04_赤い瞳の魔女

 雨はまだまばらに降り続けている。アルベールには青い傘を持たせ、あたしは黒い傘を差して学校へ向かう。

 初等学校の校門でアルベールを見送る。ただでさえ狭い昇降口が、傘のせいで更に狭くなっている。

 アルベールがあちこちで人にぶつかったりぶつかられたりするのを歯痒く見守る。

 ──転ばなければいいけど。

 あたしが人とぶつかる事はない。たとえ傘越しであっても、魔女に触れるのは嫌らしい。人間でできた通路を通って校舎に踏み入る。

 傘立てに既に立てられている傘から滴った雨水で、水溜りができている。蛇が映るので、雨の日の傘立ては嫌いだ。

 定位置の右端に傘を差し込み、影が喋り出さないうちに足早に立ち去る。教室に入る。席に着く。教師が教壇にのぼる。

 雨の日は、建物の中より外が暗くなる。すると、窓にはくっきりと影が映る。仕方なく反対側に目を遣ると、斜め前に座るテサドーラがいる。

 不愉快な光景だ。

「ねぇエレクトラ、私に少しだけ手を貸して」

 猫の目をした蛇が囁く。

「そうすれば何もかもうまく行くのよ」

 ──煩い。

 あたしは苛立ちながら教本をめくる。蛇の囁きを黙殺し、テサドーラの後ろ姿を無視して、どうにか一教科目を乗り切る。

 昨夜静かだったせいか、影はいつになく煩い。無駄と知りつつ睨み付けると、外で晴れ間が覗いている事に気付く。その代わり風は強くなっている。建て付けの悪い窓がガタガタと揺れ、耳障りな音を立てる。

「あの女が憎いでしょう、エレクトラ」

 影の瞳がテサドーラの方へ揺れる。あたしは影を睨む。

 窓に写し取られた世界の中で、再び授業が始まる。

「私はあなたが本物であることを知っている。あなたが今いる場所が間違っているのよ。早く捨ててしまいなさい。あの女を殺しなさい」

 誰がお前の言う事を聞くものか。

「ねぇ気付いて。私はあなたの影なのよ。あなたは本当はこちらに生まれるはずだったのに間違ってしまったの。私はこちらに取り残されてしまった」

「今のあなたは不完全なのよ。本物なのに影がない」

「早く戻って来て、エレクトラ」

 あたしは答えない。

 影がすすり泣く。赤い蛇の口が歪む。金の瞳から流れる涙は赤い。

 相も変わらず言う事が支離滅裂だ。影はあたしの反応に関わらず泣き、笑い、怒り、喜ぶ。その度に言動が矛盾する。

 付き合うのは馬鹿げている。

「可哀想なエレクトラ。意気地なしね」

 すう、と涙が消える。蛇は目と口を三日月型にして笑う。

「仕方ないわ。私が助けてあげる」

 影の手が動く。裏側から、窓の桟に手を伸ばす。脳裏に警鐘が響く。駄目だ。今は駄目だ。影の好きにさせてはならない。

 あたしは鋭く叫んで手を伸ばす。

「やめなさい」

 あたしの手と、影の手。窓を挟んで鏡写しになる。同時に、窓の桟に指を触れる。

 窓が。

 開く。

 ──開く。


 轟。


 風が流れ込む。強い圧力。目を開けていられない。

伸ばした手を引き戻して顔を庇う。恐ろしく鋭い流れが頰を撫でる。体ごと押し流されるような風圧。耳元で唸り。何かが倒れるような大きな音。聞こえているのは残響か風の唸りか。

 唐突に、全ての音が止んだ。

 先程までの風が嘘だったかのように、空気の流れさえ消える。目の前の窓は完全に開け放たれている。その向こうには曇った空。

 そして、窓のこちら側には。

 微かな呻き声。

 あたしは視線を落とす。

 あたしの机だけを避けるような舟形を残して、窓際から教室の奥へ、床に無数の傷がついている。まるで鋭利な刃物で切り裂かれたような。

 傷の流れを追って、視線を斜め前へと向ける。

 机が倒れていた。人もたくさん倒れていた。テサドーラが倒れている。長い髪が床に広がっている。その太腿に深い裂傷がある。魔女の赤が、傷口から溢れている。

 ──何だこれは。

 何だこれは。

 何だこれは。

 足元で椅子の脚が大きな音を立て、自分が立ち上がった事に気付く。足元まで血が流れてくる。テサドーラの血が流れてくる。つややかな赤い表面に、笑う蛇が映る。

「ねぇエレクトラ、これでいいのでしょう」

 子供じみた自慢気な声。

 誰がこんな事を望んだの。

 あたしじゃない。あたしじゃない。あたしじゃないあたしじゃないあたしじゃない。

「なによこれ」

 これではまるで。

 まるで。



 死んだような沈黙の後、慌ただしく喧騒が戻った。怪我人が看護室へ運ばれていく。

 テサドーラ以外に大きな怪我はないようだ。二人掛かりで持ち上げられて、ぐったりとした踊り子が運ばれていく。数人の軽傷者が教室を出て行く。

 頰に軽い痛みがあるのに気付く。手をやると指に血が付いた。仕方がないので、少し遅れて負傷者の列についていく。

 教室の扉をくぐる時、気付く。

 視線。

 今までの嫌悪と恐怖の視線が、敵意の視線に変わっているのを。

 廊下に出る。扉を閉める。歩く。歩く。誰もいない廊下の窓に影が映る。

「どうしたのエレクトラ」

「ふざけるな」

 あたしは叫ぶ。影の映る窓を叩く。

「誰があんなことをしろと言ったの」

「あなたが望んだのよ」

「望んだのはお前だ」

「あの女が憎いのでしょう」

「影のくせにあたしに逆らうの」

「あなたが臆病なのがいけないのよ」

「何も考えていないくせに」

「怖いのね」

「違う」

「本当は望んだくせに」

「違う」

「魔女のくせに只の人間を恐れるの」

「違うっ」

 いくら硝子を叩いても、鏡像の中までは届かない。

 踏み潰された姫踊子草を思い出す。あんなのはただの茶番だ。現実に持ち込んでも滑稽なだけだ。それなのに。

 影が小さく首を傾げる。

「じゃあ、どうしてそんなに動揺する必要があるの。あなたはあの女が嫌いなのでしょう。それが傷ついても何も困らないじゃない。それとも、まだあいつ等とうまくやれるつもりでいたのかしら」

 あたしは答えず蛇を睨む。影は笑う。

「あははははははははははははははははははははは」

 ぴたりと笑声が止む。赤い蛇の口が開く。

「弱いのね、エレクトラ」

 弱い。弱い。弱い。

「あなたっていつもそう。強がっているだけ。自分では何も打開できない。その力があるのに何もしない。自分の方が優等だから手は出さないなんて嘘吐きね。あなたは弱いだけよ。自分の身を守るのに必死なだけの、怖がりで、無力で愚かな小さな魔女」

 あたしは笑う。怒鳴る。

「ふざけるな」

 驚く程簡単に、銀の鋏が影の顔面に突き刺さる。影が罅割れる。窓硝子が粉々に砕ける。

 澄んだ音を立てて、硝子の破片が床に落ちる。肩で息を整える。破片が煌めく。乱反射で目が眩む。無数の欠片。その全てに蛇が映る。

「可哀想なエレクトラ」

 影は笑う。哄笑が廊下一杯に響く。顔を上げると、廊下の全ての窓に蛇の姿が映っている。

「可哀想なエレクトラ」

 無数の赤い口が笑う。無数の金の瞳が笑う。

 ──何だこれは。

 あたしは走って廊下を抜ける。階段を下りる。踊り場の窓にも影が映る。影が笑う。不協和音を背に一階に下りる。

 看護室の扉の磨り硝子には、影は映らない。

 息を整え、扉を開ける。三対の眼があたしを出迎える。医師と教師。そしてテサドーラ。

 テサドーラは長椅子に横たわっている。怪我をした足には白い包帯が巻かれている。顔にも大きな綿紗が当てられている。衣類には赤黒い染みが残っている。乾く前は綺麗な色だったのにと、少しだけ思った。

 テサドーラがあたしを見つける。発条仕掛けの玩具のように跳ねた指先があたしに触れる寸前、教師の腕が踊り子を引き戻す。動くなと告げられたテサドーラは、ぎらぎらと光る眼であたしを睨んでいる。

「殺してやる」

 金切り声で叫ぶ。左足が長椅子の上で跳ねる。包帯を巻いた右足は動かない。

「あんたなんか殺してやる足が動かない顔にまで傷がついたのよどうしてくれるの殺してやる殺してやる穢らわしい魔女め私が何をしたって言うのお前なんか死んでしまえ足が動かない足が動かない足が動かないあんた私が羨ましかったんでしょうだからこんな事したんでしょう私が妬ましかったんでしょう穢らわしい穢らわしい死んでしまえなんであんたみたいな奴に私がこんな目に遭わされなきゃいけないのよあんたみたいな何もない奴とは違うのよただで済むと思うんじゃないわよ殺してやる殺してやる絶対に殺してやる」

 二人掛かりで押さえつけられているテサドーラを眺める。獣のようにぎらつく眼を見る。

 なんておめでたい女。

 お前のせいでお前達のせいであたしがあたし達がどれ程の苦痛と屈辱を味わったか知ってそんな口を聞くのか穢らわしい淫売。あたしがお前を羨む事などあり得ない。お前のような下衆に生まれるくらいならあたしは魔女で構わない。何もないのはお前の方だ。切り売りするための媚と体しかないお前の方だ。

 ──嗚呼、そうだ。

 羽交い締めにされながらもあたしに手を伸ばしてくるテサドーラに、あたしは左腕を差し出す。テサドーラがあたしの腕を掴む。長い爪があたしの腕に長い蚯蚓腫れを作る。血が滲む。

 あたしは構わず手首を捻り、テサドーラの腕の内側に爪を立てた。皮膚を切り裂く感触が指先に伝わる。傷口に血が滲み、テサドーラが怯えたように動きを止める。

 あたしは笑う。

「魔女に触れれば呪われるのよ」

 血の呪い。傷を交わせば、触れた程度の呪詛では済まない。

 テサドーラはあたしが手を振りほどいても抵抗しなかった。無様な顔を見てあたしは満足する。せいぜい怯えて過ごせばいい。そしてなるべく惨めに死ね。

 三対の恐怖の視線の中で、あたしは意図してゆっくりと綿紗を手に取る。

 鏡に映したところで映るのは蛇だけだ。顔の傷の位置など判らない。仕方なく左腕だけを手当てして部屋を出る。

 嗚呼、勿体ない。

 残りの綿紗はきっと、今日中に全て捨てられるだろう。魔女が触れれば呪われるのだから。



 教室に戻ると、授業は辛うじて続けられていた。魔女の存在は禁忌だから、なるべく何もなかったように装いたいのだろう。

 テサドーラの血の痕が拭かれ、倒れた机が元通り並べられても、床の傷は生々しく残っている。

 あたしは黙って席に戻る。誰も何も言わない。ひそひそ声すら聞こえない。

 静かなのはいいことだ。誰も彼もが鎮痛な面持ちをしているので、あたしは独りで微笑んだ。無反応とは珍しい。鎌風が彼等に与えた衝撃の大きさが知れる。

 鎌風は魔物だ。風に乗って訪れ、辺りを切り裂いて去っていく。魔女が喚ぶには相応しい。

 初めて見せつけられた魔女の力に、馬鹿共が恐れ慄いている。

 可笑しくなって、あたしは笑う。笑う。

 ──そうよ、あたしは魔女。知らずにその名を呼んでいたの。

 そうだ、これで良かったのだ。あたしは一体何を恐れていたのだろう。馬鹿共はせいぜい怯えていればいい。これで良い。良かったのだ。

 授業が進む。高揚しているからか、いつも程退屈ではない。授業が終わる。あたしは教室を出る。

 昇降口に出ると、傘立てに傘がない。魔女の傘を誤って差すような間抜けはいないから、ささやかな嫌がらせだろう。教室中の敵意の行き着いた先がこれだとしたらあまりにお粗末だ。哀れでさえある。

 外ではいつの間にか再び雨が降り出している。

 まあいい、雨に濡れるのは嫌いじゃない。

 校門をくぐり、初等学校へ向かう。道の途中で、黒い傘を差し、青い傘を抱えたアルベールに出会った。

 アルベールは驚いた顔であたしを見上げる。

「姉ちゃん、どうしたの」

「何が」

「傘、持ってないの。それに顔に怪我してる。腕も」

「そうね。でも大した事じゃないわ」

「……風邪を引くよ」

 アルベールは困った顔で、青い傘を差し出す。あたしはそれを受け取って広げる。

 傘に当たった雨が絶え間なく旋律を奏でる。雨に濡れるのは嫌いじゃない。雨の音は好き。目を閉じ、耳を澄ます。

「姉ちゃん、また何かしたの」

 幾度かの逡巡の後、アルベールが不安気に問う。俯いて足元を見ている。あたしは肩をすくめて答える。

「大した事じゃないって言ってるでしょう」

「でも」

 言い掛けて結局アルベールは言うのをやめる。

 ──本当に弱虫ね。

 自分の言いたい事くらい言えばいいのに。だから馬鹿共につけ上がられるのだ。

 でも大丈夫。アルベールはあたしが守るから。

 放っておくとぬかるみに足を取られて転ぶので、あたしはアルベールの手を握る。アルベールはそっと手を握り返す。魔女に触れれば呪われるなんて、下らない言いがかりだ。

 二人並んで屋敷に帰る。庭と屋敷を守る高い塀があたし達を出迎える。

 ひ、とアルベールが息を呑んだ。

 雨に打たれて少し形の崩れた真っ赤な文字が、塀の表面に踊っている。

 ──《出ていけ魔女》。

 あたしはアルベールの手を放して塀に近づく。これは何の赤だろう。塀に手を触れる。掌にべったりと粘着質な色が移る。獣の血のような生臭い匂いが鼻を突く。

 赤。

 赤。

 赤。

 魔女の色だ。

 ──嗚呼。

 なんて素敵。

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