偶然必然孤影悄然

 その朝、説話から目覚めたボクが最初にしたのは自分の右尻を鏡に映すことだった。


「うわ~、まだ字が残っているよ」


 お横さんが言っていた「この浮気者」の文字がくっきりと、しかも見事な変体仮名で浮き出ている。布で拭いても消えないだろうと思いつつ、一応努力はしてみる。


「やっぱり駄目か」


 和泉さんが本の文字を消してくれない限り、この字はずっと残り続けるのだろう。困ったものだ。


「そうだ、逆はどうなんだろう」


 ボクは水性のペンを取り出して「この浮気者」の横に「早く消して」と書いた。本と体は一心同体。本に書いた字が体に浮き出るのなら、体に書いた字も本に浮き出るはず。そう考えたのだ。


「時刻は七時を少し回ったところか。和泉さんがまだ本を見ていてくれるといいんだけど」


 今すぐ電話で確かめたいところではあるが、どうせ繋がらないのでやめておく。前回の仏滅同様、今日も昼休みに話し合うことにしよう。


 その日の昼休み、いつものようにランチを済ませた後、喫茶コーナーで顔を突き合わせるボクと和泉さん。


「今回の説話でも色々試させてもらったわ。まず……」

「ああ、待って。その話の前に訊きたいことがあるんだ」

「どうぞ」


 話を遮られても表情は変わらない。相変わらずクールだ。


「えっと、昨日の夕方、初めてボクに電話をかけてきたよね。何の用事だったの」


 萌美に弱みを握られる切っ掛けを作った昨日の電話。まさか和泉さんからだとは思わなくてすぐに切ってしまった。まずはこの件をはっきりさせておきたい。


「ああ、あれ。明日どうするか相談しようと思ったのよ」

「その後こちらからかけたけど、電源を切っていたよね。どうして」

「あなたが出なかったから、きっと忙しいのだと思って電話での相談はやめたの。どうせ今日会うのだし、一日くらい遅れてもどうってことないでしょう」


 腑に落ちない回答だった。なにしろこれまで一度も電話を使おうとしなかった和泉さんが初めてかけてきたのだ。一日遅れてもいいような用件でそんなことをするだろうか。


「訊きたいことはそれで終わり?」


 嘘なのか本当なのか和泉さんの表情からは読み取れない。だからと言って、これ以上質問を重ねても徒労に終わるだけだろう。この件はひとまず保留にして本題に移るとしよう。


「いや。もうひとつあるんだ。その、明日の件なんだけど急用ができちゃって。申し訳ないけど無かったことにしてくれないかな」


 前日でのキャンセル申し入れ。怒られるのは覚悟の上だ。だが今はランチの後で腹が膨れている状態。腹を立てようとしてもなかなか立てられないはず。何卒寛大なご処置をと祈りながら和泉さんの罵倒を待つ。


「そう、用事ができたのなら仕方ないわね。明日会うのはやめましょう」


 えっ、と驚きの声を上げそうになるくらいあっさりした返答だった。和泉さんにとっては、ボクが思っているほど重要なイベントではなかった、ということなのだろうか。


「ご、ごめんね。この埋め合わせはきっとするよ。そうだ、初詣はどうかな。次の仏滅は28日で大学は休みだろう。説話の報告も兼ねて大晦日の夜か元旦に会おうよ」

「そうね。大晦日は無理だけど元旦なら構わないわ」

「本当! じゃあ日乃出神社で一日の朝に」

「で、今回の説話の話だけれど、いくつか訊いていい」


 強引に話題を変えられてしまった。もっともボクにとってはその方が有難い。


「いいよ」

「説話にいる時、抓られるような痛みをお尻に感じなかった?」

「感じた。二度」

「一度目は酒を飲もうとした時よね。二度目はいつ?」

「小町さんと夫婦になることを承諾した時」

「その後、お尻に字が浮かび上がったはず。何て書かれていた?」

「えっと、……この浮気者……」


 この言葉はさすがに躊躇した。自分の口から自分の罪状を告白するようなものだからだ。が、和泉さんは追及の手を緩めない。


「その文字が浮かび出たお尻、『客』のみんなには見せた? 小町さんは見た?」


 これも答えるには恥ずかしい質問だ。が、ありのままに話す。そこまで聞いて和泉さんはようやく満足したようだ。


「思った通りだわ。説話に入っている時でも一心同体効果は持ち主に及ぶのね」

「じゃあ、あれはやっぱり和泉さんの仕業だったんだね」

「そんなの説明するまでもないでしょう。私以外に誰ができるというの。ただね、不思議なことに書き換えられた説話には、あなたが痛がったこともお尻に字が浮き出たことも、それを見て驚いたであろう他の『客』の反応も、一切書かれていないのよ。だからあなたの話を聞くまでは、一心同体効果は説話の中までは及ばないのかと思っていた。でもそれは違う、及んでいる、なのに本には書かれていない……」


 和泉さんは遠くを見詰めている。納得できる理由を考えているのだろう。ふと、ボクは梵天さんの話を思い出した。現世で和泉さんと同じ実験をした梵天さん。それをまだ話していない。


「和泉さん、実は……」


 梵天さんから聞いた話をする。ずっと本に触れていたのに、説話の中の持ち主がそれを感じたのは一度だけだったこと。そして書き換えられた文章の現れ方の違い。聞き終わった和泉さんの顔が心なしか明るくなった。


「なんとなく分かったわ。これは仮説にすぎないけど、きっと締め切りを過ぎてしまった現象は新しく掲載されることがないのよ」

「締め切り?」


 また突拍子もない単語を持ち出してきたものだ。あの本の中には内容を書き換えている作家の精霊の他に、締め切りを管理する編集者の精霊まで住んでいるとでもいうのだろうか。


「あの、もう少し分かりやすく説明してくれないかな」

「あの本の力が時の経過と共に弱まっているのは間違いないわ。梵天さんの時代には文章の書き換えは一瞬で終わった、それなのに今は綴り終わるまで一時間はかかるのだもの。綴られていく様子を見ながら私は本を抓ったり、字を書いたりした。でも、それは反映されない。なぜなら書き換えが始まった時点で本に載る内容が決まっているからよ。締め切りとは、つまり書き換えが始まる時刻のこと。それ以降の現象はもう載らないのよ」


 少しもやもやするが納得できない理由付けでもない。綴っている最中に話の内容が変わり、そのたびに書き換えなければならないとしたら、いつまで経っても書き換えが終了しない。それを避けるために一旦脱稿したら、以後どのような変化があろうと本には反映されないのだろう。


「なるほどね。まあ、何にしてもボクの恥ずかしい場面が載らなくてホッとしたよ。今頃言うのもなんだけどさ、実験ならもう少しお手柔らかにお願いしたかったなあ。抓るんじゃなくて撫でるとか、浮気者なんて言葉じゃなくて、もっと……」

「あら、だって小町さんと夫婦になろうとしていたでしょう。浮気者がピッタリの言葉じゃない。それとも、そう言われて困るようなことが清右君にはあるの?」


 しまった。完全に藪蛇だった。実際困ることがあるのだから困ってしまう。もちろん正直に白状するほど正直者ではない。


「こ、困ることなんかないよ。あるわけないじゃないか。ボクくらいモテない男もそうそういないからね。あ、そうだ忘れていた。今朝、尻に『早く消して』って書いたんだよ。写本にその字が浮かび上がってこなかったかな」

「ああ、それは無意味な行為だわ」


 よし、うまく話題を切り替えられた。和泉さんは少しも不審感を抱いていないようだ。


「以前、私も試してみたことがあるのよ。本の字が体に浮き出るのなら、体の字も本に浮き出るかも、と思ってね。期待外れの結果に終わったわ」

「そうなんだ。一心同体効果は一方通行なんだね」

「ええ。でも考えてみれば当たり前よ。お風呂に入って体が濡れたり、何かで汚れたり、どこかにぶつけたりして、それが全て本に及んだとしたら、どれほど頑丈だったとしても今の時代まで原形を留められるはずがないでしょう。あれは本からの警告なのよ。今、擦られている、叩かれている、字を書かれている、持ち主よ、助けておくれ、という合図のようなもの。逆に持ち主の体に何かあっても本は全然困らない。だから反映されないのよ」


 室町時代に書かれたと思われる奇書、月暦仏滅御伽物語。五百年以上もの間、朽ちることなく多くの持ち主に引き継がれてきた長持ちの秘密は、この一心同体効果にあったのかと今更ながらに感心する。


「分かった。ボクが書いた字は消しておくよ。和泉さんも本に書いた文字は消しておいてね。あれじゃ人前に尻を出せないから」

「了解。さあ、今日はこれくらいにしておきましょう。明日の夜が楽しい時間になればいいわね、清右君」


 一瞬、ギクリとした。楽しい時間……まさか感付いている? いや、そんなはずがない。気付かれるようなことは何もしていないのだから。そう心の中で否定しながら、和泉さんの姿が見えなくなっても、なかなか席を立てないボクだった。


 * * *


 翌日の夜、約束通り、ボクは萌美と夕食を共にした。ホテルのディナーなんて初めての体験。最初から最後まで緊張し通しで、どんな料理をどんな作法で食べたのかさっぱり覚えていない。


「ホラホラ渋川先輩、リラックス、リラックス」


 萌美は慣れているのだろう。まるで学食でランチを食べているような気軽さで料理を味わっていた。食事を終え、駅へ向かう道を歩いている時も萌美は陽気だ。


「あ~、今日は楽しかった。先輩も楽しかったでしょう」

「え、うん。それなりに」

「もう、あたしと一緒に食事をして楽しくないはずがないのに。もっと素直になってくださいよ」


 そう、楽しかった。明るく、冗談が好きで、よく笑う萌美。和泉さんとは正反対だ。こんな女子と食事ができて楽しくないはずがない。だが、心底そうなのかと問われれば、躊躇なく頷くこともできないのだ。


「でもお、このまま帰るには物足りない感じ。渋川先輩、どこかでお酒でも飲みませんか」


 いきなりトンデモナイことを言い出され肝が潰れそうになる。あれだけの御馳走を堪能しておきながら、まだ満足できないのか。


「いや、ボクはそんな気分にはなれないよ。それに酒を飲むって、君、未成年だろ。飲んじゃ駄目だよ」

「お堅いなあ。私、四月生まれだから四捨五入すれば二十歳。だから飲んでもいいんでーす!」


 既に酔っているんじゃないかと疑いたくなるはしゃぎっぷりだ。こちらとしては二次会まで行く気は毛頭ないのだが、もしきっぱり拒否して、


「え~、冷たいですねえ。あの写真、和泉先輩に見せてもいいんですか」


 などと言われると非常に困る。ここは適当な理由をでっち上げて早々に家路を急ぎたいものだ。


「あ、お金の心配は無用ですよ。安くてたくさん飲める店を知っていますから」


 おいおい、どうして知っているんだよ、未成年だろ。それに安くてたくさん飲めるって、それはオヤジの愚痴が飛び交う居酒屋じゃないのか。せっかくのホテルのディナー気分が台無しだよ。


「付き合ってくれますよね、渋川先輩」


 困った、どんな理由をでっち上げてこの場を乗り切ろうか……と考えを巡らしている時、思い掛けない声が背後から聞こえてきた。


「おや、萌美じゃないか」

「あっ、光君!」


 何という偶然。まさか光源次郎とこんな場所で遭遇するとは。丁度いい、こいつに萌美を押し付けて退散することにしよう。既に駆け出していた萌美を追うべく、ボクも後ろを振り向いた。


「えっ……」


 信じられない光景だった、いや、信じたくない光景だった。光源次郎は一人ではなかった。隣には女性がいた。ボクの知っている女性、昨日、ボクと一緒に喫茶コーナーで話をしていた女性、和泉さんだ。


「どうしたんだい、こんな所で、えっと、君は確か渋川君だったよね」

「そうよ~。講義ノートを貸してもらったお礼に食事をご馳走していたの」


 見事なまでの嘘。しかしボクにとっては有難い嘘だ。これなら光源次郎も和泉さんも納得してくれるだろう。


「へえ~、渋川君、結構面倒見がいいじゃないか」

「あれ、光君の横にいるのは和泉先輩ですよね。はは~ん、さては撚りが戻っちゃったのかな」

「いやいや、今晩彼女と食事の約束をしていた相手がドタキャンしたらしくてね。手数料払って予約を取り消すくらいならって、僕を誘ってくれたのさ。その帰りだよ。こんな美女との約束を蔑ろにするなんて、男の風上にも置けないヤツだよな」


 息が止まりそうなった。予約……そんな話は聞いていない。まさか和泉さんが今日のイベントをそこまで大事に思っていてくれたなんて……


「あ、光君、もう用が済んだのなら二次会に行かない。渋川先輩、用事があるらしくて付き合えないって言われちゃったから」

「ああ、いいよ。和泉、君はどうする」

「私は帰るわ。少し疲れたから」

「はーい、では光君。二人でクリスマスイブイブの夜を盛り上がりましょうー!」


 萌美と光源次郎は仲良く腕を組んで街の雑踏に消えていく。和泉さんはまだそこにいる。立ち去ろうともせず、話し掛けようともせず、ボクの前にたたずんでいる。後悔の念に苦しみながら絞り出すような声を出す。


「予約のこと、話してくれればよかったのに……どうして教えてくれなかったんだい」

「もし話したら、あなたは私に付き合ってくれた?」


 頷けなかった。萌美との約束は絶対に破れない。話してくれていたとしても結果は同じだったろう。


「謝るよ。ごめん。萌美さんの都合でどうしても今日にしてくれって言われて。彼女とは本当にそれだけの付き合いだから……」

「あら、そうかしら」


 和泉さんが何か取り出した。スマホのようだ。


「十五日、私たちが本を持ち寄った日の夕方、清右君は図書館の喫茶店にいた。二十一日、私が電話をした日も同じ場所にいた。しかも電話には出てくれなかった。そして今日、二十三日、朋美さんと一緒にここにいた」

「なぜ、それを……」


 まさか、尾行されていた? いやあり得ない。そんなはずがない。絶句するボクを哀れむように和泉さんは静かに言った。


「気が付かなかったの? あなたのスマホ、位置情報共有アプリが入っているのよ。時間無制限でそれをオンにさせてもらったわ。私の電話番号を教えてあげた時にね」

「あっ……」


 思い出した。十二月の初め、電話番号を教えるからと言われて、スマホを和泉さんに貸したのだ。妙に長い間操作しているからおかしいとは思っていたが、まさかそんなことをしていたとは……


「じゃ、じゃあ、もしかして今日、ここで会ったのも偶然じゃなくて」

「そうよ。清右君の居場所はずっと分かっていた。あなたに会うためにわざとここへ来たのよ」

「ひ、酷いじゃないか。いくら和泉さんだからって、やっていいことと悪いことがあるんじゃないのかい。どうしてこんなことを」

「そうね、その点に関しては謝るわ。でも清右君、あなたはどうなの。自分は悪くない、微塵も後ろめたい気持ちはない、そう言い切れる?」

「……」


 何も言えなかった。そうだ、今のボクに和泉さんを責める資格があるだろうか。彼女の気持ちを少しも考えていなかった、今日を楽しみにしていたことも、予約をしていてくれたことも、何も分かっていなかったこのボクに……


「ごめん……」

「謝る必要はないわ。萌美さんがあなたに接触を持ち始めた時から、こうなることは分かっていたのだもの。それを確かめたくてあなたのスマホを操作した。そして私の思った通りになった。当然よね。彼女は私とは正反対。私と過ごすよりも何倍も楽しい時を彼女と過ごせたのでしょう。だから私の約束を破ってまで、今日、彼女と会った」

「いや、それは……」


 違うと言いたかった。弱みを握られて仕方なく付き合った、そう言いたかった。が、今ここでそんな言い訳をしてどうなるだろう。証拠は何一つないのだ。苦し紛れの見っともない弁解と思われるだけだ。


「……すまなかった。予約の費用、半分負担させてくれないか」


 和泉さんの表情があからさまに曇った。聞きたい言葉を聞けない、そんなもどかしさが感じられた。


「何に対して謝罪しているの。用事があるのなら約束を守れなくても仕方がないでしょう。萌美さんと一緒にいる方が楽しいのならそちらを優先しても仕方がないでしょう。あなたが謝る必要なんてどこにもないわ。現に私だって光君と楽しい時間を過ごしたのよ。だからと言ってあなたに謝ろうとは思わない。この国では恋愛は自由。一度に何人と付き合ったとしても、それを罰する法律も条例もない、そうでしょう。私のことなんて構わずに清右君は自分の好きなようにすればいいのよ」


 終わった、とボクは思った。和泉さんは完全に愛想を尽かしてしまったようだ。もはや何の反論もできずに立ち尽くすボクへ和泉さんから引導が渡される。


「私たち、しばらく会わないでおきましょう。説話の報告は必要ないわ。書き換えられた文章を読めば分かるから。さようなら」


 必要事項だけを述べて和泉さんは去っていく。全てを台無しにしてしまった自分を呪いながら、ボクは暗雲に覆われて星一つ見えない空を見上げていた。

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