第4章  正義不在のプリズンブレイク

4-1 慧眼の徒にて暴かれる真理

 完全なる闇と呼ぶには程遠く、ところどころで怪しげに薄緑色や水色に輝くガラス板が点在することによって、この部屋が全面白系の石レンガによって囲まれた密室だと分かる暗い空間。

 そんな暗室や玄室めいた部屋の一角には、金色の塗料で涙型とその下に翼を模した図形が描かれていた。これは聖サクリス教のシンボルである、救世主サクリスの聖なる涙を模した意匠である。

 光るガラス板には、白の文字で様々な数字や概要的文章、図形が浮かび上がっている。体温、血圧、脈拍、呼吸などと書かれており、項目の横に表示されている数字は、絶え間なく変化していた。

「検体〇一、個体名カキョウ=クレサキ。種族:有角族(ホーンド)。肉体年齢:十五~十七。ただし、一部の筋組織の断裂、再結合痕あり。年齢不相応の強化を受けた痕とみられる。

身長:一五三cm、体重:五一kg。筋力の発達が著しいために体重がやや多め。平時における魔力貯蔵量:一八〇。魔力生成量:不安定にて計測不可。想起型と思われる。魔法抵抗値:五七。所見、魔力の初発露が肉体年齢としては極めて遅かったものの、肉体改造とも呼べるほどの身体強化を重ねているために、想起型の魔力発露に耐えられたものだと考える。ただし、遅すぎる発露の影響により、身体への魔力浸透が追いついておらず、魔法抵抗値も低いことから、貯蔵には不向きと思われる」

 暗き空間に浮かびあがる二つの人影。一人は手元のガラス板を覗き込みながら、ガラス板に浮かび上がっている文字を読み上げた。耳や手足に独特な特徴が見受けられないことからも、純人族(ホミノス)の男であることが伺える。特徴的な衣類として、外套は純白の薄地であり、一般的に白衣と呼ばれるものを羽織っている。

「右の女か。近接戦闘を得意としつつ、魔力が想起型というのは実に面白い」

 もう一つの人影は先に発言した男と同様の純人族であり、口調からも上司のようである。衣類は聖サクリス教の司祭マルコスが来ていたものに酷似した、紫色の外套と白の襟巻を中心に、金糸による縁取りがされた高位の教徒に支給される修道服である。そして、自身の目の前に設置されている巨大なガラスの向こう側を眺めながら、興味深そうな声を発した。

 巨大なガラスとは、この玄室に近い暗き空間を分割する透明な壁の役割をしており、男が見るガラスの向こう側には、玄室とは違った空間が広がっていた。

 床には、ガラス板と同じ薄緑色を発する液体が満たされている。その部屋の中央には一切の衣類を着ていない女性が二人、意識のないまま宙づりされている。

 ガラスから向かって右側には、肩で切りそろえられた深紅の頭髪を持つ大人の女性になりかけな体をしている少女。体のいたるところに裂傷やミミズ腫れといった、様々な傷跡を持っている。

「そうですね。観測隊からの情報を見ても、魔力強化なしでの高速戦闘を可能とする肉体とあるように、魔力強化を前提とした一般的な戦闘スタイルを身に着けさせれば、一騎当千の超強力白兵兵器となるかと」

「戦力ではなく、兵器か」

「本人の意思は取っ払って、魔力生成に必要な強烈な記憶を与え続けたほうが、生成量の安定性が向上し、効率的になるかと」

 男たちは女性の裸体を見つつも、淡々と分析結果を語り合う。それはまるで人間を見る目ではなく、あくまでも実験生命体。観察対象としてでしかなく、そこに劣情といった色が乗ることはない。

「ふむ……だが、ホーンドだから、あの方が黙っておくわけがないな」

「そうです。すでに、分析が終わったら自分のところに連れてくるようにと……」

「あのエロダヌキめ……、こんな逸材を手放すには惜しすぎる」

「まったくですよ。兵器転用に魔術実験用素体として、我々ならもっとうまく扱えますって」

 惜しいと向けられる感情は生物的や道徳的なものは一切なく、あくまでも兵器運用等の検体に贈られる賛辞でしかない。それは上司と部下どちらも一緒であり、この空間に血肉の通った会話は皆無と言っていい。いや、ある意味で科学者然とした思考でなら、大いに血肉の通った会話と見れる。

「本当にそうだな……。しかしなんだ、この娘の体、異様に傷痕が多いな。治癒術式が効いていないのか?」

「いえ、傷自体があまりにも古すぎて、元来の欠損補完法ではなく、置換法によって新皮質に置き換えなければなりません」

 深紅の髪の少女こと、カキョウの足元に満たされている薄緑色の液体は、対象の生命を維持するための治癒液であり、体も一部が液体に使っていれば自然の体全体に上る特殊な仕様をしている。

「なるほどな……。所見にある『一部の筋組織の断裂、再結合痕あり。年齢不相応の強化を受けた痕』ってやつか。これがこの娘の実力の証ともいうべきなのか……本当に惜しいな。それで隣のはどうなんだ」

「はい、検体〇二。個体名ネフェルト=ラズーリト。種族:有翼族(フェザニス)。肉体年齢:二十代前半。身長:一六三cm、体重:六一kg。フェザニスとしては極めて標準な体重ではありますが翼の重量を除けば、実体重は五〇kg前後と思われます。平時における魔力貯蔵量:一二〇〇。魔力生成量:毎秒三。魔法抵抗値:五一〇。所見、魔力貯蔵量および秒間判定となった生成量からみても、完全なる魔法行使向き……いえ、この検体単体での大軍攻略儀式魔法も可能であると推察される。ただし、それ以外は通常の魔術師同様に物理的な近接戦闘は極めて不向きであるために、自己防衛用の兵もしくは設置型魔法が必要になる。なお、含有最大量を超えた魔力については、翼や髪、胸部に貯蔵されるため、自身の健康が維持されれば、極めて高効率な魔力炉となりえる」

 カキョウの隣に吊るされている女性は、瑠璃色の髪と純白の大きな翼をもった有翼族の魔術師であるネフェルトだった。カキョウ同様に完全なる裸体で吊るされており、長身で美しい細身の肢体と豊満な双丘から描かれる美の結晶は、世の男たちを引き付けるであろう代物にも拘らず、やはり研究者然としている男たちには、ただの肉の器程度でしかない。

「ネフェルトという名に、貯蔵量と生成速度。偶然とは言い難いな」

「ですね。……仮に全くの無関係な別個体だとしても、貯蔵量はともかく生成速度が秒間の人、初めて見ましたよ」

 研究者然の男たちが、ネフェルトの数値と名前に舌を唸らせた。彼女は一応、ウィンダリアにおいて純白の翼の持ち主にして、高等魔術師として名の通った人物ではあるものの、あくまでも有翼族内での話であり、聖サクリス教内で名が通っているとは思い難い。

「私もだ。もう少し詳しく調べる必要はあるだろう。想起型といい、ネフェルトといい……この者たちはトンデモないな。男どものほうはどうなっている?」

「え? 調べるんですか?」

「なんだ、調べていないのか?」

「はい……男たちのほうは処分するため、時間を割く必要はないといわれまして」

「馬鹿な奴らだ……。女だけでこれだけの特異化してるなら、男も相応のものを持っている可能性が大きいというのに」

 上司の男が盛大な溜息とともに嘆いた。科学的もしくは兵器工学的知見を持ち合わせない者たちの、肉欲的または俗物的な考えのみの行動には、自身の道徳心欠如を棚に上げて、嫌気がさしていた。

「類が友を呼ぶ……じゃなくて、輪廻転生からの結びつきのように、魂や魔力等による関連性の維持が呼んだ因果と見ておられるということですか」

「ほう……どうしてその結論に至った?」

 部下の妄想かお伽話ともとれるほど突拍子もない発言に、上司は興味を示した。いや、むしろその結論が出てきたことに対する評価のような恍惚の笑みを浮かべた。

「それはまぁ……教皇様や七卿の方々を見れば、輪廻転生や魂の結びつきは実在し、この世界を支配する節理の一つだと思ってしまいますよ」

 教皇サクリス。正式な名はエルバルドル=サクリス五世。信徒であるかないかを問わず、世界中から一定の条件を満たす男児を探し出し、初代にして始祖たる救世主サクリスの偶像として祭り上げる。現教皇もこの制度で発掘され祭り上げられた五代目教皇と言われているが、多少の身体的特徴の差はあるものの、肖像画で見る先代や先々代の教皇と瓜二つである。一応、始祖たる救世主サクリスの奇跡が続いていると謳われており、奇跡を信仰の主軸に置く聖サクリス教においては長年信じられている。

 七卿。聖サクリス教において教皇に次ぐ実権を持つ、信徒内で最上位階級である枢機卿(カーディナル)を賜っている七人のことを指す。座席制であり、死去などによる空座が発生したときに入れ替わる。教皇と違い、性別・年齢・出身・所属地域・人相などあらゆる面で別人が選出されるが、選出された枢機卿の思想は確実に空座となった席の先代の名前と思想を受け継ぐ。思想についてはそれこそ選出された者の人生観や経験が無視されるといわんばかりの変化があるときもある。

「その見解は正しい。教皇聖下に関しては、必ずどこかにほぼ同一の個体か転生体が誕生するという摂理を世界に埋め込まれた可能性がある。でなければ、七色の光彩を持つ少年なんて、そう簡単に発生するわけがない。

 七卿に関しては、おそらく先代以前の者の魂が強力な残留思念として残り、選出された新しい枢機卿に乗り移るのだろう」

「でしたら……昨日、公開処刑されたマモナトス卿は……」

 マモナトス枢機卿。ウィンダリア地区における黒き風と呼ばれた超高濃度の呪詛による大量殺戮儀式魔法災害における真の首謀者。子飼いの司教マルコスにウィンダリア地区の恐怖支配体系を敷くように指示し、救済を求める人たちから寄付や献上品を吸い上げ続けた人物である。

 風の大精霊からもたらされた真実を知ったウィンダリア地区の住人たちの一斉蜂起による大暴動が発生。これを収めるべく、首謀者とウィンダリア地区内で横暴を働いていたサイペリア貴族たちの首を公開処刑形式で差し出した。また、これまでのサイペリア政府が行ってきた非道な人権侵害について、聖サクリス教が積極的な改善を呼びかけることを約束することで、一時的な事態の収束を迎える形となった。

「パフォーマンスだろうな。マモナトス卿は表向きは死んだものの、その魂は枢機卿席に戻り、ほとぼりが冷めるまでの間、眠りについたと考えている」

 ほとぼりとは言っているが、被害自体は領土拡大戦線直後から二十年にわたり続いた大殺戮であるために、十年単位で解消される溝ではない。むしろ有翼族(フェザニス)とサイペリア国との間に、永遠に埋めることのできない軋轢を表に出してしまった結果となった。現状のサイペリア国による支配体制が崩壊してしまう日も近いだろう。

「さて、話がそれてしまったが、この娘たちについては見ての通り、国や種族、思想を超えている。この人種差別が蔓延する世界においては、極めて異彩を放つ集団だ。それでいて、各個人の力が常人の領域を超えつつある」

「……そうですね。私も興味が湧いてきました。これから調べてみますので、多少の時間をいただきます」

「頼んだ」

「……ところで、シスター・ルカについては、どのような処分が下されましたか?」

 部下の男はガラス板の数値から目を離さなかったものの、興味本位にと仕事とは関係ない話を恐る恐る上司に振ってみた。

「彼女については穏健派の主張により、これといった処分はなくなった。むしろ巡礼の完了と、黒き風災害を止めたことの褒賞として、司祭(プリースト)への昇格が決まった」

 仕事とは関係ないといえ、目の前につり下がっている女たちと共に過ごしてきた少女だけが唯一、研究材料や処刑などの行き先が決まっていなかった。こと、身内であるならば、気にならないほうがおかしいだろうと、上司は部下の質問に快く回答した。

「いくら穏健派の進言とはいえ、手厚すぎませんか?」

「対外向けの印象操作だ。身内の泥は身内が濯いだ形にし、功績をしっかりと認める団体を演出する。そして新しい慈悲の象徴として、聖下と並ぶ広告塔に祭り上げる算段だろう。何せ、まことしやかに囁かれていたコーラリア氏のご息女だ。陣営の旗印にするつもりだろう」

「彼女も大変ですね……仲間とは一生会えなくなり、自分だけが順風満帆に出世街道。そして聖女として祭り上げられる。これで穏健派が、本格的に動き出すのですね」

「そういうことだろう。とはいえ、我々は与えられた任務を着々とこなすだけだ。では、男どもの検査を進めておいてくれ」

「了解しました」

 上司の男は部下の肩を軽く叩き、部屋を後にする。部下の男も、男性陣の検査を開始するために、機材確保や検体の輸送手配などの準備に追われるのだった。



◇◇◇



 ……体がだるい。頭が痛い。手首が痛い。妙に体が肌寒い。足先が気持ち悪い。周りが真っ暗だ。

(……違う、自分が目を閉じているから暗いんだ)

 今の今まで自分が寝ていたことを認識すると、体を取り巻く不快な感覚が鮮明になっていく。体がだるいのは、睡眠明けの弛緩しきった体に血が廻ろうとする感覚。頭が痛いのは、急激に血が走り出したための圧に体が負けているからだ。手首が痛いのは、なぜか自分の全体重を支えているせいだ。しかも金属のようなもので縛られている。だが不思議と痛みは瞬時に消え、瞬時に痛み出し、また消える。そして体が妙に寒い。

「……って、ちょ、な、なにこれ!? やだ、何も着てない!?」

 錆びついた瞼を無理やりこじ開けた先には、上着や袴どころか下着すら一切着ていない、いわゆる生まれたままの姿と呼ばれる全裸の自分の体があった。両手両足を縛られているために、胸や恥部を隠すことができない。手首足首を縛るのは筒状の金属と鎖といった枷であり、天に向かって万歳をするように両腕が広げられている。金属が生肌に当たっているために、体を揺らせば全体重を支える手首は簡単に傷つき、脱臼してもおかしくないが、先ほども感じたように痛みと傷が発生と癒えるのを繰り返す。そして、足元は薄っすらと緑色に光る液体が足首が浸る程度まで満たされているが、足は床面についておらず、完全な宙づり状態である。

 周囲の壁は石レンガのようであるが窓一つ無く、明かりになるものが足元の液体しかないため、光源から遠い天井部分はただの闇が広がっている。広さは畳十畳から十二畳の程の空間であり、広さのわりに暗さが目立つために圧迫感が激しかった。

「って、ネフェさん!? ネフェさん、起きて!!」

 空間を見渡すために右側を向いた先には、自分と同じく全裸で吊るされているネフェルトがいた。

「……カキョウ、さん。……これは一体。あら? あらあら、私たち何も着てませんね」

 寝起きのネフェルトは、寝ぼけ眼をゆっくりと開けながら、自身が全裸だという状況に慌てる様子もなく、あっさりと受け入れていた。

「ネフェさん、落ち着きすぎじゃ……」

「慌てたって仕方がないんですよ。見た限り、壁一面に彫られている紋様は鎖に繋がれている者が魔法を発生させることを封じるもののようです。それと足元の水は治癒と魔力の吸い取りを同時に行う魔法薬のようです。こんな状況じゃなければ解析したいですね。とまぁ、私たちは徹底的に封印されている形ですね」

 ネフェルトは周囲の壁を見渡すと、視線を天井に移動させ、こちらの鎖を辿ってそのまま足元の輝く水を見つめた。

「ほんと、冷静ですね……」

「それはですね……カキョウさんが隣にいるから、こうして冷静になれるってのもありますよ」

「私?」

「ええ。私一人だったら冷静にというよりは、おそらく絶望して、何も考えなくなります。でも、元気なカキョウさんを見たら、落ち込んでばかりじゃダメだって。どうにか糸口を探したくなるんです」

「ネフェさん……」

 自分が記憶している一番最後のネフェルトの表情は、『冷徹な殺人衝動』『廃人めいた無表情』といった血の通わない顔をしていたが、今のネフェルトはそれ以前の見知った聡明で血肉の通った明るい女性という状態だ。

「とはいえ、本当にこの状況、どうしましょうかね……」

 ネフェルトの見上げる先には、自らを縛り上げる強固な鎖。魔力が封じられていなければ自分は熱で溶かし、ネフェルトも高電圧の雷撃で溶かすことができただろう。引きちぎるほどの腕力は互いになく、本当になす術がない状態だ。

『おや? 目覚めましたか、ちょうどよかったです』

 突如として、暗い空間に響き渡る若い男の声。聞き覚えは一切なく、自分らを拘束している者だと推測できる。

『初めまして。私は聖サクリス教生体研究部のヴァプラと申します。あなた方の監視と観測を行っていました』

 響き渡る男の声とは裏腹に、姿は一切見せない。それでもこちらの様子を逐一監視できる状態から、今も裸体の自分たちを見ているとなると、怒りと恥ずかしさが一気にこみ上げてくる。

「か、監視と観測って、この状態で!? この変態野郎!!」

「カキョウさん、暴れたって無駄ですよ。おそらく気を失っている間に、体の隅々まで調べつくされているはずですから」

 とにかく恥部を隠したいとあれこれ動き回るものの、両腕は天井に、両脚は床向かって伸ばされているために、隠す術が一切ない。加えてネフェルトの冷静な判断からも、自分たちはすでに恥部を含めたありとあらゆる部分を調べ上げられているのだろう。もはや、外側だけではなく内部すらひん剥かれていると理解すれば、暴れまわることがいかに無駄かがよく分かった。

『お察しいただきありがとうございます』

「何がお察しよ……。ねぇ、ここはどこなの? ダインたちは無事なの!? てか、なんで私たち捕まってるの? 教えなさいよ!!」

 ヴァプラの落ち着いているというよりも感情と抑揚のこもっていない声は、現状への焦りを逆なでしてくるには十分であり、今にでも掴みかかりたい気持ちを抑えることができない。

『こちらが想像していた以上に元気ですね。では順を追ってお教えしましょう。まずはこの場所についてですが、ここは聖都アポリスです。あなた方をここへ移送して、二日ほど経過しましたね』

 聖都アポリスは、ルカの巡礼における最終地点であり、聖サクリス教の総本山といわれるグランドリス大陸中央北部の町とだけは聞かされていた。

(イス、だっけ……。アイツ、誰かに連れてくるようにって言っていた。あの黒い手の魔法がそうなのかな)

 ネフェルトの隣人であるモーザを生身の腕一本で貫き殺害した桃色髪の少女――イスの発言から、山頂で意識が途絶えた時に何らかの移送魔法によって、ここに移動させられたということが分かる。

 時間についても、寝起きに近い感覚を持っていたものの、自分たちが想像している以上に時間が進んでいたことにさらなる焦りが膨らむ。特にここには自分とネフェルトしかいないために、余計に他のみんなの安否が気になるところだ。

「聖サクリス教と聞いて、まさかとは思いましたが……。では、この拘束については、あなた方の仲間を殺したことが関係しているということですか?」

『そうです。先日、ウィンダリア地区フェザリール山の山頂にて、同区管轄司教であるマルコス氏との交戦記録および、彼の率いた僧兵(エクソシスト)隊を殲滅させたことについて、上層部はあなた方を脅威対象に認定しました』

「脅威って何よ……、私たちを一方的に殺そうとしてきたのはそっちでしょ!? アタシたちの行動は正当防衛よ!」

 まるで悪い予感が的中していたと言わんばかりのネフェルトの質問に、整然と答えるヴァプラではあるが、その内容には非常に納得がいかず、腸(はらわた)が煮えくり返る思いだ。

『カキョウさんのおっしゃる通り、法に照らし合わせても、あなた方はネスト所属であるために正当防衛が成立します。ですが、大精霊の加護があったとはいえ、あなた方はたった五人で実戦経験のある僧兵隊を殲滅させた力は、上層部に大きな危機感を持たせました。故に、あなた方の扱いをどうするかを現在検討中です』

 相手は世界最大の国力を有する国家の国教であり、数多くの癒し手を有する組織。先の戦闘でも癒し手の回復魔法を中心とした永久回復戦術の前に、非常に苦戦を強いられたばかりである。こちらとしてはあくまでも生き残るための戦いであっただけなのに、一方的な理不尽が続きっぱなしであり、ルカと彼女の育ったポートアレアのシュローズ教会を除いては、聖サクリス教に対する嫌悪が募るばかりだ。

「一応って、どいうことなのさ」

『まず、あなた達については、興味を示された枢機卿が数名おられますので、そちらに回されるはずです。シスター・ルカは信徒であるために安全が保障されています。残る男性二人については現在投獄されており、処分内容の決定を待っています』

 これは二番目の質問である、ここにいない三人の安否についてだ。ルカは同志としての保護と、組織に楯突いたことによる処断のどちらかの可能性を考えていたが、前者となったことに一旦は胸をなでおろした。

 しかし男性陣については、自分たちと同じ立場であるにもかかわらず、内容の不穏さが気になる。

「しょ、処分ってどういうことなの!?」

『そのままの意味ですよ。引き取り先が無ければ、処刑かと……』

「処刑って……死ねってこと!?」

 引き取り先という表現からも、自分の中にはここがサイペリア国の一部であるということを思い出させてきた。自分とネフェルト、ダインとトールの違いといえば、性別に加えて希少人種であること。つまり、自分たちは愛玩目的での引き取り手が複数手を挙げている状態であり、逆に男性陣は愛玩として魅力がないために、引き取り手不在のままに廃棄という処刑の未来しか残されていないという現実。

 現在、二日経った今でも生きているということが確認できたのはよかったのかもしれないが、その間に何も決まっていないというのなら、彼らの処遇はほぼ死を意味してきていると思われる。

「待ってください。そもそもは聖サクリス教による黒い風災害……いえ、故意の人災を私たちは止めたにすぎず、また真実を知った私たちを抹殺しようとしたのは教会です。黒い風の真相については、今やウィンダリア地区のすべての市民が真実を知る中、聖サクリス教の行動がまかり通るとは思いません。また、ネストをはじめ、黒い風の調査に人員を割いた各組合が黙ってはいないでしょう」

 ネフェルトの新しい質問、というよりはヴァプラに対する威圧的問答だった。彼女の言葉通り、黒い風の真相はウィンダリア地区市民が知り、貴族廃絶のための暴動が始まる可能性がある。また声を聴いた市民の中にはマーセナリーズ・ネストのフェザーブルク支部の者たちも含まれている。たとえ、事の内容がウィンダリア地区内の話にとどまったとしても、真相は可及的速やかにサイペリア国首都にあるネストの本部へ伝えられ、真相への糾弾はもとより調査隊へ動員された所属傭兵の殺害に対する損害賠償などが発生する。

『あなたの意見は至極全うです。実際、あの大精霊声明の直後から、フェザーブルクにおいて大規模な貴族狩りが発生しました』

 風の大精霊ラファールによる真実の風が吹いたのは早朝の始業時間帯であり、多くの者たちが仕事の手や勉学の筆を止め、声と真実を聞き入った。中には山頂を見上げ、色彩豊かな炎が昇る様を見て泣き崩れる者もいた。

 その後、世界の真実と司教マルコスの登場によって、涙していた者たちは武器や農具、工具、調理器具の中でも殺傷能力のある物を手に持ち、貴族の屋敷に大挙。黒い風災害に加担していたかどうかは問わず、有翼族(フェザニス)に対して悪辣非道を繰り返してきた貴族はその場で撲殺、風都特有の数百m規模の断崖から投身、丸裸状態による風都追放などの自分たちが味わってきたすべての悪行を返した。下山用の装備が一切ない状態で追放を食らった貴族たちが、最短の町である商業都市ルノアに到着したという報告は一件も上がっていない。なお、有翼族に対して手厚い保護を行っていた人道派の貴族に対しては、疑いが晴れるまでの間、それぞれの屋敷においての監禁状態となっており、本国との連絡が取れない状態となっている。

 また、フェザーブルク内の教会については、司教マルコスの単独行動であることが修道士長から説明され、これまでの人道支援や残っていた修道士たちの人柄を鑑み、現状は人道派の貴族と同じく監禁処分となっている。だが、事の真相が修道士たちにも非常に重くのしかかり、自害する者まで発生している。

 これらの暴動は誰かの扇動があったわけでもなく、皆が自然と行動したものであった。いわば、領土拡大戦線後から積もりに積もったサイペリア貴族からの不当な扱いに対する感情が爆発したのは言うまでもなく、それを誰一人止めようとしなかったあたりが、旧ウィンダリア国における民意そのものだったということだ。

『あと、ネストを代表に、ブレイドファングとマジェスティック・スペラーズが連名で説明請求と責任追及の声明も発表されました』

 大規模傭兵企業であるマーセナリーズ・ネスト以外にも、荒事や特殊案件に対する人員派遣を行う企業や組合は複数存在する。その中でも物理的な攻撃を専門とする戦士だけに特化したブレイドファングと、数多くの魔術師や薬師、錬金術師、教会に所属していない癒し手といった後衛魔法職が加盟する組合マジェスティック・スペラーズ。どちらも、マーセナリーズ・ネストとともにウィンダリア自治政府からの依頼で数多くの調査員を派遣しており、時には三組合合同の調査隊を結成するなど組合間の繋がりも強かったが故に、三組合の連名による訴求が行われた。

 サイペリア国内においても、戦闘従事職組合の中で三大の名を冠する巨大組織の連名声明であるために、政府および教会に対する対立および攻勢という構図が出来上がった状態であり、関心事を越えて平民と貴族という身分制度の在り方について、皆が疑念を抱きつつあった。

 当然のことながら、ことは国際問題まで波及しており、非人道的な行いの政府および国教ぐるみの大量虐殺については、諸外国からの非難も上がっている。特に貿易のみの国交という形でつながっている有角族(ホーンド)の国コウエンでは、以前から人権擁護法における自国民の強制的な乙種(敗戦国の種族と同じ奴隷並みの扱い)認定に不満を抱いており、何度も鎖国と開国を繰り返していたが、此度の人災判明後は徹底的な国交断絶に加え、敵国認定とする旨を表明。

 また、同盟国家である巨人族(タイタニア)の国ティタニスと魚人族(シープル)の国ミューバーレンからも、非人道的な恐怖政治に対する姿勢に同盟解消および税関優遇措置撤廃の検討段階に入ったという声明も受けた。

『一応、貴族院と教会としては、今回の件は司教マルコス及び上席である枢機卿マモナトス、一部の本国貴族によるの単独暴走であると説明し、人災に加担した過激派貴族は公開処刑という形で落とし前をつけてきました』

 サイペリア国の政治機関である貴族院でも、以前から権威と権力を振りかざすことに躊躇いのない過激派と、過激派を非難し融和政策の必要性を訴える人道派に分かれていた。今回の人災については、過激派の中でも一部の者たちによる独断によるものとして、内外ともに手打ちとしてほしいという構えを見せた。他にも、人道派の意見を取り入れ、ウィンダリア地区に対する人権擁護法の一部緩和措置や黒い風人災に対する被害者遺族への救済措置も行うことを決定し、これを全世界に対する落とし前として、事態の鎮静化を図っている最中である。

「それのどこが落とし前なんだか……。結局、他の過激派が残っているのなら、また新しい手を使って、裏で色々と人種差別するってことでしょ? そんな見え透いた策なんて、誰も許さないでしょ」

『他国ならそうでしょうね。しかし、このサイペリアという国においては、まかり通るんです。実際、関心事となっても最終的には東側……正しくは首都に住む人間が平穏かつ安全に暮らせるのであれば、その他すべての人間はどうなってもいいという根本的な感情があるために、結局は過激派の考え方が国の考え方となるわけです。なので国際問題に発展したとしても、この国の軍事力等で黙らせれば無問題ということになるのです』

「何それ……。いつでも戦争してやるよって構えじゃん」

『そうですよ。この国の上層部を支配する過激派の考え方は、二十年前の領土拡大戦線における大勝利の味を知っているからこそ、国土、人口数、資源産出量としても超大国となったこの国が、他国との戦争で負けるはずがないという自負に溢れています』

 ヴァプラの言葉に加えて、現在の軍事力の中には、国教である聖サクリス教の癒し手集団も含まれているために、その無駄に膨れ上がっている自負の念が刃となり、同盟国を含めた全他国に向けられている状態となっている。

 特に大量の癒し手を内包する戦闘集団の恐ろしさというものは、二日前の戦闘において嫌というほど味あわされた。攻撃する傍らから回復していく様は、もはや不死者を連想させるほど不気味な光景であり、完全な部位切断や急所一突きによる殺害をもって回復不能状態にしなければならないという、難易度の高い戦闘と技術を求められる。

『とはいえ、今回の件で三大組合を敵に回した形となったのは、過激派としても相当な痛手だったはずなので、しばらくは大人しくなるでしょう』

「そうは言いますが、ネストはあくまでも民間組織という枠からは脱しません。国軍なり法務なりの力を使えば、敵に回したところで簡単に捻り潰せるんじゃないんでしょうか?」

『上層部も最初はそう思っていましたが、それを覆すことになりかねない存在が現れました。それがあなた方です。あなた方は単純に四倍以上の戦力比を覆しました。戦闘記録からもそれが偶然ではなく、個々の技術や能力の高さからによるものであり、それでいてあなた方はまだ新人ともいうべき位置です』

 自分たちを脅威と認定した真の理由はここにあった。自分たちが本当にあくまでもネスト内における新人であるならば、すでに中堅以上の所属傭兵たちはどうなるのだという議論が持ち上がった。

 元々、マーセナリーズ・ネストという組織の前身は、領土拡大戦線の終結後に行われた徴兵の再編成によって、正式軍属とならなかった者たちや能力不足の判定をもらった者たちの受け皿として作られた左遷組織である。それを現在の総本部長を筆頭としたネスト上層部による再教育と組織編成によって、現在の実績と社会的地位を獲得することができた歴史がある。

 しかし、サイペリア国の貴族院の印象は、あくまでも過去の左遷組織に毛が生えたという認識が強く、国軍及び聖サクリス教の僧兵隊を合わせた集団に敵うはずがないと思い込んでいた。それが新人集団によって覆された今、自分たちは腹の中に抱えていた猫は、獰猛な牙を持つ虎かそれ以上の猛獣なのではという危機感に駆られている。

 またマーセナリーズ・ネスト設立の際に国と交わされた契約の中には、ネストはいかなる有事においても軍属することなく、独自の判断による行動を行うことができるという条項がある。これは有事の際に軍や政府の指揮系統に左右されることなく、単独による作戦行動を行う権限を有するというもの。それが国とネストとの間で有効な関係が続いていたのならば、独自の判断によって国家の危機を救う別動戦力にもなったのだろう。しかし、黒い風人災に多くの所属傭兵を奪われたネストにとって、これを人為的に起こしていた国と聖サクリス教へは不信感を超え、牙をむく十分な理由が与えられた状態である。

 加えて、この国と交わされた契約は強力な法的拘束力を持ち合わせ、国側からの法の破棄による国軍への参加強要は認められない。そのような事態となれば、それこそ国とネストの全面対決となり、国側のほうが四面楚歌となる。

『ですので、教会上層部と貴族院にとっては、海向こうの手出しがしづらい他国よりも、腹に抱えていたと思っていた武装組織に対する姿勢をどうするかに悩まされている状態です』

 結局は、サイペリア国の首都に渦巻く根本的な傲慢が生み出した負の大連鎖が、今になって表面化したに過ぎなかった。



『さて、今日はあなた方に会いたいという方がいらっしゃっておりまして、もう待ちきれないと暴れて、そちらに入っていただきますね』

 姿は見えないものの、話せばわかる風な男の声に妙な安心感を覚え始めたが、目の前の壁の一部が床に消えると、安堵を吹き消す人物が室内に入ってきた。

「暴れてなんてヒドくない? って、はーい☆ ちゃおちゃお! おはようさん☆ 元気ぃー? よく眠れた? あれ? 何その目、アタシのこと忘れちゃったの?」

 膝裏まで到達しそうなほどの桃色の長髪。先日は下ろしていたが、今日は左右の頭の高い位置で黒い装飾布を使って括られている。瞳の色は自分に似た明るい紅玉を思わせる赤い瞳。肌は病的に近い透き通った白であり、肌を分断するように胸と腰回りだけを覆う面積の少ない黒い布地の服を着ている。手には服と同じ黒の指貫手袋を装着している。

「いんや、よーく覚えているよ。イス」

 先日は聖サクリス教の修道服を着ていたため印象が大きく違うが、その狂気に満ちた笑みを忘れることはない。その病的に白い腕で、ネフェルトにとって全ての厄災となった隣人のモーザを貫いた光景は今でも脳裏に焼き付いている。

「いやー! さすがカキョウちゃん! ありがとね☆」

「褒められても嬉しくない」

 捕獲命令さえなければ、なぶり殺して遊ぶような笑顔を向けられていたのだから、当然の嫌悪ではないだろうか。

「……何よ。その態度」

 だが、それが気に食わなかったようであり、イスは部屋の入り口から大股で近づいてくると、むき出し状態の左胸を掴み、引きちぎらんばかりの握力で握り潰してきた。

「イダ、イ! 何、すんのよ!」

「こうして見ると、ちゃんと女の子の体してるんだねぇ…………ムカつく」

 つかみ上げていた胸を投げ千切るように放り投げると、今度は右側から目いっぱいの力で胸を叩いてきた。

「イタッ!!」

「アタシと同じ」

 次は左頬に平手打ち。

「前衛で」

 逆の右頬に平手打ち。

「女の子なのに!」

 回し蹴りで左の腰を強打。

「傷物の体のくせに!!」

 次は逆回転で右の脇腹に足が食い込む。

「なんで全部持ってるのよ!!!」

 最後は正面から腹に向かって、重いっきり蹴りを入れてきた。何も入っていない胃袋から、胃液だけがあふれてくる。途中からは声を上げることもできないほどの激痛に襲われ、意識が飛びそうになったのに、足元の治癒水のせいで暴行を受けたそばから傷と意識が癒されていく。

「止めなさい! こんなことをしても、貴女が望むものは何も手に入りませんよ!」

 ネフェルトの制止によりイスは暴行を止めたものの、その瞳は一層見開かれ、血眼という言葉が似合うほど白眼に赤々しい血管が浮かび上がっている。

「ウルさい! 黙れ!! そんなこと分かってるから、こうするんだよ!! だいたい、アンタは何様? 後衛で動かないから、こんな無駄におっきなものをぶら下げて、私女王様とでも気取ってるの? 気持ち悪いんだけど!!」

「イッ、アアアアアア……!」

 果物は熟すほど柔らかくなり、その形を簡単に崩してしまう。今まさにたわわに実った果実はイスによって握りつぶされ、鬱血による変色が起きている。手の食い込みは妖艶さを演出せず、悲鳴も相まってただ眼をそむけたくなるほど痛々しい惨状を作り上げていた。しかしこの傷も治癒水のせいですぐに治るために、イスの遠慮無さに拍車がかかる。

「いい? アンタたちの品のない胸や尻が奪えるんなら、とっくにやってるっちゅーの! ほんとマジムカつく。殺せるんなら、今すぐ殺してやりたい! アンタもカキョウも、みんなみーんな殺してあげるんだから!!」

『イス様、そこまでにしてください』

「何よ、アタシに命令するの? 殺されたいの?」

 姿こそ見えないが、イスの殺意に満ちた瞳に覗き込まれたであろうヴァプラは、一瞬だけ息を飲みつつも言葉を続けた。

『彼女らの処遇については、アスモス様より一任されております。ご自身が手を下す時までは、精神も健全であるようにとのことで……このままイス様が暴行を続けられると、精神崩壊を起こしかねません』

「あんの、エロダヌキめ……。ふん、分かったわ。これで勘弁してア・ゲ・ル」

 ヴァプラの制止は一応の形で受け入れられたものの、最後の逆恨みとばかりに、つかみ上げていたネフェルトの胸を投げ捨てるように放った。外傷こそないが、投げ放たれたはずみで靭帯が損傷したのか、ネフェルトは最後に再び甲高い悲鳴を上げると、力なく頭を垂らした。とはいえ、数秒後にはその痛みと傷も消滅しており、すぐさま顔を上げることとなる。まさに永久暴行による拷問である。

 怒りを中途半端に止められたイスは、不機嫌ながらも指示に従い部屋を後にしようとしていた。入口に差し掛かった時、くるりと踵を返して、桃色に輝く長髪を風に乗せるように翻すと、あまりにも不敵で狂気に満ちた笑みを浮かべていた。

「もしさ、アンタたちと戦えるチャンスがあったら……次は絶対殺す。じゃぁね~☆」

 まるで親愛なる友との一時の別れに挨拶するように、手をひらひらと振りながらイスは部屋を後にした。だが、イスの発した“絶対殺す”の一言には、本気の本気を乗せたドスが効いていた。彼女はまさに厄災の暴風と言わんばかりに、様々な怒りや憎しみを一方的にまき散らかしては、あまりにも台風一過そのものであった。

『お二人ともイス様のお戯れにお付き合いいただき、ありがとうございます』

「あんなのが戯れ?! ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」

『お気持ちはお察しします。ですが、あの方にとっては暴行も殺人も戯れの一種なのです』

 ヴァプラの言葉だけなら紳士然としたものだが、そこに感情は乗っておらず、さながら観察対象の状態保護を優先した形式的なものでしかない。こちらがどんなに噛みついたところで、所詮は検体や実験動物と同じ扱いなだけだ。先ほどの安堵間感を返してほしいものである。

 そして、イスの行動。暴行も殺人も戯れというのは今の行動に加え、モーザを殺害した時の行動や恍惚の笑みがすべてを物語っている。一言で言うなら、狂人である。

「それにしては、あまりにも理不尽な当てつけでしたね。彼女のコンプレックスは、主に性的特徴に関する身体部分ということでいいですか?」

 ネフェルトの発したコンプレックスという言葉には聞き覚えがあった。簡潔にまとめるなら特定の物事に対する強烈に抱いた感情であり、それが愛着や嫌悪と両極端な位置づけの感情にも適用される言葉であること。自分の場合は、角の発育不良と体中にある無数の傷に対する性への劣等感として、それが他国でいうコンプレックスという言葉だということを、数少ない故郷の友人が教えてくれた。

 思い返せば、イスという人物は顔付きや体格から自分と同じぐらいの年齢と少女であることと想像していたが、実際に見た姿はネフェルトが指摘した通り、性的特徴が少ないと感じてしまうほど、体の凹凸が少なかった。当然、個人差というものもあるために、持たざる者が持つ者へ羨望を抱くことは不思議なことではない。しかし、イスの他者に向ける感情は羨望を通り越して、嫌悪や殺人の動機に走っているあたりは非常に危険な状態である。

『おっしゃる通りです。せっかくなので、少しお話ししましょう。イス様は肉体の根本的な成長はありますが、生殖器をはじめとする性関連の身体的特徴が一切発達しておりません』

「一切!? え、ね、ネフェさん、そんなことってあるの?」

「ええっと……私にも分かりません。一応、見た目も心も女性……のようでしたから、書面上は女性なんでしょうか……。いや、そもそも男女を分ける根本的な境界線は……、とらんすじぇ……」

 ヴァプラからの言葉に二人とも一度息を飲むと、ネフェルトは自身の持てる知識を総動員しながらも、分類や定義の深みに落ちていき、自分でも聞き取れない専門的な単語まで出始めている。

「し、質問! イスは、一応女の子、でいいんだよね?」

 悩むぐらいなら、ここは単刀直入に聞いてしまったほうが早い。特に本人がいるというわけでもなく、相手もどことなく質問には答えてくれそうな雰囲気はしている。

『そうですね。我々は一応、女性として分類はしております。まぁ、現状は男性と定義するための性器形成がないため……という程度ですけど』

 実際にこの目で物を直に確かめたというわけではないにしても、胸や腰といった局部のみを隠すといった極めて布面積の少ない服装で体の輪郭がはっきりと映っていたイスの姿から見ても、男性を象徴するような部分や骨格は一切見受けられなかった。

(持つ者と、持たざる者……)

 イスが露わにした嫌悪は、元をたどれば持つ者への羨望と、持たざる自分への絶望である。それは自分もつい最近まで魔力に対して同じような感情を持っていた。そしてまだ、成人の半分以下の大きさしかない角に対しては、同じように持たざる者としての感情を持っているものの、自分が今いる場所は誰も大きさを気にしないために絶望を忘れつつあった。

(これが故郷だったら……)

 角の大きさが本人の人格や素質を判断する要素となっているコウエン国なら、どんなに強力で膨大な魔力を持とうとも、他国で称賛を浴びようとも、小さき者は半端者か永久半人前として、死ぬまでなじられ続ける。

 故に持たざる者として、持つ者に対する羨望が同時に自分に対する絶望であり、こんな体で生まれてきたことに対する全方面への嫌悪を抱くことも分かっている。

「私とイス……、確かに似ているのかな」

 人体を貫通する手刀の刺突から見受けれる熟練した技術は、まさに近接戦闘の極致といっても過言ではない。魔術師であるネフェルトに行動を感知させなかったあたり、魔力による補強は行っていない。純粋な腕力や技術だけで完成させた殺人術は、自分の剣術に通じるものがある。

 そして己の肉体に対する絶望や嫌悪、一応の女同士、近しいと思われる年齢。生まれや育ちの違いはあれど、ここまでに似通ると敵ながら親近感を覚えてしまう。

「全然、似ていませんよ」

 しかし、自分の言葉はすぐに力強く否定された。声の主であるネフェルトを見ると静かに、だが明らかに怒りの熱の込められた視線で、こちらを見ている。

「カキョウさんは卑屈になるときがありますけど、ちゃんと自分自身と向き合い、受け入れ、前に進もうと努力し、常に自らの意思で道を選択している。それはすごく大事なことであり、難しいことであり、実行できる人間はすごいことなんです。無いものねだりで癇癪を起し、他人に危害を加える人とは大違いです」

 自分にとって、持たざる自分と向き合うのは苦痛であると同時に、不変的なものだからこそ受け入れざるを得なかっただけだ。持たざるが故に持つ者と同等に生きるためには、体中に消えることのない傷跡を残してでも努力せざるを得ないものだと思っていた。

 だが、ネフェルトはそれを美点と言った。ネフェルトだけではない。ダインをはじめ、仲間の皆が自分の存在とこれまでを肯定し、能力や才能として認めてくれた。出会う以前までが存在を含めて否定され続けてきた人生だったために、皆の言葉はすべてが目から鱗のようなものであり、自分にとっての当たり前が特殊なものだとようやく理解できた。

「ネフェさん……ありが、とう……。あたし……がんばってこれた、んだね……」

 目からは鱗ではなく、大粒の雫が流れ落ちていく。魔力のなかった時から皆が肯定してくれていた意味が比較されることによってようやく理解することができた。仲間たちの想いがこれほどまでに暖かったものかと感じると、早くみんなに会いたいという気持ちが膨らんでいく。

『ま、私から見てもカキョウさんとイス様じゃ、全然違うと思いますよ。あの人、機嫌悪くするとすぐに誰彼構わず攻撃してきますし、酷いときは殺されちゃいます』

 こちらの湿っぽい雰囲気をお構いなしに粉砕してくるヴァプラの声。だが、拭うことのできない涙に加え、心と頭の切り替えにはこれぐらいの冷めた感覚のほうが、心地よいのかもしれない。

「うへぇ……それはただの殺人鬼じゃん。そんな人が信徒で、しかも自由に出歩いていていいの?」

『イス様は特別権限持ちであり、また厳密には信徒じゃありません。自分やイス様は聖都が必要とする能力を買われて雇い入れられた外部の人間です』

 聖サクリス教は本来、総本山である聖都アポリスはルカが行っていた巡礼を終えたものだけが住まうことを許される絶対的な神聖性の高い場所であると聞いていた。しかし、実態は教団の上層部の意向次第で、外部の人間を招き入れることも多々あるようであり、対外的もしくは一般的な信者に向けた教義とのは大きくかけ離れている。いわば、上層部による教団の私物化状態だという。

「はぁ……観察官である貴方といい、殺人鬼といい、聖サクリス教は何がしたいんですか?」

 ネフェルトの呆れ声は最もである。聖サクリス教は宗教集団として清貧な印象を持っていたが、清の部分は黒い風事件や霊峰山頂での戦闘、此度の拉致及び監禁によって大きく崩れ去っている。

『それはまぁ、この国の……いや世界の支配でしょ。災害と教義によって人心を掌握し、献金としてあらゆる金品を貢がせ、奇跡と武力をもって各国を脅かし、表立たずにあらゆる方面で支配する。とはいえ、聖都に住む全員ではなく、上層部の一部というのが正しいですね。知らぬ信徒たちも多いので』

 結局のところ、貧の部分もこれで崩壊した。自らの私腹を肥やし、欲望を満たすために甘く美しい教義で人を集め、時には恐怖心を利用する。たとえごく一部であろうとも、黒い風事件はすでに何万人という人命が失われ、何百万のウィンダリア民を恐怖に貶めてきたことには変わりない。極めて卑劣で、悪質な掌握方法である。知らぬ信徒たちの中には、当然ルカが含まれるだろう。

「はぁ……、まぁそんな気はしてました。黒い風の元凶がそちらであった以上、宗主国であるサイペリアと共謀した恐怖政策により支配の実験場だったのではと考えていましたが」

『その考えであっていますよ。ウィンダリア以外にも、南部のラジプトもまた似たような恐怖政策による圧力で支配しています。樹人族(エルフ)の国であったテオドールは戦争で完全な焼け野原にされ、生き残った者たちを王宮や聖都で飼うことで制御している感じですね』

 ネフェルトとヴァプラの間で、次々と怖い単語が行き交う。黒い風のような人命を使った恐怖政治はウィンダリアだけに収まらず、サイペリア国に吸収されてしまった旧国も同じような、もしくはそれ以上の悲惨な状態であることが語られた。

「ねぇ、王宮で飼うって……それ、もしかして人権擁護法の……」

『そういうことです。エルフは敗戦国条項にて戦勝国民及び戦勝種族の支配下に置かれる関係で、生き残りは自分たちの目の届く範囲で管理するためにということです。まぁ、戦争による大殺戮にあった後では希少種族化してしまったために、どんな扱われ方をしたかは想像できますよね。あなたたちの今の状態も、敗戦種族であるフェザニスと、不参加による乙二該当種族であるホーンドであるためですね』

 もはやサイペリア国の公然にして巨大すぎる闇である人権擁護法。名前は人道的な法律であるが、中身は戦勝国であるサイペリア国民と同盟国だけを守り敬う一方的な悪法。敗戦国民を公然とした奴隷として扱うような記載がされ、戦争に参加していない国の種族も問答無用で敗戦国と同じ扱いをする。以前、トールやネフェルトから聞いていた話は、行く先々の町では差別的な扱いをあまり受けなかったために、本当にそんなものがあるのかさえ分からなかった。

 しかし、今こうして全裸の状態で吊し上げられている状態こそ、まさしく人権擁護法における敗戦国民に対する処遇そのものであり、奴隷や実験動物として扱われている。また、自分たちの行き先が愛玩動物化の気配が強まっている今、いよいよ悪法の牙を突き立てられると、どこか遠い世界の話と感じていたものが、自分にべったりと張り付くような気持ち悪さとなって現実味を嫌でも感じさせられる。むしろ、今まで種族に囚われず接してくれた人々の温かさが、より一層身に染みた。



『……さてさて、長話が過ぎましたね。ここからは、私から質問させてください。カキョウさん』

「何よ」

 自分たちが今あられもない姿で閉じ込められているのは、理不尽な法律と組織力によるものだと理解すると、敵側でこちらを道楽的に観察するヴァプラの姿なき声に、再び苛立ちを感じ始めた。

『あなたの一人称が、魔力の覚醒以来「アタシ」と「私」でぶれていることをお気づきですか?』

「……!?」

 確かに自分は、自分の魔力が覚醒した時を境に、一人称を意識的に変えた。しかし、それはつい最近の出来事であり、仲間たちにすらバレていないと思われるほど、小さな変化であったはずだ。

「アンタは……、いやアンタたちはいつから、あ、私たちを監視していたの?」

 あくまでも意識的に変えていたので、動揺を与えられれば、素である『アタシ』のほうがまだ出てくる。

『監視とは少し違います。我々、生体研究部にとってあなた方は最高の観察対象であり、できれば危害や接触はなるべく少なく、のびのびとした姿を見せていただければそれでよかったんですよ……』

 ヴァプラの言う監視と観察の違い。前者は聖サクリス教に対し、敵対の意志を見せないか警戒するための行動であり、後者はあくまでも調査や考察に必要な情報を得るための行動でしかなく、観察対象に対してはなるべく私生活を害することなく、観察していることを悟られないようにする一定の敬意を払っているという。

 しかし、観察し続けるということは、次第に距離を詰めた上で、より濃密で正確な情報を収集したくなるというもの。それについては、今回の教会による拉致監禁は、ヴァプラにとって半分は不本意ながらも、半分は歓喜という対極に位置した感情が渦巻いているという。

『おっと話がそれました。あなた方がユル……、大鎌を持った樹人族(エルフ)の女戦士といえば分かりますか? 彼女と初めて遭遇したキスカの森のオーレル子爵所有研究所地下の後からですね』

「あの人が、ユル……。イスが言っていた人」

 自分が生きてきた十七年の歳月なかで、一二を争うほどの強烈な女性を忘れるわけがない。自分と同じように肩口で切りそろえられた翡翠色の髪から覗かせる、樹人族(エルフ)の特徴である細長くとがった耳。背丈は一六〇cm台のネフェルトを超え、一八〇後半のダインの肩に顔が来るぐらいの長身。どこに筋肉がついているのかも分からないほどの女性的膨らみと均整の取れた細身の肉付きであるにもかかわらず、愛用している武器は自身の背丈と変わらないほどの柄の長さをもち、太ももと変わらない刃幅を持つ巨大な鎌である。

 出会いも最悪なものであり、キスカの森の地下研究所にて出会っただけで敵認定され、周辺で大量発生していた不死者とともに自身の得意とする樹属性の魔法によって、見敵必殺されそうになった。二回目の遭遇では、トールの実家がらみで因縁をつけられた横暴男爵の夜襲時に取り囲まれた際の危機を救ってくれた。これは最初に遭遇した時の間違いに対する清算であるとは言っていたが、自分たちの見解はこちらに対する謎の組織からの監視活動の一環という結論に至った。

 結局は謎の組織というのが聖サクリス教であったというだけの話である。

 監視と結論付けた根拠の中に、当時のユルの発言にあったサイペリア国の貴族を統制する組織である貴族院との繋がりが示唆されていたが、サイペリア国の国教である聖サクリス教なら貴族とのつながりも濃密であることは想像に難くない。

『そうです。彼女らは我ら聖サクリス教の異端審問官(エクスキューター)の上位職である断罪官(ドミニオン)たちです』

「異端審問って、私たちは信徒じゃないし、ルカはアンタたちの教義から逸れるようなことはしてないでしょ!」

『言いたいことはわかりますが、あくまでも我らにとって脅威となるモノすべてに対して排除行為を行うのが異端審問官であり、断罪官の役割なのです。まぁ、あなた方は先ほども言いましたが、私たちにとって最重要観察対象でしたので、危害を加えないように取り計らってもらっていました』

 つまり、樹人族(エルフ)の女戦士ユルから報告を受けた聖サクリス教内では、こちらの素性を精査するための監視活動と並行して長期にわたり観察と情報収集が行われていたということだ。

 なお、黒い風事件での司祭マルコスによる事実隠蔽のための殺害行為については、異端審問部及び生体研究部は関与しておらず、司祭マルコスとその上司である枢機卿マモナトスの独断専行によるものだという。ユルと同じ断罪官であるイスについては、司祭マルコスの監視及び自分(カキョウ)に対する興味を持ったがための接触として、あの山頂に居合わせたということだ。

「はぁ……つまり、私たちって、ずーーーーっとアンタたちの手の平で踊ってたってわけ?」

『いえいえ、我々生体研究部としては、本当にあなた方を観察していたかっただけです。異端審問部や枢機卿の方々がなんと思われているかは分かりませんが、この教団も一枚板じゃないとだけは分かっていただけると幸いです』

 ヴァプラの言動はあくまでも生体研究部としてでしかないことの念押しだ。むしろ、自分たちに対する観察、監視、殺害行為がすべてが聖サクリス教の一元化された総意であるなら、信徒であるルカすらも切り捨てる行為であり、教義である『奇跡と愛を万民に』を信徒にすら向けない逆心的な行為である。

『ああ、またまた話はそれてしまいましたね。それで、どうして一人称がぶれているのですか?』

 その点については、樹人族(エルフ)の女戦士ユルの話題でどうにか逸らしたかに思えたが、さすがに興味の矛先が簡単に変わることはないようだ。

「言われてみれば、確かにカキョウさんはあの時から自分の呼び方を変えてますね」

 加えて、これまでの情報を自身の中に落とし込むために黙っていたネフェルトが、ヴァプラに加勢する形で口を開いた。彼女は一行内でも知識欲が高いことはずっと感じており、熱のこもった視線で一つの解が出されるのを待つ姿勢だ。

「…………魔力を持った自分(ワタシ)っていうのが本来あるべき自分なら、それ以前の自分(アタシ)は捨てるべきじゃないかと思ったの」

 語ることが恥ずかしいというよりは、ネフェルトに自分が自分であることを諭された後で、自分の心の恥部を改めてさらけ出すことが恥ずかしかった。

 自分にとって、魔力のなかったころの自分は偽物であり、魔力がある今の自分が本物の自分であるなら、偽物はこの世に必要ないと思った。それは単純なる過去の清算ではなく、醜く地面に這いつくばることでしか生きることのできなかった過去の自分を箱の中に封じ込める意味があった。

「もう……何を言っているんですか。今まで培ってきたものや経験、辛かった過去があるから、今の貴女があるんです。私は魔力のなかった頃の貴女を知っていますし、あったところで何が違うんですか? さっきも言いましたが、カキョウさんはカキョウさんですよ。何人にも侵されることなく、何人にもなりえません。だから、無理して変える必要はないんです」

 先ほど諭されたばかりだからこそ、ネフェルトから言われることは分かっていた。

 過去を含めた自分が今立っている自分なら、魔力のなかった過去と魔力を得た過去が、自分の今の過去であり、同一の自分なのだと。結局はそれら含めてが自分である以上、それを否定してはならず、経験として受け入れるべきなのだと。

 そして何よりも、変化を否定することなく、これまでとこれからのカキョウという存在を認め、受け入れているのは、ネフェルトを含めた仲間たちなのだ。

「……それに、彼ならなおさら、あなたが自分を否定することを望まないと思いますよ」

 そこで敢えて彼という単語を用いて、強調される意味。

 彼ことダインは、自分に生きる権利と機会を与えてくれた。魔力を得た時には静かに、だが溢れんばかりの笑みで喜び、自分が必要だと言ってくれた。傍から見ても、自分たちの間には特別か少し変わった関係性を見出すほど、自分とダインの距離は近い。そこに男女としての距離が加わっているかどうかは分からないものの、少なくとも自分から彼に対しては恋慕を抱いており、故に彼から虫嫌いによる一時的な戦力外通知を受けた時には、この世の終わりを感じるほどの絶望に体を震わせた。

 それほど、彼という存在はすでに自分の中を大きく支配しており、恐らく永遠に切り離すことのできない存在と化していく。

 だからこそ、観察力の高いネフェルトはあえて彼という単語を持ち出し、彼女のらの願いも含めて彼に代弁してもらう形で、言葉を送ったのだろう。

「……あはは、そうですね。あーもう、自分が馬鹿らしいなぁ。……ネフェさん、ありがとうございます! 『アタシ』ことカキョウ、ただいまです!」

 こんなにも温かい言葉をもらったのなら、もはや笑いと喜びしかこみ上げてこない。自然とこみ上げてきた感情は『アタシという自分』の帰りを高らかと宣言した。

「ふふふ。はい、お帰りなさい。こんな状況でなければ、抱きしめてあげるところなんですけどね」

 嬉しそうに微笑むネフェルトの顔からも、安堵したのが伺える。逆にそれだけ心配をかけてしまっていたことに、申し訳なさを感じてしまう。

 さて、こんな状況と言われ、改めて自分らや周囲を見渡した。自分たちは鎖によって全裸で吊るされている。しかも足は床についておらず、くるぶしまで治癒水で満たされており、吊るされている手首の傷や筋肉痛、筋の断線なども瞬時に回復される。鎖と部屋全体にこちらの魔力を封じる魔術が刻印されており、自分の熱によって鎖を溶かすなんて芸当もできない。瞬時に傷が癒えるなら、無理やり体をゆすって鎖を天井から剥がすことも考えれなくはないが、何日どころか何週間先の話になるか分からない。

 仮に鎖を破壊できたとしても、周りは苔むした石レンガによって作られ、唯一の出入り口では重量と頑強さが伺える鉄製の扉。体当たり程度では破壊することが難しそうである。

 つまり、お手上げの状態だ。

「というわけで、ヴァプラさん! アタシたちを解放して」

『本当にあなたは直球ですね。そうしてあげたいのはやまやまなのですが、これも命令なんで我慢してください。さてさて、私も定時になったのでお暇しますが、お二人はこれからどうします? 治癒水によって空腹もありませんので、起きていても何もありませんよ。もし寝たいのなら、催眠ガスを部屋に撒きますけど』

 先ほど、生体研究部としては危害を加えず、自由に生きている様を観察できればそれでいいという趣旨は聞いたために、ダメ元でヴァプラに聞いてみたが、さすがに無理な相談であった。

「カキョウさん、どうあがいても無理そうなので、寝ちゃいましょう。恐らく殺されるということは、無いと思いますので」

「それって……。あ、いや、うん。寝ましょう」

 ネフェルトの“殺されることは無い”という言葉に、希少人種に対する奴隷的もしくは愛玩的な扱いのことを想像した。彼女もその結論に当たったからこそ、自分たちは何らかの形で生かされ続ける可能性が極めて高いと踏んでいる。

 言い換えれば、自分たちがこの部屋から何らかの理由で外に連れ出された時こそ、逃亡の機会となるのだと。それまでは体力等の温存のために寝るというのが、ネフェルトの言葉と真っすぐにこちらを見据える瞳から見えてくる。

『では、ガスを撒きますね。おやすみなさい』

 ヴァプラの言葉とともに部屋のどこかからか、プシューッっと空気が入ってくる音が聞こえてきた。ほどなくして瞼が重くなり、体の力が抜けていき、意識がまどろみの中へ誘われる。

「はーい……、おやすみなさい」

 落ち行く意識と視界の中であいさつを返すと、ネフェルトからも「おやすみなさ……」と言葉が終わる前に意識は無くなった。

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Eternal Oath(先行版) 神崎シキ @kanzakisiki

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