第一仏滅 御曹子島渡
晴れ渡った青空の下、穏やかにたゆたう大海原を前にして清右は砂浜にたたずんでいた。聞こえてくるのは打ち寄せる波音、風に鳴る木々の葉擦れ。
「これって、前回引き込まれた説話の最初と同じような風景じゃないか。もしかしてまた浦島太郎なのかな」
とは言っても砂浜には亀も、それをいじめる子らの姿もない。もちろん清右自身も前回のように子の姿ではない。どう見ても二十歳を超えている。半被のような筒袖、股引、頭には破れ笠。浦島太郎に登場する人物とは思えない。
「浦島太郎でないとすると何の説話なんだろう」
手掛かりはないかと遠くを眺めれば、砂浜が途切れた岸壁に小舟とは呼べないほどの大きな帆船が停泊している。船が出てくる説話をあれこれ考えてみたがすぐには思いつかない。
「まあいいや。そのうち話も始まるだろう。取り敢えずあの船のある岸壁まで行ってみるか」
清右はぶらぶらと歩きながら昨日の夕方からの出来事を思い出す。和泉が持っていた写本の持ち主となったものの、それは自分の手元にはない。和泉がそのまま持ち帰ってしまったからだ。
「本が持ち主の近くになくても、説話に引き込む効果は発動するのだろうか」
最初の心配はそれだった。しかしこうして説話の中に入っているのだから、それは杞憂に過ぎなかったようだ。恐らく地球の裏側まで持ち去られたとしても、本の効果は持ち主に及ぶのだろう。
「和泉さんは何の役なんだろう。今回はボクと同じで歓迎される側だから主役じゃないんだよな。早く見つけて一言文句を言ってやらなくちゃ」
和泉の性格を考えると、自分の正体を偽って他人の振りをする可能性は無きにしも非ずである。前回はまんまと騙されてしまった清右だが、それはよもや和泉が説話に入っているとは思わなかったからだ。今回、和泉は必ずどこかにいる。まずはそれを見つけ出すのが先決だ。
「おう、船頭殿、待ちかねたぞ。出港を急いでくれ」
帆船を取り巻く者たちのひとりから声が掛かった。なるほど自分は船頭の役なのか、と清右は思ったがまだ何の説話かは分からない。どこかに他の『客』はいないものかとキョロキョロしていると、
「もしや、『客』か」
背後から声が掛かった。振り返れば立派な若武者が立っている。これぞ天の助けとばかりに清右は答える。
「あ、はい。そうです。あなたも『客』なんですね。ひょっとして和泉さんじゃないでしょうね」
若武者はコクリと頷いた後、首を横に振った。『客』ではあるが和泉ではないという意味だろう。しかし清右もすぐには信じない。前回あれだけ和泉に騙されてきたのだから無理もない話だ。疑心暗鬼に満ちた目で相手を見詰めていると、若武者の顔が綻んだ。
「その物言い、清右様ですね」
一転して品のある女言葉。そしてうなじをこちらに見せる。そこには『客』の文字が浮かび上がっていた。
「ああ、小町さんでしたか。はい清右です。お久しぶり。今回も同じ場所に文字があるんですね」
「所持する書が変わらなければ繋がる所も変わりません。清右様、お待ちしておりました。和扇様、ではなくて和泉様から今回の企みは聞いておりました。二人で書を交換して新しい持ち主になり歓迎の儀を再び開く、そしてもう一度私たちに会いにくる。鉢かづきの最後に開かれた送別の宴で和泉様はそう仰っておられました。実に賢いやり方ですね」
そんな話までしていたのかと清右は呆れてしまった。と同時に説話の中で和扇を演じながら、再び小町たちと会う方法を模索していた和泉のそつの無さに改めて感心した。
「小町さんたち、和扇さんが和泉さんだってこと、知っていたんでしょう。酷いなあ。すっかり騙されちゃったよ」
「それについては弁解のしようもございません。和泉様から是非にと頼まれ、二人の仲を取り持つ手助けになるのならばと、他の方々共々お手伝いさせていただきました。さりとてこうして再び説話の中に参られたのですから、清右様は望みを叶えられたのでしょう。ならば騙されて良かったではありませんか」
「そう言われると返す言葉もないなあ」
四つの説話を演じている間、様々な紆余曲折があったものの、結局は和泉と仲良くなれた。それに小町たちも良かれと思って猿芝居を演じてくれたのだ。責めるのはお門違い、むしろ礼を言ってもいいくらいだ。遣り込められた清右を愉快気に眺めながら小町が言う。
「ところで清右様、別の書の持ち主となったのですから、書と繋がる『客』の場所もまたその在処を変えたはず。此度はどこに『客』を持っておられるのですか。疑うわけではないのですが、『客』の字を見せていただければ有難く思います」
小町の要求はもっともだ。が、さすがに人目に付くこの場所では抵抗がある。清右は岸壁から離れた岩陰に小町を誘い股引を脱いだ。自分では右尻にあるはずの『客』の字は見えない。しかし小町が頬を赤らめながら頷いているのを見て、やはりそこに浮き出ているのかと納得する。
「恥ずかしい真似をさせてしまいましたね。けれどもこれで得心いたしました。ありがとうございます」
「いや、ボクも文字を確かめてもらえてよかったよ。それよりも今回は何の説話なの。船が出てくる話ってすぐには思いつかなくて」
「
そうだったのかと清右は納得する。二十三話全てに目を通してはいたが、浦島太郎ほど一般に流布している話ではないので、すぐには思いつかなかったのだ。
「確か義経が大日の法という巻物を求めて、土佐から船に乗り、北の千島へ向かう話ですよね。何十もの島を経て、一年以上かけてようやく千島の都にたどり着き、そこに住む大王の娘と結婚して巻物を手に入れる。だけど父の怒りを買った娘は殺されてしまう。御伽草子の中でもなかなかに壮大な説話だよね」
「はい。さりとてこれまでの説話と同じように簡略化されております。ここから千島へは船で半日かからぬ道のり。さあ、お喋りはこれくらいにして船出いたしましょう」
小町に手を引かれて帆船に乗り込む清右。共に乗り込んだ船乗りは数名ほど。皆、『客』ではないし、もちろん和泉でもない。どこで会えるのだろうと思いながら海を眺めていると小町が話し掛けてきた。
「その後、和泉様とはどうなりましたか。今、お二人はどのような仲なのですか。良ければ教えてくださいませ」
前回四つの説話を演じる中で、現実の小町は若く、それもまだ嫁いではいない娘ではないかと清右は薄々感じていた。恋愛話に興味を抱くのも無理はない。
清右は大まかに和泉とのことを話した。もちろん萌美とのことは話したりはしない。小町が喜ぶように、自分たち二人は順調に付き合っていることを強調して話した。
「左様ですか。それを聞いて私も安心しました。でも清右様、和泉様と睦まじき仲になってしまったからと言って、気を抜いたりはしないでください。目当ての魚を釣ってしまえばもう餌は与えない、それどころか別の魚を釣ろうとしたりする、それが男という生き物の性。くれぐれもそのような振る舞いをなさらぬよう、お気を付けくださいまし」
「う、うん。心得た!」
と答える清右であったが、寒気がするほどに肝を冷やしていた。今の自分の姿を見事に言い当てられたからだ。現世ではさぞかし恋愛経験も豊富なのだろうと感心する清右である。
やがて船は風変わりな島に着いた。
「うわあ~、この島、見てみたいと思っていたんだよ。半分馬で半分人の生き物が住んでいるんだよね」
一般に馬人と言えば上半身が人で下半身が四つ足の馬であるが、この説話に登場する馬人は上半身が馬で下半身が人である。清右でなくとも実物を見てみたいと思うのは至極当然であろう。
「さて、清右様のお気に召す姿形をしておりますかどうか」
どうやら小町は何度かこの説話を体験しているようだ。わくわくしながら船を降りる清右。その目に映ったのはごくありふれた装束をまとった、ごくありふれた女だった。
「ちょいと遅いじゃないのさ。いい風が吹いてんだからもっと早くお出でよ。ああ、義経は小町がやっているのかい。で、そっちの腑抜けた顔した船頭は……清右だね。当たりだろ」
胸の谷間にあるはずの『客』の字を見るまでもなく、演じているのがお横なのは明々白々である。『客』のひとりとの思いがけない再会。喜びの場面のはずなのだが、清右の表情は冴えなかった。
「なんだよ、清右。あたしに会えて嬉しくないのかい」
「いいえ、嬉しいです。前回はお世話になりました。それよりもここって馬人の島なんですよね。なのにどうしてお横さんは普通の姿をしているんですか」
「馬鹿だねえ。考えてもごらんよ。上が馬で下が人なんて、そんなの化物じゃないのさ。一寸法師で鬼の役を務めた時も頭にツノなんかなかったろう。ここでも同じさ。単なる馬面、つまり顔が細長いだけの奴らが住んでいるだけなのさ」
どうやら現実に存在しないような生き物は登場させないのがこの奇書の方針らしい。期待外れに終わって落胆する清右であったが、『客』であるお横に会えたのでそれで良しとすることにした。
「さあさあ、船に乗って北へ向かうよ」
島民の一人を乗せるような話はどこにも書かれていない。にもかかわらず、お横は勝手に船に乗り込んできた。二人に付いてくる気満々だ。お横の自分勝手には慣れているので小町も清右も何も言わない。黙って好きなようにさせておく。
「にしてもこれから先は長いねえ。小町、途中の島に寄らず直接千島へ向かおうじゃないのさ。島をすっ飛ばしても粗筋には影響ないだろう」
「えっ、それは困るよ」
いきなりの提案に驚く清右。お横の眉間に不機嫌そうな縦皺が寄る。
「何が困るんだい」
「お横さんも鉢かづきの送別の宴で聞いているでしょう。ボクと和泉さんが本を交換して新しく持ち主になり、今回の歓迎会が開かれたこと。和泉さんも何かの役になってどこかにいるはずなんだよ。もしかしたらお横さんみたいに途中の島にいるかもしれない。ボクらが寄らなかったら会えなくなっちゃうよ」
「和泉がそんな端役とは思えないねえ。前回は写本の持ち主にもかかわらず主役だったんだ。今回は原書の持ち主なんだろ。主役に次ぐ役を割り当てられているはずさ。千鳥の大王か、あるいはその娘じゃないかねえ」
「で、でも、万が一ってこともあるし……」
清右は恐れていた。和泉と会わず、話に参加させることもなく説話を終了してしまえば、後日激しい叱責を受けるのは明白だからだ。和泉を見逃すことがないよう細心の注意を払って話を進めなくてはならない。その胸中を察したのか、小町が取り成しの言葉を挟む。
「お横様、此度は新しく書の持ち主となった清右様と和泉様のために開かれた歓迎の儀。ならば清右様の希望通りにして差し上げましょう」
「ちっ、主役に言われちゃ仕方ないね」
我の強いお横も小町の言葉には勝てないようだ。ほっと一安心の清右である。
それからは説話通りにひとつずつ島を巡った。裸人だらけのはだか島、女しかいない
「ほらご覧よ。あたしの言った通りだろう。和泉は千島で待っているのさ」
「うん……」
まるで賭けに負けて一文無しになったようにしょげ返る清右である。同時にお横の言葉を素直に受け入れられなかった自分を少し恥ずかしくも感じた。
「そう気を落とされますな。これで清右様も心置き無く先へ進めるというもの。さあ、千島へ急ぎましょう」
小町の優しい言葉は本当に有難い。気を取り直して前方に目を向ける清右。そこには既に目的地が見えている。
ほどなく船は千島に着いた。目当ての兵法書「大日の法」は千島の都、
「念のために笛を吹いておきますね」
小町が懐から横笛を出して唇に当てる。本来は鬼を懐柔するために吹くのだが、ヤル気の無さそうな門番はさして興味を示すこともなく三人を屋敷の中へ入れてくれた。
「小町さん、笛が上手ですね」
「上手なのは小町じゃない、義経だよ。役を演じている者の技量に関係なく体が勝手に動くのさ。義経と笛は切っても切り離せないからね。五条の大橋で牛若丸が弁慶の額に打ち付けたのも笛だったろう。今、小町が吹いているのは『薄墨』の銘を持つ龍笛。あたしらの世では伝承として、ある寺に残っている。清右、あんたの時代にもあるはずさ。暇なら探してごらん」
お横にしては珍しく博学多識な話である。きっとお横自身も横笛が好きで、何度もこの説話に引き込まれているうちに興味が湧いて調べたのだろう。
「こちらですわ」
小町を先頭にして屋敷の中を悠々と歩いていく三人。そして難なく屋敷の一番奥、屋敷の主にして「大日の法」の所有者である、かねひら大王が待つ奥座敷へたどり着いた。
「おうおう、ようやくたどり着かれたか。お三方、さぞや疲れたであろう」
到着した三人は秘蔵の兵法書を奪いに来た敵だというのに、妙に愛想が良い大王である。その左手の平を見ると『客』の字が浮かび上がっている。
「ああ、梵天さんですね。御無沙汰しておりました、清右です」
「やはり此度の儀は清右殿のために開かれたものであったか。望み通り和泉殿とは仲睦まじい間柄になられたようじゃな」
梵天もまた和泉と清右の仲を取り持ってくれたひとり。それなりに気に掛けていてくれたのだろう。
「そんなことより早く娘を出しなよ、梵天。小町と娘が夫婦になって兵法書が手に入れば、この説話は終わるんだ。あたしゃいい加減飽きてきたからね」
それは清右も別の意味で同感だった。大王の役が梵天ならば残る主要な役はその娘しか残っていない。つまり和泉が大王の娘を演じているに違いないのだ。今まで待たされて随分いら立っているはず、早く表舞台に登場させてやった方がいい、清右も梵天に口添えする。
「そうですよ、梵天さん。早く娘さんに会わせてください」
「うむ。ならば……これ、あさひ、入りなさい」
呼ばれて座敷の襖が開くと、尾長鳥文様の
(こ、これが和泉さんの役! 実物より数倍綺麗じゃないか。な、なんて話し掛けようかな)
だが、それは杞憂に終わった。あさひの口から意外な言葉が聞こえてきたからだ。
「そなたが清右殿か。お初にお目に掛かる。拙者の名は
あさひが右袖をまくると前腕に浮かび上がる『客』の字が見えた。四人が一斉に声を上げる。
「えっ、和泉さんじゃないの」驚きと落胆に襲われる清右。
「ちっ、あんたかい」露骨に顔をしかめるお横。
「まあ、涓泉様でしたか」喜び一杯の小町。
「ふむ、和泉殿は居らぬのか」今頃気が付く梵天。
四者四様の反応を示しながら、一番大胆な行動に出たのは小町だった。いきなり涓泉を抱き締めたからだ。
「嬉しゅうございます。涓泉様。未だあの書を捨てることなく、持ち主のままでいてくれたのですね」
「写本とはいえ大切な書を捨てるような真似はせぬ。持ち主のままでいたのは、よもや再び引き込まれるとは思っていなかったからだ。それよりも離れぬか小町殿。このような衆目の中で、はしたない振る舞いはやめられよ」
「よいではありませぬか。ここ、説話の世では私たちは夫婦になる役柄なのですもの」
清右は呆然として二人の小芝居を眺めていた。小町は女言葉だが義経役の若武者。涓泉は男言葉だが大王の娘役。喋り方と姿が逆なので、どちらがどちらの台詞を言っているのか分からなくなってくる。
「ねえ。お横さん、もしかしてあの二人って現世でも知り合いなの」
「そうだよ。言ってみりゃあんたと和泉みたいな仲さね。あいつの歓迎の儀で初めて会ってから、これまで一度も共演しなかったってのに、何で今回に限って引き込まれるかねえ」
お横は忌々しそうに話すと二人に向かって声を上げた。
「ちょいと、そこのお二人さん。じゃれ合うのはそれくらいにして、さっさと兵法書をお出しよ。続きは現世に戻ってからやっとくれ」
「悪いが、それはできぬ」
涓泉は小町から離れると、毅然とした態度で返答した。
「できない? 冗談はやめとくれよ」
「冗談などではない。大日の法はここに居られる大王秘蔵の兵法書。それを見も知らぬ
「何を寝惚けたことを言ってるんだい。あんたが兵法書を渡さなきゃ、この説話は終わらないじゃないか」
「構わぬ」
「構わぬじゃないよ。一生この説話の中で生きていろって言うのかい」
「武士の誇りを捨てるくらいなら命を捨てた方がよい」
(ああ、お横さんが露骨に嫌な顔をしたのは、こんな理由があったのか)
お横も相当な意地っ張りだが、涓泉の頑固さは遥かその上を行く。きっと前回の涓泉もこんな感じで他の『客』たちを困らせたのだろう。
「渡しなったら、渡しな」
「断る」
二人の押し問答は完全に袋小路状態である。このままでは埒が明かないので清右も恐る恐る口を出す。
「あの、涓泉さん、現世であなたが立派な武士なのはよく分かりました。けれどもこれは単なるお芝居。言ってみれば酒宴で行う余興みたいなものです。ちょっとだけ協力してもらうわけにはいきませんか」
「清右殿には申し訳ないが、如何に芝居といえども、武士にあるまじき振る舞いは断固としてできぬ」
やはり駄目である。ここまで意固地な男も珍しい。困り果てた清右を見て梵天が立ち上がった。襖を開けて座敷を出ていく。しばらくして戻ってきた手には巻物が握られていた。
「娘のあさひが渡せぬとあれば、大王自らが渡すと致そう。義経殿、これがそなたの求めていた大日の法である。持っていくがよい。あさひ、いや涓泉殿、これなら文句はあるまい」
「父上自らの御決断ならばそれに従うまで」
「やれやれ、これじゃ先が思いやられるよ」
なんとか事態は収拾できたがお横の不機嫌は治まらない。一旦『客』となれば余程の事情がない限り、同じ者が『客』として引き込まれ続けるからだ。
「さてと、目当ての書も手に入ったし船まで戻ろうじゃないのさ。海に出ればこの説話も終わるはずだからね」
うんざりした顔で立ち上がるお横、名残り惜しそうな小町。顔色ひとつ変えぬ涓泉、満足顔の梵天。だが清右だけは違っていた。顔面が引きつり、心なしか青ざめている。
「ま、待ってよ。このまま終わっちゃ駄目だよ。和泉さん、和泉さんがまだ見つかっていないよ」
「そう言えば……」
顔を見合わせる四人。すっかり忘れていたのだ。
「もしかして見落としたってことない? 途中の島にいたのかな、この屋敷のどこかにいるのかな。和泉さん、和泉さーん、隠れてないで出てきてよー」
「いや、それはあるまい」
梵天が穏やかに話す。
「ここにいる四人の中ではわしが一番多く『客』を演じている。歓迎の儀として迎えられた『客』が、主役と会えぬような端役に割り当てられることはこれまで一度もなかった。此度とてその法は守られているはず」
「じゃあ、どうして和泉さんは姿を現さないの」
「その答えはひとつしかないだろう。和泉は持ち主になっていないのさ。まだ書に名を記していないんだろうね」
「そんなバカな! 書かなかった理由を教えてよ!」
お横に食ってかかる清右。が、梵天が優しくなだめる。
「それはお横殿も我らも
お横が座敷を出ていく。小町は涓泉の手を取ってその後ろに続く。梵天は気の毒そうに清右を一瞥した後、何も言わずに座敷を出ていく。一人残された清右は呆然としながらつぶやいていた。
「どうして、どうして署名しなかったんだよ、和泉さん……」
その問いかけに返事はない。小町たちが海に出て説話が閉じるまで、魂が抜けたようにその場に立ち尽くす清右であった。
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