05_金の瞳の女王

 制服から着替えるために、あたし達は二階へ昇る。アルベールはあたしの後ろをついてくる。

 部屋の前で立ち止まると、アルベールも止まる。

 アルベールの部屋はあたしの部屋の奥にある。怪訝に思って振り向くと、アルベールは黒い傘を抱き締めて突っ立っている。濡れた傘の先からは水滴が落ち、廊下に点々と痕を残していた。

 あたしは眉をひそめてアルベールを見る。

「何しているの。傘を家の中に持ってきたら駄目じゃない」

 アルベールは答えない。これは可笑しな事だ。弱虫のアルベールがあたしの質問を無視するなんてありえない。

 あたしはアルベールを軽く睨む。水の痕が母さんに見つかったらまた撲たれるというのに、何を考えているのだろう。

 アルベールは傘を抱いてじっと俯いている。しばらくして、ようやくその口が動く。

「姉ちゃん、学校で何したの」

「あたしは何もしてないわよ」

「何もしてなくて、あんな事される筈ないじゃないか」

 アルベールの声が神経質に高くなる。

 あんな馬鹿共を基準に考えるなんて本当に愚図。あいつ等はあたし達がただそこに居るだけで悪意を向けてくるというのに。

「影が窓を開けたのよ。そしたら鎌風が吹いたの。テサドーラは二度と踊れなくなったわ」

「影って、何」

「前に言ったじゃない。あたしの代わりに鏡に映るものよ。いつも勝手に喋って動いて、凄く煩いって」

 理解が遅い。本当に鈍な子。アルベールはあたしの顔を凝視する。あたしが黙って見返すと、唇を噛んで俯く。傘を強く握り締める。

 あたしは溜め息をつき、部屋の扉に手をかける。

「……姉ちゃんは、やっぱり変だ」

 あたしは声のした方を振り向く。そこには何故かアルベールが居る。ひどく張り詰めた表情で、まっすぐにこちらを見て、アルベールが立っている。

「影が窓を開けたりする筈がない。そんなの可笑しい」

「なによそれ」

 アルベールのくせに。あたしは声を荒げる。

「あたしの言う事が信じられないっていうの」

「だって姉ちゃんは可笑しいよ」

 アルベールが叫んだ。縋るように傘を抱いて、甲高い声で喚く。

「姉ちゃんは誰もいないと一人で喋ってる。影なんて嘘だ。本当は姉ちゃんが窓を開けたんだ。喋ってるのも動いてるのも姉ちゃんの筈だ。だって影は影なんだから何もできる訳がないんだ」

 ──嗚呼、やっぱりアルベールは駄目な子だ。

 あたしの弟なのに、この村の奴等の言う事を鵜呑みにしてしまっている。可哀想なアルベール。あたしの居ない所で何を吹き込まれているのだろう。

 あたしは努めて優しい声でアルベールを呼ぶ。

「仕方ないわね。ちゃんと判るように教えてあげるから、傘を置いてこっちへいらっしゃい」

 アルベールは俯いて動かない。あたしは仕方なく、アルベールの所まで戻る。濡れた傘を掴む。全く、何だってこんな物を後生大事に抱えているのだろう。

「……姉ちゃん」

「なあに、アルベール」

 仕方のない子。

 あたしが優しく答えると、アルベールは震える声で言う。

「しばらく、僕にかかわらないでよ」

 アルベールはあたしの手を弾く。階段の縁まで退ってあたしを睨む。

「シリウスは傘を返してくれた。シリウスは僕の事を友達だって言ってくれた。僕は明日からシリウスと一緒に学校に行くんだ。姉ちゃんは僕についてこないで」

「何言ってるのよ、あんた」

 嗚呼、もう、本当に馬鹿。まだあんな奴を信じている。過去にあれだけ傷つけられたのに。あたしが守ってあげていなければ、どうなっているか考えもしないのか。

「シリウスを信じては駄目と言ったでしょう。あたしがいなくなったら自分がどんな目に遭わされるか判らないの」

「姉ちゃんがいるから、僕が酷い目に遭わされるんだよっ」

 アルベールが怒鳴る。踏み鳴らされた床が大きな音を立てる。

「アルベール、母さんが起きるわ」

「うるさい。魔女なのは母さんと姉ちゃんだけだ。僕は魔女じゃない。僕は何も悪い事なんかしてない。僕が苛められるのは姉ちゃんのせいだ。魔女の呪いが移るから寄るなって皆が言うのは誰のせいだと思ってるの。姉ちゃんがいるから先生だって助けてくれないんだ。折角声をかけてくれた人だって姉ちゃんが追い払っちゃうじゃないか。だから僕は一人なんだ。シリウスといれば誰もそんな事言わない。シリウスといれば誰も僕を苛めない。シリウスといれば一人じゃない。シリウスは僕の友達なんだ。姉ちゃんに口を出す権利なんてない。もう僕にかかわらないで」

 言葉の最後は嗚咽に呑まれて聞こえなくなる。ぼたぼたと涙を落とし、声を抑えてアルベールは泣く。

 昔はこんな風に泣く子ではなかった。大声で泣いては母さんに怒られていた。近所の子に苛められては、あたしを呼んで泣き叫んだ。いつもあたしの後ろを隠れるようについてきたアルベール。

 アルベール。

「──そう」

 アルベールの濡れた頬に触れる。今度はアルベールも振り払ったりしない。昔よくそうしたように、あたしは涙の痕を拭ってやる。

「あんたもあたしを裏切るの」

 ぎくりと身を引くアルベールの頬を、あたしは思い切り引っぱたく。乾いた音と共にアルベールの体が傾ぐ。後ろに踏み出した足を受け止める床はない。アルベールが無様に階段を転げ落ちていく。

 あたしはアルベールを放って部屋に入る。扉を閉める。鍵をかける。

 一拍遅れてアルベールの泣き声が聞こえてくる。

 ──あの歳にもなって、恥ずかしい。

「あたしがいなかったらあんたの味方なんていないのよ」

 魔女の弟でなくたって、アルベールが非力で貧弱で愚図である事は変わらない。そういう子供は大概憂さ晴らしの対象になる。結局は今と同じ。何一つ変わりはしない。

「誰があんたを庇ってやってたと思ってるの」

 誰が誰が誰が誰が誰が。

 アルベールに代わって泥を被ったのもあたし。弱虫なアルベールに代わって仕返しをしてやったのもあたし。

 あたしが。

 あたしがどれだけアルベールの為に。

 木の扉に爪を立てる。体を凭せかけて床を睨む。そうしていると、どこからか声が降ってくる。

「可哀想なエレクトラ。また裏切られたのね。でも大丈夫よ、あなたは悲しまなくて良いの。ここは初めからそういう風にできているのだから」

 あたしは顔を上げない。喋っているのが影だと知っている。だから要点だけを反復する。

「初めから、そういう風に……」

「そうよ。そう。だってそこはあなたの世界ではないもの。言ったでしょう、そこは偽物なのよ。あなたはそちらに産まれるべきではなかった」

「ならなぜ間違ったの」

「あなたのお父様が間違ってしまったから。こちらに在るべきものを、そちらに繋ぎ留めてしまったから。罪はあなたに受け継がれてしまった。ファーリースの契約の糸は切れてしまったのに、あなた達はまだ繋がれている。いいえ、本当に一番初めに間違ったのはただの偶然だったの。でもそれはただそれだけの事でしかなかったのよ」

 嗚呼そうか、そういう事か。それなら全て説明がつく。あたしが魔女なのもここの住人があたしを受け入れられないのも誰一人あたしを受け入れないのも馬鹿共しかいないのも全部そのせいだったのだ。最初からここはあたしの世界ではなかった。父さんが間違ったせいであたしまで間違った。

 父さんは自ら魔女を繋ぎ留めたのに自ら魔女を見放して逃げた。父さんは間違った。あたしは間違わなかった。

 そうだ。あたしは間違ってなんかない。

 扉から背を離す。床に落ちた黒い影に問う。

「ねぇ、あんたは何」

「私はあなたでありあなたの影よ、エレクトラ」

 顔を上げる。窓には影が映っている。金の瞳のあたしが映っている。

「ようやく私を認めたわね」

 蛇があたしの顔で笑う。蛇の後ろには白い石畳の道が奥へと続き、遠くでどこかへ繋がっている。

「魔女の影は女王。女王の影は魔女。あなたはこちらでは女王なの。かつてあの庭でそうであったように。だってここはあなたの世界だもの」

 影の足元に影はない。あたしがそれを指摘すると、影は可笑しそうに笑う。

「一つのものに影は一つ。当たり前の事よ。影の影は存在しないの。でも今あなたには二つの影がある。私と、あなたの足元の影。あなたが間違った世界に居るから、あってはならない事が起きているの。あなたは早くこちらに戻らなければならない」

「戻らなかったらどうなるの」

「影に喰われてしまうわ。誰も自分の影を殺す事はできないもの」

「本物を喰ってしまったら、影も消えるわ」

「そうよ」

「そうしたら、もう一つの影はどうなるの」

「決まってるじゃない。本物になるのよ」

 相変わらず影の言う事は要領を得ない。

 あたしは問うのをやめて笑い出す。そうすると影も笑う。可笑しくなる程、影の言葉は意味が判らない。残った影が本物になってしまったら、今度は影がなくなってしまう。影がないものは本物ではない。

「下らないわ」

 そんな事はどうでも良い。重要なのはただ一つ、ここはあたしの世界ではないという事だ。

「あたしはそちらへ戻る事ができるのね」

「ええ、あなたがそちらから道を開いてくれれば」

「そちらには綺麗な庭があるのかしら」

 蛇は嬉しそうに顔を歪める。

「もちろん」

「本も」

「あるわ」

「紅茶もあるの」

「あなたが望むものなら全て。だって、女王はあなただから」

「そう」

 なんて素敵。素敵。素敵。ようやく正しい世界へ戻れる。ようやくあたしの世界へ戻れる。

 綺麗な庭。そこに居るのはあたし一人。誰もあたしの平穏を乱さない。誰もあたしの邪魔をしない。陽の光を恐れる必要もない。全てはあたしの思う通りになる。

「私はあの場所へ帰りたい」

「ええ、帰りましょう」

 不安気な蛇に微笑みかけ、あたしは銀の鋏を取り出す。

「何をするの」

「どうせだからとびきり派手に飾ってあげなくちゃ」

 魔女の退場にふさわしく、女王の入場に相応しい華々しい道を作らなければ。可哀想な愚図に、あたしが何であるか知らしめてやる。



 父さんに贈られた本を本棚から一冊ずつ取り出し、丁寧に鋏で切り刻む。白い頁が雪のように辺りに降り積もっていく。

 あたしを中心に金色で円を描く。四方には守護者の名を。天井から壁へ、頂上から垂れる大樹の枝。

 力の流れは枝先から円に戻る。円から螺旋を描き、再び頂上へ巡る。

 赤は血の色がいい。左腕を切り裂き、指先から滴る血でより大きな円を描く。方角をずらし、四方に破壊者の名を。床から壁へ、天に向かう赤い花。収束する点から、再び下へと流れ落ちる。

 白雪の上に赤と金が咲く。

「綺麗ね」

 影が微笑む。あたしは小さく笑い返す。

「だけど黒が足りないわ」

「あら、あるじゃない。そこに」

 今は夜。窓を開ければ、簡単に闇が手に入る。

 雨は止んでいる。細い月だけが雲の切れ目から覗いている。丁度良い、とあたしは思う。

 壁から鏡を外し、窓の下に置く。窓硝子に映るよりはっきりとした姿で、影はあたしに手を伸ばす。

「エレクトラ」

 影が呼ぶ。あたしは手を伸ばそうとして、小さな音に気付く。振り返ると、扉から再び小さなノックが聞こえる。

 きっとアルベールだろう。一人では夕食の仕度ができなくて困っているのだ。

「馬鹿馬鹿しい」

 あたしは鍵を開ける。弱虫のアルベールはそれでも扉を開けることができない。鼻を鳴らして、あたしは鏡に向き直る。影の左手に、右手を合わせる。そうすると丁度鏡写しだ。鎌風を喚んだ時と同じ。

「行きましょう」

 ふっと世界が反転した。鏡に映った赤い瞳のあたしが、赤と金の円の中心で倒れる。動かない。

「こっちよ、エレクトラ」

 足元を見ると、猫の目をした蛇が笑っている。白い石畳の道が続いている。その先には黒い柵があり、

その向こうにあの庭がある。

 嗚呼、やっと辿り着いた。

 あたしの庭。

 あたしの庭だ。

「あははははははははははははははははははははは」

 あたしは笑う。今までで一番気分が良い。くるくると回ると、足元で影が一緒に踊った。

 ようやくようやくようやく──あたしは自由だ。

 キィ、と扉が軋む。鏡の向こうで扉が開く。呆然としたアルベールが、倒れた赤い瞳のあたしを見つめている。

 そして、あたしに気付く。

 あたしはアルベールを無視して歩き出す。

「姉ちゃん」

 アルベールの声がするが振り向かない。

 ──本当に馬鹿な子。

 あたしを裏切ったりしなければ良かったのに。可哀想なアルベール。あたしはあんただけは、あの庭に連れて行ってあげても良いと思っていたのに。

「姉ちゃんっ」

 せいぜい悔やめばいい。あたしがいない間違った世界で、痛めつけられながら生きていけばいい。今度は誰もあんたを助けない。

 あんたはあたしを裏切った。


 あんな世界は、もう要らない。

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