第4話 冬の終点




 次のバスは十五分後らしい。これも物知りさんからの情報だ。

「さて、バス停に行こうか」

 その人はそういって、来た道を戻る。

「そういうや、このルートのバスって十分ごとに来なかったっけ……ううん、僕の勘違いだ」

 今日の朝見た時刻表を思い出す。五分と三五分と、後もうひとつなんだっけ。バス停が違うから、全く意味はないけれど。

「待つのは寒いから、次のに乗ってしまいたいね」

 大通りまで出れば、空が遠くまで見える。


 ぼくらがバス停に着いたとき、バスは遠くに見えた。

「いいタイミングだね」

 減速するバスの中、一瞬だけ見えた運転手さんは帽子を被っていなかった。

 バスはプシューと音を立て傾いて、ドアが開く。

 誰も降りてこなかったし、僕ら以外誰もいなかった。


 終点までは少し距離があった。その間に建物は少なくなり、やがてなくなった。

「あ、キャラメル食べないか?」

 その人が持つポーチの中にはキャラメルの子袋がつまっていた。

「いいの?」

 その人は指先で、何個か摘みあげた。


「久しぶりに食べたくなって買ったはいいけど食べ切れそうになくて。嫌いじゃなければどうぞ」

 その人が掴んだ何個かを、そのまま受け取る。

「あ、ありがと」

 貰っても一つだけのつもりだったから、しばらく手の上に乗せたまま固まっていたが、一つを残して全てカバンにしまう。包装を破り、口の中に放り込む。久しぶりの甘い味だ。


やがて太陽が差してきた。

「終点です」

 ボソボソとした声がマイクを通り、僕たちは降りる準備をする。

 傾いたバスから降りる。言われた通り、小寒よりもずっと寒い。バスは反対側のバス停に止まった。


 物知りさんの言ったとおり、冷たく澄んだ空が高くあった。

 小寒と同じように、左側には道が見えた。小寒で歩いた大通りの終わりは、舗装されていない砂利道になっていた。そこから脇にそれる道が一つあり、他に道といえばそれくらいしか見当たらなかった。

「この先……くらいしかないね」


 その人は靴裏で砂利を転がしていた。

「ないなあ」

 迷ったら厄介だ。口に出すまでもなかったから話題にはしていないが、多分その人もそう思っていた。

 しかし、バスはもう行ってしまったし、少なくとも今は一本道だから、迷うことはない。進めるだけ進もうと、止まっていた僕らは歩き始める。

 日が照っているからこそ、きりりとした寒さが目立つ。


 寒さに負けそうなるその前に視界が開け、目に光が反射する。

「あった」

 どちらかが呟いた。

「ここだ」

 反射する空は写真よりはるかに澄んでいた。

「こんなにあっさりと……」

 ぱたぱたとその人は滝に向かって駆けていく。ちょうど、僕らが写っていた辺りに。

 僕もその人の方へ向かう。そのついでに左側、写真を撮った人がいたであろう場所を確認する。この開けた場所は、滝を見るために山を少し削ったのだろう。左右両方は今立っている地面より数メートル高い。右はもちろん凍った滝があり、左は枯木を避けるように、白い家が建っていた。新しいものではないが、屋根が崩れていたり、そういうことはなかった。物知りさんが言っていた、住んでいる人がいるならここだろう。


「何かわかった?」

「いや、特には。全く一緒だから、間違いないけど」

 その人は写真をぴらぴらさせていった。

「そうか……まあ、撮った場所はあの家しかないと思うんだ」

 さすがにここからじゃ、人がいるかどうかはわからない。

「だろうなあ」


 軽く見たところ、その家に向かう道は見えない。傾斜は登れそうだが、そこまですべきか迷う。

僕としては、場所を見つけたからもう帰っても良かった。謎は残るが忘れていることが冬の街と、その人のことだけだから、特に困らない。

「これ、黙って撮られたとしても今ここにあるってことは、少なくとも私たちは事情を聞いているはず。だって、一枚しか現像できないし、少なくとも記憶を失くす前は何か知っていたはずなんだよ」

「うーん、記憶を戻そうとは特に思わないけど、そこはちょっと引っかかるな。何か理由があるなら今帰るのは駄目だね。とりあえず、あの家に行く道を探そう」

「無くした記憶について何か思うところがあれば、また違うんだろうけど……。私は記憶の詳細、気にならないこともないけどもう達成感はあるもんね。まあ、家は行こう」


 大通りを少し戻れば見つかるかもしれない。窓は見えるがどうも家の入り口は向こう側にあるようだ。

 最後にもう一度、ぐるりと辺りを見回す。凍った滝だけがやけに輝いていて、そこだけ別の部品を嵌めたようだった。


 広場から小道に移動しようとしたときだった。

「ああ、ちょっと待って」

 結構大きな声だったから、かなり驚いた。

 家の角に手を付いて、こちらを見ている。帽子にマフラー、ジャージか学ランのような形の服を着ている。

 きっと、あの家の人だ。寒さから、変に現実感がない。

 彼は僕らが止まるのを見ると、そのまま坂を下ってきた。まっすぐではなく、ぐねぐねと曲がりながら下りてくるのを見ると、彼にしかわからない道があるのだろう。それか、適当に降りてきているのか。


「ごめんなさい。久しぶりだったからつい大声で……」

 僕より年下であろう彼は、バスの運転手さんと同じ帽子をかぶっていた。彼の服装は、どう考えても薄着で寒そうだった。

 反応の鈍い僕らを見比べて、マフラーの隙間から声を出す。

「えっと、去年も来てくれてましたよね」

「本当に?」

 詰め寄る僕らにその子は一歩後ろに下がった。

「そうですけど……」

 その子ははっとした表情になった。

「覚えてないんですか? 僕、松野雪って言うんですが……」

 とても申し訳ない、といった感じで僕らはうなずく。年下だから敬語を使っているだけで、実はとても仲良くしていた人ならどうしよう。冷や汗でさらに寒くなる。


「ごめん、どうも僕らこの街の記憶が抜けてるようで」

「それじゃ……どうしよう。ああ、ごめんなさい。その、忘れた記憶、僕にはどうしようもないんです」

 雪の子の、その青ざめた様子に僕らは顔を見合わせる。謝られる理由がわからないし、彼の深刻さと僕らの持つ深刻さに差があったからだ。彼はまさに絶望しているが、僕らはまったくそんなことはない。確かにこの街とその人の事は記憶から消し飛んでいるが、それだけ。

「えっと、僕、というか僕ら、そんなに困ってないから大丈夫」

 その人も僕に合わせるようにうなずくが、それでも彼は首を振り、ごめんなさいという。自分に向かって真剣に誤られたことなどない僕は、こういうときどうしていいかわからない。


「そう、大丈夫。だからそうだね……去年のことを聞いても? 話が飛びすぎて……」

 雪の子が視線をあ上げたのでほっとする。

「もちろんです。ええと、どこから始めましょう。といっても、僕にも説明できないことはありますが……。冬の街のことだけを忘れているんですよね?」

 思いのほか立ち直りが早く、僕も気を楽にする。ずっと目の前で反省されてはこちらも気が重い。


「お二人さんは確か、別の季節の方ですからご存知ないかもしれませんが、冬というのは生きやすいものじゃなくて、特に、終点なんかになると、ほとんどが枯れたり死んだりして、そのままなんです」

 僕が知る限り、ずっとこんな感じですと、雪の子は茶色の傾斜に目を移した。

「冬の終点は、もう本当に最後なんです。僕が考えた結果なんですが、ここで皆死んでしまうんです。僕はたまに凍えるだけですみますが、他の街の人は耐えられない寒さなんです。でも、完全に死んでしまうほど寒くはないし、その前に普通みんな帰るから……気付かないうちに記憶だけが死んでしまう。全て忘れてしまえば、その人は死んだと変わらない。ここで死んだ記憶は絶対に戻らないってずっと言われてきましたから、その人が生き返ることはない。なぜ記憶が対象になるのか、これだけはどうしてもわからない謎なんですが……」

 おそらく、ずっと考えていたことなのだろう。書物を諳んじているようだった。


「でも、私たちが忘れているのは冬の街と、互いのことだけ……多分。お互い、他人の感じはしなかったし事実そうでなかった。さっきあなたは全て忘れるって言ったけど、私たちが例外? それとも、そうなる理由が?」

  雪の子は、何か考えているようだった。そして、慎重に語る。

「多分、後ろ姿が駄目なんです」

 僕は首をひねった。

「後姿が?」

 雪の子はうなずいて続ける。

「みんながみんなここに来たら終わりかっていえばそうではなくて、ちゃんと帰れる方法はもちろんあります。でないと、バスはここまで来ません。そして、記憶を残すのは簡単です。写真を撮ればいいんです。問題はその写真です。普段は記念写真みたいにちゃんと撮っているんですが、あなたたちは……」

 なんとなく、さまざまなことが繋がっていく感じがする。


 曇り空の方から吹く風が、気づけば結構な強さになっていて、ふとその人を見れば、微かに震えていた。

「あの、寒いですよね。風除けにしかならないですが、家にどうぞ」

 雪の子は枯草の中の一部を指差す。草が踏み倒されているのがわかった。

「わかりにくいですが、道がありますから。先に上がってってください。僕は自販機で何か買ってから行きます」

 便利でいいですよね、といって自動販売機に向かう彼をおいて、ひとまずゆっくりと登る。


「顔色悪い」

  振り返ったその人は自分言う。

「君こそ震えてるじゃないか」

  笑って前を向いたその人は、枯草を踏み倒して止まった。

「あ、道が消えた」

 道の先を探す。

「本当だ」

雪の子を振り返る。ちょうど、ガタンと商品の落ちる音がした。

「やっぱ先導します。でも、適当に進んでも大丈夫ですよ!」

傾斜を駆け上って来たのでそのままの場所にいた。

「これ、どうぞ。二本も僕一人じゃ飲みきれません」

暖かいコーンスープだ。

「わあ、ありがとう」

火傷しそうなくらい熱く感じて、手のひらで転がす。

「ありがとう。君はそれでいいの?」

雪の子が持っているのは透明な炭酸飲料で、見るからに冷たそうだった。

「はい。毎日コーンスープじゃ飽きちゃいますから」


雪の子にしかわからない道を登る。

「暖かくありませんが、外よりは……」

彼が扉を開けると、確かに温度は変わらなかったが、風がないだけ暖かく感じた。

「一応いくつか椅子ありますから、適当に座ってください。そうそう、去年から暖房器具があるんで付けますね。で、ええと写真です。写真を撮れば、記憶はその人にとどまります。理由はわかりませんが、記憶が残るのでずっとそうしてるんです。撮ることに意味があるのか、カメラが特殊なのか、試すのおっかないですし……。いや、今回というか去年、予期せぬ形で試すことになっちゃったんですけど。ごめんなさい」

 目をそらした雪の子は、プシュっとペットボトルを開ける。


「実は、あなたたちの写真を撮って渡しているのですが……知らないですよね」

 家に入ってきてから片手でずっとカバンの中を探っていたその人が、やっと写真を取りだした。

「渡されたのは覚えてないけど、写真ならここに」

「あ、持っていてくれたんですね。その写真渡したとき、とっても怪訝な顔していたので、捨てられたと思ってました。勝手に自分が写っているんですから、そりゃそうですよね」

 状況は覚えてないからなんともいえないが、確かにそんな顔にでもなるだろう。他人事のようにコーンスープを飲んでいた。


「覚えてないけどなんかはごめん」

 その人に雪の子は、謝るのはこちらのほうです、といってまた続ける。

「実は、普通なら正面から写真を撮るんです。記念に一枚どうですかって。でも、その日はとても寒い日だったんです。さっき言った、凍えるような日です。こんなペットボトルなら勝手に凍るような……。だいたいの日は平気なんですが、そういう日は凍ってしまいます。とても今日みたいには動けません」

今日は暖かくていいですねと、僕らに笑いかけた。


「たまに来る人も、凍えるような日には来ないので油断してました。それでですね、終点で誰かが降りると、僕にこの帽子をくれた人が電話してくれるようになっているんです。今日もそうでしたし、その日ももちろん。でも、凍えていた僕は電話には出れたのですが、お二人が広場から出るまでに傾斜を下れるほど動けなかったんです。広場を出ると意味がありませんから、何とか写真だけは、と撮ったのがそれです。バス停で追いついたんで、そこで渡しました」

 写真が一部汚れていたのを思い出した。

「だから土が付いたみたいな跡が?」

 あははと、照れ隠しに雪の子はキャップを開けて閉めた。

「そうです。傾斜で滑りました」


 それからすっとまじめな顔になった。

「去年、確かに不安ではありました。後姿は初めてですしね。でも、広場を出てしまっているからどうしようもない。バス停では何もありませんでしたから、杞憂ならいいなと思っていましたが……どうやら後姿は駄目なようですね」

「それだとちょうど、冬の街のことだけを忘れるってことになるのかな」

 その人は、缶のそこに残ったコーンをちらりと見た。

「きっとそうだね。私たちは冬の街に入る前、バスで一緒になるから変な覚え方をしていたんだよ」

「だとすると、街を出たら忘れるのかもしれませんね……」

 このことも彼の中で消化され、新たな仮説が生まれるのだろう。

「僕がお話できるのはこれくらいです。ごめんなさい」


 雪の子は立ち上がって、棚の中にしまわれていた黒いカメラを首にかけた。

「滝が入るのが一番きれいです。お二人さん、写真撮りましょう」

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高野悠 @takanoyu-

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