第10話私も走る!

週が明けた8月5日(月曜日)、夏季部活の初日、優花里達が絹の道に関するレポートを発表する。このレポートに肉付けをして文化祭のパネルにすることになった。


「そうだ!つくば市の、えっと、何処だったっけ?あっ、かみぐん!ここで5世紀の仏像が発掘されたんですよね?」

最大の懸案事項がまとまると、話題は午前中に各メディアが挙ってセンセーショナルに報道した、つくば市神郡小字館で出土した金銅薬師如来坐像に移った。しかし、発掘現場で優花里と朱美が誤解したように、各メディアも完全に誤解して[5世紀後半の地層から金銅薬師如来坐像が出土した]と報じてしまい、瞬く間に誤情報が独り歩きしていた。TwitterやFacebook等のSNSが誤情報の拡散に[貢献]したことは言うまでもない。

「違うよ、神郡だよ」

「私も驚きましたよぉ。歴史教科書だと日本に仏教が伝来したの、538年ですからねぇ」

「仏教伝来が50年以上遡るか?ってな報道もあったよね」

「先生、これ、どうなんですか?」

「仏教の伝来も、朝鮮半島、特に百済からのルートだけに限定する必要はないんじゃないかな?古代から人々はダイナミックに活動してたんだから、仏教の伝来も朝鮮半島、というか対馬海峡からのルートだけじゃなくて、日本海ルート、太平洋ルートもあっていいと思うけどね。当然、考古学的な検証が必要なんだけど、神郡の仏像も、日本海から阿賀野川を遡上し会津盆地に入り更に南下して関東に至るルートや南西諸島から太平洋岸に沿って関東に至るルートとか、幾つかのルートを想定することができるだろ?今後は仏像が持ち込まれたルートとそれを担った人々が何者であったのかを学際的に探究することになるんじゃないかな?それと、仏像と一緒に織機の部品らしき物が大量に出土したそうじゃないか。この織機の部品にヒントがあると思うよ。神郡では以前、2000年前に造られた絹織物も発見されてるしね。非常に興味深い土地だ」

聡史は多少飛躍しつつも客観性を保ちながら淡々と説明した。

「優花里さん、神郡の蚕影山神社には養蚕起源説話の金色姫伝説が伝わってる、って冊子の原稿に書いてたよね?何か関係があるのかな?」

紗希がいきなり優花里に話を振った。

「ああ、えっと、神郡で見つかったのは、2000年前の絹織物と織機の部品らしき物と仏像で、織機の部品らしき物と仏像は5世紀後半の地層から出土したということだけで造られた年代はまだわかってないよね。これだけのデータじゃ金色姫伝説との関係はわからないよ」

「確かに・・・まだ断片的な情報しかないわね・・・」

「でも、全く関係ないのに養蚕起源説話があったり、2000年前に造られた絹織物が発見されたり、織機の部品らしき物が出土したりするんでしょうか?」

「どういう人達が仏像を持ってきたんでしょうね?」

「う~ん、歴史的ロマンがありますねぇ」

「まだ仏像が造られた年代がわかってないよね?その結果次第でこの列島に仏教が伝来した時期がもっと遡るかもしれないよ」

「紀元前に既に仏教が伝来してたらおもしろいですよねぇ」

「まさか!中国に仏教が伝来したのが1世紀中頃だよ。中国を飛び越えて西域からいきなり列島に伝来するってありえないでしょ?」

「でも、それって元ネタ後漢書でしょ?民間はもっと早かったかもしれないじゃん」

わからないことが多い分、想像力が掻き立てられる。部員達は妄想とも言えるありとあらゆる[仮説]を出して楽しんでいた。


「優花里さん、朱美さん」

部活が終わると紗希が優花里と朱美を呼ぶ。

「何?紗希ちゃん」

「冊子のレポート、ひとつはもう完成してるけど、蚕影神社の方はあまり進んでないみたいじゃない?大丈夫?」

「鑓水の蚕影神社に関する情報がほとんど無いんだよ・・・蚕影信仰になると面白いネタもあるんだけど。例えば、山梨の丸石神。これ、前高麗(高句麗)建国神話(初代東明聖王(朱蒙)は卵から生まれたといわれる。山梨県には横根・桜井積石塚古墳群をはじめ前高麗系の積石塚古墳が多数ある)との関連も考えられるんだけど、蚕影信仰との結び付きもあるんだよね。だけどね、こっちに流れちゃうと歴史じゃなくて民俗になっちゃうから・・・」

「何が何でも歴史を詳らかにする必要もないでしょ?伝承が途絶えたのはそれなりの理由があるはずだから、そっちの観点で調べてみたらどう?それに、本末転倒しなければ民俗が入ってもいいんじゃないの?」

朱美が状況を説明すると、紗希は暫く考えた後、打開策を2人に提案する。

「さすが紗希ちゃん!天才!」

「そういう観点は全く考えてなかったなぁ。角度を変えて調べてみるね」

優花里と朱美は紗希の提案に沿った形でレポートを作成することにした。


16時を過ぎ、うだるような暑さが峠を越えた。歴史研究会の部室では、部員達が三々五々雑談をしている。

「今日のところは紗希ちゃんの話、出なかったね?」

朱美が優花里に話しかけた。

「女の子が女の子好きになっても何か問題があるわけじゃないしね。普段どおりでいいんじゃないの?」

「確かに・・・ゆかりん、まだ時間あるからスイパラ寄ってく?」

「ごめん、私、これから行くとこあるから・・・」

「何処?」

「グランド。陸上部が練習してるはずだから」

「えっ?何でまた陸上部に用があるの?」

「朱美、ちょっと・・・」

優花里は朱美を手招くと部室の外に出た。

「私ね、全国大会観て、ちょっと自己嫌悪しちゃったんだ。それでね、練習するだけだけど、陸上部に入ろうと思ってるんだけど・・・」

「えっ!ゆかりん、陸上部に入る気?」

「声が大きいよ、朱美!」

「一体どうしたのよ、急に」

朱美は小声で優花里を質す。

「陸上部に入るって言ってもね、練習だけ、しかも週2日が限度って条件付ける。もちろん、大会になんか出る気は毛頭ない。ただね、練習しなくても恵理香や郁美と同じように走れる私が、家で御煎餅食べてお茶飲みながらテレビで恵理香達を観てるってのはどうかな、ってね。皆必死に頑張ってるのに・・・」

「そりゃそうかもしれないけど、大丈夫なの?なし崩し的に大会出場強要されることにならないの?」

「たぶん大丈夫だよ。今度の大会で恵理香と郁美が予想外の活躍をして、陸上部的には次期エース候補が確定したはずだよ。しかも2人も。つまりね、即戦力としての私の位置付けは相当低くなってるはずなんだ」

「それ、楽観的すぎない?根拠あるの?」

「恵理香達が出た100mの決勝、日本記録保持者も出てたよね?恵理香、その人を破ったじゃない。郁美も僅差で3位だったしね」

「ん~、確かに一理あるけどね、じゃ、陸上部が選手層を厚くしたいって考えてたらどうする?2人より3人の方がいいに決まってるじゃん」

「その時は・・・その時だよ!」

昨晩、数時間かけて考えた理屈を朱美にいとも簡単に論破されて優花里は開き直る。

「ゆかりん、小学校の時から一度言いだしたら人の言うこと聞かないからね・・・思う存分やってみたら?ただし、やばくなったら早めに相談しなよ」

「朱美・・・ありがとう」

「まっ、そういうことじゃ仕方ない。今日は1人で帰るとしますか」

朱美は部室に戻ると帰り支度を済ませて出てきた。

「じゃ、ゆかりん、また明日ね!」

「ありがとう・・・」

優花里は朱美と別れるとグランドに向かった。


グランドでは、遠征先(大分県。第66回全国高等学校対校陸上競技選手権大会の会場は大分スポーツ公園総合競技場)から帰って来た陸上部の部員達が三々五々軽いトレーニングをしている。

「恵理香!」

その中に恵理香を見つけた優花里は大声で恵理香を呼んだ。

「どうしたの?優花里がグランドに来るなんて、明日は雪でも降るんじゃない?」

「恵理香、おめでとう!かっこよかったね!」

「ありがとう。わざわざ言いに来てくれたの?」

恵理香には珍しく、照れながら答えている。

「郁美と2人で決勝に進出するなんて、すごいことじゃない?しかも、決勝には日本記録保持者がいたんでしょ?」

「うん。まさか土井さんに勝てるなんて考えてなかった。でもね、土井さん、腰を痛めてたみたいだから・・・そうでもなければ、あの人が11秒70なんて信じられないよ。しかも私ね、ノーマークだったみたい。運が良かったのよ」

「そうかな?運も実力のうちだよ。ところでね、陸上部って、短距離の練習だけさせてくれるのかな?」

優花里が唐突に言いだす。

「何?今何て言った?」

恵理香が驚いた表情で聞き返す。

「だから、短距離の練習だけさせてくれるのかな、って」

「郁美!こっち来て!早く!」

恵理香が興奮した口調で叫んだ。

「どうかしたの?」

木に遮られて優花里の位置からはわからなかったのだが、木陰のベンチで用具の整備をしていた郁美が怪訝な顔をして近付いてくる。

「優花里がね、うちで練習したいって!」

「ウソ!マジ?ホントに?信じられない!」

郁美までが興奮している。

「どうしたの?何の心境の変化?何があったの?」

恵理香がまくしたてる。

「全国大会観てさ、皆頑張ってるんだな、って。私ももう少し真剣に何かしないと・・・主将も素敵だったしね。恵理香がいい演出してたし」

「演出?」

「走高跳の競技が終わった時、恵理香、主将の肩に校旗をかけてたでしょ?」

「ああ、あれね。うちの伝統で、大会で優勝した部員には必ず校旗を渡すんだ。主将の優勝は確実だったから、私が渡す当番だったんだよね。私の時はまさか私達が土井さんを抑えて優勝するとは誰も考えてなかったから、当番も決めてなかったんで主将が買って出たそうだけどね」

恵理香があっけらかんと内情を曝してしまう。

「そうなの?でも、なかなか感動的だったよ」

「で、いつから練習する?今日からする?皆、大歓迎だよ!」

興奮した郁美が話の脈絡なく言いまくる。

「今日は何も準備してないから・・・」

「じゃ、明日からにしようよ!私、小倉先輩呼んでくる!」

郁美は話をどんどん進めていく。優花里は郁美の健闘も讃えたかったのだが、興奮した恵理香と郁美の機関銃のような話に遮られて話す機会を失っていた。

「主将の姿が見えないけど」

「あそこにいる」

恵理香が指差す方向を優花里が見ると、木陰のベンチにタオルを顔にかけて寝そべっている女子がいる。

「午前中は練習してたんだけどね、相当疲れてるみたいだよ。競技で神経すり減らしてるのに、大分にいる間はマスコミが大騒ぎして宿舎まで追いかけてきたから。今じゃ八王子駅の界隈に行こうものなら確実にマスコミの餌食だよ。ネットも酷いことになってるし・・・」

「そうなんだ。主将、綺麗だからなおさらだよね」

「だけどね、皆疲れてるんだから静かにして欲しいよ、ホント・・・」

「話変わるけどね、恵理香、寄居出身でしょ?何故埼玉栄(埼玉栄高等学校)に行かなかったの?」

「ここに小倉先輩がいるから、かな」

「?」

「小倉先輩はね、最高級の技術を身に付けてるんだよ。それに裏付けされてるのか、走る姿がものすごく綺麗なんだ。同じ走るのならこの人みたいに走りたいってね」

「うれしいこと言ってくれるじゃないの?」

優花里と恵理香の後ろから佳織の声がする。

「あっ、すみません、余計なことを言っちゃって」

ばつが悪いと思ったのか、恵理香は佳織に謝る。

「いいのよ、謝らなくても。豊浦さん、練習だけでもうちは大歓迎よ。この子達や他の部員にとってもいい刺激になるからね」

「ありがとうございます。練習、毎日は無理なんですけど、週2日でもいいですか?」

「それでも全然OK」

佳織には以前のギラギラした感じが全くなく、素直に優花里の入部を喜んでいる。佳織にとっては、後輩の短距離選手の中でも特に可愛がってきた恵理香と郁美が想像以上に成長し、次期エースの座を不動のものにしたことで十分であった。まして、恵理香、郁美と仲の良い優花里がたとえ練習だけとはいえ陸上部に加わることで、恵理香と郁美のモチベーションが高まり、優花里を加えた3人で切磋琢磨できればこれ以上のことはない。願ってもないことであった。

「豊浦さん、用具は持ってるの?」

佳織が優花里に尋ねる。

「いえ、全然・・・」

「長谷川、豊浦さんのサイズ聞いて倉庫で遊んでる用具の中から見繕ってみて。必要最低限のものが揃ったら練習を開始しましょう。ついでに入部手続もしておいてね。部外者が練習に参加すると、何かあった時に問題だから」

「何かあった時、って?」

優花里が恵理香に小声で尋ねる。

「練習中に怪我した場合とか、部員なら学園がきちんと対応してくれるけど、部外者の場合だと、勝手にしていた、ってことになって何もしてくれないんだよ」

「そうなんだ。意外とはっきりした境界があるんだね、ここ」

「じゃ、部室に行こうか?」

郁美が優花里に声をかける。

「主将に挨拶しなくてもいいの?」

「三浦には私が話しておくから、今はそっとしておいてあげて。三浦、一見大雑把で天然だと思われがちだけど、実際はかなり繊細なんだよ。今まで散々マスコミに追いかけられたりして、精神的に参ってるんだ。マスコミなんか記録を出した当日はさすがに競技内容を真面目に報道してたけど、翌日からは三浦の容姿のことばかり取り上げてさ。陸上競技の大会に何故芸能レポーターなんかが来るのよ?ネットでもキモい連中が競技中の三浦の変なアングルの動画や画像を大量にアップしたり、いかがわしいコラージュを作ってアップしたり、もう酷いとしか言いようがない・・・才能あるアスリートを寄って集って集団で潰すようなマネを平気でする、この国、終わってるよ」

佳織は次第に語気を荒げ、最後に吐き捨てるように言った。事態は優花里が想像している以上に深刻らしい。


「じゃ、行こうか」

「小倉先輩、失礼します」

優花里は佳織に一礼すると、郁美と部室に向かった。

「今朝登校する時、少なくとも学園の周辺にはマスコミはいなかったでしょ?その代わりに、お巡りさんが要所要所に立ってなかった?」

部室へ行く途中、郁美は優花里に話かける。

「確かに・・・駅の界隈でマスコミの取材を受けてた生徒を何人か見かけたけど、学園の周辺にはマスコミはいなかったよ。お巡りさんも普段よりずっと多かったし、目つきが鋭い私服の人達もいたな・・・」

「これ、あくまでも噂だけどね、久平先生がマスコミの対応に激怒して、コネ使って警視庁の幹部に直談判したんだって。久平先生のお父さんって、大物政治家に人脈がある有力者らしいから。だから久平先生も直接そういう人達とやり取りできるみたい。警察の対応、とにかく速かったもんね。後ね、新聞部とネット部(正式名称は情報通信部。学園公認部活。新聞部の通信環境は情報通信部が構築・維持している)、ムーちゃん(超常現象研究会部員の愛称。超常現象研究会自体をムーちゃんと呼ぶ場合もある。自称は[む~みん])が共同で主将の変な動画や画像をリストアップして、サイト運営者に削除要請してる。卒業生の弁護士や国会議員使って、法的手段も厭わない、って威してるよ」

「そうなんだ・・・今回は特に連携がいいね。でも先生がそんなことできるのかな?」

いつもだらしない格好をしていい加減にしか見えない聡史が、有力者の息子で警視庁幹部に直談判できるとは優花里には信じられない。

「まぁ、久平先生の話は噂だから。真に受けないでね」

「でもさ、何でムーちゃんが?」

「ムーちゃんの部長、事故の後遺症で辞めちゃったけど、1年の時陸上部で主将から可愛がられてたんだ」

「事故って?」

「去年の10月、正門脇に車が突っ込んだ事故あったでしょ?」

「ああ、下手糞がいいとこ見せようとしてハンドル切り損ねた・・・」

「その事故に巻き込まれたんだよ」

「あの時の?そうだったんだ・・・下手糞に免許与えなければいいのにね。免許与えた方にも責任あるんじゃないの?」

「車を売るためにはどんなバカや下手糞でも免許持ってなきゃダメだからね・・・車を運転するに値しないクソ野郎が調子に乗って事故起こして、将来を期待されてたアスリートの未来を奪ったんだよ・・・こんなデタラメなことしてて経済発展なんて、ホントバカみたい」

「でも、何故陸上部辞めちゃったの?」

「本人は何も言わなかったけど、私達と一緒にいるのが辛かったんだよ、きっと。中学の時から陸上が生活の全てだったからね・・・」


そうこうするうちに、2人は陸上部の部室に着いた。

「さてと、これに必要事項書いてね」

郁美は優花里に入部届を渡す。

「優花里、身長と靴のサイズは?」

「身長は160、靴は24だよ」

「OK!」

郁美は別室の[倉庫]に用具を取りに行った。暫くして郁美は戻ってくる。

「シューズ、24のが幾つかあったから履き比べてみて。それと、トレーニングウェアはこれで大丈夫かな?」

優花里はトレーニングウェアに着替えてみる。

「少しダボダボだけど大丈夫みたい」

「これはOKだね。だけどこれ、所詮卒業した先輩達のお古だし、洗濯考えれば最低でも2~3着は必要だからおいおい揃えようね」

次に、優花里はシューズを履き比べてみる。

「これ、サイズがちょうどいいんだけど・・・」

足にフィットするものがあったのだが、優花里にはこれが本当にいいのかわからない。

「そこで歩いたり跳ねたりしてみて。素足のような感覚なら大丈夫だよ。それと、指のあたりに隙間はない?」

優花里が郁美の指差す方向を見ると、やたら床に傷が付いた一角がある。そこで優花里は郁美に言われるままに歩き回り跳ねてみる。

「踵のあたりが少し厚いような気がする・・・隙間も微妙にあるかな・・・」

「ん~、そうねぇ・・・とりあえずはこれでいいと思うけど、やっぱ自分に合ったものを買った方がいいね。今度一緒に買いに行こうよ。じゃ、グランドに戻ろうか・・・ちょと待って。部室棟の中はスパイク厳禁だから一旦履き替えて」

「はい・・・」

郁美の後を優花里はついて行こうとするが、郁美に制止される。優花里にとって全てが未知の世界であり、しかも、普段は優花里と恵理香がもっぱらしゃべり、2人の聞き手に徹している大人しい郁美が完全に主導権を握っている。郁美のペースに呑まれた優花里は調子が狂い、徐々に気落ちしていった。

「そんなに委縮することないよ。普段の唯我独尊的な優花里でいいんだよ」

「・・・」

これから本当に練習についていけるのか優花里は不安になり、引きつった笑いしかできないでいた。


郁美と優花里がグランドに戻ると、佳織と恵理香が待っていた。

「当分はこれで大丈夫だと思います」

郁美が佳織に報告する。

「長谷川、五十嵐、どちっか手が空いてたら豊浦さんに部活の説明してあげて」

「私、用具の手入れが終わってないんで、これ、片付けたいんですが・・・」

郁美が佳織に答える。先程郁美が座っていたベンチを優花里が見ると、ベンチの脇にあらゆる用具が山積みにされている。

「・・・これは何?」

優花里は用具の山を見て唖然としている。

「郁美はね、今、ラーゲリ(本来は収容所、キャンプを意味するロシア語)なんだ・・・小倉先輩、私、空いてますから」

「じゃ、お願いね、五十嵐」

佳織は練習に戻って行った。

「恵理香、ラーゲリって何?」

「主将はね、食べ物を粗末に扱うことを極端に嫌うんだよ。郁美、遠征の最後の日に気が緩んだのか宿舎でご飯残しちゃってさ、主将に見つかって全部員の洗濯と用具の整備をやらされてるわけ。ラーゲリって矯正労働のことなんだよ」

「ご飯を残すことくらい、誰でもすることじゃ・・・」

「自分が食べられる分量くらいわかるでしょ、食べられないなら最初からよそるな、ってのが主将の口癖なんだ」

「でもさ、おかずは個人で食べきるとしても、御櫃に残ったご飯は結局捨てられちゃうんじゃないの?」

「残ったご飯はおむすびにしてもらってね、夜食にしてる。部員の中には寝る前に物足りなくて夜食を摂る子もいるからね。実は私も重宝してるんだ。それでも余れば主将が食べちゃうんだよ。陸上部ってね、主将がとにかく食べ物を大切にするから、何時でもおむすびが食べられるよ」

「すごすぎる・・・徹底してるね」

「この国の食品ロスが年間500~800万t、WFP(国際連合世界食糧計画:United Nations World Food Programme)の食糧支援が年間510万t、この国の米の年間総生産量が850万t・・・主将の言うことは厳しいけど、完全に正しいよ」

「恵理香、いろんなこと知ってるよね」

「これもね、主将が言ったことだけど、陸上してたから勉強ができません、社会の仕組みを知りません、なんてこと私は絶対に言いたくないし、言われたくもない、ってね。実際、主将は優待枠じゃなくて一般枠でここに入学してるんだよ。優待枠使えば楽だったのに、プライドが許さなかったみたい」

優花里の理恵に対するイメージが大きく変わってきている。こんな鮮烈な生き方を上級生とはいえ、優花里の僅か3ヶ月前に生まれた理恵が実践しているとは驚愕でしかない。そんな理恵に恵理香は完全に信服している。恵理香だけではない。あの意外と我の強い郁美が理不尽な制裁を甘んじて受けている。練習に悪影響を及ぼしているにも関わらず、副主将の佳織が制裁を黙認している。優花里は理恵の人柄をもっと知りたくなった。その気持ちが膨らむにつれ、練習への不安も消えていった。

「前置きはこの程度にして、そこのベンチで・・・」

恵理香が優花里をベンチに誘う。

「さっき、練習は週2日、って言ってたけど、何曜日にする?」

「基本水曜日以外は大丈夫だから、火曜日と木曜日でどう?」

「OK、じゃ明日から、ってことだね?」

「わかった。時間は?」

「朝練が6時から・・・」

「6時!」

優花里は予期しない時間に驚く。

「夏の暑い盛り、昼間に練習なんかできないよ。それとね、ちょっとわけありなんだ」

「わけありって?」

「全国大会に向けた調整で期末試験の勉強満足にできなかったし、大会準備と大会そのものが期末試験の補習期間とぶつかっちゃてさ、私達補習受けてないんだ。それに全体として勉強、遅れてるからね・・・」

「・・・」

「どんなスポーツでもさ、フィジカルトレーニングだけじゃダメで、理論が必要なんだよね。だから練習後も本読んだりビデオ見たりして勉強してるんだけど、そうすると授業の予習復習が疎かになるでしょ?その報いが中間試験や期末試験の結果に露骨に出るんだよ。だから、夏休みとはいえ9時から1時までの4時間、毎日先生方から補習を受けてるわけ」

「でも、うちのような強豪校なら推薦で大学に入れるんじゃ・・・」

「希望する大学に推薦で入れるのは主将とか小倉先輩とか、強豪校と言われてるうちでさえ一部の、トップクラスの部員だけだよ。多くの部員は通常の試験を受けなければ希望する大学に入れないからね。特にマネージャーの子達なんか、私達と同じくらい時間を費やしてるのに競技実績を全然作れないじゃない?大学なんて何処でもいい、ってなれば話は別だけど、皆、きちんとした環境で陸上を続けたいからね・・・それにね、さっき言ったみたいに、陸上をしてたから勉強ができないなんて言われたくないからさ」

「大変なんだね・・・」

「まっ、そんなわけで朝練は6時から8時半まで、午後練は3時から6時まで。で、9時から3時までの間、優花里はどうする?」

「図書館で調べ物したり、普段と同じことするから大丈夫だよ」

その後も優花里は恵理香から部室の使い方等々、細かいことまで説明を受けた。

「緊急連絡はメールでするから。優花里のメアド、リストに登録しとくね」

「LINEは使わないの?私の携帯、LINE使えるようにしてあるけど」

優花里は携帯電話(ガラケー)を使っているが、朱美から携帯電話でもLINEが使えることを聞くと即座に登録していた。

「主将がLINE、嫌いなんだよ。あんなの時間の無駄、練習の邪魔だ、ってね。本当に緊急の場合には伝令を走らせれば済んじゃうから。部員の多くは寮に住んでるしね」

「主将、ホントに無駄なことが嫌いなんだね・・・」

「それじゃ、早速だけど、明日は計測するから」

部活に関する一通りの説明が終わると、恵理香が付け加えた。

「計測?」

「身体能力、皆違うでしょ?個々に合ったトレーニング方法を決めるために、いろいろと計測する必要があるんだよ。さて、コーチの先生に挨拶に行く?」

「了解!」


「中野先生、今日入部した豊浦さんです」

恵理香が短距離走のコーチである中野裕香に優花里を紹介した。

「豊浦です、よろしくお願いします」

優花里は畏まって挨拶する。

「あなたが豊浦さん?噂は聞いてるわ。こちらこそよろしくね。五十嵐さん、計測の件は伝えてあるの?」

「はい」

「豊浦さん、明日は7時から計測を始めるから、遅くても6時30分にはグランドに来て十分ウォーミングアップしておいてね」

「わかりました」


「恵理香、中野先生って聞いたことないけど、誰?」

「うちの陸上部出身でね、今は日本体育大学の助教だよ。普段は非常勤で週2日来てくれてるんだけど、夏休みは毎日来てくれてるんだ」

「なるほどね、だから聞いたことないわけだ。計測ってどんなことするの?」

「生徒全員が毎年受ける体力測定に200m、400m、800m、1500mが追加されると考えてもらえればいいよ」

「そんなにするの?」

「まぁ、1日掛かりだね。さてと、もう5時50分か。そろそろ頃合いかな」

「?」

恵理香はそのまま優花里を佳織のところに連れていく。佳織は既に練習を切り上げ、クールダウンを始めていた。

「小倉先輩、そろそろいいんじゃないですか?」

恵理香が佳織に話しかける。

「そうね・・・全員集合!」

佳織が大声で号令をかけると、部員達が皆集まって来た。しかし、理恵の姿はなかった。

「今日、入部した豊浦さん。これから我が陸上部の重要な核になるだろうから、皆、よろしくね!」

「ほら、優花里・・・」

恵理香が小声で優花里に囁く。

「豊浦です、よろしくお願いします!」

「よろしく!」

「よろしくお願いします!」

優花里が緊張して挨拶すると、部員達が皆拍手をしながら優花里を歓迎していた。

「五十嵐、あの調子だと長谷川、明日もラーゲリだろうから計測はお願いね」

「わかりました」

「解散!」

佳織が再度号令をかけると、部員達は用具を片付けて部室に戻って行った。

「優花里、明日から6時だよ」

恵理香が念を押す。

「豊浦さん、やっと来てくれたのね。待ってたのよ」

今まで姿を見せなかった理恵が優花里に声をかけた。

「主将・・・小倉先輩から聞きました。私、頑張りますから主将も・・・」

「ははは、小倉に何言われたか大方想像はつくけど、大丈夫だよ。皆が支えてくれてるからね。容姿ばかりが取り沙汰されて肝心の競技内容が飛んでしまったことは本当に腹立たしいけど、この国のレベルはそんなもんだと現時点では諦めた。だけどね、アスリートがアスリートとしてきちんと評価される社会を作らないと。そのためにも私はこれからも成果を上げてかないとね・・・」

理恵は遠くを見つめながら強い決意を込めて優花里に語った。優花里と恵理香は暫くの間理恵を見つめていた。

「お腹減ったね、食堂に行く?」

理恵が優花里と恵理香を誘う。

「郁美は?」

「今日のラーゲリはさっき終わったみたいだよ」

優花里が恵理香に聞くと、恵理香は笑って答えた。

「それじゃ食堂に行こうか?五十嵐、小倉と長谷川に声かけてね」

「了解です!」

恵理香は嬉しそうに部室に向かって走って行った。


翌朝、優花里はトレーニングウェアに着替えて恵理香と共にグランドに出た。計測のためにウォーミングアップを始めると、既に十分明るいとはいえ若干靄がかかったような白々とした空から真夏の太陽が現れてくる。

「優花里、何かの情景に似てるでしょ?季節は違うけど」

ストレッチをしながら恵理香が優花里に声をかける。

「アウステルリッツの太陽だ!」

優花里は次第に輝きを増していく太陽を見ながら思わず叫んだ。恵理香は既に何回か見ている光景だが、優花里は自分が祝福されているような気分になり、授業では手を抜いていた計測に本気で取り掛かった。しかし、この日は昼前からどんよりと曇りだし、午後になると雨が降りそうな鬱陶しい天気になる。


「もうダメ・・・」

夕方、計測で精根尽きた優花里はグランド脇のベンチでだらしなく寝そべっていた。

「優花里、この無茶苦茶なデータは何?」

ベンチの脇で恵理香が唖然とした表情で優花里に話しかける。

「例えばね、垂直跳びが82cm。信じ難いけど主将と同レベルだよ。100mは11秒67で体育祭の時より伸びてる。だけど長座体前屈が15cmってこれ、ウソでしょ?体コチコチじゃん。これでよく100mを11秒台で走れるわね。1500mが8分59秒76で平均以下、ってか私の2倍近くかかってる。何なの、一体?」

「そう言われてもね・・・これが私の実力なんだけど」

ようやく優花里は起き上がる。

「身体能力が高いのかダメなのか、これじゃわからないじゃない」

「私にも見せて」

「あっ、はい」

様子を見に来た裕香に恵理香は優花里の測定結果を渡す。

「何これ・・・」

裕香も驚きを隠しきれず、恵理香と顔を見合わせる。

「徹底的に筋肉の柔軟性を高めないと、このままだといつか大怪我するわね。関節の可動域が極端に狭いからフォームに制限がかかるし、基礎体力なさすぎ。短距離の練習以前の問題ね」

裕香の容赦ない指摘に優花里は明らかに落胆している。

「でもね、瞬発系にものすごいポテンシャルがあるから、筋肉を柔らかくして、体力をつけて、基礎的な技術を身に付ければ大幅に記録を更新することが可能よ。豊浦さん、頑張りましょうね」

優花里の落胆がわかったのか、裕香は優花里に声をかけた。

「五十嵐さん、油断してるとあっという間に大差がつくわよ」

裕香は厳しい表情で恵理香に忠告するとその場を去った。


優花里の陸上部生活は本人が全く想定していなかったスタートを切ったものの、裕香が作成した練習メニューを黙々とこなし続けた結果、その成果は短期間で顕著なものになった。佳織が期待したとおり、優花里の成長に刺激を受けた恵理香と郁美は努力を積み重ね自らの技術を向上させ、翌年の第67回全国高等学校対校陸上競技選手権大会の決勝で恵理香は11秒15、郁美は11秒19を記録し、2人揃って高校女子日本記録はおろか女子日本記録(福島千里が2010年4月29日に記録した11秒21)さえも更新するという快挙を成し遂げ、3位(12秒06)に大差をつけて圧勝した。女子日本記録を更新し、大会2連覇を達成した恵理香はMVPとなる。他の部員達も優花里に触発されて様々な大会で好成績を収め、後に八王子女子学園陸上部の黄金時代と称される状況を作り出すことになる。


優花里の八王子女子学園における最終的な測定記録は、2014年6月22日に記録した11秒02。女子日本記録を更新した恵理香の公式記録を凌駕していた。また、恵理香は大学進学により優花里という最大のライバルを失い暫くの間伸び悩んでいたものの、2020年、イスタンブール大会の100m競争決勝で10秒97を記録し6位入賞、日本人女子で初めて公式に11秒の壁を破ることになる。

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