03_雨と傘

 アルベールはあたしに言われた通りに、奥から順に丁寧に埃を落として掃き集める。左足を残して角を曲がる。右足から階段を上り、左足から階段を降りる。

 あたしは地下倉庫から保存食と乾酪を持ってくる。離れから少量の野菜を運び、羹を作る。弁当を包む。

左の廊下を掃除する。

 アルベールと共に食卓に皿を並べる。北に位置する空席は見ない。いつもと同じ量の食事を、同じ様に分配する。鍋と籠が空になる。

 母さんが起きてきて、あたしだけに「お早う」と言う。

 あたしだけが「お早う」と返す。

 短い祈りの後、沈黙の中で朝食が始まる。

 皿を片付け、鞄を持って家を出る。濃い灰色の空があたし達を出迎える。じっとりと空気が重い。

「アルベール、傘を持って行きなさい」

 ふらりと足を踏み出すアルベールを呼び止める。あたしに傘を渡されて初めて、アルベールは空を見上げる。しょっちゅう風邪を引くくせに、自己管理がまるでなってない。

「ほら、行くわよ」

 ぼんやりするアルベールを苛立ちながら急かす。同じ黒の傘を持って、沈黙を引き連れて並んで歩く。

 初等学校の校門でアルベールを見送る。一人で中等学校へ行く。つまらない授業が始まる。つまらないまま終わる。

 外に出ると、細かい雨が降っていた。傘を差して歩き出す。降り始めてしばらく経っているようで、あちこちに浅い水溜りができている。

 雨の日に、校庭は使えない。踊り子は退屈そうに佇んでいる。

 校門の側で無言のまますれ違う。

 砂の道は黒く濡れている。傘を忘れた初等学生達が鞄を掲げて走っていく。その中でひときわ小さい子供が、校門の前のぬかるみに足をとられて転んだ。

 あたしは一瞬目を向け、通り過ぎる。

 視界の片隅で、テサドーラが子供に駆け寄り、吐き捨てる。

「手を貸すくらいしたらどうなの、あの魔女」

 お前が、それを言うのか。

 魔女に触れれば呪われると、声高に叫んだお前が言うのか。

 あたしは振り向かない。言い返しもしない。つまらないものを壊すのは無能の仕事だ。顔を上げて、まっすぐ歩く。

 水溜りに映った影が言う。

「ああ、可哀想なエレクトラ。我慢なんてしなくていいのに。私が壊してあげるわ。あの女が二度と踊れない様にしてあげる」

 あたしは影が居る水溜りを踏んだ。水面が乱れて影が消える。ぎょっとしたように飛沫を避けて、黒い傘を差したシリウスがすれ違う。

 アルベールは傘も持たずに、木陰であたしを待っていた。

 慌てて傘を傾け、アルベールを中に入れる。

「傘はどうしたのよ」

「シリウスに貸したんだ。傘がないって言うから」

 髪に触れると、濡れて冷たい。そのくせアルベールは笑っている。

「馬鹿。風邪引いたらどうするの」

「大丈夫だよ。姉ちゃんの傘があるじゃない」

 あたしはアルベールを叱ろうとして、やめた。「そうね」とだけ言って、並んで歩き出す。

 道の向こうで、大きすぎるテサドーラの傘をふらふらさせて、泥まみれの子供が歩いている。

 ──これで良かったのだ。

 あたしの傘はアルベールの為にある。あたしはアルベールが濡れないように気をつけていればいい。

「家に帰ったら、もう一本傘を出さないといけないわね」

「……シリウスはちゃんと返してくれるよ」

「馬鹿ね。明日の朝はどうするのよ」

 そうか、とアルベールが呟く。本当に何も考えてない。

 影は何も喋らなくなった。黙ってあたしの後ろをついてくる。



 家に帰り、布巾を持って二階へ上がる。今日はあたしの部屋で遊ぶ。あたしはアルベールの髪を拭きながら、異国の童話を一緒に読む。

 俯くアルベールの額に、昨日の痣を見つける。あたしは前髪でそれを隠す。アルベールは気づかずに顔を上げる。

「雨、止まないね」

「久しぶりに降ったからじゃない」

 まっすぐ細い糸のように、絶え間なく雨が降る。あたしは雨の音が好き。雨に濡れるのも嫌いじゃない。なにより、光がなければ影はできない。月のない夜は影の声は酷く弱々しい。

 あたしが窓の外を見ていると、アルベールが札を持ってくる。

「姉ちゃん、今日は札をやろうよ」

「昨日の雪辱はいいの」

 からかうと、アルベールは熱心に札を分ける振りをして目を逸らす。

「あれじゃいつまで経っても勝てないじゃんか」

 ふうん、とあたしは相槌を打つ。

 ──本当に馬鹿。自分で言ったくせに。

 手札を見ると、赤い札と黒い札がある。これだって同じ。あたしの色。

 日が沈むまで、あたし達は札遊びに興じる。雨は止まない。あたりが暗くなってきたら、アルベールは地下倉庫へ、あたしは離れへ行く。

 二人で並んで食事を作る。あたしは入り口で、アルベールは奥で。

 麵麭パンを焼く。スープを作る。香草と一緒に乾肉を焼く。

 皿を並べ、盛り付ける。アルベールは二階に昇る。あたしは母さんを呼びに行く。短い祈り。

 沈黙の中で食事が始まり、終わる。

 母さんは部屋に戻る。あたし達は湯で体を拭き、二階に上る。

「お休みなさい、姉ちゃん」

「お休み、アルベール」

 窓の外はまだ雨。月はなく、空は暗い。あたしは寝台にもぐり込む。

 薄くぼんやりとした影が、天井から哀しげにあたしを見下ろす。

 雨の音は止まない。規則的に降り注ぐ。影の声はしない。昨日あたしが踏んだ姫踊子草はどうなっただろう。他の踊り子が雨に打たれて踊る中、独りで地面にはりついているのだろうか。

 真っ暗な部屋の中で、机の上の銀の鋏が僅かな輝きを放っている。

 アルベールは今日も、あたしが贈った短剣を持って学校に行ったのだろうか。

 昔、他でもないシリウスに短剣を奪われ、森の中に捨てられて、泣きながら捜し回ったことだってあったのに。

 あの時はもっと酷い雨だった。ずぶ濡れになったアルベールは次の日風邪を引いた。その探索行はしばらくの間、アルベールの勲章だった。あの時の誇らしげな顔を憶えている。

 あの短剣は象徴。アルベールの守り。

 そして魔女の短剣アセイミ

 影があたしを黙って見下ろす。

 大きすぎる傘がふらふらと揺れる。

 雨の音はまだ止まない。


  ◇◇◇

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