第二仏滅 木幡狐
清右は桜吹雪の中にいた。春の風を受けて桜が散っていく。現世では十二月だったがこの説話の中は春なのだろう。場所も時も超越する奇書の力に、清右はしばし夢見心地になっていた。
「もしや、清右殿か」
声を掛けられて振り向けば、
「はい、そうですが。あ、もしかして梵天さんですか」
初老の男が左手の平を見せた。続いて若い男も右の二の腕を見せる。そこには『客』の字が浮かび上がっていた。梵天と涓泉だ。そして二人の男はそのままの姿勢で清右を見ている、次はそちらの番だとでも言うように。清右は気付いた。前回、この二人には『客』の字を見せていなかったのだ。
「えっと、ボクの『客』は、実はお尻にありまして……」
「なんと左様であったか。ならば見せずともよい。そなたが清右殿であることはその口ぶりから分かる。此度は我らの従者の役のようじゃな」
尻を出さずに済んで一安心の清右。しかし、今回も前回同様、何の説話なのかさっぱり分からない。と、梵天が自己紹介を始めた。
「わしの役は三条大納言。涓泉殿はその子、三位中将の役。そして主役を務めるであろう小町殿はきしゆ御前。さて、これでこの説話が何か、分かったのではないかな」
梵天と涓泉の役だけでは分からなかったが、小町の役を聞いてピンときた。
「分かりました。
「御名答」
木幡狐は異類婚姻譚のひとつ。木幡の里に住む狐が三位中将に嫁いで子を成すが、ある日、中将の乳母から犬を献上されたため、泣く泣く里へ帰り尼僧になる話である。
「小町殿がここへ参るまで話は進まぬ。それまで花見でも楽しもうではないか」
梵天が他の従者に合図をする。立ち並ぶ桜の中でも
「ささっ、清右殿、涓泉殿、存分に楽しまれよ」
いきなりの持て成しに面食らう清右。もちろん元の説話にはこんな場面はない。鉢かづきの時も最後には勝手に宴を開いていた梵天。どうやら相当飲み食いが好きな御仁のようだ。
「じゃあ、一杯もらおうかな」
梵天に注いでもらった酒を杯に受け、清右は口に付けようとした。その時、
「痛っ!」
思わず杯を落としそうになった。右尻に鈍い痛みが走ったからだ。
「如何された、清右殿」
「突然お尻が痛くなって……虫にでも刺されたかな」
「それはいかんな。どれ、見て差し上げようか」
梵天の有難い申し出であるが、ここで尻を見せるのはさすがに恥ずかしい。清右は両手を振って答える。
「あ、大した痛みじゃないから大丈夫です。心配かけてすみません」
「ならばよい。ささ、涓泉殿も飲まれよ」
涓泉は終始無言だ。言われるままに杯を飲み干し、言われるままに料理を口に運んでいる。何を考えているのかさっぱり分からない。それでもこうして顔を合わせることになったのは何かの縁。清右は涓泉に話し掛けてみた。
「えっと、涓泉さん。ボクずっと不思議に思っていたことがあるんですけど、訊いてもいいですか」
「構わぬ」
「ボクは仏滅のたびに説話に引き込まれています。今回は前回から六日目なんですけど、涓泉さんの世でも前回から六日経っているんですか」
「そうだ」
「あ、そうなんですね。ありがとうございます」
話が終わってしまった。涓泉の表情は前にも増して無愛想になっている。言うんじゃなかったと後悔の清右である。
「ははは、良き着眼点であるな、清右殿」
こんな時は梵天の明るさだけが頼みの綱だ。清右の話を引き継いで答えてくれる。
「一度『客』として書の中で役を演じることになれば、以後、『客』同士は同じ時を刻むようじゃ。清右殿の世では、最初の歓迎の儀を終えて後、満月を二度迎えておるじゃろう」
「あ、はい。そうです」
「それは我らの世でも同じ。小町殿もお横殿も、皆、
時を超えて書の持ち主を説話に引き込む奇書。しかしそれは無造作に行われているのではないようだ。たとえば、前回、五十才の梵天を引き込んでおいて、今回、四十才の梵天を引き込んだのでは、『客』同士の意思疎通が混乱してしまう。それを避ける程度の気配りはしてくれているのだろう。
「疑問がひとつ解消できました。ありがとう梵天さん。それにしても良い場所ですね」
花びらを乗せて吹き寄せる春風が心地よい。萌美と和泉に挟まれて疲弊していた清右の心まで桜色に染めてくれそうな気がする。
「春の野や何につられてうわの空」
「えっ!」
突然の涓泉の言葉。清右と梵天は示し合わせたようにそちらへ顔を向けた。
「涓泉さん、それは俳句ですよね」
「我が一族には俳諧を好む者が多い。問答無用で拙者も学ばされたのだ」
「さりとて前回の歓迎の儀では一度も詠まれなかったはず。しかも見事な発句ではないか。お
「おやめくだされ、梵天殿。所詮は御奉公の片手間仕事に過ぎぬ」
涓泉の隠れた一面を見せられ清右も梵天も口が軽くなった。これを切っ掛けにこの男も少しは心を開くのではないか、そんな希望さえ湧き上がってくる。
「発句が詠まれた以上、次は七七の脇句を詠まなくちゃ。梵天さん、付けてくださいよ」
「いや、わしは俳諧には
「おーい、みんな揃っているかいー」
清右の無茶ぶりに梵天が言葉を詰まらせていると、向こうから声が聞こえてきた。若い女と年増女の二人が歩いてくる。
「どうやら小町殿が参られたようじゃ。隣にいるのはお横殿じゃな」
きしゆ御前とその乳母の登場でひとまず難を逃れた梵天、わざわざ二人を迎えに行く。
「よくぞ参られた。三人で待っておったぞ」
「ああ、ありがとよ。梵天は大納言だね。清右は従者か、相変わらず端役だねえ。息子の三位中将は……ちっ、涓泉か。また小町と夫婦の役とはね。ほら、さっさとくっ付きな」
お横が小町を押し出す。満更でもない様子で涓泉の隣に座ろうとする小町。が、涓泉はすっくと立ちあがった。
「お断りする。小町殿と夫婦になるつもりは毛頭ござらぬ」
またも涓泉のわがままだ。お横の表情が一気に険しくなる。
「いい加減におしよ。これは小町じゃなくきしゆ御前。あんたは涓泉じゃなく三位の中将。現世の都合を持ち込むんじゃないよ」
「お横様の仰る通りです、涓泉、いえ、中将様。現世で小町を嫌っているとしても、ここではあくまでも狐のきしゆ御前。夫婦にならぬ道理はありません」
「だからこそ断るのだ。狐の化けた女など妻にできるはずがなかろう」
「中将様は私が狐であることを知りません」
「だが拙者は知っている。知っている以上、夫婦にはなれぬ」
「涓泉、あんたいつまでも図に乗ってんじゃないよ。痛い目を見たいのかい」
お横の堪忍袋は限界に達しているようだ。これ以上怒らせると大変なことを仕出かすかもしれない。と、不意に小町が清右に身を寄せた。
「ならば私は涓泉様ではなく清右様と夫婦になります。元の説話とは違いますが、これでも話は進むはず」
「むっ、それは……」
涓泉が言い淀んでいる。小町は更に清右に我が身を摺り寄せた。まるで涓泉に見せつけるように。
「良いのですね、私が清右様と、他の男と夫婦になっても」
「拙者には……関係のないことだ」
涓泉は正直だ。すぐ顔に出る。四人の誰もが涓泉の動揺を見抜いていた。小町は顔を寄せて清右に言う。
「清右様、あなたは如何ですか。私と夫婦になっていただけますか」
「よ、喜んで!」
そう叫んだ瞬間、清右の右尻に再び激痛が走った。
「い、痛い!」
「まあ、如何されました?」
「お尻が急に痛み出したんだ。まるで誰かに抓られているみたい」
「抓られているように、とな」
梵天の顔付きが神妙になった。何か心当たりがあるようだ。一方、小町は心配そうに清右の顔と尻を交互に眺めている。
「悪い虫に刺されたのかもしれません。私が見て差し上げましょうか」
「い、いえ、そんな。小町さんにお尻を見せるなんてことでき、えっ、う、あっ、な、何これ!」
右尻に手を当てたまま清右が悶え始めた。くねくねと体をうねらせながら恍惚の表情を浮かべている。あまりにも珍妙な姿を見せられ、四人は驚きを通り越して気味悪さすら感じ始めた。
「今度はどうなされたのです、清右様」
「尻を何かが這っている、うう、何だこれ、気持ち悪いのか気持ちいいのか、あうあう」
恥ずかしさを感じつつも自分の動きを抑えられない清右。しばらく身をくねらせ続け、ようやく尻の違和感がなくなると、清右は乱れた息を整えながら言った。
「はあはあ。ご、ごめんなさい。一体何が起きたのか、ボクにも分からなくて。でも虫とかじゃないと思う。もっと別の何か……」
「尻を見せよ」
厳かな声で梵天が言った。清右の目が点になる。
「い、いきなり何を言い出すんですか、梵天さん」
「心当たりがあるのじゃ。そなたの尻を襲った怪現象、清右殿とてこのまま放っておくのは本意ではあるまい」
「で、でも」
「いいから見せな、清右。話が進まないじゃないか」
お横の怒りはまだ収まっていない。口答えしない方が良さそうだ。仕方なく梵天のそばに寄り、涓泉には目隠しになってもらって尻を出す。
「お、おお、これは」
梵天が発した驚きの声に清右は気が気ではない。
「ど、どうなっているんですか、ボクのお尻」
「字だ。字が書かれておる」
「字だって。どれ、あたしにも見せな」
お横がやってきた。四つん這いになっている清右は尻を隠すこともできない。
「こりゃ驚いた。『この浮気者』と読めるね」
「お横さん、見ないでくださいよ。それに浮気者って、どうしてそんな字が……」
「私にもお見せくださいませ。夫の尻を見るのは妻の務めにございます」
「こ、小町さんまで、やめて!」
結局、四人全員に尻を見られた後、清右は装束を改めてゴザに座った。恥ずかしさで顔も上げられない。
「うう、まさかこんな目に遭うなんて。この歳になって尻を他人に見せるなんて思ってもみなかったなあ」
「構やしないじゃないのさ。どうせこれは偽りの従者の体。本当の清右の体じゃないんだからさ」
お横の言葉はほとんど慰めになっていないが、そう言われてみると、ベッドで寝ているはずの自分の体が気に掛かる。痛みを感じたり尻に文字が浮かび上がったのは、自分の体に何か異変が起きているからではないのか、そんな疑念に襲われる。
「梵天さん、さっき心当たりがあるって言いましたよね。話してくれませんか」
「うむ。その前に和泉殿について伺いたい。何故、此度は持ち主とならず、我らに会うことを辞退されたのか。話してくれぬか」
梵天の求めに応じて和泉の意図を話す清右。四人も納得できたようだ。
「引き込まれている間、書がどうなっているか確かめたい、か。和泉らしい好奇心だねえ。そんなこと思い付きもしなかったよ。あんたたちはどうだい。確かめたこと、あるかい」
首を横に振る小町と涓泉。しかし梵天だけは腕を組んだまま何か考え事をしている。
「思い出した。わしの書は写しだが、その原書を持っているお公家様が、ある日こう言われたのじゃ。歓迎の儀が開かれている間、この書がどうなっているか見てくれぬかと。そう、和泉殿と同じ疑問を抱かれたのじゃ。更にお公家様はこう言われた。夜が明けるまで書に触れ続けて欲しい。書と持ち主は一心同体。ならばその効果は引き込まれている最中にも及ぶのか、それを確かめたい、とな。それからわしは毎晩書を眺め続けた。ある日の夜半過ぎ、ひとつの説話が抜け落ちたように真っ白になった。わしは言われた通りその空白に触れ続けた。そして東の空が明るみ始めた時、その空白は一瞬で文字に埋め尽くされた」
「同じだ……」
梵天の話は和泉の説明とほとんど変わりない。夜明けの瞬間、一気に文字が浮かび上がった点を除けば。
「で、説話から目覚めたその公家さんは何て言ったんだい。ずっと体を触れられていて気持ち悪かったとでも答えたのかい」
「いや、説話から出る間際にたった一度だけ、『客』の部分を誰かに撫でられているような気がした、そう答えられた」
「変だねえ。ならどうして清右は何度も痛がったり文字を書かれたりしたんだい。それも説話の最中に」
「うむ……」
考え込む梵天と清右。尻が痛んだり文字が浮かび上がったのは、もはや和泉の仕業と考えて間違いない。本の一心同体効果は説話に引き込まれている状態でも有効なのだ。
たが、梵天の話では書に触れている時間にかかわらず、持ち主が感じるのは一度だけのはず。何故清右は三度もそれを感じたのか。
「清右殿、それは文字の現れ方の違いによって引き起こされているのではないかな」
黙って三人の話を聞いていた涓泉が何か思い付いたようだ。
「先ほど和泉殿の意図を話していた時、清右殿の書の空白は人が書くようにゆっくりと埋められていった、そう言っておられたはず」
「うん、和泉さんは何百年も経つうちに本の力が弱くなって、一度に書き換えられなくなっているからじゃないかって言っていたよ」
「恐らく和泉殿は綴られていく字を読みながら、書を抓ったり文字を書いたりしていたのだ。なればこそあれだけ都合よく尻が痛んだり、文字が書かれたりしたのであろう」
「綴られていくのを見ながら……」
清右は思い出した。最初に痛んだのは酒を飲もうとした時。次に痛んだのは小町に言い寄られて快諾した時、そして続けざまに「この浮気者」の文字。演技中の役者に飛んでくる野次に似た反応だ。
「だとしても抓らなくてもいいのに。それに浮気者だなんて。これはあくまでもこの説話の中だけの話なんだよ。和泉さんって思った以上に意地が悪いなあ」
「清右様、和泉様はそのような意地悪をされる方ではありません。もしかして何か心当たりがあるのではないのですか。和泉様に『この浮気者』と言われるような何かが」
「えっ、そ、それは……」
さすがは小町。女心を読む鋭さは天下一品だ。完全に図星を突かれて清右は言葉を詰まらせた。
「はいはい、続きは現世に戻ってからやっとくれ。それよりもこの説話、さっさと終わらせちまおうじゃないのさ。後は犬を連れてきて、あたしと小町がここを去ればお仕舞いなんだろう」
「おお、そうであったな。これ、そこの者、犬を連れて参れ」
人に化けて三位中将に嫁いだきしゆ御前は、可愛い男子にも恵まれ幸せな日々を過ごす。しかし若君が三歳になった時、中将の乳母から犬を献上され、已む無く木幡の里に帰るのだ。
「狐ってイヌ科の動物なのに、犬が嫌いなんて不思議だなあ」
「古来より、狐は犬に吠えられると正体を現すと言われておる。犬のいる場所では人の姿は維持できぬからのう」
従者が犬を連れてきた。大人しい性質なのか吠えたりせず、尻尾を振って小町に懐いている。
「これほど好かれては狐の姿にも戻りませぬ。このまま立ち去ることに致しましょう、お横様、参りましょうか」
「はいよ。清右、梵天、達者でな。それから涓泉、あんたもう少し丸くおなりよ。そんなに肩肘張ってたら、あんただけでなく周りも疲れちまう」
「余計なお世話でござる」
「ちっ、余計で悪かったね」
「釣りあげた後は知らんぷり、そのような真似はしないでください。以前、私はそう申しました。お忘れなきように清右様。そして和泉様を大切になさってくださいまし」
小町はそれだけを言うと会釈をして去っていく。清右の胸が痛んだ。あれほど和泉を愛しく思っていたはずなのに、今は明日の萌美との夕食を少なからず楽しみにしている自分がここにいる。二月前、自分がこうなることを小町は既に見抜いていたのだ。その慧眼に敬意と畏怖を感じつつ、約束のキャンセルを告げられた和泉の怒りを想像しただけで、心中穏やかではいられなくなる清右であった。
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