3-終 雷鳴という涙、遠のいて

 ネフェルトの憎悪と悲哀によって生み出された黒雲が支配する霊峰の頂は、雲の厚みによって太陽の光すら刺さなくなり、時間の感覚が消え果ていた。岩肌には雷撃による無数の穴や傷が点在し、いたるところに降り注いだ氷柱が立ち並ぶ。幻想的な風景に近くとも、意味としては果てしなく遠い光景が広がっている。

「カキョウさん、トールさん、道を作ってください」

 これまでの自分が知るネフェルトなら微笑みが混じる抑揚の声であるが、今の言葉は明らかに感情が乗っていない冷徹な音。むしろ血肉の通った殺意を通り越し、進路を阻害する全てを排除するだけの無機質な冷たさを放っている。

 そんな彼女が自らの戦闘位置を離れ、最前線に出るということは、自らの手でこの惨事の決着をつけたいということだ。

「分かった!」

「おう、任せてくれ!」

 それは詰問か、復讐か。はてまた攻撃しやすくするための地盤づくりか。いずれも造る道が暗きものだと分かっていても、自分らに止める理由はなく、自分とトールは嬉々としてネフェルトの願いを受け入れた。

 否。これらすべては、ダインの拒絶宣言が発せられた瞬間から始まっていたのだ。踊る心は、足を跳ねさせる。足掻く心は、体を燃やす。全身が追い風に乗ったように軽い。瞬きの間に自分とトールは左右に展開すると、それぞれ一人ずつを切り伏せていた。それこそ相手がこちらを視認し、新たな防御術式を展開する前に。

「――居合・赤隼(アカノハヤブサ)!」

「――ブラストネイル!!」

 息と勢いが途切れる前に、切り伏せた流れのまま二人が技名を叫ぶ。

 これまでの魔力なし状態なら僅かに赤く光っていた刃も、今は製鉄の炎から取り出されたばかりの鉄が放つ赤白い輝きを発する。切った空すらも己が熱によって燃やす灼熱の一閃は近くにいた男性僧兵の防御術式をあっさりと破壊し、腹部と腕を焼き切りながら、肉の焼ける音と体が崩れ落ちる音を奏でた。

「カキョウちゃん、少し借りるよ!」

 片や暴風と鎌鼬によって三名の僧兵をボロ雑巾のごとく引き裂きながら宙を舞わせているトールから、何やら声をかけられた。

 次の瞬間、彼のほうから突然一陣の風が体を抜けいていく。あまりのことに思わず目を閉じてしまったが、すぐに目を開けると世界は一変していた。

 周囲はまさに炎の海。それは数時間前に自分が引き起こしたものと酷似している。違いがあるとすれば、炎は楽しそうに風に乗りながら、その範囲を広げていっているということ。

「教えただろ? 命かかってるんだから、手加減はなしだって」

 彼との距離は五十mと離れているが、目の前の敵をなぎ倒し、どんな不利も覆して生きようとするギラギラと輝く翡翠色の瞳が、狂気にも似た笑みが、ここからでもはっきりと分かる。火照っているのは自分だけではない。壊れているのは自分だけではない。

「……だったら、火力足りないよ」

 知覚できるようになった体内の流れが激流のように渦巻き、鉄砲水のごとく爆発的な勢いで外へ飛び出した。目には見えないが、確実に人に害を与えるほどの強烈な『熱』が目の前にいる僧兵たちを包む。はじめはただ熱いと言っていた僧兵たちも、次第に動きが鈍くなり、やがて衣類が自然発火を始め、断末魔に切り替わる。

 嗚呼、自分は今どんな顔をしているのだろうか。

 嗤っているのか。蔑んでいるのか。無表情なのか。

 恐らくトールと同じく、狂気を孕んだ笑みなのだろう。

 それはただ、抗おうという気持ちが極端に振り切れているだけなのだ。

(これで半分以上はやれた……はず、なのに)

 ネフェルトの天災とも呼べるほどの大規模かつ超火力の魔法攻撃に加え、自分らが確実に五人から六人は潰したはずの僧兵が、再び立ち上がり防御術式を展開している。

 相手はルカが所属する癒し手の専門集団であり、その上位者たちばかり。自己回復力強化に加え、常に回復魔法と広域回復魔法を相互にかけつつ、防御術式を展開しているのだろう。絶命よりも回復速度のほうが上回っている状態だ。

 結局は魔法の中核となる人物か、その集団の司令塔を潰さなければ状況を打破することはできない。

「……貴様ら、調子に乗るなよ!」

 そんな狙うべき相手であるマルコスの叫びと同時に、視界が檸檬(レモン)色の光によって支配され、目に痛みが走るほど強烈な眩しさに頭を殴られた。加えて足元が急激に軽くなる。足裏に地面の感覚が無い。

「ハッ、高位魔法の無詠唱か。一応、司教としての実力は本物ってことか」

 トールの声とともに、回復していく視界。自分とトールの体は、魔力で編まれた光の鎖が幾重にも巻き付き、樹の洞(うろ)から顔を出した栗鼠(リス)のように、光の柱にめり込む形で宙に拘束されていた。この魔法は他者を拘束する聖属性の高位束縛魔法クルーセルフィクションであり、森の洋館地下戦闘において紫髪のエクソシストが敵であった樹人族(エルフ)の女戦士に使っていたものである。痛みはないものの、光の鎖が触れている部分の筋肉が一切動かない。力なく吊り上げられている感覚は、倦怠感とともに気分の悪さを引き寄せてきた。

「ナニコレ……、体、動かない……」

 おそらくは脳から出ている神経の信号を触れた部分で塞き止めているのだろう。体をどんなに動かそうとしたところで、首や肩だけが空しく暴れる。筋肉が一切動かないということは手に力が入らず、愛刀が空しく地面に落ちる。

(同じだ)

 それは数時間前の七合目。巨大な蜘蛛の糸によって、なす術(すべ)なく宙づりにされた無様で醜い自分。それと今が全く同じなのだ。

 沸々と湧き上がる怒りと焦りが魔力に置き換わりつつあるが、光の鎖が魔力の流れ自体も分断しているために、生成された魔力が顔からあふれそうになる。いっそ物語に出てくる魔物のように口から火を噴いてやろうか。

「小賢しい小娘め!」

「!?」

 自分から溢れる制御の効かない魔力は、いつも間にか再び周囲に強烈な熱波を放っており、マルコスを激怒させるには十分な熱量だった。新しく追加された光の鎖はマルコスの右手から直接放たれ、首と頭にそれぞれ巻き付いた。

「生かしておくつもりだったが、もう我慢ならん! このまま引き裂いてくれる!!」

「アッガァ!!」

 全身が一切動かない中、頭につながれた鎖が引っ張られ、首に巻き付いた鎖は力が籠るたびにどんどん締め上げていく。呼吸ができなくなり、締め付けのギチギチという音が体内を伝い、遠のく意識の最後と音となりそうだ。おそらく筋力強化や光の鎖を物質化する魔法を使っており、光の鎖自体の効果もあって、身動き一つとれない。今度こそ成す術なく絶命する。

「……――スカイブレイク!!」

 視界が完全な闇になる寸前、耳をつんざくほどの酷い破砕音とともに、肺に空気が流れ込む。明ける視界の先には群青の瞳を真っ赤に変え、己が背丈と変わらない大きさの剣を垂直に振り上げながら、天高く飛ぶ焦げ茶色髪の剣士――ダインだった。

「――メテオ、ハンマァァァ!!」

 彼は跳躍の最高点に達すると自重に加え、得物である大剣の重量を増加させる魔法強化を行い、大剣を振り下ろしながら、流れ星のごとく自らも地面へ落ちてった。

 技の名前が終わると同時に、体を取り巻いていた倦怠感は解放感に、束縛の息苦しさは浮遊感に変わり、視界に広がっていた光の鎖がはじけ飛ぶ。

 体が宙に投げ出されているはずだが、不思議と怖くない。落ちる先は地面ではなく、多少の重力負荷を受けつつも、弾みの効いた二本の逞しい腕の中。

「大丈夫か?」

 覗き込んできた瞳は赤が消え去り、元の深い群青色となっていた。

「少し、首が痛い」

 先の首絞めに加え、受け止められた時に鞭打ち状態となってしまい、首を動かすのが辛い。

「なら、俺が前に出る。ルカ、カキョウを頼んだ」

 そう言ってダインは、自分を固い岩肌の地面に降ろすと、地面に放り捨ててあった大剣を手に取り、前線に向かった。

「待って、これぐら、ふぁ!?」

 また自分は置いて行かれ、戦力外を受けてしまう。そんな焦りから急ぎ立ち上がろうとすると、強烈な倦怠感に包まれ、転んでしまいそうになった。何とか踏ん張ることができたが、まるで重度の風邪を引いた時のように、倦怠感と眩暈によって体がふわふわしてしまっている。

「む、無茶はしないで! まだ、クルーセルフィクションで切断された魔力の道が、戻り切っていないと思う……」

 ルカが言うには、水門が急に開いた水路のように、怒りと焦りによって顔に発生していた大量の魔力が、一斉に体中を巡ったことによる急激な変化から生じたの魔力酔い状態であるとのこと。

(え……、お酒に酔うとこんな感じなのかな?)

 まだ飲酒禁止年齢であるために体験したことはないが、船酔いも馬車酔いもしない自分には未知の体験であるために、興味の矛先が向いてしまっている。

 とはいえ、現在は自分たちの命を懸けた戦闘をしている最中であるため、ルカに酔いを飛ばすような魔法はないのか尋ねた。

「あ、ある、よ! ――リフレッシュ!」

 魔法名とともに向けられた杖からは、優しく光る乳白色の光の粒が蛍のように自由に宙を舞いながら、こちらの体を包んでいく。ルカの放つ魔法は本人の人間性を表すように心地のいい暖かさを含み、体の芯から癒されていく感覚がはっきりとわかる。光が止む頃には酔いが醒め、体内を駆け巡る魔力が整われ、体中が清々しかった。

「ありがと。これで戻れる」

「カキョウちゃん、これ」

 手を開いたり握ったりして、体の調子を確認していると、ルカが先ほど落としてしまった愛刀を差しだしてきた。ルカには少々重いのか、それとも丁重に扱っているためか、通常の刀よりも軽量に作られている愛刀を両手で持っている。

 だがそれ以上に、聖サクリス教の信徒であるルカにとっては同士と対峙し、殺害することも厭わない相手に武器を渡すという行為の意味は、非常に重い。所属からすれば大いなる裏切りであり、自らも敵対者となることを指している。ルカの紫水晶に似た瞳に迷いはなく、刀を差しだした手にも躊躇いがない。

「ありがとう……それじゃ、行ってくるね!」

 愛刀とともにルカの決意を受け取ると、ダインとトールが戦い始めた戦場に再び戻った。




◇◇◇



 時は少し戻り、カキョウと戦列を入れ替わった直後。まだ光の鎖に捕らわれているトールのもとに駆け寄ると、巨木を切り倒すように根本近くを横一文字に切り裂く。光の鎖が砕け散る中、トールはまるで物語の主人公が軽やかに登場するシーンを連想させる見事な着地をしてみせた。

「すまない、遅くなった」

「いいってことよ。大事なお姫様優先で結構だぜ」

 カキョウを姫と呼ぶには、いささか勇ましいのではと思ったが、それは本人に対し失礼にあたるめて、胸の内に秘めておく。

「あ、あり得ない! なんだあの跳躍! 我が魔法を技(アーツ)で破壊だと!? ラファール、貴様の仕業か!!!」

 光の鎖こと聖属性拘束魔法のクルーセルフィクションの強度に対し、絶対の自信を持っていたのだろうか。マルコスの顔は憤怒によって限界まで歪みきり、顔を伝う血管が今にも破裂しそうである。

「当然であろう。干渉すると宣言したからな」

 対するこちら側の背後に座した風の大精霊ラファールは涼し気を通り越し、空気や地面を凍らせかねないほどの冷徹な眼差しで、この場を見つめていた。

 マルコスが発し大精霊ラファールが肯定した言葉の通り、自分の手に持つ大剣には風の大精霊の干渉として、ありとあらゆる魔法的要素を切断するという加護が付与されている。

 加護は自分にだけではなく、ネフェルトの魔法に対する安定化やルカの周囲に防御結界を展開、カキョウとトールの疾走や武器を振る速度を風で補助したりと、すでに多岐にわたる加護が与えられている。

 ただ、どれも自らが直接手を下すというものではなく、あくまでも人と人で処理することを前提としており、自身らが立てた不干渉の誓いは今でも守ろうという姿勢が伺える。

「だが結局は、誓いを盾に自らの手を汚さないよう、目の前の駒を使うに過ぎないか」

 マルコスの言葉通り、現状の見方を変えれば、自分たちはこれまで何年と姿を消していた風の大精霊の言葉を真に受け、踊らされる駒とも見える。

 仮に真実がもっと別の場所にあろうとも、今ここにある真実はマルコスという男が、一度でもこちらを排除する意思を示した以上は、自分たちの敵であるということ。大精霊にとっても敵ならば、手を取る側は自ずと決まるだけだ。

「ああ、そうだな。まだ本調子でない我の代わりに、我が愛し子とその仲間たちに助勢を求めたのだ。物は言いようだな……貴様とて自らの手を汚さずに、この地方……いや国を手中に収めるべく、他者を化け物へと改造し、黒き風という恐怖を使って人心を操作したことはどう説明する?」

「はん、説明だと? 誰にする必要があるというのだ」

「時にマルコスよ、我は風の大精霊。我が吐息は風となり、我が声は風の続くその先まで響く。……よもや、我が何もしていなかったと思っているのか?」

 マルコスのせせら笑いに対し、大精霊もまた不敵な笑みで返した言葉の意味。理解したマルコスの顔が見る見るうちに驚愕と青ざめたものへと変わっていく。

「まさか……貴様、会話を流していたのか!?」

 張り上げた声に、この場にいる全員が動きを止め、耳を傾け、その内容に聞き入った。

「ああ、そうさ。この風の地に住まう全ての民も、事の真相を知りたがっていると思ってな」

 大精霊は同性でも目移りしてしまうほどの美顔をもって、冷ややかに笑いながら事の詳細を語りだす。

 いつからと問われれば、大精霊自身の封印が解け、自分たちとの問答が始まった時から、この山に起きていたすべての真実を風に乗せて下界へと届けていたのだ。自らを含めた精霊全体の汚点と歴史、そしてマルコスの発した言葉のすべてが、今や旧ウィンダリア国と呼ばれた山岳地帯全域に届けられただろう。

「なんということを……それでは暴動が起きるではないか! 罪なき人々が大勢傷つくことになるぞ!」

「そうだな、起きるだろうな。真実を知り、罪なき肉親たちを黒き風によって奪われた我が愛しの民たちが、諸悪の根源たる教会及び悪法で贅を貪った貴族という“貴様にとっての大勢”どもを排除するために立ち上がるだろう」

 マルコスがどんなに善意的な言葉を並べようとも、それは偽善を通り越して、欺瞞に溢れた利己的発言としか聞こえない。それを具体的に表現したのが大精霊の続けた言葉そのものだろう。

 ここで改めて、このウィンダリアと呼ばれる場所が受けてきた迫害を思い出す。

 旧ウィンダリア国はネフェルトをはじめとする有翼族(フェザニス)が主体となって作った国家であり、二十年前のサイペリア国領土拡大戦線において、敗戦国となった土地である。

 敗戦種族となった有翼族は、戦勝種族の優位性を謳った『人権擁護法』において、戦勝種族から受けた迫害、犯罪、殺人等において一切の反論や主張を認められず、戦勝種族の意のままに生きることを強制されてきた。財産、貞操、生命、信仰、歴史、信念といったありとあらゆるものが、サイペリア国民であるウィンダリア駐在貴族によって奪われ続けてきた。

 これに加え、触れたものを一瞬にして死に追いやる呪いの自然災害と認識されていた『黒き風』が、サイペリア国の国教である聖サクリス教によって引き起こされた人為的災害であることが、今日ここに判明した。

 さらには黒き風の真相解明へ送られていた調査隊や傭兵といった多くの者たちの行方も、マルコスが主導ですべて隠蔽されてきたことが明るみになった。

 これによってウィンダリア地区改め、旧ウィンダリア国におけるサイペリア貴族および聖サクリス教に対する、これまで溜めに溜めてきた不満や敵意が暴れだすことは想像に難くない。

「ああ、聞こえるぞ……厄災の終わりへの歓喜と、虐げられてきた積年の恨みへの怒号。そして変革を望む声。この地は、やがて変わるだろう」

 いつの歴史書でも、変革の際には多くの理念と思惑が衝突し、多くの血が流れたと書かれる。自分たちには直に聞こえてこなくとも、これから起きる暴動の音は容易に想像できる。最低でも霊峰の麓にある風都フェザーブルクでは、多くのサイペリア国貴族と聖サクリス教の者たちが、狩られることになるだろう。

 すべての貴族と信徒が人権擁護法を悪用する支配思想を持っているとは限らない。現にルカは聖サクリス教の信徒であるが、人権擁護法には嫌悪を表し、悪法を利用するマルコスを許してはいけない悪と断じた。

(都合のいい考えといわれようと……)

 願わくば、ルカのように心の染まっていない信徒や、悪法に頼らない清く正しい貴族が巻き込まれないことを、頭の片隅で願った。

「……ヒヒッ、ヒャハハハハハ!!」

 意識を目の前に戻せば、マルコスが狂気に歪んだ笑みからけたたましい嗤い声を発していた。瞳の焦点はどこを向いているのか分からず、口からはだらしなくよだれを垂らしている。

 完全に壊れたマルコスを見て、一部の敵僧兵(エクソシスト)がこの場から走り去った。残っている者はマルコスと思想を同じくする者か、今更下山したところで意味がないことを悟っている者たちか。

 それでも敵側はまだ十名以上はこの場にいるために、数の上は大きく不利なのは変わりない。

「踊らされていたのは、私のほうでしたか! いいでしょう……ラファール、貴様をここで再封印……いや、消してくれる!! 逃亡者は後で始末だ! 残った者たちは……」

「黙りなさい」

 それは空を切り裂くように後方から発せられた、凛とした声。だが次の瞬間、自分とトールの間を“自分ら高身長組を丸々飲み込むほど”の巨大な閃光が駆け抜けた。

 トールと二人して目を皿にしながら、息が止まっている。振り向けば、それはネフェルトから放たれた直線攻撃の雷撃魔法のライトニングであったことを知る。ただし、攻撃の規模が自分らの知るライトニングとはかけ離れていた。自分たち大柄の成人男性をもあっさりと飲み込むほどの太い雷撃。その直線状には、もはや再生が不可能かと思われるほどの黒ずんだ人間型の塊が転がっている。

(生きるための殺人)

 何度戦いを繰り返してきても、常に自分に問いかけてきた言葉。ためらいながらも、生き残るためにと振るい続けた剣。自分の剣が相手に当たれば、それこそ脳天から真っ二つにしかねないほどの質量と威力を持つ。だからこそ、常に強力な下限を敷いてきた。

 比べてネフェルトの撃ち筋には私怨も含まれるだろうが、迷いも容赦も一切ない。まさしく相手を殺すための一撃。

(また俺は、迷っていた)

 これまでの戦いの中で、今が最も自分の命が危ういという状況で、相手をえり好みしてしまっていた。自分が決して強いわけでも、確実にこの状況を打破できる力を持っているわけでもないのに。

「道を、開けなさい」

 それでもなお突き進めと、ネフェルトの言葉に応えるように視界が赤く染まる。

(コロセ)

 踏み出した足は、地面に埋まるほどの豪脚から生み出された一歩となり、瞬く間に僧兵の一体との距離を詰めた。

(イキルタメニ、コロセ)

 剣がいつになく軽く、力入れることなく易々と振り上げると、目の前の僧兵の左肩から右脇腹にかけて振り下ろすと、何の抵抗もなく相手の体を刃が通過した。おそらく大精霊の魔法的要素を切断する加護が、相手の防御系術式すらも破壊したために、あっさりと相手を斬ることができたのだろう。

 赤い視界の中で吹き上がる黒。ずれ落ちる二つとなった肉塊。そんな唐突な死を与えられた僧兵は、最後の灯として一言「サクリス様……なぜ……」とつぶやいた。

 巨大な組織こそ一枚岩であるはずもなく、ましてや末端の者となると上層部の考えを知らぬままに踊らされ、こうして無慈悲な死を迎える理不尽さえ押し付けられる。

(だからと言って)

 可哀想ではあるものの、先に逃亡した者たちと一緒に逃げれば、まだ違う道もあったことを考えれば、この者の選択肢が間違っていたとしか表せない。

(俺たちが死んでやるわけにもいかない)

 これは生存戦争。他者を葬ることでしか、生きられない世界の話。

 ならばと次の標的を定めようとした瞬間、右側視界の隅から強烈な光の発動を感知した。瞬間、わずかながらに体を左にずらすと間を置かずして、光が右頬と右肩を掠める。右肩のショルダーアーマーがはじけ飛び、右頬は焼けるような痛みを発した。赤い視界の超加速化状態でなければ、確実に頭を吹き飛ばされていたはずだ。

 まだ振り下ろしたままだった大剣を両手で握りなおすと、光の魔法を放ってきた僧兵に向かって振り上げた。だが距離が足りず、空しく空を切った。

(ああ……もっと、もっと自分に力が、魔力があれば……)

 一般的に戦士系が使う技(アーツ)は、己の魔力を武器や拳に流し込むことで、攻撃動作の中に威力増強、射程延長、属性付与などの魔法的拡張要素を追加し、体系化させたもののことを指す。

 自分の場合は根本的な魔力量自体が少ないために、使う技は魔力消費量の少ないものばかりを身に着けてきた。その結果、遠心力強化や武器重量増加などどれも威力そのものに関わるものしかなく、カキョウのように灼熱を帯びた刃による攻撃や幼馴染のネヴィアが使用していた雷属性と麻痺効果を付与した刺突技のクイックショッカーなどに比べると、攻撃全体の拡張性が乏しいのだ。

 せめてもう少し使用可能な魔力があれば、切り上げの動作に魔力で生成した延長刃を付与することで、先ほどの切り上げを相手に当てることもできていたのだ。

(自分にも、カキョウほどの魔力があれば……)

 それこそ技の強化だけでなく、発動させるだけで息切れを起こしてしまうような魔法の使用すら、もっと楽に張るはずなのだ。

「――サイクロンホーン!!」

 トールの突きから放たれた横向きの竜巻が、ネフェルトが行く方向にいる僧兵三人を巻き込み、ボロボロに引き裂きながら吹き飛ばした。

 トールのように自らの起源に通じる属性の力を外側に放つことで、広範囲かつ長距離への攻撃も可能になるはずだ。


 ――カチ、カチ、カチ……チカ、チ、チカ。


 もう何度も聞いた耳の奥の歯車音。

 しかし、その中に、これまで聞いたことのない雑音が混じっている。


 ――チカ、チカ、チカラ、チカラガ。


 やがて歯車の音は環境音のように遠くで鳴り響き、雑音が徐々に聞きやすい人語へ変わっていく。その声は、紙を握りつぶした音に体内を伝わる自分の声を混ぜたような、耳障りなものだった。

(ちから、力?)


 ――ソウ、チカラガホシイカ?

 ――生キルタメノ、ちからガホシイカ?

 ――現状ヲ打破スルたメノ、力が欲しイカ?


 この死と隣り合わせな現状において、異質な声の言葉は蠱惑でしかない。


 ――疑う必要ハなイ。

 ――躊躇ウ必要もナい。


 ――何セ、コノ力は、本来ノ『お前(俺)』の力だからな。


「――!!??!?」

 それは急に起きた。腹の底から溢れ出す何かによって、急激な吐き気に襲われる。追って眩暈と頭痛、時間とともに増えてくる疲労感。膝をついてしまった。目を開けるのも辛い。大勢が命を狙ってきているというのに、このままではすぐに殺されてしまう。

「お、おい、ダイン! お前何をした!?」

 遠くからトールの怒りにも、驚きにも似た叫び声が聞こえてくる。無理にでも落ちようとする瞼に逆らいながら目を開けると、トールがバルディッシュをただ構えたまま立ち尽くしていた。

 さらに奇妙なのが、自分の周囲に群がっていたはずの僧兵たちの多くが、地面に寝そべり、もがき苦しんでいる。

「……重力、ですか。ダインさん、そのまま維持してください」

 自分を含めた多くのものが苦しむ中、なぜか涼し気で何もなかったかのように、ネフェルトがさらに前へと歩いていく。 

「い、維持……!」

 ネフェルトの言葉から察すると、この奇妙な状況を作り出しているのは自分であり、一定範囲の重力を大幅に増やしているとみるべきか。だからと言って、現状は自分の意志で操れるものというものではなく、体内から魔力が勝手にあふれ出て、重力に置き換わっているだけだ。それこそ今まで感じたことのない魔力量に、全身が悲鳴を上げ、内臓を無理やり引き出されているような感覚に意識が持っていかれそうになる。

「貴様ァァァァァア!!」

 奇しくも、重力場の範囲の外側にいたマルコスは、すでに詠唱の終わった光輝く魔法のようなものを展開させていた。こちらに向けられる殺意が肌を焼くような痛みと認識するほど、展開されている光は明らかな殺傷能力を持ったものだと感じれる。

「させねぇ!」

 かすれ行く視界がスラリとした細身の長脚によって遮られ、吹き荒れる暴風が肌を打ち、落ちてしまいそうだった意識を浮上させる。

「よし、カキョウちゃんはネフェさんについていけ。マルコスは俺が引き受けた」

「わかった!」

 スラリとした足の持ち主であるトールの指示で、復調したカキョウが一人敵陣の奥地へと進むネフェルトのもとへ駆け出した。

 自分だけ訳も分からない魔力の垂れ流しによって、立ち上がることすら困難という情けない状況。一般的な防御魔法であるプロテクションウォールを展開しただけで息切れするほどの自分の中に、吐き気と眩暈を引き起こすほどの魔力があったこと自体にも驚きだ。

(カキョウと……似ている)

 無い無いと嘆いていた彼女と、少なくて息切れを起こしていた自分に、突如として体外に溢れ出るほどのけたたましい量の魔力が現れた。互いに体質かと思っていたが、どうも違う。

 まるで体の奥底に眠っていた得体の知れない力であるにかかわらず恐怖心はなく、自分の体力を削ってでも底から湧き上がる感覚は、力が本当に自分のものであることを実感させてくれた。今なら彼女が炎の舞台で笑った気持ちがはっきりとわかる。無いものが有るようになり、少なかったものが多くなる。これ程嬉しいことはない。

(ああ……これがちゃんと制御出来たら……)

 ただ斬ることしかできなかった自分に大きなプラス要素が生まれ、ただのお荷物リーダーでなくなる。

 正直に言えば、ずっと悩んでいた。カキョウのような熟達した戦闘技術があるわけでもなく、トールのように攻撃範囲の広い技があるわけでもない。ルカのように治癒魔法が使えるわけでもなく、ネフェルトのように広範囲の攻撃魔法があるわけでもない。無知で、常識も教養もなく、なのにリーダーに推挙されるほどの何かがあるわけでもないのに。

 だからこそ、力が欲しいかと聞かれれば、是が非でも欲しかった。

 誰かに頼られたら、応えられる力が。

 守りたいものを守れる力が。

 仲間と自分に向けられた脅威を退ける力が。

 だが、もはや精神よりも体力のほうが限界を迎えそうである。

「なるほど……覚醒か……どれ、少し楽にしてやろう」

 それは天から降り注いだ慈悲の声。わずかな視界の上側に見えるペールグリーンの何か。それが大精霊の翼の先にある巨大な風切羽であることが分かると、次第に体に変化が訪れだした。

(……暖かい、体が軽く……なる)

 風切羽を伝って、風の大精霊のマナが体の中に流れ込み、乱れていた魔力が整われていく。今まで出ていた吐き気、眩暈、頭痛といった体調不良は一切消え去り、僅かながらの疲労感だけが残った。魔力はまだ流れ続けているとはいえ、先ほどとは比べ物にならないほど楽である。

「我の力は、汝の属性とは正反対であるが故、これぐらいのことしかしてやれん」

 これぐらいと大精霊は謙遜しているが、気絶寸前だった状態からほぼ動ける状態まで和らいでいる。

「いえ、とても楽になりました。ありがとうございます」

「礼には及ばぬ。しかし、その状態にまだ慣れぬだろう。ルカよ、手伝ってやれ」

「は、はい! ダインさん、し! 失礼します! まずは、座りましょう」

 大精霊の言葉通り、これまで感じたことのない魔力量と流れに、立てはするものの、それ以上に動くことはできなかった。それをルカに察されたのだろう。彼女の言葉に素直に従い、硬い岩肌の地面に腰を下ろした。

「俺は……見てるだけしかできないのか」

 多少は楽になったものの、時間とともに疲労感ははっきりと疲労に切り替わり、再び気だるさが体を包み始める。今、垂れ流しつつ戦闘を行えば、瞬く間に魔力切れと疲労困憊で意識を失いかねない。

「そんなことは、ない、です。ダインさんがいる限り、この力でみんなをサポート、していますから」

「開きっぱなしの蛇口も、役には立つか」

「……あまり、自分を貶めないで、ください。私も、癒すことぐらいしか、できません。皆さんみたいに、戦う力が、あれば……」

 癒すことしかできないとルカは言うが、彼女はフォトンと呼ばれる聖属性のマナを凝縮して光弾のように発射する魔法を習得している。しかし、この魔法は闇属性のマナで身を包むものや、不死者などの生命の理から逸脱した者に対する浄化魔法でしかなく、ただの人間相手には純人族(ホミノス)の子どもの体当たり程度の衝撃しか与えれない中途半端な魔法であるため、自身を戦力として加えることは躊躇われているようだ。

 彼女もまた、傷つき倒れ行く仲間たちを前に、癒す以外の術(すべ)を持たず、自分が最後の生命線であるにもかかわらず、誰かに守られないと何もできない歯がゆさを持っている。

「……生き残れたら、全員で強化訓練だ」

「はい」

 今、前線で戦っている三人もまた、それぞれが中途半端に特化し、中途半端に何もできないのだ。それを特化した技量で隠すことで、自他ともに目を背けていたに過ぎず、仲間として群れることで傷を舐めあっていただけだ。

(頼む……無事で帰ってきてくれ……)

 動けない今、ただ魔力を垂れ流しながら、三人の無事を祈るしかなかった。



◇◇◇



 ダインの放つ超重力場によって周辺の僧兵たちが地面に貼り付けになる中、何事もないように歩く自分とネフェルト。「なぜ……」と小さく呟けば、ネフェルトが「彼が無意識に対象を敵に絞ってるからですよ」と淡々と答えた。

 初めて見る本当の殺意や冷酷な振る舞いではあるが、不思議と嫌ではない。むしろ今までが自身の抱える不安や恐れ、焦りを限りなく自然に見える張り付けた笑顔で隠していたと思えば、本当の彼女がなんと人間らしいことかと、強く安堵した。

 そんな自分よりも若干目線の高い位置にある蒼穹色の瞳は、崩れ落ちた敵僧兵集団の向こう側に取り残された、たった一人の一般人を射殺さんばかりに見つめていた。

「ヒヤアアアアアアアアアア!!!!! 来るな! 来るなぁ!!」

 恐らくここからネフェルトの尋問が始まる。ならば、自分はこの場面を守るための守り人となるべく、ネフェルトから一歩後ろに下がり、腰を落として愛刀に手をかけた。

「あらあら、近寄るななんてひどいですよ、モーザさん。……ねぇ、答えて。私たち家族が、何したっていうんですか?」

 笑っている。否、嗤っている。そして腹の底で巨大な侮蔑と殺意を必死に抑えつつ、冷静を保っているのだろう。そんな彼女がこれまでになく人間らしいと思っている自分がいる。

「あ、アレクとランシャが悪いのよ……!! 突然、赤子を連れ帰ってきたと思ったら、白い翼の子だなんて! なんで、なんであんたたちばかりぃぃぃぃ!!!」

 ああ、なんて醜いのだろうか。結局のところ、ネフェルトの両親の死は、モーザという女の嫉妬から生まれた殺人劇でしかなく、どこまでも理不尽極まりないものだった。

「……そう、連れ帰って」

「そうよ!! アンタはあの二人の実の子じゃないわ!!!」

「まぁ、知ってましたけどね」

「……は?」

 モーザはまるで舌戦に勝ち誇とったかのように高々と強烈な真実を言い放ったつもりだったが、返したネフェルトの言葉はそれこそ高々と伸びた天狗鼻をへし折るのには純分な一言だった。

「当然でしょ。髪色、瞳の色、翼の色、潜在属性の割合……ありとあらゆる二人の要素は何一つ遺伝していませんし、両祖父母とも違います。物心ついた時には、実の親じゃないことは説明されました」

 ネフェルトの家に泊まった際に、すぐに黒い風が来たために遺影を見る暇がなく、その遺伝的事実を知ることはできなかった。

 だが、モーザの言葉からも、白い翼の有翼族は相当珍しいのだろう。実際、フェザーブルクの町中を歩いている最中に、ネフェルトのような白い翼を持つ者はいなかった。逆の黒い翼ならネストのフェザーブルク支部長ルビーリアをはじめ、それなりに数は見かけた。

 となれば、彼女がフェザーブルクの町中を歩く際に周りから注がれた視線は、単に多種族混合集団や失踪者が返ってきたことに対する好奇の視線だけでなく、有翼族でも極めて珍しい白い翼を持ち、ラズーリト夫妻の実の子ではないことに対する差別的な目線だった可能性が出てきた。

 ごく自然に振舞っていたと見えていた笑顔の下にある、膨大な苦しみ。おそらく口にしてしまうと、それまで耐えてきたものや守ってきたものが壊れてしまうから、ずっと隠していたのかもしれない。

 それでも、命を預けあう仲間だからこそ、苦しいときは言ってほしい。辛いときは言ってほしい。

(だから今は、ネフェさんの背中を守る)

 自分にできることはそれだけだ。ダインの超重力場から逃れることのできた四人の内、一人と対峙している。ダインよりは小さいが、自分からすれば明らかに大きな男性。修道服にはっきりと浮かび上がる筋肉。鍛え抜かれた体に巨大な金槌を持つ。

「小娘よ、我が鉄槌は慈悲である。痛みを感じる前に潰してくれようぞ」

「そんな慈悲、いらないっよ!」

 先手必勝。大きく一歩踏み出し、自慢の足をもって相手の懐に飛び込むと、攻撃動作が始まる前に真上に来た極太の腕二本目掛けて、居合の一撃を放つ。顔に男僧兵の腕から吹き上がった赤がかかる。俊足の一撃と完全に切り離されたことによって再生の可能性が急速に減っていく腕に、男僧兵は鼓膜を破るほどの奇声を上げるつつ、泡を吹きながらその場に倒れた。

 相手の体格から自分が絶対強者という錯覚からきた慢心。相互回復という絶対安全領域が破壊されたことによる恐怖心。ほとんどお目にかかることのない自身から噴き出る赤い噴水。

「ごめんね……私たち、まだ生きたいから」

 少しでも自分に害を与えるもの、命を脅かすものを排除する。愛刀を転がった男僧兵の胸に垂直に立てると、全体重をもって相手の胸に収めた。

「……それでも、私にとっては両親です!! 実の子じゃないのに、いつも全力で叱って、喜んで、励まして、守ってくれる最高の両親でした!! なのに、あなたが!!」

 抑えていた怒りが、隠してきた本音が、今ようやく解き放たれる。ネフェルトから発せられる魔力は、雷のマナを集めると周囲の石や岩、遺体へと変わり果てたモノを電磁力によって浮かせ始めた。それこそ、ダインの展開している超重力場に逆らって、モノが浮いている場所もある。ただ重力に押さえつけられていた者たちが、上からの重力と下からの電磁力に挟まれ、一斉に断末魔を奏でだす。

「うるさい! ウルサイ! ウルサイ!! 私の夫と息子は、帰ってこなかったのよ!! なんでアンタたちばかり! 私が何したっていうの! 私だって、幸せになっていいじゃない!!!」

 そんな地獄の光景を前にしながらも、モーザという女は狂気に歪み切った顔から、自らの醜い嫉妬と強欲だけを垂れ流す。

「あーあー、ウルサイおばさんだこと、アンタは黙って」

 それは自分でも、ネフェルトでも、モーザでもない声。

 そして、ネフェルトが一歩前に出ようとする瞬間、肉を引きちぎる生々しい音とともにモーザの鳩尾から“腕が生えてきた”。

「あ? ……あ、あ、ああ、あが……ひ、ひぃ……うで、うでが……」

 正しくは生えたのではなく、背後から腕が体を貫通して、突き破って出てきている。腹から、背中から、口からたらりと滴る程度に、モーザの服はじわりと色を赤黒いに変えていくだけだ。

「はーい、ぶっしゃー☆」

 腕が引き抜かれると同時に、前へ後ろへ空へ。これまでの中で最も大きく、華やかに、盛大な赤い噴水があがる。近くにいたネフェルトは、その光景に唖然と立ち尽くしたまま、吹き出た赤を盛大に被った。水たまりの中に落ちるモーザだったものは、その一撃をもって絶命し、二度と声を発することはなかった。

「アハハハハ、ごめんねー☆ あんまりにも耳障りだから、アタシが殺しちゃった☆」

 モーザの背後に立っていた者。見た目こそ、ルカと同じ女性修道士が着ているひざ丈の修道服に、シスター・マイカが頭につけていたベールと呼ばれる頭髪隠しの布をかぶっている。

 僧兵たちと大きく違う点を挙げるなら、手には一切の武器を持たず、恰幅のいい女性の胴体を貫通させた、真っ赤に染まる右腕があるだけ。

 「これ、もういっかー」と言いつつベールを取ると、出てきたのは朝日に照らされた美しい光沢をもつ桃色の地面にまで届きそうなほど極めて長い髪。自分とはほんのりと色の違う輝く赤い瞳を持った、自分と年齢が大差ないほどの女の子の顔。

「はーい☆ 改めまして、アタシはイス。アンタたちのことは、ユルから色々話を聞いているよー」

 天真爛漫という言葉が似合うほど極めて明るく、茶目っ気たっぷりで、お転婆も入るような可愛らしい陽気系女子である。……その真っ赤に染まった右手と狂気に歪む笑顔さえなければ。加えて、肌が異様に白い。完全なる白とまではいかなくとも、色素の抜けた肌は雪に血が混じったような、仄かな赤みを残すだけの異質さを発している。

 そしてユルという聞き覚えのない人名らしき単語と色々という表現には、まるで自分たちを見聞きしたかのような口ぶりが含まれる。これまでに会った中で、誰のことを指しているのだろうか。

「んでぇ、アンタがカキョウでしょー? 魔力をほとんど使わないのに、結構強い前衛さんだって聞いてたから、気になってたの。でもー、今は何でかなー? 魔力にあふれちゃってる」

 自分のことを把握されている。とはいえ、魔力については数時間前に得たものであるため、イスと名乗った少女には登山以前の情報しか持ち合わせていないことが分かる。

 だからと言って、自分たちは相手のことを一切知らないために、情報による優劣で言うなら相手側に軍配が上がってしまう。

 得体の知れない相手。しかも素手で、人間の腹部を一撃で貫通するだけの技術や身のこなし方からしても、むやみやたらに斬りかかっては、こちらが手痛い返り討ちを食らうことも想定される。

「うんま、そんなの関係ないよね! ……だって、みーんなここで終わっちゃうんだから☆」

「は? 終わるってどういうことよ」

「そんなの、人生に決まってるじゃーん☆」

 イスが天高く右腕を振り上げると、指を弾いて音を鳴らした。

 刹那、体が地面に押しつぶされた。まるでダインの放っている重力場を自分たちが食らっているかの如く、何もないはずの頭の上から、目に見えない力によって抑え込まれ、徐々に立ち上がることができないほど、体が地面に押し付けられる。時間を追うごとに押さえつけられる力が増していき、体が引きちぎれそうだ。顔も上げることができないため、状況は周囲の音とギリギリ目に見える範囲分しか把握することができない。

「ど、どういうことだ……我が力が通じない!?」

 耳にかろうじて聞こえてくる風の大精霊の声は、これまで見せていた余裕からほど遠く、それこそ真に焦ったものである。

「そりゃー、目覚めたばかりのアンタの力なんか、サクリス様の前じゃたかが知れてるのよ。アンタがあまり手出ししなかったのも、そういうことでしょ? なーんにもできないヘナチョコ鳥なんだから」

 確かに、自分たちにいくつかの加護を与えてくれていたとはいえ、介入するという言葉に対し、大精霊が積極的に動いていたかといえば、否と感じるものがある。言い換えれば、彼自身も本調子ではないと言っていた中、己の存在(マナ)を削り取りながら自分たちに力を分け与えてくれていたということだ。

 しかし、いくら寝起きとはいえ、相手は世界の自然を体現する存在そのもの。それをあっさりと凌駕してしまう力は、このイスからなのか。それとも発言の通り、聖サクリス教の教皇サクリスの力なのか。

「イスっ! 貴様、これはどういうことだ!!」

 これだけの超重力状態の中、マルコスの威勢のいい足音と怒声が聞こえてくることから、ダインの重力場は解除され、今は自分たちだけがイスの放つ重力場に捕らえられている。先程とは立場が完全に逆転している状態だ。

「んー? アタシはサクリス様の命令で、こいつらを全員連れてこいって言われてるんだもん」

「この地域の執行については、私に全権一任されているはずだ! 私に何の通達もなく、異端執行など許されるべきではない!」

「何、その態度。アンタって、サクリス様より偉いの? アタシに指図しようってわけ?」

 端から聞いている分には、権威に溺れる中年男と中途半端に高位の権力を与えられた年端もいかない少女のいがみ合いなのだが、ここには明らかに少女がからの強烈な殺意が垂れ流しになり始めている。

 そう感じたのも束の間。中年男の小さな悲鳴と同時に、生の状態の骨と肉が強制的に混ざり合う音が聞こえ、その後に大量の水分が地面に滴り、その中に重みのある何かが落ちる音が聞こえてきた。

「アンタみたいな下衆の血でも、儀式の糧程度にはなってくれるよね。アハハハハハ!!」

 少女の笑い声が鳴り響く。それに合わせるように“地面が波打つ”。波は、徐々に高くなり、色を地肌の青灰色から紫の採光を含んだ黒へと変化させる。超重力場によって押しつぶされる中、顔の半分は黒き波に浸かっている状態だ。

 そんな世界の半分が黒に染まている中、波の頂点部分の形が変化した。

「……手」

 波打つ頂のしぶきは水の粒が集合して、人間の手の形を形成した。これが青い海の波なら神秘的に見えたのだろう。しかし、目の前のしぶきは黒曜に似た怪しい黒色であり、吐き気を催すほどの不気味さを放っている。

 波打ちが高くなるにつれ、手はやがて人間の腕へと変化する。それこそ波の数だけ人間の真っ黒い腕となって、地面から曼殊沙華の群生のように天に手のひらを向けた大量の花のように咲き誇っている。

「だい、せいれい、さま……、に、げ……」

 ネフェルトの掠れ声がかき消される。そして自分も、天を向いていた無数の手が折れ曲がり、こちらの体を地面に縫い付けるように掴み始めた。口が塞がれ、目が塞がれ、手足は掴まれ、地面に引きずり込まれる。

 皆がどうなったのか分からない。同じように引きずり込まれているのだろうか。超重力によって痛めつけられた身体の痛みが無くなり、視界が完全なる闇に包まれ、意識が消えていく。

 それが最後の記憶だった。



 ――第3章:私たちは生きるために、『壊れる』ことを覚えた。

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