02_魔女と踊り子

 乾いた砂の白い道を、アルベールと並んで歩く。

 よその区画から通学している子供の群れが、道の先でじゃれあっている。あたし達より足が遅いのでゆっくりと距離が縮む。やがて群れの中の誰かが魔女に気付き、全員が道を開ける。

 あたしは見向きもせずにその脇を通り過ぎる。

 会話さえ消える瞬間。まとわりつく視線を振り切って歩く。

 やがて後方で囁き声が復活する。

 あたし達と共に沈黙が歩いていく。

 あたしが通う中等学校の先に、アルベールが通う初等学校がある。あたしは中等学校の校門を素通りして進む。あたしが離れればアルベールが小突き回されることは目に見えている。

 頭の悪そうなガキ共がつまらなそうに駆け足で初等学校へ向かう。あいつらはあたしの前ではアルベールにちょっかいを出すことはできない。魔女に触れれば呪われるからだ。奴らはあたしには手を出さない。

 でもアルベールは魔女の弟であって魔女ではない。力が弱く体も小さいただの愚図な子。あたしがいなければ自分の身も守れない。

 初等学校の入り口で、あたしはアルベールの肩に触れる。

「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」

 アルベールは俯いて歩き出す。やがて馬鹿の群に紛れて見えなくなる。

 魔女の呪いはアルベールを守ってはくれない。

 昇降口で他の子にぶつかられたアルベールが、壁に頭をぶつけるのが見えた。

 ──本当に愚図な子。

 可哀想なアルベール。せめてあんなに弱虫でなければ良かったのに。

 あたしは黙って踵を返す。

 早く大人になりたい。そうすれば学校に行かずに済む。あたしがアルベールを守ることができる。二人でずっと暮らせばいい。そしてもう一度あの庭を作るのだ。今度は誰にも壊されないように。

 中等学校の校門をくぐる。教室に入る。あたしの席は、窓際の列の一番後ろ。一つだけとび出た机。

 何人も魔女に触れてはならない。

 人垣が割れて沈黙の通路ができる。あたしはそれを通って机に着く。あたしが座ると、再び周囲が騒々しくなる。

 今日の髪型、新しい靴、可愛い髪飾り、恋人から贈られた白い花のこと。連中の話は聞いていて恥ずかしくなるほどつまらない内容ばかりだ。ごちゃごちゃと寄り集まった姿もあいまって、部屋の隅に掃き溜まった塵屑のよう。

 頬杖を突いて喧騒から目を背ければ、窓には金の瞳の影が映っている。

「可哀想なエレクトラ」

 黙れ。

「こんな所に押し込められてはつまらないでしょう。我慢しなくていいのよ。あなたが望んでくれさえすれば、私が壊して助けてあげる」

 猫の目をした蛇が笑う。

 同情されるのは退屈以上に虫酸が走る。可哀想なのは屑として生まれついた奴等の方だ。何を学ぶことも生み出すこともないまま目先の享楽だけに囚われて、灯火で焼け落ちる羽虫の様に一生を終える生き物。

 あたしは奴等とは違う。あたしには父さんが残した薬師の知識がある。父さんがいなくなってから、アルベールの怪我や母さんの病気はあたしが治してきた。誰に教えて貰えなくたって、自力で学べばいいだけの話だ。学校の勉強だって同じ。教えられてさえ何も覚えない盆暗共とは違う。優れた女王と同じ様に、あたしは寛容に赦す事を知っている。

 早く大人になりたい。大人になれば薬師としてお金を稼げる。そうすれば、なんだって叶うのだから。

「嘘吐きね」

 影の声を無視して正面に目を向ける。教師が教壇に上る。

 下らない一日が始まる。



 学校であたしに話しかける物好きはない。教師とて例外ではなく、学校での時間は極めて退屈だ。つまらないことを話しかけてくる蛇を無視しながら、馬鹿のための授業を受ける。それが終わればアルベールを連れて帰宅する。

 ようやく授業が終わり、あたしは鞄に僅かばかりの私物を詰める。その間に馬鹿共は慌ただしく教室を出ていく。

 行き着く先は知っている。案の定、校舎の外に出てみれば校庭に人だかりができている。

 人の輪の中心で、一人の女が踊っている。

 新しい領主と共に今年になってやってきた、その妻の姪だ。踊り子である母から教わった舞を披露しては喝采を受ける。

 踊り子などと耳触り良く言っても、その大半の本職は淫売だ。世界で最も卑しい職の一つ。テサドーラはその素質も十分に受け継いでいる。夢中で見入っている男共は実に無様だ。

 淫売に比べれば薬師の方が遥かに高尚な職だ。あたし達から奪われた地位が、何故あの女の家族に渡るのか理解に苦しむ。

 ここの者達は口を揃えて言う。

 ──魔女の血筋のせい。

 魔女から産まれた魔女があたし。血が穢れたから領主になることはできない。

 無能共は同程度の無能だけで群れる事にいつだって必死だ。だからいつまで経っても進歩がない。

 あたしは屑の山の隣を通り過ぎる。初等学校まで早足でアルベールを迎えに行く。人影はまだまばらで、アルベールの姿はない。いつもより早く着いたようだ。

 道から少し外れた樹の陰で待っていると、昇降口にアルベールが歩いてくるのが見える。アルベールの後ろにいた金髪のガキが、アルベールの背中を少し小突いて何かを言う。あたしは苦々しい気分になる。

 アルベールは驚いた顔で振り向いた後、僅かに笑って口を動かした。

 ──馬鹿。そこでへつらってどうするの。

 もたもたと階段を降りるアルベールより一足先に、金髪が出てくる。あたしはその顔を注視する。すぐに誰だかわかった。

 シリウス。

 新しい領主の長男。数年振りにここへ戻ってきたとは聞いていたが、姿を見るのは初めてだ。相変わらず嫌な奴だ。思い出すだけで腹が立つ。走り去る背中を睨んでいると、遅れてアルベールがやって来る。

 あたしはぼんやりとしているアルベールを睨んだ。

「あいつに何を言われたの」

 アルベールがぎくりと身を竦ませる。

「な、何も。じゃあなって言われたから、また明日って言っただけ」

 アルベールもあたしと同じ。傷付けるため以外の目的で、誰かに声をかけられることなどまずない。

「あいつはあんたを裏切るわよ」

「シリウスは、そんなことしないよ」

「小さい頃、あいつがあんたに何をしたか忘れたの。

面白半分で川に落とされて溺れかけたくせに」

 あいつが最初にアルベールに手を出した。あいつが面白半分でやった事のせいで、アルベールに対する暴力はどんどん酷くなった。あいつに泥と痣だらけにされたのをもう忘れてしまったのか。

 アルベールは泣きそうな顔で下を向く。あたしはその手を引いて歩き出す。

 ──何度同じ目に遭わされれば気が済むの。

 アルベールは馬鹿だ。こんなに酷い目に遭ってもまだ他人を信じる。その度に酷い目に遭う。

 だからあたしが守らなければ。

 あたしだけがアルベールを守れるのだから。



 屋敷へ帰ると、あたしとアルベールは部屋で遊ぶ。

今日はアルベールの部屋。

 あたしの部屋からもアルベールの部屋からも、野原になってしまったあの裏庭が見える。

 庭が焼かれてから、あたし達は外では遊ばなくなった。表の庭では遊べない。あそこは外から見えてしまうし、馬車が通ると危ないからだ。そのせいでアルベールはますます青白くなってしまった。

 アルベールは床に座って絵本を広げている。主人公は、塔に囚われた白い小鳥。ある日籠から逃げ出すけれど、自由を謳歌する間も無く死んでしまう。小鳥の唯一の友達だった野良猫が、その亡霊が空へ旅立つのを見送る場面で絵本は終わる。

 アルベールの五歳の誕生日に、父さんが贈った本。

 哀しいだけのこの物語を、何を思ってアルベールに与えたのかは知らない。

 初めて読んだとき、アルベールが泣いたことは憶えている。その頃父さんも白い小鳥を飼っていた。父さんが消えた後、アルベールがその鳥を逃がす事を提案し、二人で籠を開けた。

 小鳥が結局どうなったのか、あたしは知らない。

 父さんはあたし達の誕生日の少し前にいなくなることが多かった。だから誕生日はあたしとアルベールと母さんの三人で祝う。父さんは数日すると、両腕一杯に贈り物を抱えて帰ってくる。

 父さんの指は驚く程長く、広げると蜘蛛のようだった事を憶えている。稀に彼が両手であたしの顔を包むようにすると、あたしは彼の手の中にすっぽりと納まってしまった。

 逃げ出した裏切者のことなど考えるべきではない。

 あたしは首を振る。そして、床に投げ出されたアルベールの鞄かられる白銀の輝きを見つける。

 銀の短剣。小鳥の絵本を贈られたのと同じ年の誕生日に、二人で交換したものの片割れだ。あたしからアルベールには銀の短剣を、アルベールからあたしには銀の鋏を。

 可哀想なアルベール。自分の力で他人に突き立てることなどできないくせに、武器だけをずっと持ち歩いているなんて。

 短剣を贈ったときの、燥いだ様子を思い出す。泣きそうなのを我慢して、短剣を両手で握りしめる様を想う。何度胸の裡で繰り返しても、きっと刃を抜く事はないのだ。

 脆弱で愛しいあたしの弟。

「《いとしいマリア、さあ、僕と一緒に行こう》」

 小鳥が空へ羽ばたく最後の場面を、アルベールの声がなぞる。この年齢になっても絵本を好むような子供が短剣を構える様子は、滑稽を通り越して憐れだ。

 アルベールが顔を上げる。あたしは遊戯盤の上で駒を動かすのをやめる。

「一人でやってるの」

 アルベールが尋ねる。あたしは微笑んで答える。

「そうよ」

「凄いね」

「アルベールが嫌がるからよ」

「だって、絶対負けるじゃない」

 ふて腐れた顔で目を反らすので、あたしは赤い駒を幾つか除ける。

「これでどう」

 アルベールが渋々頷く。あたしは床に降りて、遊戯盤を二人の間に置く。

 アルベールの黒い駒は八。あたしの赤い駒は六。

「でもきっと負けるよ。だってこの駒、どっちも姉ちゃんの色だ」

 駒を並べながら、アルベールが唇を尖らせる。

「駒は女王に逆らえないんだから」

「弱虫ね。いきなり言い訳」

「一度も勝った事ないから言うんだよ」

「あら、よく憶えてるじゃない」

 笑って、磨き上げられた遊戯盤をのぞき込む。鏡のような表面。拗ねたアルベールの顔が映る。あたしの顔は映らない。

 猫の目をした蛇が勝ち誇ったように笑う。

「どうしたの、そんなに驚いた顔をして」

 あたしの表情に気付いたのか、アルベールが微かに怯えた顔をした。



 日が沈み始めたら夕食の仕度をする。アルベールは地下倉庫へ行く。あたしは離れに乾肉を取りに行く。

 離れへの道にも背の低い雑草が茂っている。手入れされていた頃は白い石が敷き詰められてとても綺麗だったけれど、今や見る影もない。

 道の脇に生い茂った草花の中に紫がかった部分がある。あそこに群れているのは姫踊子草だ。蜜を含んだ小さな桃色の花より、ドレスのように裾を広げた葉の方が目立つ花。

 踊り子──テサドーラの姿を思い出して、放課後の苛立ちが蘇る。足元を睨んで歩いていくと、一つだけはぐれたように姫踊子草が咲いている。

『あんた、魔女なの』

 初めて会った時、図々しくも下らないことを聞いてきた屑。

「そうよ、あたしは魔女」

 姫踊子草の頭に爪先を乗せる。踏みつける。雑草は強靭だから念入りに。

 足を持ち上げると、茎の折れた部分だけが濃い色に染まって、葉と花びらは汚れて千切れている。無残に潰れた花。華やかな踊り子の末路。美しさ以外の価値を持たぬまま落ちた花は醜い。

 あの女だっていずれそうなる。まるで無知な操り人形のようだ。糸が切れたら何もかもお終いとも知らずに、狂ったように踊り続ける。

 花を踏み越えて離れに入ると、建物に染み付いた独特の香りが鼻につく。ここは元は父さんの薬草庫だった。今でも腐り易いものだけは出し入れが簡単なこの場所に置いてある。

 乾肉だけを持って外に出る。野菜が入っている箱は開けない。あと僅かしか残りがないからだ。

 また買い足しに行かなければならない。ここでは買えないから遠くの街へ。この村の馬車には乗れないから、街道までは徒歩で出る。行きは苦にならないが、重い荷物を背負って帰るのは骨が折れる。

 それでもあたしが行かなくてはならない。アルベールを一人で行かせれば、途中で転ばされて折角買ってきた野菜が泥まみれになる。

 悪くすれば使えなくなるか盗られるかだ。仕方なく荷物を背負うあたしを、領主館の窓からテサドーラが嘲う。

 あたしが厨房に着くと、少し遅れてアルベールがやってくる。香草を受け取って乾肉と合わせる。アルベールはスープ乾酪チーズを溶かす。

 アルベールは厨房の奥、あたしは入り口。

 二人一緒に何かをするときは、母さんがあたしより先にアルベールに出会わないよう注意する。ただし、アルベールを一人で外に出すのも危ない。あたしが気をつけなければならない。

 父さんがいた頃は、こんな心配をする必要はなかったのに。

 母さんは昔から少し可笑しな人だった。夜というものを過剰に嫌い、酷い時は家具の影にさえ怯えた。まだ外に出られた頃も、森の外れを流れる小川には決して近付かず、あたし達にも決して川に近付かないよう言い含めた。特に父さんがあの川に近づくと半狂乱になって止めた。しばしば家族に一方的で不可解な約束事を与え、それが破られると異常な程取り乱した。

 あたしは数回でその事を学習し、意味不明な規則に従うようになった。取り乱した母さんを抑えるのは一大事で、規則に従いさえすればあたしの言う事に従う事も多かったからだ。これは一種の契約であり、時間をかけさえすれば、いずれ支配権があたしに移るのだと理解した。

 アルベールは実に要領が悪く、不注意で規則を破っては母さんを怒らせた。幼いアルベールは泣き虫だったが、次第に泣かなくなり、やがて何も言わなくなった。母さんはこの頃からアルベールを撲つようになった。

 父さんは意図的に規則を破った。その度に母さんは取り乱す。父さんはふらりと屋敷を出て行く。数日して何食わぬ顔で戻ってくる。その頃には母さんも正常になっている。

 それは時間による作用ではなく、アルベールが代わりに叩かれ、あたしが慎重に母さんを制御した結果だった。父さんはそれを理解していなかった。そしてそのうちいなくなった。

 母さんはもっと可笑しくなった。

 昔はそれでも、一定の法則に従って動いていた。出会い頭にアルベールを撲ったりはしなかった。今はもう何をするか判らない。部屋から出てくる事も少なくなったけれど油断はできない。

 黙々と準備は進み、最後に麵麭が焼ける。アルベールと二人で皿を並べる。三人分の食事を綺麗に盛り付ける。

 アルベールは一度部屋に戻る。以前、一度だけ夕食のスープにアルベールの髪が入っていた事があった。あれ以来母さんはアルベールが作ったものと判ると食事を口にしない。何につけてもやる事が過剰だ。

 あたしは母さんを呼びに行く。重い木の扉を叩く。

「母さん、夕食よ」

 返事の後、間があってから、母さんが部屋から出てくる。あたしは薄汚れた白いドレスの裾を見ながら、母さんを食卓に座らせる。それからアルベールを呼びに行く。アルベールと共に席につく。

 短い祈りの後、沈黙の中で夕食が始まる。夕食が終わる。母さんが部屋に戻る。アルベールと二人で皿を片付ける。

 井戸から汲んだ水を沸かし、湯で体を拭く。

 部屋に戻るために二階へ上がる。あたしは自分の部屋の前で止まる。何故かアルベールも止まる。

「どうしたの」

「あのさ、姉ちゃん……」

 アルベールが歯切れ悪く呟く。しばらく迷うように口を開閉してから、困ったように口を閉じる。もう一度開く。

「お休みなさい」

「お休み、アルベール」

 あたしは笑って部屋に入る。

 アルベールはたまに奇妙な行動をする。何か言いたくても言えないのは良くある事で、放っておけばそのうち言う。大概、大した事ではない。

 窓を覗くと、月が明るい。あたしは舌打ちして寝台に寝転ぶ。本を開く。

 天井に、影が映る。血のように赤い口が笑う。

「今晩は、エレクトラ」

 あたしは答えない。

「エレクトラ」

 あたしは答えない。

「エレクトラ。エレクトラ。エレクトラ。エレクトラエレクトラエレクトラエレクトラエレクトラ」

 あたしは答えない。

「あははははははははははははははははははははは」

 本を捨てて目を閉じる。耳を塞ぎ、一刻も早く眠りに落ちるよう願う。ただの村人ならば顔も知らない神様にお祈りをするのだろう。魔女は何に祈るのが正しいのか、あたしは知らない。父さんも教えてはくれなかった。宛先のない願いが聞き届けられたことは一度だってない。


  ◇◇◇

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