第6話

 朝、雷の音で目を覚ます。

 かなり近くに落ちたのか、その音は心臓を震わせ、目覚ましには十分過ぎる程だった。窓を打つ雨の音がだんだん大きくなっていき、窓が割れてしまうのではないかと思うくらいの音まで成長している。ベッドの上で体を起こして窓から外を見ると、一日中続きそうなゲリラ豪雨––––いやそんなものはない。寝ぼけているから矛盾した事を言ってしまったが、つまりは土砂降りになっていたという事だ。

 倉橋さんが犯人だと名乗り出てから一週間、最近は雨も降らなくなりだしたと思っていた最中の不意打ちに、朝から元気を奪われる。

 しかし、普段ならそんなに落ち込む事はなかったかもしれない。今は僕の身の回りに起きている憂鬱な出来事の影響があるので朝からこんな気分になってしまうのだ。

 憂鬱な出来事、倉橋さんが一週間も学校に来てない事だ。

 彼女が犯人だと名乗り出てから毎日心の準備をして学校に向かったが、結局は気疲れするだけで、祐介とも岡本さんともここのところあまり話していない。

 岡本さんが言ってた説がいよいよ現実味を帯びてきたなと思っていた。何度も考えたが学校に来ない理由は母親のせいだという結論が一番しっくりくる。実際会った事もない人なので僕と祐介は想像でしかないのだが。

 あまり朝から考え事をしている余裕は無いので、制服に着替えて一階のリビングに降りる。朝ご飯を食べながらニュースを見ていると、天気予報では夕方ごろには雨が止むと言っていた。外の雨の激しさを見ると虚言ざれごと以外の何物にも感じられなかった。

 昨日買ったせいか倍くらいに硬くなったフランスパンをカフェオレで流し込む。弁当を作る際に余ったのであろうウインナーを口に放り込む事で朝食を済ませ、憂鬱な気分を抱えたまま学校へ行った。教室に上がって、脳ではなく脊髄の命令で倉橋さんの席を見たが、やはりそこには誰も座っていなかった。

 昼休みになると祐介と話をするために教室を出た。最近は倉橋さんの話をほとんどしなくても彼の元に行っている。この前までは岡本さんもいたが自然と来なくなっていた。そこは多少なりとも存在してしまう男女の壁のせいなのだろうが、岡本さんの場合は一緒にいて祐介にどんどんアピールしていった方が良いのではないかと思う。実は彼女も奥手だったりするのだろうか。

 祐介との会話はまず倉橋さんが来てない事の報告から始まる。

「やっぱりかー」

 彼の返事はそう固定され始めていた。

「正直、土日を挟んだら来る可能性あると思ってたんだけどな。もうこうなったらこっちから行くしかない気がする」

「案外いいんじゃないか、それ。ずっと来てないから心配になったって言えば全然おかしくないし」

 そうだな。本当にいい考えかもしれない。家にまで行って、ついでに噂の母親がどんなものか見る事も出来る。

「でも俺は行きたくねぇよ。せっかく最近になって諦めがついてきたのに、それが意味無くなっちまう気がする。行くならお前一人で行ってくれ」

「え、流石にちょっとそれは…。女の子の家に男子が一人で行くなんて、僕には無理だよ」

「何言ってんだよ。お前が告ろうとしてる相手だぞ。それくらい出来ないでどうする。あ、でも家に行った時に告るのは無しだぞ。ちゃんと岡本さんが謝ってから、それからだ」

「それはわかってる」

 その後何度か祐介に倉橋さんの家に行くよう促され、押しに弱いのが持ち前の僕は結局彼の言う通りにする事になってしまった。しかも、なるべく早い方がいいという事で今日の放課後に決まってしまった。心の準備が間に合うだろうか。

「まあ、そういう事だから頑張れよ、名探偵」

「もうそれは終わったよ。とりあえず会ってもらえるように頑張るよ」

 そうだな、と言って二人で軽く笑う。倉橋さんを元に戻すチャンスがこんな事でしか作れなくなっている現状に気づき、心が緊張を取り戻してきた。すぐに顔を固める。

「一応岡本さんにも教えとくか?二人だけで事を進めるのも良くないかもしれない」

「そうだね。放課後になったら教えといてくれ」

「おー、まかせろ」

 僕は軽く岡本さんへのアシストをしたつもりだが、祐介が全く岡本さんの気持ちを気づいてない時点であまり効果は無いのかもしれない。

 それから、倉橋さんについての報告と必要な話を済ませてくだらない話へと移る。

 ここ最近はずっとこんな調子なわけだが、実を言うと本当は祐介と話し続けなくても良いのだ。と言っても、別に祐介と話すのが嫌だからそう言ってるわけじゃない。例えばスクールカーストを五段階でわけて、一番上を五とした時、祐介は四と五の間くらいで僕は二と三の間くらいに位置しているんだ。その二人が話してるのはどうも不釣り合いらしく、周りから祐介に対して有り得ないという感じの視線が注がれるのを僕は何度も感じた事があるのだ。彼はその事に気づいてないらしく平気な顔をしている。

 そんな彼のためにも僕は教室に戻って大人しくしておくのが一番なのだろうが、倉橋さんがいない教室に独りでずっといるなんて僕には出来なかった。そういうわけで祐介には悪いがずっと話しをさせてもらってる。

 あとこれは余談だが、祐介の評価を四と五の間にしたのは彼女がいないからだ。トップの人はみんなから人気があり、かつ彼氏彼女がいる人間なのだ。それはどの学校でも大体決まってる事だと思う。

 祐介と話をしながら残りの昼休みを潰し、午後の授業に入る。外を見ながら何度かこの雨を理由に今日は倉橋さんの所に行くのを延期出来ないだろうかと考えたが、そんな風に逃げるのが僕の悪いところだと思い直した。いい加減変わらないといけないとは最近しょっちゅう思ってる。倉橋さんへの告白はその第一歩になるはずだと、ノートを取る手を止める事無く考えていた。


 放課後になって先生に彼女の家の場所を聞きに行った。最近はそこら辺の情報管理は厳しくなってきているので教えてもらえるかという事を授業中に懸念していたのだが、一週間も来てない友達の様子を見に行きたいと言うと、お前がそういう事をするような子になってくれて嬉しいとすんなり教えてくれた。どうも僕はこのような事をする生徒だとは思われていなかったようだ。先生たちの間での僕の評価はどうなっているのだろうか。なんとなく不安になるような疑問を残しつつ職員室を出た。

 靴箱まで行き、座って決意と共に無理矢理硬く靴紐を結んだ。外に出ると、朝の勢いは嘘のように雨が弱まってきていた。天気予報を疑った事を少し申し訳なく思うと同時に、少しやる気が湧いてくる。自分を奮い立たせるように右足を強く踏み込んで歩き出した。

 学校から出てしばらく歩いた所で、女子の家に行くなんて経験はなかった僕は少しドキドキし始めた。そんな経験は僕の人生において当分先に起きるか起きないかで、少なくとも訪ねる相手を女性ではなく女子と呼べる間には無いものだと思っていた。中々自分も成長してきたのではないかと顔が緩みかけたが、事情が事情なので決して顔には出さないように心がけた。

 その表情を保ったまま先生に渡された住所と簡単な地図を参考にしながら歩き続けたが、二十分程で着くと言われた家は中々見当たらなかった。自分が地図音痴である事を初めて知らされ、岡本さんも連れてくるべきだったと少し後悔する。でも倉橋さん以外の女子と二人きりというのはどうなのだろうか。犯人発見の時は仕方無かったし女子として意識する事は無かったけど、今の状況ならあまりいいものではないと思える。目移りしてしまう可能性があるとかじゃなくて、なんというか好きな子以外と不必要に仲良くする事を僕のプライドが許さないといった感じだ。シャイな男子諸君には出来ればわかってほしい。

 そんな事を考えながら三十分程歩き回ってようやく彼女の家に辿り着いた。住宅街に紛れ込むように建っているその家は、お父さんがいない割には立派な一軒家で、車は無いが庭にはたくさんの花が咲いていた。そこそこ新しく作られたのが伺えるような洋風の作りで、全体的に白っぽい壁に数多の装飾が施されている。倉橋さんに似合ってるなと思った。

 長い間歩き回ったのが逆に良かったらしく、雨は当たっても気にならない程の弱さになり、女子の家に行くというドキドキはほとんど無くなっていた。

 彼女の家の門の前に立ち、いろいろな覚悟を決め直す。とりあえず倉橋さんが犯人だと名乗り出た理由と、学校に来ない理由を聞き出せれば及第点だ。大丈夫、僕には出来るはず。

 一度深呼吸をしてゆっくりインターホンに指を近づける。ピンポーン、という音に続いておそらく母親だと思われる声が出た。

「はい、どちら様でしょうか?」

「あ、あのっ僕、詩織さんのクラスメイトの笠木って言います。えっと、その、詩織さん最近学校に来てないので心配して来たんですけど」

 最後の方はごにょごにょして聴き取れないくらいになってしまった。覚悟を決めた割には情け無い。

「詩織のお友達?それはそれは、わざわざありがとうございます。でもあの子は大丈夫ですから、来てもらったのに悪いんだけど今日のところは諦めてもらえないでしょうか?」

「えっ」

 まさかの母親からの門前払いという展開に少し焦る。そんな可能性はちっとも考えてなかった。このままじゃ及第点どころか赤点以下になってしまうぞ。

 ていうか倉橋さんは大丈夫ってどういう事だ。何もないのに一週間も学校に来ないって言うのか?

「いやっ、でも一週間も学校に来てないし、せめて会って話をさせてもらえないでしょうか?」

 僕の要求から少し間が空いてドアが開いた。しかし出てきたのは倉橋さんではなく、倉橋さんと顔だけはよく似ている一人の女性だった。家いるにはきちっとし過ぎている服装をしている。これが例の世間体を気にし過ぎる母親だなと多少の遠目でもわかる。

 少し気取ったような歩き方で僕の前まで来て、門を挟んで反対側に立つ。倉橋さんの母親なだけはあって中々綺麗な人だ。

「あなたが詩織のお友達?さっきも言ったように詩織は大丈夫ですから今日はお帰り下さい」

「いや、大丈夫ってどういう事ですか。一週間も学校に来てないっておかしいですよ。僕だけじゃなく友達もみんな心配してるんです。せめて話だけでもさせてもらえないでしょうか」

「何度言われても無理なものは無理なんです。こちらが大丈夫だと言ってるのですから、あまり他所の家の事に口出ししないでもらいたいわ」

 なぜここまで頑なに自分の娘と接触させるのを拒むんだ?世間体を気にしてそうするのなら、倉橋さんは大丈夫じゃないという事になる。それならば僕も簡単に引き下がるわけにはいかない。

「でも、大丈夫なわけないじゃないですか。彼女が来なくなったのは、この前学校で起きた事件の犯人は自分だとか言い出してからで…」

「その話はしないで!」

 急に声が鋭くなった。声だけでなく表情も先程までとは同一人物だとは思えなくなっている。今の顔では世間体を気にしてるだなんて口が裂けても言えないな。

「す、すいません。でも本当にちょっとだけでいいんです。ちょっとだけ話をさせてくれませんか?」

「いい加減にしてちょうだい。あなたね、それぞれの家庭にはそれぞれの事情ってもんがあるの。そこに口を挟むのは失礼よ。特にあの事件の事はもう言わないで」

「でも…」

「しつこい!」

 振り下ろされた手によって門が大きな音を立てる。一瞬、叩かれると思ってしまった僕は、門から出た音が響き終わると一筋の汗を流していた。

 間違いなくこの人はおかしい。世間体を気にし過ぎるといっても、この人のそれは尋常じゃない。ただ性格によるものではないように感じる、例えば過去に何かあったとか…。

 ここは勇気を出して確認してみるべきだろうか。

「ちょっと」

 まるで僕の考えていた事が見透かされて、それに釘をさすように倉橋母が話し出す。

「次は当てるわよ」

 別にこの非力そうな手に叩かれるのはあまり怖くない。ただ、女性としては長身なその身からは僕を見下す視線が放たれていて、何か得体の知れない恐怖を感じさせた。凍てつくように冷たくて、怒りの中にどこか憂いも帯びていて、それは見る者までも不快にさせてしまう。岡本さんが嫌がっていたのも今ならわかる。

 倉橋さんはこんな人といつも一緒にいるのか。彼女への尊敬の念が湧いてきた時、最後通告を言い渡された。

「いい、これが最後よ。帰ってちょうだい」

 この言葉に逆らう事は、僕程度では到底出来なかった。そして、ついに僕の心に諦めという選択が発生しそれがどんどん肥大化していって、

「…すいませんでした」

その言葉を僕の口から吐かせた。それが悔しくて情けなくて、気がつくと僕は逃げるように走り出していた。

 少し離れた場所から聴こえた門を閉め直す音に涙を流してしまった。


 そのまま家に帰る気にはなれず、自然といつもの公園に向かった。倉橋さんの家に行く前に考えてたあれこれは全て一人の大人の力によって掻き消されてしまい、どうしようなもい無力感に襲われていて、いつの間に公園に入ったのかわからないくらいだった。

 既に雨は全く降っていなかったが、ベンチはひどく濡れていたので立ったままスピンを探す。

 精神的にはボロボロだった。あの家で何が起きてるのかはわからないが、確実にあの事件がなんらかの問題を引き起こしている。それなのに僕は倉橋さんを助ける事はおろか、会って話をする事すら許されなかった。自分の圧倒的無力さに対する虚無感と、いろいろな人への申し訳なさが僕の心を取り巻いていた。

 唯一僕の無力さを理解する事が出来ない上に、いつでも目の保養となってくれる猫に救いを求めて辺りを見渡すが、公園の中には生者の気配は感じられなかった。ただ沈黙が存在しているだけだった。

 ようやく引いてきた涙が再び流れだしてきた。なんなんだよ、あんな一方的に。なんで合わせられないなんて、そんな事言って断るんだよ。二人が会ったらお互い爆破したりするわけじゃないだろ。急に脳が停止するわけでもない。僕らが会う事の何が悪いんだ。話をするくらいいいじゃないか…。

 近くにあった電灯にもたれかかる。まだ雨が乾いてなかったので、背中の真ん中が背骨に沿うように濡れた。一瞬、冷めたいと思ったがそんな事気にしてる気分じゃない。せっかく僕の人生も捨てたもんじゃないって、好きな人がいてくれる幸せがあるってわかったのに、これじゃあんまりだよ。

 涙が流れるのを拒むように空を見上げる。雨が止んだからと言って晴れているわけではない。真っ暗な雲たちがゆっくり横に流れて行ってる。手を伸ばせば僕もそれらに引っ張られていきそうだ。

 そうならないためにその流れに逆らうように目をずらすと、一箇所だけ明かりの灯る場所があった。晴れ間だ。

 その晴れ間に気づいた時、誰かの走ってくる足音が聴こえてきた。顔を上げたままその音を聴いていると入り口付近と思われる辺りで止まり、その音は声となり僕の耳に届いてきた。

「か、笠木くん!」

 聴き覚えのある声に顔を向けた。公園の入り口に倉橋さんの姿がある。頭の中にあった言葉が一瞬にして無くなる。

「はあっ、よ、よかった。やっぱりここにいたんだね。さっきはごめんね、お母さんが無理に帰しちゃって。私、お母さんの目を盗んで抜け出して来ちゃった」

 しばらくぶりの笑顔を咲かす。何か良い事が起こる前兆として曇り空から急に晴れ間が見えるってのは、漫画とか小説だけの表現方法に過ぎないと思ってた。本当にあるものなんだな。

「く、倉橋さん…。よかった、僕、君に会おうとしたんだ。あれからずっと学校に来ないから、様子を見に行って、出来れば君を助けたかったんだけど、負けちゃって…」

「そんなの全然大丈夫だよ。来てくれただけでもすっごく嬉しい。あれ?もしかして泣いてたの?」

 僕の赤くなった目を彼女が茶化してくる。今はそれさえも愛おしい。

「うん、ごめん。僕たちみんな心配になって行ったんだけど駄目だった。僕、勝てなかった…」

 そうやってあの母親を思い出した時一つの疑問が浮かんだ。

「そういえばどうやって倉橋さんはここに来たの?あのお母さんが許すとは思えないけど」

「さっき言ったじゃん、お母さんがこっちを見てない時にこっそり抜け出して来ちゃったの。なんか大きい音が聴こえて部屋の窓から下を見たら笠木くんが走っていくところが見えて、慌てて下に行ったらお母さんが怒ってて。急いで追いかけてよかったよ」

 その言葉が嘘でない事を証明するように僕に微笑みかける。

「そうなんだ。なんか逆に心配させちゃってごめんね」

「ううん、全然大丈夫だよ」

 ふと、彼女が思い出したようにスピンの名前を呼ぶ。するとドーム状の遊具の下からスピンが出てきた。雨の日は遊具の下に隠れている事を忘れていた。もっとも僕が呼んでも出てきたかはわからないけど。

「ところでさ、やっぱりこの前の自白のせいで学校に来れないの?」

 近づいてきたスピンを抱き抱えながら彼女が答える。スピンの足が汚れている事なんか気にしてないような調子で。

「あー、その事を聞きにきたんだね。そりゃそっか。ま、おっしゃる通り。あれのせいでお母さんとずっと揉めててね。家から出してもらえないんだ」

 彼女は当たり前のように話すが、それは全く普通な事ではない。一体今までどんな風に育てられてきたのだろうか。

「あれのせいって、自分で蒔いた種じゃないか。なんであんな事したんだよ。せっかく僕がちゃんと犯人を見つけたのに」

「あー、それはほんとごめんね。笠木くんには本当に悪いと思ってる。思ってるんだけどね…」

 哀しそうに目を落とす。

「やっぱり怖かったんだ」

 風が吹いて木々の葉に付いていた雨粒を僕らのいる所まで飛ばす。空は晴れ出してきていて、もう雨は降らないだろうと思っていたので少し驚く。

「怖かったって、岡本さんが?」

「もういろいろ。日菜子ちゃんだって怖いよ。あの子のせいであと少しで人間不信になりそうだったし」

「でも怖かったじゃ犯人だって名乗り出た理由にはならないよ。もう少しはっきり教えてくれない?」

「んー、まあそうかもね。でも他にもいろいろあったし、まとめれば怖かったって事になるんだけど。笠木くんには話しておくべきだと思うし、ちゃんと順序立てて話すよ」

 そう言うと彼女はどこかへ歩き出した。何も聞かずに着いていくと屋根の付いたベンチの前に出た。こんな場所があるなんて全然知らなかった。普段、倉橋さんしか見てないからだろうか。

「ここでゆっくり話そうよ。あ、その顔はこの場所の事知らなかったでしょ」

 僕の図星を誘い出した本人は嬉しそうに笑っている。僕もつられて笑ってしまう。

「だっていつもの場所からは見えないじゃないか。ま、そんな事はどうでもいいから話してよ」

 二人と一匹でベンチに座る。周りと比べて全く濡れていないベンチは、なんだか暖かく感じた。

「えーと、まずは笠木くんが犯人を見つけた日からだね。私ほんとにびっくりしちゃった。日菜子ちゃんが犯人だなんてこれっぽっちも思ってなかったから、写真見て思わずスマホ落としちゃったよ。その後何度か日菜子ちゃんと電話で話しをしようかと思ったけどやめた。犯人は許そうと思ってたけど日菜子ちゃんだったからそれも出来なかったし、怒るのもやっぱ出来なかったから次の日犯人として名乗り出たの」

「いや、ちょっと待ってよ、そこだよ。なんで君が名乗り出る事になったんだ。ちゃんと説明する気あるのかい?」

「失礼だなー、ちゃんとありますよ。だって日菜子ちゃんが犯人だって名乗り出たら、これからずっと日菜子ちゃんはみんなから除け者にされたりして、辛い中学校生活を送る事になるじゃない。私、それが一番怖かったんだよ。でも私が自分でやった事にすれば私はちょっとヤバい奴って思われるだろうけど、日菜子ちゃんとは親友でいられるし君もこうしてまだ心配してくれる友人でいてくれるでしょ。つまり傷つく人間が減るんだよ」

 彼女の説明を受け、思考を開始する。しかし、はっきり説明されたはずなのに全然納得出来なかった。もしかしたら理には適っているのかもしれないけど、人としてそこまで自己犠牲が出来るなんて全く理解できない。

「ええっと、なんで君はそんな事が出来るんだよ。岡本さんは君にあんな酷い事をした人なんだぞ?なんでそんな人と仲良くし続けたいと思うんだよ」

「あんな事したって言っても日菜子ちゃんは本当はいい子なんだよ。小学生の頃からずっと一緒にいたからわかる。お母さんから私を何度も庇ってくれたりしたし、いつも側にいてくれたの」

「でも…」

 彼女の無邪気な表情を見ていると、自分はどう言えばいいのかわからなくなってきた。本人がいいって言ってるからそれでいいのかもしれない。僕が二人の関係はどうあるべきだとか口出ししない方がいいのか?

「まあ続きを聞きなよ。私が君と話した後、家に帰ったら先生が電話してきたらしくてね、お母さんがすっごい怒ってきた。実は犯人は自分じゃないとか言ったら混乱しそうだし、学校に日菜子ちゃんの事言われそうだったから黙ってたらずっと家から出してくれないの。さっき笠木くんも会ってたけど、中々おかしな人でしょ?」

「なんて言うかもう、ヤバいって感想しか出てこないよ。何があったらあんな風になるんだ?」

「それはお父さんが死んだのが原因なんだけどね。なんか周りからいろいろ言われたらしいよ。私ははっきり覚えてないけど、一日中泣いてるような時期があった気がする。でもわざわざこっちまで引っ越して来たのにまだ引きずってるからあんななの」

 なんてこった、あの母親にはそんな事情があっただなんて。いや、僕はお父さんが亡くなってるのは知ってたはずだ。なんでその事に頭が回らなかったのだろう。自分はこんなにもデリカシーの無い人間だったのか。申し訳なさと後悔の想いが湧き上がってくる。

「あ、そんな事が…。な、なんかごめん。よく知りもしないのに本当に余計な事言ってしまった」

「別に大丈夫だよ。私あんな風になってからのお母さん、あんまり好きじゃないし。結構喧嘩してばっかり。今回もずっと家では酷い事言われてるの。でもご飯とか作ってくれるだけまだマシだよ」

 本当に気にしてないといった口調だ。なんで彼女はこんなに強いのだろう。

「あ、それと日曜日に日菜子ちゃんが家に来たよ。流石のお母さんも日菜子ちゃんはよく知ってるから家に上げて話をさせてくれた」

「岡本さんが?」

 全然知らなかった。最近はほとんど話してないとはいえ、僕と祐介には教えてくれてもいいじゃないか。やっぱり僕らの間には何か、一線を画すものがあるのだろうか。岡本さんが事件を起こした犯人である事と、僕らの倉橋さんへの気持ちを考えれば全然おかしくはないのだろうけど。もしかしたら祐介の事も気になるという程度で、好きってわけではないのかもしれない。

「それで、何を話したの?」

「んー、まずは日菜子ちゃんが謝ってくれて、私は学校に行けてない理由を説明したの。あとはどうでもいいくだらない話ばっかり。あの感じなら日菜子ちゃんとはこれからも仲良くやっていけるはずだよ。でも私の説明はちゃんと理解してくれたはずなのに、なんか納得してないような顔して帰ったなー。なんでだろ?」

「それは当たり前だよ。僕だって事情は理解したけど、君の事は理解出来ないし納得もしてない。それが犯人だったらなおさらだよ。納得なんて出来ないだろうし、していいわけもない。普通に考えれば彼女は悪者でしかないはずだからね」

「んー…、そうなんだろうね。多分。でも、もしかしたらね…」

 そこで一度言葉を止め下を見る。

「気づいたのかもね」

 僕には全く聴こえないくらいの小声で何かをボソッと呟いた。

「え?なんて言った?」

「ああ、なんでもないよ。まあそんな事があって今に至るって感じだよ。それと来週には学校に行けるようになるはずだよ。それじゃあ何か質問は?」

 そう言われて考える。いろいろあるはずだ。まだ疑問だらけのはずだ。例えば…。

 あれ?何も頭に浮かばない。あれだけおかしいと思ってたはずなのに。倉橋さんの話を聞いて納得してしまったのか?岡本さんは謝ったし、倉橋さんと二人の関係は大きく変わらずに保てるらしい。僕の気持ちは変わらないし、倉橋さんも来週には来られるって言ってるし…あれ、これでいいんだろうか?なんか何も問題ないように思えてきた。質問?質問は、えっと…、

「質問は…ない、かな。多分」

「それならよかった。笠木くんにも納得してもらえたし、この問題についての話は終わりって事で」

 あれ、なんか終わっちゃったぞ。でも、それでもいいような気がする。

 晴れ間が広がってきて気温が上がってきた。水溜りが蒸発し始めて、アスファルトの熱を奪っていく。蝉が待っていたように銘々に鳴き出して、僕の思考力はさらに奪われる。これでいいんだ。多分。

「あ、そういえばさぁ、私最近ここに来れてなかったんだけどスピンにはちゃんと餌やってくれた?」

「もちろんだよ。もしかしたら餌はあげてるかもしれないと思って初日はやらなかったんだけど、次の日に餌を持って行ってみたら異常に餌を欲しがってね。これは餌やりしてないなと思って一応毎日来てたんだ。まだ続けた方がいいかな?」

「そうだね。私が餌やり出来るようになったらちゃんと伝えるよ。そしたらまた一緒に来ようよ。ね?」

「お、おお、そうしよう」

 まさか彼女の口からこんなに積極的な言葉を聞けるとは。これまで人生約十四年、生きててよかったと思う。

 ふとある事に気づく。岡本さんが謝ったって事は、僕はもう倉橋さんに告白してもいいんじゃないか?祐介には申し訳ないけど絶対にあいつの前で告らなければいけないなんて決まりはない。寧ろ僕は誰かに見られてたら緊張のし過ぎで言葉を出す事すらままならないかもしれない。だったら今言ってしまえばいい感じに告白出来るんじゃないか?

 横にいる倉橋さんを見る。まさか今にも僕に告白されるとは思ってない顔だ。そんな事思ってるような人なんているはずないんだけど。

 突然気がついた大チャンスの存在に思いっきり動揺してしまった。それは他人から見てもわかるくらいに僕の外側にも出てきていたようで倉橋さんが不思議そうな顔で尋ねてくる。

「どうしたの?なんか顔が赤くなってるよ。もしかして熱とかあるの?」

 なんともすっとんきょうな質問をされた。顔が赤い場合って大体どんな状況か予想がつくだろ!君はよく本を読んでたじゃないか。恋愛小説は読んだ事ないなんて言わせないぞ。

「別に熱なんて無いよ。ただ、えっと、ちょっと言いたい事があるんだけど」

 伝えたい事の方がよかったか?いやそんなのどうでもいい、もう後戻り出来ないぞ。

「んー、なになに?」

 ほら、食いついてきちゃったじゃないか。どうする、言っちゃうか?まだ早いのか?でも三度目の正直とか言うし、本当に大チャンスなのかもしれない。これを逃したらもう駄目かもしれない。ん?駄目って何が?あーもー、こんがらがってきた。とりあえず何か言わないと。

「あ、あのさ、そのぉー、えー」

「なに、早く言ってよぉ」

「その、ずっと言おうと思ってたんだけどさ」

 大きく唾を飲み込む。

「ぼ、僕は君の事…」

 ここまで言うとついに彼女は空気を察したらしく、顔が赤らみ出した。それを見て一気に僕の覚悟が決まっていく。

 よしっ、いける。い、言うぞ。ついに言うぞ。ほらほらいくぞ大志。今、口を開けて––。

「ニャアァオ!」

 その瞬間スピンが大声を上げて倉橋さんから飛び降りた。その先には太った他の猫がいて、スピンがそいつを威嚇している。その太った猫も負けじと毛を逆立てる。僕は口を開けたまま真っ白になっていた。

「ちょ、ちょっと駄目でしょー、スピン。喧嘩しないでよー」

 彼女が二匹の間に入る。スピンを素早く抱き抱え、太った猫を遠ざけようと犬の鳴き真似をしてる。かわいい。

 そのうち彼女の方が立場が弱くなり、その太っちょに追いかけられ出した。僕は頭が真っ白になったままその光景を眺めていた。

 しばらくしてやっと逃げ切る事が出来た倉橋さんが戻って来た。たいして走ってなさそうなのに首筋に汗が流れている。その姿に夏を感じる。

 少しの間姿が見えなくなっていたから公園の外まで出て行ってたのかもしれない。真っ白だった僕に色が戻り始める。

「はー、疲れた。もうあの猫怖ーい。スピンと同じ猫だなんて思えないよ。ねースピン」

 スピンもなぜか使れたような顔をしているように見えるが、彼は倉橋さんに抱きかかえられて逃げてもらっていただけだ。そしてさっきのタイミングでの鳴き声。あまりにも酷過ぎる。あとで軽く叩いてやろう。

「あっ、そういえばさっきの続き。言いたい事って何?」

「えっ!?あ、ああ、さっきのね。も、もういいよ。全然気にしないで、もう忘れてくれ」

「えー気になるよー。なんなの、言ってよ」

「いや、ほんとどうでもいい事だから。全然気にするような事じゃないんだ。マジで忘れて、お願い」

「ふーん。そこまで言うならもういいよ。なんか真剣な顔してたから、いろいろ考えてちょっと緊張しちゃったじゃーん」

 この反応からすると、やっぱり僕の言おうとしてた事には気づいてないんだろうか。さっき気づいたように見えたのは僕の勘違いだったのかもしれない。でも、だとしたら彼女はやっぱり相当な鈍感な人達の仲間だな。祐介とタイマンはれるか、それ以上かもしれない。

「それじゃあもうお話は終わりだね。もう手遅れかもしれないけど、少しでも早く帰って怒られる量を少なくしなきゃ」

 彼女が立ち上がった。つられて僕も立ち上がる。スピンだけがベンチに座ったまま爪を舐めている。

「今日は本当にありがとうね。こんなに心配してくれる人がいるってわかって、私幸せだよ」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。てか、僕が逆に助けられちゃったね。あのお母さんすごく怖くて完全にヘコみそうだったけたど君が来てくれてよかったよ。事情もわかったし、ちゃんと来週から学校には来れるんだろ?」

「うん、学校には行けるはずだよ。あんまり休み過ぎるとそれこそ周りに何言われるかわからないからね。お母さんも、もし仲直り出来なくても学校には行かせてくれるよ」

「それはよかった。明日、祐介と岡本さんに伝えとくよ。あと、来れるようになったら連絡してよ。それまでに少しでも学校内での君のイメージを元通りになるように頑張っておくからさ」

「つくづく君は頼りになるねぇ。ほんとにありがとうございます。それじゃスピンの世話等々お願いして、ドロンします」

 指で忍者のポーズを取り、にっこりと笑ってお互いに手を振り彼女は帰って行った。

 最後の頼りになるという発言と忍者のポーズに心を奪われて、しばらくの間、ぼーっと彼女の去っていく姿を見ていた。

 彼女の姿が見えなくなってからも何も考えずにただ立っておいてみる。目を閉じて彼女の余韻を感じながら、でも何をするわけでもない。ただただ美しい思い出となりつつある出来事を噛み締めていた。

 スピンの鳴き声に一瞬にして意識が戻る。美しい時の回顧をやめ、軽い恍惚の心を抱えたまま、僕を呼ぶように見つめてくる彼の横に座る。今日はいろいろな事があったな。あの母親は怖かったし、倉橋さんと会って話を出来たし、あと少しで告白ってとこまでいったし…。

「あっ」

 そこまで思い出して横にいるスピンを軽く叩いてみせた。一部の人に文句言われると嫌だから弁明させてもらうけど、叩いたと言ってもそこに強い悪意があるわけでもないし、彼の頭を使ってポンッという音を鳴らしたのとほとんど変わりないくらいのものだ。動物虐待とかではない。

 彼は僕を睨みつけたがそんなのは猫のかわいさにしか見えない。さっきした事を許そうとは思わないが、それでも僕は猫を好きである。これからもずっとそうだろう。

 そういえば二人には倉橋さんが犯人として名乗り出た理由をなんと言えばよいだろう。岡本さんは確かもう知ってるんだっけ?じゃあ祐介だけだな。

 しかしそれが難問だ。あいつの性格を考えると僕が話したところで納得するとは思えない。僕だって倉橋さん本人から言われてなんとなく納得した感じなんだ。どうすればいいのだろう。

 とりあえずその場で考えるのを中断し、この日は帰る事にした。先程叩いた右手でスピンの頭を撫で、意気揚々と立ち上がった。やっぱり今思い返すと今日は充実した一日だった。そう言えるのも全て倉橋さんと会えた事が理由だろう。僕も単純なもんだ。

 そのままスピンに別れを告げ、暗くなりだした空を見ながら太陽の沈む方へと帰って行った。

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