第7話

 辺りが暗くなってしまってから家に帰り着いた。玄関に入ると、なんだか奥の方が暗い。リビングから漏れる灯りが今日はやけに少ないな。

 少し不審に感じながら廊下を進みドアを開くと、お母さんがリビングで僕を待っていた。いつもならこの時間は夕食を作っているか、まだ仕事から帰って来ていないかだ。後者の場合は外食になる事が多いのだが、今回はそのどちらでも無いようだ。既に職場の制服から着替えているのに夕飯は用意されていない。何年か前に一度だけ経験した事のある、何か重要な話がある時のパターンだ。

「どうしたのお母さん。今日の夕飯は?」

「お帰り、大志。ごめんね、夕飯よりも優先させなくちゃいけない話があるの。そっち座って」

 そう言って自分が座ってる食卓の反対側を指差した。僕がいつもご飯を食べたりする定位置だ。

 帰って早々の話し合いに、始める前から疲れを感じる。今日は充実した一日だと感じていたとは言え、精神的にはかなり疲れ果てていたからあまり気乗りしない。一体なんの話があると言うのだろうか。お母さんの顔を見てみると、普段は決して見せない厳しい顔をしている。四年前に一度だけ見た事があるその光景に近視眼を覚える。

 四年前。その時もお母さんは今みたいな顔をして食卓の自分の定位置に座っていた。話の内容は父親との離婚について。そう、僕の両親は四年前に離婚していた。

 その時のお母さんは、始めは厳しい顔を崩さずに僕を諭すように語りかけてきたが、自分で話を進めるうちにどんどん涙を溢していき、終いには僕の事なんか御構い無しに声を上げてわんわん泣いていた。僕の人生史上最もどうすればいいのかわからなくて困った事を覚えている。

 離婚するに至った理由は父親の不倫だった。しかもただの不倫ではなく、相手の女性との間に子どもを作ってしまったという不倫だったので、離婚にまで事が進んだのは至極当然な事と言えるだろう。その時の僕が感じたのは、やはり恐怖だった。目の前で泣き続けるお母さんの姿にも同じ感情を抱いたが、僕が何よりも恐怖を感じたのは、最悪の形で別れる事になった父親の遺伝子を自分が受け継いでいるという事だった。自分はあの父親の息子なんだと思うと何度も吐き気が湧いてきた。

 母親の顔を見て、今ではすっかり落ち着いてしまった暗い過去を頭の中でフラッシュバックさせながら椅子に座る。今回の話は何だろうか。離婚と同等に酷い話なのか、それとも父親の事を思い出させるような話なので厳しい顔をしているのか。心の準備を進める。

「話って何?お母さんがこんな顔してるなんて、あの時以来じゃないか」

「そうね、今回の話にもあの事は少しは関係しているわ。でも大筋は違う話。あんたに関する話よ」

「僕の話って、え、僕何かした?そんな怒られるような事はしてないと思うんだけど」

「それがね、さっきお母さんが帰ってからすぐにね、同級生の倉橋さんのお宅から電話があったわ」

「倉橋さんのところから!?」

 余りにも予想外の話出しに、準備していたはずの心も虚しく驚かされてしまう。

「そう。なんだかね、大志が家に来てあちらの家庭事情にいろいろ口出しして行ったって文句を言われたわ。それはもう高い声で、私が何か聞こうとしても一方的に話し続けるばかりで、とうとう何も言えずに電話を切られてしまったわ。ああいうのをモンスターペアレントって言うのかしら」

 僕は膝の上で握り締めた自分の手を見つめながら黙ってしまった。あの母親、まさか家にクレームの電話をかけてくるとは、あの冷酷な眼差しが思い出される。

「それでね、何があったのか詳しく教えてもくれないのにキツく叱ってくれとか言うのよ。まあ、私もいろいろ事情を知らないでどうこう言えないから、どういう事なのかちゃんと話してくれる?」

 そう言われてもすぐには答えられなかった。彼女と僕の問題が家庭間の問題にまで発展するとは、夢にも思っていなかった。本当に心が追いついて来ない。

「ねえ、大志。黙ってちゃ話が進まないわよ。とりあえず、どうしてあちらの家に行って家庭事情に口出しする事になったのか、ゆっくりでいいから説明してくれる?」

「わかったよ…」

 お母さんに促されて、ようやく僕は事の経緯を話し始めた。倉橋さんに起きた事件、祐介との関わりや岡本さんが犯人として僕らと関わりを持つようになった事までかなり詳細に説明した。流石に倉橋さんへの想いまでは話さなかったが、ほとんどの事情を隠さずに話せたのは、離婚してから女手一つで僕を育ててくれたお母さんは僕が誰よりも信頼している人だからだ。

「それで今日、倉橋さんの様子を見に行く事になって彼女の家まで行ったんだ。そしたら倉橋さんのお母さんが出てきて娘とは合わせられないって言われて。僕が少し食い下がったら思いっ切り怒られて、家にも入れてもらえずに帰る事になって。まあ、その後いろいろあって倉橋さんとは話せたんだけど。それでこんな時間に帰って来たんだ」

 一通りの説明を終えてお母さんの出方を伺う。怒られるのかどうなのか、こんな経験は無いからわからない。

「なるほどね。大体の事情はわかったわ。それで、向こうの親には何を言ったの?家庭事情に口出ししたってのはどんな感じに?」

「それはまた少し話さなくちゃいけないよ。岡本さんは昔から倉橋さんと仲良くて倉橋さんのお母さんと何度か会ってたらしいんだけど、その人からしてみてもあの母親は異常だって思われるような人なんだ」

「異常って?」

「なんか、世間体を凄く気にし過ぎるらしい。僕も今日会ってわかったけど、確かにどこかおかしいよ。僕が話したのは倉橋さんが学校に来てないから心配って事で、そしたらその事については大丈夫ですから帰ってくださいって言われたんだ。そんなわけ無いって食い下がっても断られるから、事件の話を持ち出してみたら急に怖い顔して怒り出して強引に僕は追い返されたんだ」

「ふーん…」

 お母さんは僕の話を聞いて、目を閉じて考えを巡らせている。その目元にいくつかのシワができたのを見て少し老けてしまったなと感じる。

「何でそんなにも世間体を気にするのかしらね。それについてはわからない?」

「大体はわかるよ。倉橋さんの家は何年か前に交通事故でお父さんを亡くしてるんだ。それでその時周りからいろいろ言われたらしくて、それくらいからずっとおかしいって倉橋さんが言ってた」

「お父さんが…なるほどね」

 お母さんは一度壁掛け時計に目をやる。もうとっくに夕方と呼ばれる時間は過ぎていた。

 すぐに時計から僕に顔を戻し、厳しい顔を保ったまま話し出す。

「大志。確かにあんたのした事は立派な事だと思うわ。友達を思いやってそこまで出来るようになってたなんて、お母さん嬉しいわ。でもね、人様の家庭事情に口出しするのは良くないと思う。ウチだってそうだけど、倉橋さんのお宅も複雑な事情を抱えてらっしゃるんでしょ。人にとやかく言われたくないって思うのはみんな同じだわ」

「でも、あのままじゃ倉橋さんがかわいそうなんだ。ろくに家から出してももらえずに、一人でずっとあの母親と闘ってるんだ。僕はどうにかして彼女を助けたい。ほうってはおけないんだ」

「大志」

 少し口調が強めになる。そして四年前のような諭すような声で話し出す。

「あんたの気持ちはお母さん、よーくわかるわ。でもね、それだけじゃどうにもならない事が世の中にはいっぱいあるの。その岡本さんって子ならまだしも、初めて会った娘の同級生の子からいろいろ言われていい気分になると思う?あちらのお母さんの過去とかを知ってるなら、尚更いろいろ言うべきでは無いわよ。倉橋さんもそのうち学校に来れられるようになるって言ってるんなら、今は我慢するしかない。彼女が学校に来てからいろいろと助けてあげればいいのよ。いい、わかった?」

「でも…」

 なんて言えばいいかわからなくて口ごもってしまう。お母さんの言う事も正しいように感じてしまう。多分、世の常識的には本当に正しいのだろう。でも、それじゃ駄目なんだ。それじゃ倉橋さんを救えない。彼女は僕が救わなくてはいけない。僕にしか救えないんだ。

「その事がわかったらこの話はもう終わりね。今日はもう遅いから、明日はすぐに帰って来てあちらの家に謝罪の電話をするのよ。いくらなんでもちゃんと謝ったら許してくれるわよ。もし許してくれなかったら、その時はお母さんちゃんと言うから。ね?」

 駄目だ、これで終わらせてはいけない。急いで考えをまとめろ。お母さんなら話せばわかってくれるはずだ。

「よしっ、じゃあご飯にしましょ。って言っても今日は遅くなっちゃったからどこかに食べに行く?お母さんはこの前できたばかりのあのイタリアンのお店に行きたいんだけど」

「待ってよお母さん」

 勝手に終わらせようとしていたのを無理矢理引き止める。感情が溢れてしまいそうだっが、なんとか理性でそれを抑え話を再開する。

「辛い過去があって苦しいのは倉橋さんも同じだよ。あの母親ばかりに目を向けないで、ちゃんと倉橋さんの気持ちも考えてよ。今回の事件の被害者は彼女なんだ。なんで母親たちがとやかく口出し出来るんだよ!」

「ちょっと、大志?」

「僕が助けたいのは倉橋さんなんだ。あの母親じゃない。だから母親はどうなってもいいって言うわけじゃないけど、彼女が傷つくのは見過ごせない。本当に彼女を助けたいんだ!」

 お母さんが僕を困ったように見る。小さい頃におもちゃをねだったりして何度か見た事のある表情だ。

「ねえ、なんでその子のためにそこまで言えるのよ。倉橋さんとは中学で初めて一緒になったんでしょ?」

「えっ、えーと、それは…」

 急に中々痛いところを突いてくる。普通の中学生男子はその理由など言えるはずがない。もちろん漏れ無く僕も普通の中学生男子なのだが、今はわけが違う。彼女を助けるためには自分が多少犠牲になろうと構っていられない。

「ぼ、僕、倉橋さんの事が好きなんだ。初めて好きになった人なんだ」

「あら」

 意外とサラッと言葉が出てきた。このお母さんでなかったらそんな事は出来なかったかもしれない。

 お母さんは自分の息子の初恋の告白に驚きを隠せないでいるようだ。僕もそうだ。まさか倉橋さんを助けるためにこんな事になってしまうとは。誰でもいいから文句を言ってやりたい。

「そ、そんな理由があったのね。ごめんね、お母さん気づかなくて」

「気遣われると余計にキツいよ。もうこの話についてはこれ以上触れないで。それで、母親じゃなくて倉橋さんの事を考えてほしいんだけど」

「そうは言ってもねぇ。人それぞれ考え方も違うんだし、あちらのお母さんが今まで大切に守ってきた事をあんたが壊すのは良くないわ」

「でも…」

 くそっ、あと一押しなんだ。お母さんを説得するにはあと一つ、何かが足りない。何だ、足りないのは何なんだ。

 急いで頭を回す。倉橋さんの事になると、僕はいつもの倍以上に頭が働くようになる。好きな人のためなら何でも出来るというのは良く聞くが、どうやら僕にはそれが当てはまるようだ。

 そして、一つだけ説得出来るかもしれない方法を思い付く。対面している状況だから、そして何より親子だからこそ通用する方法だ。

「お母さん…僕、彼女の事本気なんだ」

 真っ直ぐ目を見つめ、なるべく言葉が重く感じられるような言い方を意識する。倉橋さんよりも先に、この人に想いを伝えなくてはいけない。

「大志…」

 僕の今までに無い真剣な表情に気圧されたようにお母さんが呟く。その表情はいつの間にか進んでいた息子の成長を噛み締めているようだ。

 それから少しの間、リビングに沈黙が流れた。僕はその間一度も目を逸らさず、お母さんはずっと何かを考えていた。そして、ようやくその口を開いた。

「はぁ、わかったわよ、お母さんの負けだわ。他所のお宅の邪魔も悪いけど、息子の初恋の邪魔する方がもっと辛いもんね。あちらの方には明日お母さんが謝っておくわよ。だから、あちらのお母さんになるべく迷惑をかけない方法でこれからは頑張ってね」

「お母さん…ありがとう」

 目頭が熱くなってきた。どうも最近の僕は涙腺が弱くなっているようだ。中学生でこの調子なら大人になってからキツいかもな。

 ともあれ、お母さんの説得には成功したのだ。本当に理解のある母親で良かったと、今は心の底から思う。

「いやぁ良かったよ。本当に理解ある親で助かった。必ずお母さんには朗報を聴かせてみせるからね」

「楽しみにしとくわ。でもあんまり高嶺の花には手を出すんじゃないわよ」

「悪いけどそれは手遅れだよ、彼女は高嶺の花なんだ。でも僕はそんな事気にしないよ。なんたって初恋だしね」

「いいわねぇ、初恋って」

 お母さんは天井を見上げて自分の初恋を思い出しているようだ。当たり前だけどこの人にもそんな経験があるんだなと思うと不思議な気持ちになる。

「それじゃもう話は終わり。そろそろ夕飯にしようよ。僕もそのイタリアンに行きたい」

「それにしても、まさか大志に好きな子がねぇ。子どもの成長って案外早いものなのね」

「ちょっと、その話はもういいから。早く食べに行こうよ。お腹空いた」

「そのうち彼女を連れて来て結婚の挨拶とか言い出すのかねぇ。やだわぁ、そんなのまだ考えたくない」

「お母さん!」

 ああ、やっぱり言うべきではなかった。どうして自分の人生で初恋を母親にイジられるような事になってしまったのだろう。倉橋さんには何らかの形で埋め合わせをしてもらわないといけないな。

「もういいから早く食べに行こうよ。あんまり遅くなり過ぎると店も閉まるよ」

 そうやってお母さんを急かそうとした時、鼻をすする音が聴こえてきた。その音がした方を向くとなぜかお母さんが泣き出していた。

「え、ちょ、どうしたの?なんで泣き出すんだよ」

「だって、あの人がいなくなってから一人で育ててきた大志がもうこんなに成長してるなんて…。お母さん、ちゃんと育てられてるのか心配だったから、本当に良かった…」

 お母さんの目からは涙が流れ続けている。僕の涙脆さはこの人の遺伝かもしれない。

「何言ってんの、まだ僕は中二だよ。これから大人になるまであと何年もあるんだよ?これくらいで泣いてちゃ、大人になった時にどうしようもなくなるよ」

「そうよね、わかってるわ。でも、もう少しだけ泣かせて…」

 お母さんはハンカチを取って今まで以上に泣き出した。それでも声は出さずに泣き続けるお母さんを、僕は黙って見つめていた。

 五分くらい経った頃、ようやくお母さんが笑い顔を見せた。

「はぁ、思いっきり泣いたらすっきりしたわ。ごめんね待たせちゃって。お母さんは大志の恋を応援してるから」

「だからもうその話はいいって。本当に恥ずかしいんだから」

「こういうところはまだ子どもね。ちょっとホッとした」

「あーもー、泣き終わったらご飯食べに行くよ。ほら、早く」

 リビングに漂う二人だけの家族団欒の空気を残してお母さんを外に出そうとする。何度か和気藹々とした言い合いをしてやっと外出するまで持っていった。まったく、理解があるのはいいんだが偶に友達のような接し方をしてくるのが面倒臭い。人生で今しか味わえないような幸せを、そうとは気づかずに早く終わらせたい気分だった。

 外に出ると夏の夜特有の涼しい風が吹いてきた。まだ雨の匂いは残るが、もうほとんど夏だと言える時期になっている事に気がつく。今年の夏こそは倉橋さんと二人で過ごしたい。絶対に告白してみせる。

 先程スピンと別れた時に見た空の方を見てみると、微妙に残された雨雲が月を何度も出したり隠したりしていた。

 お願いだからいつまでも彼女と一緒にいさせてください。そんな風に柄にも無いような恥ずかしい事を月に願う。月が出た時を見計らったつもりだったがすぐに雲に隠れてしまって、見えない月にお願いするような形になってしまった。

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