だった。と、尻に何かを感じた。


「こ、これは、もしかして和泉さんが……」


 書き換えらえた説話を読んで返事をくれたのかもしれない。歓喜の渦に包まれる清右。が、すぐに異常に気付いた。


「おかしいな、撫でられているのは右じゃなくて左の尻だぞ」


 振り向くとお横が立っていた。尻を撫でている。


「ちょっと、お横さん、なに勝手に人の尻を撫でているんですか」

「ははは、ばれちまったようだね」


 お横の手を払い除けてしばらく待つ清右。だが、右尻には何も伝わってこない。小町が少し沈んだ声で言う。


「和泉様からの返事はありませんか。残念です」

「いえ、返事なんかなくていいんです。ボクの気持ちを分かってもらえれば、それで十分。言いたいことを言ったら気分がスッキリしました」


 清右の顔には元気が戻っていた。その尻をお横がバシリと叩く。 


「よし、現世に戻ってもその調子で頑張りな。清右の件はこれで終わりだ。説話の続きをしようじゃないのさ。涓泉、いい加減に小町と懇ろな仲におなりよ」

「断る」


 ずっと黙っていた涓泉が口を開いたと思えばこの言葉である。清右の件が終わっても、こちらは一向に終わりが見えない。


「仕方ありませんね」


 次の瞬間、小町以外の誰もが我が目を疑った。小町がいきなり涓泉に抱き着いたからだ。この説話では小町は壮年の男、涓泉はか弱い女。呆気なく小町に抱きすくめられる。


「こ、これ止めぬか、小町殿」

「辛抱なさいませ、涓泉様。こうでもせねば話が進みませぬゆえ……さあ、これで佐伯と女は懇ろな仲になりました。後は三人が出家すればこの説話は終わります。さいき、多くの教訓を与えてくれる良き説話でございましたね」

「ふっ、二人の女に惑わされ結局どちらも失うとは、男として不甲斐ないにも程がある」

「そうでしょうか」


 抱き締めていた腕をようやく解いて、小町は涓泉と向き合った。二人の姿は演技ではなく本当に心通わせている男女のようにも見えた。


「二つの間で揺れているのは清右様だけではなく、涓泉様、あなたもそうなのではありませんか。主君への忠義、父への孝行、このままでは佐伯と同じくどちらも失うことになりましょう」


 涓泉の顔付きが変わった。初々しい娘には似つかわしくない厳しい表情だ。小町の言葉が相当堪えたのだろう。そのまま無言を押し通す涓泉に小町が言葉を重ねる。


「あの壁をご覧ください。もみじのように真っ赤な、木綿という虫が這っております。涓泉様の心にもあのように赤き炎が燃えているのではないのですか」


 それは謎かけのような言葉だった。涓泉はじっと壁を這う虫を見詰めながら、つぶやくように言った。


「秋風や隠元豆の杖のあと」

「ふっ、小町のやつ、心にも無いことを。本当は父への孝行を選んで欲しいんだろうにさ」


 お横に似合わぬ湿っぽい喋り方だった。先程から清右と梵天は完全に蚊帳の外だった。小町と涓泉の遣り取りもお横の言葉も、まるで意味が分からない。


「あ、あの、お横さん。二人は何について話しているんですか」

「なんだい、清右。あんた、あたしより後の世の人間なのに知らないのかい」

「はい、勉強不足ですみません」

「いいさ。知らなきゃ知らない方がいいんだよ。何をしたって歴史を変えることなんかできやしないんだからね」


 お横はそう言ったきりそっぽを向いてしまった。仕方なく梵天に話し掛ける。


「あのう、梵天さんは二人についてどれくらい知っているんですか」

「残念ながら多くは知らぬ。だが二人とも徳川の世の武家の生まれと聞いておる。武家ともなれば庶民にはない苦労を抱えておるのじゃろうな。地を進むのは隠元豆に似た杖の跡だけ。己の足跡は付いて来ぬ。涓泉殿は心だけが先走り最初の一歩すら踏み出せぬのであろう」

「小町、涓泉、逢引の続きは現世に戻ってからやっておくれ。そろそろ話を終わらせようじゃないか。本来なら梵天が涓泉のふみをあたしに届けるんだけど、目の前にいる相手に文もないもんだ。このまま三人で出家するよ。それでいいね、梵天」

「うむ。清右殿、此度もご苦労であった」


 本妻役のお横と女役の涓泉が座敷を出ていく。続いて佐伯役の小町。残された梵天と清右は立ち去った三人の言葉を反芻しながら、説話が終わるのを静かに待っていた。

 

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