第18話圧政の始まり

(何してんだ・・・)

机に向かい数学の問題を解いていた朱美がふと振り向くと、ローテーブルで漢文の問題集を解いているはずの優花里が下を向いたまま両手を床に落としている。

「ゆかりん」

朱美が声をかけるが、優花里の反応はない。

「ゆかりん!ゆかりん!」

「・・・ふぇ?」

「何してんのよ?漢文の問題集、終わったの?」

「・・・まだ・・・」

「折角うちまで来たのに、居眠りしたんじゃ意味ないじゃん!」

2学期の期末試験を間近に控えた12月8日(日曜日)、朱美の家で試験勉強をしていた優花里はついつい居眠りをしてしまった。漢文がものすごく苦手な優花里にとって、漢字の羅列を眺めているだけで集中力が途切れがちになるのだが、それにしても尋常でない睡魔が襲ってくる。苦手な科目を1人で試験勉強していても非効率だし、漢文が得意な朱美に教えてもらおうという魂胆もあって優花里は朱美の家に押しかけたのだ。歴史学者だった祖父(父方)の影響で、小学校低学年から漢籍を読んでいた朱美は漢文の読解だけでなく記述まで完璧にこなすことができる。中国語としての発音は全くできないが、筆談は可能である。しかし、朱美の家に押しかけたのはいいものの、居眠りをしたら元も子もない。ここでまた居眠りをしたら朱美がブチ切れるかもしれないと思いつつも、優花里は襲ってくる睡魔から逃れることができないでいた。

「涎、垂れてるよ」

「・・・そうだね・・・でも、あと少しだけ・・・」

朱美は優花里にポケットティッシュを渡すが、優花里は寝惚けながら右手で口元の涎を拭うと、また下を向いてしまう。

「ちょっと、やる気あるの?」

「ある・・・」

優花里はまた寝てしまった。

「もう!」

(座椅子を持ってきたのが失敗だったか。でも、もう2時か・・・始めてから連続4時間だし、お昼も食べてないな・・・一息入れるか・・・)

日曜日であるにも関わらず、島教授は学会準備のため大学で仕事、父親は国内出張中。兄の舜輔は大学を休学して岩手県内でボランティア活動をしているため不在であり、家には朱美しかいない。朱美はキッチンで即席のサンドイッチを4人分作ると、コーヒーセットと一緒に自室まで持ってきた。優花里が尋常でない大食いのため、朱美は優花里には3人分を準備するのが常である。

(まだ寝てる・・・)

朱美が覗き込むと、優花里はだらしなく口を半開きにして寝ている。

(相変わらず無防備なんだから・・・ちょっと遊んじゃおうかな・・・)

悪戯したくなる欲求を押えつつ、朱美はローテーブルの脇に座りとりあえず自分の分だけコーヒーを入れて休憩しようとした。

「やめて!死なないで!」

「熱っ!」

朱美がコーヒーカップを手にしようとした瞬間、優花里が大声で叫ぶ。優花里の足が勢いよくローテーブルにぶつかり、ローテーブルは大きく揺れる。その煽りでコーヒーカップは倒れかけ、朱美がかろうじて支えたにも関わらず入れたてのコーヒーは半分以上零れてしまった。急いでコーヒーカップをローテーブルに置くと、朱美は優花里の肩を両手で揺さぶる。

「ゆかりん、どうしたの?ゆかりんってば!」

「・・・あっ、朱美・・・」

「どうしたのよ、何があったの?」

「母娘とその家来みたいな人達が・・・自害しようとしてる・・・」

「悪い夢見たみたいだね・・・何これ?ネックレスが光ってるよ!」

優花里が身に付けているネックレスの金属板が仄かな光を放っている。

(まただ・・・)

以前、炎の中で助けを求める幼女の夢を見続けていた時、祖母からもらったネックレスを優花里が手にすると金属板が光り始めた。兵士達に囲まれ助けを求める母娘の夢を見た時には、目が覚めると机の上で金属板が光っていた。2人の武将が城内にいる婦女子の身の安全を祈っている夢を繰り返し見た直後、金属板は突然強い光を放った。3回とも金属板を強く握り締めると気を失い、自分自身が12人の武将に命じて幼女や母娘、婦女子を救い出すという[夢]を優花里は見ている。しかも、3回とも直接体験したかのような生々しい記憶が鮮明に残っている。今回は母娘やその家来達を助け出すことになるのかもしれないが、優花里はそれが自分の使命であるかの如く、何ら躊躇せずに金属板を強く握り締めた。次の瞬間、優花里はテーブルに突っ伏していた。

「ゆかりん!どうしたのよ!ゆかりんってば!」

驚いた朱美は泣き出しそうな声を上げて優花里を揺さぶるが、優花里は暫くの間何の反応もしなかった。


=====

Episode 4  豊浦滅亡


「殿!防戦に全力を挙げていますが、門が破られるのは時間の問題です!」

深手を負った兵士がアガタ一族の当主、サジャに報告する。報告が終わると同時に兵士は地面に崩れ落ちた。他の兵士2人が両脇から抱え起こそうとしたが、その兵士は二度と立ち上がることはなかった。


昨日、最終防衛ラインと定めたサクラ川における戦闘で、豊浦勢は倭軍の力攻めに抵抗しきれず、倭軍に相応の損害を与えたものの防御陣地を突破され、散り散りになった兵士達が各々豊浦館に逃げ込んでいた。また、多くの豊浦郷の民達が倭軍から逃れるために豊浦館に避難していた。豊浦館は昨晩のうちに倭軍に包囲され、豊浦郷では倭軍による略奪や放火・破壊、逃げ遅れた民の殺戮が既に始まっていた。そうしたなか、豊浦館は援軍が全く期待できない状況下での籠城という最悪の事態に陥る。サジャには一定数の兵力を予備として温存し、最悪の場合でも予備兵力で機動防御しつつ民達と豊浦勢を安全な場所まで避難させる腹案もあったのだが、倭軍の司令官乎獲居の姦計で多くの指揮官を失い指揮命令系統が破壊された結果、機動防御の実施は既に不可能になっていた。


「サジャ殿、お別れの時が来たようです」

主殿の縁側から豊浦館のもう1人の主、コカゲの子孫であり正当な継承者であるウツギが庭先で豊浦館の戦闘指揮を執るサジャに声をかけた。

「御始祖様が旧仲国から伝えられた絹織物の技術を私が絶やしてしまうことは断腸の思いです。ですが、中華の猿まねをして武力で土地を収奪するしか脳のない倭のような蛮族の手に掛かることだけは許されません。シランも覚悟ができています」

ウツギの脇には12歳になったばかりの娘、シランが立っている。シランも自らの意思で母と運命を共にすることを選択していた。

「殿!門が破られました!倭兵が乱入してきます!主殿には近付けぬよう我々が食い止めます故、お急ぎを!」

兵士が叫ぶ。倭兵の乱入により、豊浦館の内部は阿鼻叫喚の地獄の様を呈してきた。豊浦勢の兵士達の多くは前日までの戦闘で既に傷を負っている。乱戦になりもはや統制された戦闘ができなくなった豊浦勢は、それでも倭兵を主殿に近付けまいと死力を尽くす。絶望的な戦闘のなか、やがて兵士達は最後の力を振り絞り、思い思いに死に場所を求め倭軍に斬り込んでいった。

「ウツギ殿、御供します」

サジャはウツギに声をかけると甲冑を脱ぎ、主殿に上がろうとした。

「なりません。あなたは生き延びなければなりません。坂東の平和を乱すだけでなく、武力でこの地を支配しようとする倭を坂東から駆逐するのがあなたの使命です。そのためにも、早くここから脱出してください」

「此度の戦で多くの兵が犠牲になりました。否、兵達だけではありません、その家族や多くの民もウツギ殿同様に倭の手に掛かることを拒み自害しています。私だけがおめおめと生き永らえることなどできません!」

サジャは叫びながら主殿に上がってきた。

「お願いです、早くここから逃れてください!」

「御供させてください!死んでいった者達のためにも!」

「しかたありません。ヌクテ殿・・・」

「兄者・・・」

サジャが後ろを振り向くと、弟のヌクテが刀を構えている。

「狂ったか!」

「兄者、御免!」

サジャが叫んだその瞬間、ヌクテはサジャを峰打ちにした。勇猛果敢で豊浦の獅子と称されるサジャもヌクテの峰打ちには耐えきれず、その場で意識を失う。

「ヌクテ殿、サジャ殿をお願いします・・・」

ウツギはシランの手を取り、主殿の中に入って行った。生き残りのクビラ一族もヌクテに一礼するとウツギに従い主殿の中に入って行く。

「御意・・・」

ヌクテは泣きながらウツギ達を見送ると、サジャを担ぎ生き残りのアガタ一族10人と共に豊浦館の搦め手から沼に出て小舟で脱出を図った。


ウツギはコカゲが遺した衣服に着替えると、主殿の広間に入った。そこにはシランとクビラ一族が座して待っていた。ウツギはシランの傍らに座る。

「皆の衆、あの世で御始祖様にお会いすることができたら、此度のこと、お詫びしましょうね・・・」

ウツギは短刀を抜きシランの喉元にあてがった。

「やめて!死なないで!」

ウツギが短刀に力を入れようとしたその瞬間、虚空から少女の声がする。突然の出来事にウツギだけでなく、シランやクビラ一族の誰もが辺りを見回している。すると広間の天井が開き天空から光が差し込んできた。皆がその光の中心に視線を向けると、そこには異国の服をまとい12人の武将を従えた少女の姿があった。やがて、12人の武将はウツギとシランの傍らに降りてきて片膝を突いた。

「姫君、これから安全な場所へお連れします。御安心を」

武将の1人がウツギに語りかけた。

「そなた達は何者ですか?」

ウツギが恐る恐る尋ねる。

「我々は旧仲国王宮親衛隊第2大隊ヴァイシュラヴァナ所属のアーディティヤ十二将、私はクンビーラです」

クンビーラが答える。

「おお、嚢祖様!」

クビラ一族はクンビーラの名を聞いた瞬間、皆平伏した。

「旧仲国王宮親衛隊・・・アーディティヤ十二将・・・まさか!では、あの御方は御始祖様ですか?」

ウツギは光の中心にいる少女に視線を移す。

「いえ、あの御方はコカゲ様ではありません。詳しい御説明は後程いたします。姫君、今はお急ぎを」

クンビーラは言い終わると、後ろを振り向き右手を上げ他の武将達に合図をする。その合図と共に武将達は豊浦館の内部に展開する。その直後、クンビーラは立ち上がるとウツギとシラン、クビラ一族を光の環で囲んだ。次の瞬間、倭兵達が豊浦勢の最後の抵抗を排除して主殿の広間に乱入してきた。

「あの光の環は何だ?」

倭兵の1人が広間に漂う光の環を見て叫ぶ。

「そんなもの構うものか!ここも焼いてしまえ!」

倭兵達は目ぼしい品々を略奪すると躊躇なく広間に火をかけた。燃え広がる炎の中で、光の環は静かに消えて行った。


豊浦館からの脱出に成功したヌクテ達一行は対岸に辿りつき、ここからは陸路で遠縁の一族が居住する毛野国を目指すことにした。振り返ると燃える豊浦館と豊浦郷が対岸に見える。その時、サジャがようやく意識を取り戻した。

「ヌクテ!何て事をしてくれた!刀をよこせ!俺はここで自害する!」

サジャが喚く。

「兄者、ウツギ殿のお気持ちを少しは汲んでくれ。ウツギ殿は倭を坂東から追い出してくれとだけ言われたのではない」

「何?」

「倭を追い出し坂東の平和を取り戻したら、旧仲国の絹織物を復活させてくれと繰り返し言っていた」

「何だと?何故お前にだけそのようなことを」

「兄者が戦闘指揮で忙しく声をかけることができなかったのだろう。兄者に必ず伝えてくれと何度も念を押していたよ、ウツギ殿は」

「・・・何ということだ・・・」

サジャは下を向き暫くの間沈黙していた。

「ウツギ殿!御遺志は必ず成し遂げます!我が一族の総力を持って、必ず!」

サジャは顔を上げると、燃え盛る豊浦郷に向け大声で叫んだ。その時、豊浦館の主殿の辺りから一条の青い光が天空をめがけて伸びていった。その光の条に沿いながら更に明るい光の塊がゆっくりと空に昇っていく。ある程度の高さまで昇ると光の塊は動きを止め、豊浦郷に別れを告げるかのように暫くの間空中に浮かんでいたが、やがて西の空へ飛び去って行った。

「あれは・・・ウツギ殿達の御霊だろうか・・・」

アガタ一族は皆、西の空を見つめながら涙を流す。止むを得なかったとはいえ、豊浦館に立て篭もるという愚策に至ったばかりでなく、ウツギやシランはもとより、多くの民を護りきることができなかった無念、何よりもウツギとシランや多くの兵士、民を失った悲しみ、豊浦郷を蹂躙した倭軍に対する怒りと怨嗟とが心の中で錯綜し、叫び喚きたい衝動を皆懸命に押えていた。暫くすると、再び一条の青い光が天空をめがけて伸びていき、その光の条に沿いながらいくつもの光の塊が空に昇っていく。その光の塊は、先程と同様に皆西の空へ飛び去って行った。

「兵達も、民達も、皆殺されたのか・・・」

一族の1人が呟くと、下を向き小刻みに震えていた若者がいきなり短刀を抜き自害しようとした。

「やめろ!ここで死んでどうする!」

ヌクテが短刀を奪い取り制止する。

「死なせてくれ!大勢の民を見殺しにしておいて生きていられるか!」

「それは皆同じ気持ちだ!だがな、ここで俺達まで死に絶えたら誰が倭を坂東から追い出すんだ!誰が旧仲国の絹織物を復活させるんだ!幸運にも館から脱出できた以上、ウツギ殿の御遺志を成し遂げることこそ、生き残った俺達の責務だろうが!」

ヌクテも目に涙を浮かべている。自害しようとした若者はその場に泣き崩れた。誰も何も言えない、沈鬱な時間が暫く続いていた。

「行こう・・・」

サジャが皆に声をかける。アガタ一族は豊浦郷へ一礼すると、毛野国を目指して重い脚を引きずりながら歩き出した。


「・・・ヌクテ、絹織物に関する資料を館から持ち出せたのか?」

毛野国への道中で、サジャがヌクテに尋ねる。

「いや、その余裕はなかった」

「ヌクテとコム、2人で豊浦郷に潜入し、可能な限りの資料とできれば蚕や織機を持ち出してくれ。旧仲国の絹織物の復活、と言っても何もなければ始まらぬ」

「兄者、わかった。アシカガで落ち合おう」

「他の者はアシカガ到着後、体制を整えかつて技術者が養蚕と絹織物技術を伝えた土地に赴き資料を集めてくるように。こんな結末は受け入れられない・・・倭如きに旧仲国の絹織物を絶やされてたまるか!」

サジャは豊浦郷の方角を見つめながら、自らを奮い立たせるかのように叫んだ。


「兄者、今着いた」

豊浦館から脱出して6日後、ヌクテとコムがアシカガの山裾にあるサジャ達の仮住まいに着いた。

「御苦労!それにしても時間がかかったな。心配したぞ。無事でなりよりだ」

サジャがヌクテとコムを労う。

「兄者、残念ながら豊浦郷は全てが破壊され燃やされていた。何も残っていなかった・・・」

ヌクテが沈痛な表情でサジャに報告する。

「ただ、倭兵から奇妙な話を聞いた。館を制圧後、倭軍が検分を始めると、生存者が全くいなかったそうだ」

「何?それは皆殺されたということか?」

「そうではないらしい。遺体は全て兵士達のものだったとのことだ。もちろん、ウツギ殿やシラン殿の亡骸も見出すことができなかったそうだ」

「つまり、ウツギ殿とシラン殿だけでなく、民達も何処かへ逃れたと?」

「あの状況下で婦女子を含む大集団を脱出させることはクビラ一族でも無理だ。しかもあの時のクビラ一族は全て手負いの者、あり得ない。しかし・・・」

「皆、行方不明、ということか?」

「そうとしか言いようがない」

「ウツギ殿やシラン殿だけでなく、館内にいた民達が無事である可能性があるのだな?それなら、これから坂東一円を隈なく探索すればよい。養蚕と絹織物に関する資料収集もあるからな」

ヌクテの報告を聞いて、サジャは安堵した。ウツギとシランだけでなく、豊浦館に避難していた民達が何処かで生き延びている可能性が見出せただけで、深い絶望の淵から少しでも這い出すことができる。他のアガタ一族も皆同じ思いであった。

「それはそうと、倭兵の言葉がよくわかったな。倭軍の陣中に赴いた際、乎獲居やその副将達が話す言葉が全く理解できなかった。漢文で筆談しなければならなかったのだが」

「今回、俺達が戦った倭軍の兵達の多くは倭に占領された珠流河国(後の駿河国東部と伊豆国)や廬原国(後の駿河国西部)、交国(後の甲斐国)や科野国(後の信濃国)で徴兵された者達だった。海の道(後の東海道諸国)や山の道(後の東山道諸国)の民達とは以前から交流がある。当然、言葉も通じる・・・」

「そうだったのか・・・本来、味方となるべき者同士が殺し合ったのか・・・何ということだ・・・」

「そうだ。倭軍は畿内勢の主力を後方に温存し、戦闘は征服した土地で徴兵した兵達にさせている。卑劣な連中だ。此度の戦で、豊浦勢だけで数千の倭兵を討ち取ったが、その大部分は本来味方となるべき民達だった・・・」

ヌクテの報告を聞き、サジャは驚くと同時に自分の下した命令を悔いていた。劣勢の豊浦勢がより効果的に戦闘するために、サジャは捕虜を捕るなと厳命していたのである。捕虜を捕ればその捕虜を監視するだけで少なくない兵を割かなければならない。捕虜が反乱する危険もある。しかし、その捕虜が倭に占領された土地の者達なら話が違ってくる。本人が望むのであれば、再武装させて豊浦勢に組み入れる、あるいは故郷に戻して倭軍の後方を撹乱させることもできた。そもそも、豊浦勢にとって徴兵された民達は解放すべき者達であっても殺戮の対象ではない。サジャは、事前の情報収集が甘かったことで倭に徴兵された被占領地の民達を倭族と誤認し、倭の侵攻以前は常に交流していた海の道、山の道の数多の民を殺してしまったことを悔い、豊浦勢の採るべき戦略の選択肢を狭めてしまった自分を恥じていた。

「兄者、そんなに自分を責めなくてもいい。そもそも、豊浦勢は600人、それに対して倭軍は日高見国南部(後の常陸国)に侵攻してきた部隊だけでも2万、全体では4万の大軍だ。倭軍の侵攻速度は想定外に速かったし、それ故に十分な情報を得る時間がなかったのだから」

ヌクテがサジャを励ます。

「軍略に関する書物は全て失われたが、クンビーラ殿に伝授いただいた原点に戻ろう。そうでなければこれからの倭との戦いに勝つことはできない」

サジャは決意した。


悶々とした時間が流れ、やがて2月が経とうとした時、サジャ達アガタ一族はアシガガの南に広がる広大な土地を与えられた。しかし、僅かばかりの水田が耕作されているものの、大部分は未開の原野である。この地は後の下野国梁田郡である。5世紀後半、この地域は渡良瀬川の氾濫を頻繁に受けていたために開墾が遅々として進まず、未開の原野が広がっていた。なお、当時の渡良瀬川は現在の矢場川の河道を本流としていた。

「皆の衆、この地が我々の新たな本拠地となる。名もない土地故、縣と名付けよう。我々は豊浦郷のような、誰にも支配されない平和で豊かな坂東を再び自らの手に取り戻すために、この地で兵を養い、武具を整え、軍略を練り、我々から全てを奪った倭を何時の日か坂東から駆逐する、必ず駆逐するのだ!倭に屈し地を這うよりも、我々は力の限り闘い抜くことを選ぶ。力及ばず、時が加勢せず、我々が倭を坂東から駆逐することができなくとも、我々は諦めない。我々は決して屈しない!我々の坂東を侵略し、故郷豊浦を蹂躙した倭の暴虐を子々孫々に語り継ぎ、我々の子孫に坂東の独立を委ねようではないか!坂東の独立を目指す闘いの、故郷豊浦を取り戻すための闘いの、今日がその出立の日だ。倭を駆逐するために再出発をする、今日この日(466年11月19日)を祝おう!」

開墾のために急遽造った掘立小屋(後の縣館)の前に集まった縣一族とサジャの居所を探し当て逃れてきた豊浦の民達の前でサジャは高らかに宣言した。集まった者達は、誰もが倭との戦闘で傷付き、家族や友を失っている。サジャの宣言は掘立小屋の前に集まった者達全員の誓いでもあった。


縣一族は、資料収集のためにかつて技術者が養蚕と絹織物技術を伝えた坂東一円の地を巡る傍ら、ウツギとシランの消息を尋ねていた。しかし、技術者が養蚕と絹織物技術を伝えた地は残らず倭軍に蹂躙されており、何も残っていなかった。ウツギとシランの消息もつかめない。何ら成果があがらず焦りだけが募りつつあった晩秋の夕暮時、縣郷の掘立小屋を訪ねてきた男がいた。

「サジャ殿はおられるか?」

掘立小屋の近くの空き地で食事の準備をしていた女性にその男は声をかけた。この女性も豊浦郷から逃れてきた。今はサジャ達の開墾作業の手伝いをしている。

「サジャ様は皆の衆と野良仕事に出ていますけど、もうじき戻られますよ」

女性は男に答えると、火にかけた土師器から碗に湯を注ぎ男に渡した。

「かたじけない。待つとしよう」

男は掘立小屋の傍らに積まれていた薪の上にゆっくりと腰を下ろした。暫くすると、ヌクテが戻ってきた。

「ヌクテ様、サジャ様に御客さんですよ。以前、何処かでお会いしたような気がするんだけど・・・」

「何処にいる?」

ヌクテが女性に尋ねると、女性は掘立小屋の傍らに腰かけている男を指差した。

(あれは・・・)

「シュトゥ殿!生きていたか!」

その男はクビラ一族の戦士長、シュトゥであった。ヌクテは嬉しさのあまり走り出す。ヌクテに気付いたシュトゥもゆっくりと立ち上がりヌクテに向かい左足を引きずりながらのそのそと歩き出した。

「足をやられたのか?」

「館での戦闘時に左膝に矢を受けましてな、うまく曲がらなくなりました。サジャ殿は御健在ですか?」

「もちろん兄者は元気だ。今はここで一族の者や豊浦郷から逃れてきた民達と一緒に原野を開墾している。ここが俺達の新天地だ。それはそうと、ウツギ殿とシラン殿は?俺達も探しているのだが・・・」

「サジャ殿が戻られたら話します。何せ不思議な出来事でしたので・・・」

暫くすると、サジャが野良仕事を終えた一族の者や民達を連れて食事を摂るために掘立小屋に戻ってきた。

「おお!シュトゥ殿ではないか!無事だったか!」

シュトゥの存在を確認するや否や、サジャは大声で叫んだ。

「サジャ殿もお元気そうでなによりです」

「よくここがわかったな」

「以前、遠縁の御親類がアシカガにおられるとお聞きしたことを思い出し、であれば、サジャ殿もこちらにおられるのではと考えました。ところで、ウツギ様とシラン様のことですが・・・」

「おう、聞かせてくれ!御二方とも御無事なのか?」

「不思議な出来事だったので、御理解いただけるかどうか・・・」

「構わん!もったいぶらず早く話せ」

サジャがその場に座ると、他の者もそれに倣い座り込む。たまたま後方にいた者達は立ってシュトゥの話を聞こうとした。縣一族以外の者は、皆豊浦館の外にいて倭軍から逃れることができた者達であるが、彼らも縣一族と同様に豊浦館の内部にいた民達の消息がわからないでいた。なお、この者達の子孫が10世紀に縣一族の従類となる。

「あの日、我々クビラ一族はウツギ様とシラン様の御供をするために共に広間に入りました。ウツギ様がシラン様の喉元を短刀で突こうとしたその時、虚空から我々の自害を制止する声がしたのです。若い女子の声でした。すると、天空にコカゲ様と思わしき御方とアーディティヤ十二将が現れました。アーディティヤ十二将は広間に降り立つと、嚢祖様を残し館内に展開しました。その後、嚢祖様は我々を光の環で囲み、豊浦館から救い出してくださったのです・・・」

「兄者、あの時の光はもしや・・・」

「黙って聞いていろ。シュトゥ殿、続きを・・・」

サジャがヌクテを諭すとシュトゥが話を続ける。

「はい。我々は暫くの間、光の中にいました。やがて光が消えると、我々は嚢祖様と共に捄国(後の上総国、下総国及び安房国)のイワイという地にいたのです。暫くすると、光の塊が次々に空から降りてきました。光が消えると、そこには他のアーディティヤ十二将と共に豊浦の民達がいたのです。どのようにして皆が豊浦館からイワイまで辿り着いたのか、その理は私には全くわかりません。嚢祖様が言うには、イワイの地には今から200年程前に新天地を求めて豊浦郷から旅立たれたコカゲ様の御子孫がお住まいとのことでした。早速、その御方の御屋敷を嚢祖様と共に尋ねると、我々を迎え入れるための準備が既に整っていました。アーディティヤ十二将のヴァジュラ様が事前に手配されていたのです。今、ウツギ様とシラン様はイワイの地でお健やかにお過ごしです。我々クビラ一族や豊浦の民達は傷を癒しつつ、順次仕事に就いています。皆、元気ですので御一同、御安心ください」

シュトゥの話が終わっても、サジャもヌクテも皆沈黙したままだった。ウツギとシランをはじめ、民達の無事が確認できてこれ以上喜ばしいことはないはずなのだが、イワイへの脱出の過程が不可解すぎる。

「光の中に現れた御方はコカゲ殿なのか?」

長い沈黙の後、サジャがシュトゥに尋ねた。

「御屋敷の中で一息つかれた後、ウツギ様が嚢祖様に光の中に現れた御方について尋ねました。嚢祖様はウツギ様に、あの御方はコカゲ様ではなく、ユカリ様という御方であると言われました。嚢祖様が言うには、ユカリ様はコカゲ様の御子孫を危難から御救いするために、コカゲ様の御逝去後2000年、今からだと1500年以上先の世に御生れになる御方だそうです。ユカリ様もコカゲ様の御子孫であられるそうです」

「そんなことがあり得るのか・・・」

サジャとヌクテは顔を見合わせる。

「誠に信じ難いことですが、実際に起きたことです。ユカリ様に助けていただいたからこそ、今、私がここでサジャ殿にお話することができるわけですし、ウツギ様とシラン様も御無事なのですから・・・」

「・・・シュトゥ殿、シュトゥ殿が嘘偽りを申すような人物でないことは、我々は重々承知だ。しかし、今の話は一度聞いただけでは理解できん。捄国に戻るには今日はもう遅い。粗末な掘立小屋だが、ここに泊ったらどうか?できれば、再度話を聞きたいのだが・・・」

サジャがシュトゥに提案する。

「承知しました。他にもお話ししたいことがあります故、喜んで」

「ありがたい。酒も潤沢ではないが少しはあるので今宵は楽しもう。おお、そう言えば飯がまだだったな。皆の衆、さっさと食って道具の整備をして、明日も頑張ろう!」

サジャが声を上げると、先程の女性が準備していた大鍋に全員が群がり、各々自分の椀に飯を盛りその場にしゃがみ込みガツガツ食べている。

「豊浦郷とはまた違った光景ですな」

「これはこれでいいものだぞ。シュトゥ殿も腹が減っているだろう?」

「かたじけない。では一杯・・・」

「開墾が一段落したらイワイに行き御挨拶せねばな・・・」


倭の坂東支配は始まったばかりで、[関東]が誕生するまで700年以上の年月を要することになる。[関東]が誕生するまでの間、坂東の地では承平天慶の乱をはじめ大小の反乱が幾度となく起こり、その度に夥しい坂東人の血が流れることをサジャもヌクテもシュトゥも知らない。しかし、ウツギとシラン、豊浦郷の民達の無事が確認でき、[縣]という新たな本拠地を得たことでサジャは絶望の淵から完全に這い上がり、坂東の独立を目指し、倭の支配に対する抵抗の道を歩み始めた。また、イワイ屋敷の主人である老夫婦には子がいなかったことから、ウツギが養女になり跡を継ぐことになる。

=====


「ああ、朱美、おはよう」

「何がおはようよ!心配してたんだからね!」

朱美は優花里を抱きかかえながら涙ぐんでいる。

「心配させてごめんね・・・でもね、ものすごい鮮明な[夢]を見たよ」

優花里は朱美に[夢]で見たことを詳細に話した。

「ちょっと、これだけの夢を1分足らずの間に見たの?」

「えっ?」

「ゆかりんが気を失ってた時間、1分もなかったんだよ」

気を失っていた時間まで炎の中から幼女を救い出した[夢]と金沢柵から婦女子を救い出した[夢]を見た時と同じである。[夢]の内容を語り終わると、暫しの間優花里は朱美に抱かれたまままどろんでいた。

(ああ、何て居心地がいいんだろ・・・ずっとこのままでいたい・・・でも・・・何かヤバイかも・・・)

「あのさ、朱美・・・もう大丈夫だから・・・」

「?」

「何時までも抱いてもらわなくても・・・」

「ごっ、ごめん!」

朱美は赤面しつつ優花里を離したが、30分以上も優花里を抱いたまま話を聞いていたにも関わらず、全く違和感を覚えなかった自分に驚いていた。


「ふぅ~・・・豊浦館って、夏休みに見に行った発掘現場の微高地のことだよね?それにアガタって、私の御先祖様のことなの?」

(それに、ヌクテって・・・縣さんがヌクテの話をしてた時、ゆかりん涎垂らして爆睡してたのに・・・何故・・・)

暫しの沈黙の後、深呼吸してから朱美が優花里に尋ねた。

「神郡の発掘現場で杉原さんが言ってたよね。微高地の中心部から5世紀後半に形成された焦土層が検出された、って。この焦土層の形成時期って乎獲居がいた時代と一致するから、あの微高地がアガタ一族の豊浦館だったことは間違いない、ってことでしょ?この時のアガタ、最後の方で縣に変えてるけど、この縣氏が朱美の御先祖様の縣氏に繋がるんじゃないの?本拠地は同じ下野国の縣郷なんだから」

この時点での優花里の意識は、神郡の遺跡と妙に一致するところがあるものの、全体としては史料による検証が全くできない[夢]をまた見てしまった、というものであり、[夢]と遺跡のわずかな一致点を冗談半分で憶測まで交えて話していた。国内における5世紀後半の文字資料は、埼玉県埼玉古墳群の稲荷山古墳、熊本県清原古墳群の江田船山古墳や千葉県稲荷台古墳群の稲荷台1号墳から出土した鉄剣の銘文等、極めて僅かなものしかないのである。

「ゆかりん、爆睡してたから覚えてないだろうけど、修学旅行の時、車の中で縣さんがこんな話をしてたんだよ。[乎獲居と戦い敗れたアガタ一族が下野国に逃れ、その数年後に一族の1人が乎獲居を殺して日高見国まで逃れてきた。この乎獲居を殺した人はヌクテと名乗ってたそうだ]ってね」

笑いながら、変な[夢]を見たんだよ、とお気軽に話している優花里に向かい、朱美は真剣な眼差しで話す。

「な・・・」

優花里の表情が一変した。縣氏の話の前段は直前に見た[夢]の内容であり、後段は後三年の役金沢資料館の駐車場で見た[夢]の内容である。

「先生は史料もないのにそこまで具体的な話はできない、って正論言ってたし、縣さんも根拠のない伝承として片付けてたみたいだったけどさ・・・」

「・・・」

「何故、縣さん家に伝わる伝承と基本的に同じことを縣さんと全く接点のないゆかりんが詳細に話せるの?偶然にしてはできすぎてるよ」

「・・・知らないよ・・・偶然の一致だよ。同じ知識を持ってる人が同じような発想することってあるでしょ?縣さんも歴史に詳しい、って先生言ってたそうじゃない・・・」

「そうかもしれないけどね、ヌクテって、固有名詞まで何故ゆかりんが縣さんと同じこと言えるのよ?」

「・・・」

(ゆかりん、ホントに理解できてないみたいだな・・・)

「それはそうとユカリ様、問題集、まだ終わってませんね?」

「・・・」

優花里自身が理解できていないことをこれ以上詮索しても意味ないと考えた朱美は、容赦なく優花里に現実の課題を突き付ける。多くの高校生にとって拷問でしかない期末試験という課題を。

「サンドイッチ作ってきたから、早く終わらせてよね」

「そんなこと言わないで、もう3時でしょ?おやつ時だし、食べてから再開しようよ。お腹減ってるし」

「ダメ」

「はい・・・」


優花里は釈然としないまま試験勉強を再開した。とにかく今は明日から始まる期末試験を乗り越えなければならない。考えるのは期末試験が終わってからだと自分に言い聞かせても、頭の隅で絶えず燻り続けている。後三年の役金沢資料館の駐車場で見たあの [夢]は実際にあった出来事なのかと。

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