第二話 小町の巻

モテ期到来有頂天

 師走も中旬に差し掛かった木曜の夕刻、その日の講義を終えたボクは、大学キャンパスの西にある中央図書館へ急いでいた。待ち合わせの約束があるからだ。


「うう~、さすがにこの時刻は寒いな」


 四時限目が終了する午後五時頃はもはや夕方とは言えない暗さだ。おまけに今日は風もある。体を丸めて足早に図書館へ向かう。


「ここへ入るのは初めてだな」


 言うまでもないが、図書館へ来るのが初めてなのではない。併設されている喫茶店に入るのが初めてなのだ。年がら年中自販機のカップコーヒーのお世話になっている貧乏学生にとって、人魚のロゴでお馴染みの有名コーヒーチェーン店など無縁の存在。にもかかわらず本日初めて足を踏み入れることになったのは、ここを待ち合わせの場所に指定されたからだ。


「あ、来た来た、遅いですよー」


 窓際の席から人懐っこい声が聞こえてくる。テーブルにはソースに彩られたホイップクリームてんこ盛りのタンブラー。見るからに値が張りそうな一品だ。ボクは注文もせずに中へ入り向かいの席に座る。


「ごめん、ごめん。これでも急いで来たんだよ」

「なら許してあげます。ふう、これ美味しい!」


 ストローを咥えた笑顔が愛くるしい。何を言われても憎めない、そんな気がする。


「それよりもアレ、持ってきてくれたんですよね」

「あ、ああ。もちろんだよ」


 そう言ってカバンから取り出したのは一年の時に使っていた講義ノート。新入生の必修講義を受講した時のノートだ。


「わあ、感謝、感謝」


 差し出されたノートを受け取り、小首を傾げる仕草がこれまたカワイイ。この笑顔のためなら何だってしてあげよう、そんな気分にさえなってしまう。


「でも、ノートを借りるだけなら光源次郎に頼めばいいんじゃないのかい。一応、君の彼氏なんだろう」

「う~ん、頼んでみたんですけど、講義ノートなんか持ってないって言われちゃったんです。光君も誰かに借りて済ませていたみたいで。先輩のおかげで助かっちゃった」


 利用されているのは分かっている。必修講義は毎年同じ内容。ボクが一年だった時も、試験の前には同級生や先輩からノートを借りる行為は当たり前のように行われていた。こんな虫のいい依頼、断ってもよかった。が、できなかった。あの笑顔で頼まれれば断ることなどできるはずがない。ほんの少しでいいから、彼女のような愛くるしさが和泉さんにあればなあ、と思ってしまう。


「さてと、これで用も済んだし……」


 彼女は帰り支度を始めている。ふと見ると、クリームてんこ盛りだったタンブラーは空になっていた。なんという早業。ボクが来るまでにある程度飲んでいたにしても、これほどの早飲みができる女子にはお目に掛かったことがない。


「これで失礼しますね。また何かあったらお願いしちゃうかも。その時にはまた萌美を助けてね、渋川先輩」


 ペコリと頭を下げると、もうここにいる理由はなくなったと言わんばかりの呆気なさで店を出ていく。

 そう、彼女は萌美。光源次郎の彼女だ。これまで女子はもちろん男子の親友さえ持てなかったボク。それが今、新入生ナンバーワン女子と学内でも評判の萌美とここまで親密になれたのは、ひとえにあの奇書、月暦仏滅御伽物語のおかげと言える。


「ボクも行くか」


 ここにいる理由がなくなったのはボクも同じだ。何も注文せずに店を出て元来た道を引き返す。もうひとつ、待ち合わせの約束があるのだ。


「すっかり遅れちゃったな。まあ、こちらは時間通りに行っても愛想笑いひとつくれないからいいけど」


 街灯に照らされたキャンパスを歩きながら、あの日から今日までの二カ月を思い返す。


「本一冊でここまで人生が変わるとはなあ」


 四話目の説話を終え、和泉さんとも仲直りした二日後の夕方、満月が昇ると同時に裏表紙にある署名欄からボクの名前が消えた。表紙を擦っても右ふくらはぎには何も感じない。


「中はどうなっているんだろう」


 引き込まれた四つの説話を読んでみると、演じた内容は全て書き換わり元の物語に戻っていた。これで完全に御役御免、ようやくボクは本から解放されたのだった。


「光君とはただの友人よ」


 あの日以来、和泉さんは一度も光源次郎と会っていないようだった。二人が付き合っているという噂話も、本当にただの風説に過ぎなかったようだ。


 今にして思えば、光源次郎と親しくしていたのは、ボクを振り向かせるための策略ではなかったのだろうか。和扇を演じながらボクをそそのかしていた彼女の行動を考えると、あるいはボクに嫉妬の感情を抱かせるために光源次郎をダシに使ったのでは……そんな風に考えてしまうのだ。少々自分に都合のいい憶測ではあるが、きっぱりと会わなくなってしまった今の和泉さんを見ていると、あながち間違ってはいないのではないか、と思う。


「あの、和泉さん、もしよかったらメアドとか電話番号とか教え……」

「馴れ馴れしくしないでちょうだい」


 さりとてボクに優しく接してくれるわけでもない。メアドをゲットするまでに一カ月、電話番号を教えてもらったのはほんの二週間前だ。しかもそれらは使っていないガラケーのものである。

 電話をかけても「電源が入っていないか、電波の届かない場所にいます」のメッセージが流れ、メールを送っても返信は一週間後。大学在学中にスマホで連絡を取り合える仲になる、それが当面の目標だ。


 ただ、それ以外は友人と言えるような付き合いをさせてもらっている。彼女自身も親しい女友達がいなかったせいか、ランチを一緒に食べたり、駅まで一緒に帰ったり、共に過ごす時間が多くなった。

 そんなボクらを見ているうちに周囲の印象も変わったようで、男女にかかわらず次第に声を掛けてくれるようになった。友人と呼べそうなヤツらも数人できた。あの本はボクの学生生活を大きく好転させてくれたのだ。


「へえ~、あなたが和泉さんの彼氏ですかあ。本当に普通で平凡でどこにでもいる方ですね」


 萌美が声を掛けてきたのは、和泉さんが役に立たない電話番号を教えてくれた頃だ。和泉さんと疎遠になった光源次郎は萌美と大っぴらに付き合い始めた。その中で和泉さんの悪口でも言ったのだろう。何と言ったかは想像がつく。「どうしてオレなんかよりあんな男を!」そうだろうな。ボクでさえそれは不思議に思っている。そこで興味を持った萌美がわざわざ会いに来たのだろう。


「別に彼氏ってわけじゃない。単なる友人さ」

「でも光君から奪い取ったんでしょう。やだ~、あたしも奪い取られないように気を付けなくちゃ」

「おいおい、年上をからかうもんじゃないぞ」

「ごめんなさーい。でも渋川先輩って光君と違って真面目そうだし、これからお世話になっちゃうかも。よろしくお願いしまーす」


 その時の「お世話」が今日のノート貸しだ。ほとんど面識のない相手にここまで親切にしてやる義理はない。が、ボクは「お世話」を喜んでいた。他人に頼られるのは初めて、しかもそれがカワイイ女子、これを喜ばずして何を喜べと言うのか。


「モテ期だ。人生で初の、そして最後かもしれないモテ期がやって来たんだ」


 青春は一瞬。輝けるときに思う存分輝いておかなければきっと後悔する。和泉さんに対して少々後ろめたさは感じるが、別に悪事を働いているのではない。和泉さんがただの友人なら萌美もただの友人。それに和泉さんだって光源次郎と仲良くしていた時期があったのだ。ボクが萌美と仲良くしても、それを責める資格はないはず……そんな風に自己弁護しながら、ボクは厚生会館の喫茶コーナーへ入る。


「随分遅かったわね」


 和泉さんは二人掛けのテーブルについてカップコーヒーを飲んでいた。いつも通り心を凍り付かせるような冷たい声だ。冷えた心と体を温めるために自販機でコーヒーを買い、和泉さんの向かいに座る。


「待たせてゴメン。色々用事があったので」

「用事ね……清右君、コーヒーとは別の甘い香りがするけど、もしかして別の場所で別の女子と甘いお菓子でも食べていた、とか?」


 コーヒーで温めていた心が一瞬で冷え込む。和泉さんの勘の良さは今に始まったことではないが、いくら何でも甘い香りはあり得ない。これは間違いなくハッタリをかましているのだ。


「え、ああ、頼まれ事があったから、それを済ませていたんだよ。別に何も食べていないよ。甘い香りは気のせいじゃないかな」

「ふうん……」


 そして冷たい瞳でボクを見詰める。別に嘘は言っていない。心に恥じることなど何もない。そして全てを和泉さんに話す必要だってない。ボクにボクのモテ期があるんだ。


「そ、そんなことよりも早く用事を済ませようよ。持ってきてくれたんだよね」

「もちろんよ」


 和泉さんがカバンから本を取り出す。ボクも本を取り出してテーブルの上に置く。和泉さんの本は真新しく、ボクの本はかなり古い。しかし題字はどちらも月暦仏滅御伽物語。そう、今日ここにこの本を持ち寄ったのは、かねてから計画していた二回目の歓迎の儀を今夜から始めるつもりだからだ。


「やっとこの日が来たか」


 初めて本の持ち主となった者のために開かれる歓迎の儀は、一冊の本に対して一回だけ。ボクも和泉さんもその一回は既に終わってしまった。このままでは二度と説話の中に引き込まれることはない。だが互いの本を交換して新たな持ち主になれば、再び歓迎の儀は開かれる。問題はそれをいつ行うかだった。


「これからゼミも忙しくなるし、冬休みの期間中にやった方がいいでしょう」


 という和泉さんの提案によって、十二月から一月にかけて行うことになった。昨日は満月、そして明日は仏滅。今日、本を交換して新しい持ち主になれば、歓迎の儀は今夜零時から開かれるはずだ。


「うわあ、これ凄いね。一カ月でよく写し取れたもんだ。きちんと和本の体裁で製本されているし、おまけに達筆!」


 和泉さんの本をめくりながらボクは驚いていた。表紙も中身も和紙。背の天地には布が当てられ糸で綴じられている。なにより目を引くのが墨で書かれた変体仮名。原書と見まごうばかりの流暢さだ。


「子供の頃から書道を習っていたのよ。これくらい朝飯前」


 クールな表情にほんの少し得意そうな色が浮かんでいる。感情に起伏がない真っ平らな心の和泉さんも、褒められるとそれなりに嬉しいようだ。


「さあ、それよりも早く署名をして。大切な本をいつまでも衆目に晒しておきたくないでしょう」


 衆目と言われるほど周囲に人はいない。が、大切な本であることはボクも同意だ。和泉さんはわざわざ用意してきたらしい筆ペンを差し出している。それを受け取り署名欄にサインする。渋、川、清、右……書き終わった時、ふっと、体が何かに繋がったような気がした。三カ月前、古本屋でサインをした時にはなかった感覚だ。一度持ち主になったことで本との繋がりを深く感じられるようになったのだろうか。


「見せて」


 和泉さんに言われて署名し終わった本を手渡す。和泉さんの手が本に触れた瞬間、右の尻に撫でられるような刺激が走る。どうやら今回は右尻と本が繋がってしまったようだ。


「下手な字。この本には不似合いね」


 大きなお世話だ。自分の悪筆は自分でも分かっている。


「この写本、ずっと箱に入れておいたから中を見るのは久しぶりだわ。どこか傷んでないでしょうね」

「くふっ……ひゃ……」

「あらあら、また変な声を上げて。今度はどこと繋がったのかしら」

「べ、別にそんなこと、君には関係ないだ……ひうっ」


 和泉さんは署名欄を見た後も、ページをめくったり、意味もなく表紙を撫でたりしている。そのたびに漏れそうになる声を必死で堪えるボク。前回はふくらはぎだったが今回は尻。しかも大殿筋から内股にかけての相当ヤバイ部分である。このまま触り続けられていると理性が崩壊するどころか本能が暴走してしまいそうだ。


「あ、あの、和泉さん、そろそろ本を返してくれないかな」

「嫌よ」


 それが当然であるかの如く返答する和泉さん。あり得ない言葉を聞いてボクの血圧が一気に上昇する。


「な、何を言っているんだよ。その本の持ち主はボクなんだよ。ならボクに返すのが当たり前じゃないか」

「あら、そうかしら。別に持ち主以外が所持していたって不都合はないでしょう。世の中にはレンタルなんて言葉もあるのですもの」

「馬鹿な。君も知っているだろう。それは普通の本じゃない。持ち主となってしまえば本と体は一心同体。その本はボク自身の体でもあるんだ。いくら和泉さんだからって預けるわけには、い、痛っ!」


 思わずボクは立ち上がった。右尻に抓られるような痛みを感じたからだ。間違いなく和泉さんがページのどこかを抓ったのだ。沸き上がる怒りを堪えながら右手で尻を撫でていると、和泉さんが冷酷な笑みを浮かべて言う。


「そう、今度は右のお尻なのね。ふふふ、大変な部位と繋がったものね」

「それが分かっているのなら早く返してくれよ。別に君を信用していないわけじゃないけど、手元にあった方が安心できる。君だってそんな預かりものはしたくないだろう」


 あの本は今やボクの最大の弱点。弱みを握った和泉さんがボクにどんな要求をしてくるか知れたものではない。何としても返してもらわなくては、夜もおちおち眠れなくなってしまう。


「ご希望に添えなくて残念ですけど、これは返せないわ」

「どうして。理由を教えてくれよ」

「ちょっと調べたいことがあるの。それが終われば返すわ」

「調べたいことって何だよ」

「そこまで教える必要はないでしょう」

「教えてくれなきゃ納得できない」

「納得できないならそれでも構わないわ。納得しようがしまいが、これは返さないのだから」


 頑固だ。言い出したら絶対に押し通すのが和泉さん。話し合いでは無理だ。となれば力尽くで解決するしかない。


「だったら無理にでも返してもらう」


 いくら気が強くても所詮は女子。腕力では負けない。ボクはテーブルを回り込んで和泉さんに近付こうとした。が、和泉さんは不敵な笑みを浮かべたままだ。


「あら、清右君、女の子に乱暴はよくないわよ。それにまだ自分の立場が分かっていないようね」


 大胆不敵な言葉を吐きながら和泉さんは右手を前に突き出した。そこに握られているものを見て、ボクの全身が総毛立った。ハサミだ。


「そこから一歩でも動いてごらんなさい。この本がどうなっても知らないわよ」


 和泉さんはハサミを本に当てている。やる、この人なら何の躊躇いもなく実行するはずだ。が、一応説得というものを試みる。


「ま、待て。それは普通の本じゃない。世にも珍しい奇書であることは承知しているはず。しかも君が一字一字大切に書き写した本だろう。それを傷つけたりしたら罰が当たるよ」

「ふっ、下らない戯言はやめてちょうだい。これが原書なら私だって大切にする。だけど所詮は一カ月で作り上げた写本。しかも私は一度持ち主になっているから、もう一度持ち主になったところで歓迎の儀は開かれない。今の私にとってこの本は何の価値もないのよ」

「うぐぐ……」


 駄目だ。和泉さんを説得するなんて豆腐で鏡餅を割るより不可能な荒業だ。しかも本にハサミが当てられている情景を見ているだけで、右のお尻がムズムズしてくる。諦めるしかない、が、最後の抵抗を試みる。


「………分かった。その本は君に預けよう。でも条件がある。君が署名をした原書をボクに預からせてくれないか。交換という形なら納得できる」

「清右君、そんな条件を私が飲むとでも思っているの。お断りに決まっているでしょう」


 勝ち誇った顔をする和泉さん。やはり無駄な足掻きだったか。ボクは自分の椅子に戻って腰を下ろすと、カバンから木箱を取り出した。


「なら、せめてこの箱に入れて保管してくれないか。これまで原書はこの箱に守られていた。今度はその本をこの箱に守らせてやって欲しい」


 さすがにこれくらいの頼みは受け入れてもいいと思ったのだろう。和泉さんはボクが差し出した箱を受け取ると、本を中に入れ、カバンに仕舞った。


「これで今日の用事は済んだわね。心配しないで。清右君が困るようなことはしないから。気を楽にして今夜開かれる歓迎の儀を楽しみましょう」


 いや、すでにボクが困るようなことをしているじゃないか、と言いたくなったが、機嫌を損ねると何をされるか分かったもんじゃないので言わずにおく。


「さようなら。また明日」


 和泉さんは席を立って喫茶コーナーを出ていく。だがボクは本の奪還を諦めてはいなかった。今晩説話の中へ引き込まれたら、かつての持ち主たちと久しぶりに再会するのだ。お横さん、小町さん、梵天さん。みんな優しかった。三人に和泉さんの悪行をぶちまけよう。そして懲らしめてもらうんだ。どう考えたって今回の件は彼女が悪いんだから。あの三人に諫められれば、さしもの和泉さんも改心して本を返してくれるだろう。よし、まだ逆転のチャンスはある。ボクは軽くなったカバンを肩に掛けると、闘志をたぎらせながら喫茶コーナーを後にした。

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