第11話坂東の独立

夏休みも終わりに近付いたある日、夕食後に眠気に誘われた優花里は部屋に戻るとベッドに体を横たえた。

(何だろう、この睡魔は。高月城を歩いただけなのに・・・写真の整理は明日でいいか・・・)

優花里はそのまま寝てしまった。


道から離れた草むらで抜刀した12人の男達が母娘を大勢の兵士達から護っている。兵士達は数に物を言わせて男達を母娘から遠ざけ、母娘を取り囲んでしまう。卑しい笑い声が次第に高まり、1人の兵士が母親の肩に触れた途端、母親の叫び声が聞こえてきた。

「太郎殿、太郎殿!ユカリ様!」


優花里は目を覚まし飛び起きた。

(一体何なんだ、この夢は・・・)

優花里が机をふと見ると、寝る前に外して机に置いたネックレスの金属板が暗がりの中で仄かな光を放っている。

(あの時と同じだ・・・しかも、私の名前を叫んでた・・・)

優花里は立ち上がると、ネックレスを手に取る。すると、優花里は言いようもない焦燥感に襲われた。

(女の子の時と同じ・・・私に助けを求めてるの・・・)

優花里は自然と金属板を握りしめた。


=====

Episode 2  承平天慶の乱


466年の坂東(関東が現在の地域(茨城県、栃木県、群馬県、千葉県、埼玉県、東京都及び神奈川県)名となったのは徳川幕府成立後の17世紀以降のことであり、それ以前は坂東と呼ばれていた)侵略以降、倭の坂東支配は律令制により一層強化され、坂東の地は[西の国]からの収奪に喘ぎ続けていた。


倭軍の坂東侵攻から465年後の承平元年(931年)、下総国幸島郡石井郷で養蚕と機織を生業としていたコカゲの子孫、桔梗の作業場を1人の武将が訪れた。旧仲国の養蚕技術と絹織物技術は既に失われていたが、それでも桔梗達は当時の坂東で最高級の絹の反物を造り得たのである。

「弟の婚礼に必要なので最高の絹の反物が欲しい」

「どれほど御必要ですか?」

「至急3反欲しいのだが、賄えるか?」

「3反なら在庫がございます。お持ち帰りになりますか?」

「それはありがたい、いただこう」

「少々お待ちを」

暫くすると、桔梗は作業場の裏にある蔵から3反の反物を持ってきた。

「これは素晴らしい。まさに最高の反物・・・値はいくらになる?」

反物を手にして感嘆した武将は桔梗に尋ねる。

「1反金3両ですので、3反で金9両になります」

「うっ・・・わかった。今払う」

桔梗が値を答えると、一瞬たじろいだものの、武将は懐から巾着を出し、中から砂金袋を九つ取り出して桔梗に渡した。

「ありがとうございます」

桔梗は反物を布で包み武将に渡す。

「かたじけない」

「あの、お名前は?」

武将は反物を受け取るとすぐに立ち去ろうとしたので桔梗が名を尋ねると、武将は笑顔で答えた。

「下総国の住人、平小次郎将門と申す」


数日後、桔梗の作業場を将門が再び訪れた。

「この前の反物は皆に非常に喜ばれた。ついては、領内をはじめ坂東各地に売りさばこうと思うので、毎月一定の数を石井営所に納めてくれないか。もちろん、この前と同じ対価を払う」

「喜んでお受けします」

桔梗は喜んで答えた。暫く2人は商談をし、将門は帰路に着いた。この後、将門は商談のために頻繁に桔梗を訪れることになるが、平安時代には妻問婚が一般的に行われていたために桔梗は将門の妾との噂が広まり、後に残党狩りの対象にされてしまうことになる。


2日後の朝、縣一族の1人、縣三郎朝久が桔梗の作業場を訪れた。

「おはよう、金剛ちゃん(朝久の幼名は金剛丸)。今日はどうしたの?百合なら向こうで仕事しているけど呼んでこようか?」

「いえ、そのようなことでは・・・また兄者が様子を見てきてくれと言うので・・・それに、何時までも金剛ちゃんは・・・既に元服しています故・・・」

朝久は赤面して答える。

(一月に10回以上も太郎殿が様子を見てこいと言うはずがない。今月は1日置きに来ているし・・・目的はわかりきっているんだから)

「百合ちゃん、金剛ちゃんが来たよ!」

魂胆が見え見えにもかかわらず糞真面目な屁理屈を言う朝久が愛おしい桔梗は、大声で百合を呼んだ。その時、バタバタと久平一族の長、磯部丸が駆けてきた。

「桔梗様、野盗の集団が近付いております!」

磯部丸は息を切らし桔梗に報告する。磯部丸の報告を聞き、他の久平一族の者は作業を止めて太刀を取り武装する。朝久も急ぎ弓と太刀を取り門前に構えた。野盗の集団は20人程であるが、朝久は自分でも不思議なほど落ち着いていた。

「童!そこをどけ!どかねば怪我をするぞ!」

門の直前に迫った野盗の1人が朝久を脅す。

「我は下野国梁田郡の住人、縣三郎朝久である!お前らこそここから立ち去るがよい!立ち去らねば容赦はせぬ!」

「童、覚悟!」

野盗達はゲタゲタと下卑た笑いをすると、前面にいた3人が朝久に斬り掛かった。朝久は弓を引き、瞬時にその3人を射貫いた。

「生意気な!殺せ!」

朝久の意外な反撃に野盗達は一瞬たじろいだが、すぐさま集団で朝久に襲いかかる。

「三郎殿を守れ!」

久平一族も加わり、桔梗の作業場の前で乱闘になった。

「何をしているか!」

乱闘が始まるや否や、雷のような大声と共に1人の武将が割り込み、瞬く間に6人の野盗を斬り捨てた。野盗達はたまらず、仲間の死体を放置したまま退散していく。

「年少にも関わらず立派な働き、見事であった!」

瞬く間に3人の野盗を射貫き、その後も2人の野盗を斬り捨てた朝久をその武将は褒めた。

「私は下野国梁田郡の住人、縣三郎朝久と申します。貴殿は?」

「下総国の住人、平小次郎将門と申す」

「誠にかたじけない、小次郎殿。磯部丸殿!皆の衆は無事ですか?」

「手傷を負った者が数人いるのみ。皆傷は浅いので御安心を」

磯部丸は答え、負傷者の手当を始めた。

「野盗の死者は16か・・・この骸を始末しろ。首は罪状を付して刑場に晒せ」

将門は家人に命じた。

「小次郎殿、ありがとうございました」

将門と朝久が門を入ると桔梗が駆け寄り、将門に礼を言う。

「金・・・」

野盗との斬り合いで顔に返り血を浴びたにも関わらず、その血を拭うおうともせずに負傷者の手当を始めている朝久を見て桔梗は絶句した。

(この子はもう子供じゃない・・・)

「・・・三郎殿、御立派でした」

「桔梗殿、やっと三郎殿と言ってくれましたね。ありがとうございます」

桔梗から初めて幼名ではなく、三郎殿、と言われた朝久は、桔梗に認められたことが嬉しくて仕方ない様子である。

「それよりも数人の者が手傷を負っています。手当をよろしくお願いします」

(まだ子供だと思っていたのに・・・何時の間にこれほど逞しくなったのだろう。太郎殿によほど仕込まれたに違いない)

桔梗は朝久の成長を内心驚いていた。母屋の柱の陰から百合が突然の出来事に怯えながらこちらを見ている。朝久は百合に一礼すると、引き続き負傷者の手当を手伝った。


負傷者の手当も終わり、ようやく作業場が平静を取り戻す。ふと将門が母屋の軒先に目をやると、朝久が縁側に置いた弓と太刀が目に入った。将門は軒先に近付き、朝久の弓と太刀を観察する。弓は将門が身に付けている丸木弓より幾分太く、黒漆を塗り至るところを藤で巻いて補強してある。その藤の白がコントラストになり見た目も美しい。太刀は刀身が3尺(1尺=約30.303cm)程で鍔元が強く湾曲しており、柄は毛抜のように肉抜されている。

「これは・・・三郎主、弓と太刀を拝見したいがよろしいか?」

「どうぞ」

朝久が答えると将門は弓を取り引いてみる。

(強いな・・・)

「使ってもよろしいか?」

「どうぞ御存分に」

将門は裏の畑に出て身に付けている箙から征矢を取り出すと、若干の俯角を付けて放ってみた。矢は空気を引き裂くような速さで飛翔し、1町(1町=109.09m)以上先に落ちた。

「これは・・・」

次に将門は大きく仰角を付けて矢を放つ。矢は5町程先にある林の中に消えていった。朝久の弓はこれまでの物と飛距離がまるで違う。母屋に戻った将門は、今度は太刀を手に取り振り回す。将門が身に付けている太刀と感覚が異なり、徒歩の戦闘より馬上での斬撃戦に有利に思えた。騎馬弓兵である将門の軍勢には最適の太刀である。

「三郎主はこのような弓と太刀をいかにして手に入れたのだ?」

「元は古の祖先が身に付けていたものを改良したものだと聞いています。祖先が倭人に故郷を追われた際に全て散逸してしまいましたので、祖先から伝わる口伝を基に、我が一族がようやく造り得たのがこの弓と太刀です」

「そうであるか。三郎主は実によい弓と太刀をお持ちだ。できれば、わしも身に付けたいものだ」

将門は朝久の弓と太刀を羨望する。


「では、そろそろ帰ります。小次郎殿、今日は危ないところを助けていただきありがとうございました。お礼は改めてさせていただきます」

「わしの領内での不始末、気になさるな」

当時、朝廷の圧政に対する民衆の不満は高まり、激しい搾取から逃れるために土地を離れた農民達が流民となり、その一部は野盗と化して坂東各地を荒らしていた。坂東の治安が悪化の一途を辿っていたにも関わらず、京から派遣された国司達は私利私欲を満たすだけで民政を省みようとしない。したがって、自然発生的に将門のような武装化した私営田領主が流民を集め未開の土地を開墾するとともに、自らの軍事力を背景に治安を維持していたのである。縣一族も流民を集め土地の開墾を進める一方で、養蚕と絹織物生産、生産された絹織物の販売にも従事させ、来るべき坂東の独立のために力を蓄えていた。それにしても、昼日中に野盗が群れをなして堂々と闊歩するとはお世辞にも領内の治安が保たれているとは言えない。領内の治安悪化を将門は恥じていた。

「桔梗殿、また参ります。百合殿にもよろしく」

桔梗に挨拶すると、朝久は縣郷への帰路に着いた。


数日後、将門の石井営所を武将達が訪れた。

「我は下野国梁田郡の住人、縣太郎朝信と申す。小次郎殿にお会いしたい!」

門前で武将の1人が名乗りを上げる。

「殿、こちらでしたか。縣太郎朝信と名乗る御方が御見えですが、如何なさいますか?」

領地である幸島郡南部の巡回から戻り、厩の軒下で従類(騎兵として兵(つわもの)である主人に従軍する。主人との主従関係は緊密である)や伴類(歩兵として兵である主人に従軍する。主人との主従関係は希薄であり、戦場で従った主人の形勢が不利になると逃亡することが多い)達と談笑しながらくつろいでいた将門に家人が取り次ぐ。

「縣か・・・おそらく三郎主の縁者であろうな」

(この格好じゃさすがにまずいな・・・)

将門には、領内を巡回する際に民衆と同じ野良着を着ていく習慣がある。この格好の方が突発的な[作業]が生じた時に重宝だし、何よりも民衆が構えないので自然体で多くの者達と接することができていた。

「客人を主殿の広間に通しておけ。すぐ着替えて行く」

将門は家人に指示すると、素早く着替えて広間に向かった。広間には3人の武将が座っている。武将の1人は朝久であった。広間に面する庭には家人3人と筵を被せた荷車が通されている。

「おお、三郎主か!」

武芸に優れた勇敢な者を無条件で受け入れる将門は、嬉しそうに足早に広間に入ると腰を下ろした。

「貴殿が小次郎主か?我は下野国梁田郡の住人、縣太郎朝信と申す。小次郎主には桔梗殿と百合殿をはじめ弟や仲間達の危難を救っていただいたこと、誠に感謝する。今日は弟共々、礼を言いに来た」

「先日は我々の危難をお助けいただき、誠にありがとうございました」

朝信が将門に挨拶をすると、朝久が仰々しく平伏して謝辞を述べる。

「三郎主、そのような堅苦しい礼はもうよい。太郎主、貴殿は立派な御舎弟をお持ちだ」

将門が何時になく和やかに朝信と朝久に声をかける。

「弓の腕はそこそこ上達したが、まだまだ未熟者。ところで、これはつまらん物だが桔梗殿や弟らを助けてもらった礼だ。受け取ってくれ」

朝信が庭先に顔を向け右手を上げると、家人が荷車を縁側の前まで押し出して掛けてあった筵を取る。そこには朝久が身に付けていた物と同じ弓6張と太刀6振があった。

「これは・・・願ってもない。ありがたくいただこう!」

朝久の弓と太刀を羨望していた将門が嬉々としていると、縣一族は将門に会釈して立ち去ろうとする。

「太郎主、待たれよ」

将門が朝信を引き止める。

「同じものを200ずつ欲しい。賄えるか?」

振り向いた朝信に将門が尋ねる。

「時間がかかるが、それでよければ」

「どれ程かかるのか?」

「順調に事が進んで3年、鋼の入手如何では5年以上だ」

「金(砂金)ならある。わしの領内では鉄の生産もしているので鋼なら何時でも渡すことができる。半年でできないか?」

朝信達が礼として持参した弓と太刀で従類の戦力を強化したい欲求にかられた将門は朝信に言い寄る。

(尾崎の野だたら(尾崎前山遺跡製鉄炉跡地)のことか・・・あそこの鉄は不純物が多いうえに本来鋳物用だから太刀には使いたくないのだが・・・)

「金や鋼がいくらあっても造り手が限られているのだ。半年でできるものではない。ただし、弓30張、太刀10振であれば館に戻ればある。近日中に家人に持参させることにしよう。残りは一定数ができた時点で順次小次郎主に送ることにしよう。ただし、金はいただくぞ」

初対面にも関わらず、将門に言いようのない大きな将器を感じ取った朝信は、将門の依頼を快諾した。

「かたじけない。届くのを待つことにしよう」

将門は再会を約して縣一族と別れた。


「兄者、あのような約束をしていいのか?」

石井営所から縣郷への帰路、次郎朝武が朝信に尋ねる。

「小次郎主にはとてつもない将器がある。やがて、我らの長年の悲願である独立した坂東の主となる人物かもしれぬからな」

(来るべきその時のために、小次郎主から得た金を元手に弓と太刀を大量に造り従類と伴類を大量に育成し訓練しておかねば・・・)


ある日の夕刻、朝信、朝武、朝久と伴類10人が桔梗の作業場を訪れた。縣一族12人が率いる軍勢は、従類36人、伴類60人の計96人。縣一族の者1人に従類3人、伴類5人が付き、計9人で1部隊を構成している。縣一族と久平一族は月に一度軍事訓練を共同で行っており、明日はその軍事訓練の日である。これまでは縣郷で定期的に軍事訓練をしていたが、弓と太刀を将門に供給する見返りの一部として石井郷でも訓練をするようになった。縣郷での訓練は桔梗達の護衛が一時的に半減するというリスクがあったので、石井郷での訓練は縣一族にとっても久平一族にとってもこの上ないものである。


翌日、朝武に率いられた朝久と伴類10人、久平一族の12人は、早朝から作業場の裏の休耕地で実戦さながらの軍事訓練を行う。その間、朝信は母屋の軒先で桔梗にこれまでに集めた繭を見せていた。

「これは武蔵国多摩郡で得た繭ですが、如何でしょうか?」

「糸を取り出してみないことには何とも言えませんが、どうやら坂東の蚕の繭ではあの糸は取れないようなのです」

「やはりそうですか。今後は甲斐国、信濃国にも足を延ばしてみましょう」

「それだけではないのです。今使っている織機ではどのようにしてもあの布地のような複雑な布地を織ることができないのです。私の計算ですと、最低でも30枚の綜絖が必要なのですが、そのような織機は見たことも聞いたこともありません。御始祖様がどのようにしてあのような素晴らしい布地を織ったのか、私には全くわかりません。まだまだ御始祖様の足元にも及びません」

「豊浦郷には何か残されているのでしょうか?」

「それは私にもわかりません。時間をかければ豊浦郷で何かを見出すこともできるかと思いますが、ここにいては何もできませぬ・・・」

桔梗は悲しげに話す。

(コカゲ殿の旧仲国の絹織物・・・倭の侵略さえなければ・・・何時の日か必ず倭を坂東から追い出してやる!)


466年の倭軍侵攻後、坂東は植民地として倭の勢力下に組み込まれ、7世紀末以降は日高見国に対する[日本]の侵略拠点と化した。[日本]の日高見国侵略は9世紀前半に一旦頓挫するが、その後の坂東は、律令国家による公的な収奪と京から派遣された国司達による私的な収奪という二重の搾取に喘いでいた。朝信の桔梗に対する想いが倭への積年の恨みに拍車をかける。


「兄者、終わったぞ!」

朝武が皆を連れて戻ってきた。

「それでは講義を始めるか」

朝信は皆を庭に集め講義を始める。

「今日は隘路での戦だ。そもそも隘路というのは・・・」

今は亡き親父殿から既に徹底的に仕込まれている朝武は母屋の軒下でくつろいでいた。そこに百合が来て何やら朝武と親しげに話をしている。2人の親しげな様子を見てしまった朝久は気が気でない。絶えず母屋に目をやり、朝信の話を全く聞いていないようだ。

「次郎、こっちに来い。三郎の気が散ってこっちがかなわん」

朝信が朝武を呼ぶ。朝久の挙動を見ていた久平一族と伴類達は、下を向いて震えながら笑いを堪える。朝武が講義に加わった後も百合は講義の輪を見ている。朝久が相変わらずちらちらと百合を見ているので、朝信は小石を拾って朝久に向けて投げた。

「痛っ!」

小石は朝久のこめかみに当たり、朝久は思わず声を上げる。

「三郎、その石が矢であったらどうする!」

「申し訳ない、兄者・・・」

朝久は朝信に詫びると暫くの間は講義に集中していたが、やがてその集中も切れて母屋に再び目をやると百合が小さく手を振っている。それを見た朝久が応えようと弛緩した顔で手を動かそうとした。

「三郎!何をしているか!」

朝信はついに激怒し大声を張り上げた。久平一族も伴類達もたまらず笑いだし、朝武は腹を抱えて大笑いしている。

「百合ちゃん、皆さんの邪魔をしちゃだめでしょ!」

桔梗は百合を母屋の中に呼び寄せた。笑いの中、朝信からくどくどと説教されている朝久だけが赤面して下を向いていた。


その後、縣一族からの弓と太刀の供給は定期的に行われ、承平4年末(新暦で935年2月5日)には将門の軍勢は従来の装備を[新式]の弓と太刀に転換し訓練を完了するに至った。これにより、承平5年(935年)以降の平氏一族の私闘で将門は圧倒的な軍事的優勢を保ち、坂東一の武者としての地位を確立する。この将門勢の精強さは将門の巧みな騎馬弓兵の運用によるだけでなく、縣一族が提供した[新式]の弓と太刀にも依拠していたのである。また、縣一族と将門は一種の同盟関係となり、縣一族は平氏一族の私闘の際には将門を積極的に支援するようになる。


承平7年8月6日(新暦で937年9月13日)、子飼の渡で将門の伯父かつ舅である平良兼勢に敗北を喫した将門は、同月17日(新暦で937年9月24日)に堀越の渡で再び良兼勢に敗北し所在不明となる。縣一族は幸島郡を中心に将門の行方を捜索するが、将門を見出すことができずにいた。一方、桔梗は[将門の妾]というあらぬ噂のために良兼勢に狙われることになる。桔梗は幼い菫を連れて久平一族12人と共に縣郷を目指し石井郷から逃れるが、尾崎で良兼が派遣した部隊に囲まれてしまう。縣一族が将門の行方を捜索している最中であったことから、桔梗と菫の護衛は久平一族しかいない。良兼勢による包囲環が徐々に狭められ、久平一族の抵抗を排して伴類達が桔梗と菫に襲いかかろうとしたまさにその時、空から一条の光が差し込み、古代中国の甲冑を身にまとった12人の武将が降臨してきた。12人の武将は桔梗と菫を取り囲み警護する。数人の伴類が先頭にいた武将に斬り掛かろうとするが、武将が右手を前に翳すだけで伴類達の動きは止まり、武将が前に翳した右手を上にあげると伴類達の体は宙に浮き、武将の頭の高さで漂っている。この有様を見て慌てふためいた従類達が武将達に矢を射掛けるが、矢は武将達の直前で全て止まり力なく地に落ちた。武将が宙に浮いている伴類達を従類達の足元に放り投げると、従類達と伴類達は恐れ慄き浮足立つ。その時、朝信率いる縣勢がようやく救援に駆け付け、包囲環の外縁にいた従類と伴類を蹴散らして囲みを破った。

「そこをどけ!」

「桔梗殿、御無事ですか!」

朝信と朝武が叫びつつ、行く手を阻む従類と伴類を斬り捨てながら駆け進むと、そこには12人の武将に護られている桔梗と菫がいた。

「何奴!」

「待て、次郎!」

見境のなくなった朝武が叫び武将達に斬り掛かろうとするが、朝信は後ろから朝武が身に付けている着背長の馬手の袖を掴み制止する。この時、縣一族は全員着背長を着用していた。朝信は赤糸威、朝武は紺糸威、朝久は萌黄威を着用し、当主である朝信の兜のみが鍬形を付けていた。従類は胴丸鎧、伴類は胴丸を着用している。当時、着背長、胴丸鎧、胴丸の威毛は全て縦取威である。ちなみに、着背長をはじめとするの日本式甲冑の縅は12世紀後半以降、縄目威に移行する。

「兄者、何をするか!」

喚き暴れる朝武の兜の鉢を両手で押えながら朝信が12人の武将をよく見ると、その姿はこれまで幾度となく桔梗が話してくれた姿そのものであり、縣一族に伝わる伝承とも一致している。

「あなた方は・・・もしや古のアーディティヤ十二将では?」

朝信は武将達に問いかける。

「はい」

先頭にいた武将が答えた。ようやく我に返った朝武は信じられないという顔をして呆然と立ち尽くしている。

「先頭にいるのはクンビーラ殿か?」

「はい」

クンビーラが再び答える。周囲では、朝久に率いられた縣勢が良兼の部隊を完全に駆逐して包囲を解いていた。

「姫君の守護をよろしくお頼み申す。縣殿」

「面目ない。このような失態は二度とせぬ故、桔梗殿と菫殿はお任せあれ」

「お言葉を聞き安心しました。では・・・」

クンビーラが微笑みながら言うと、武将達は空中にある光の中心に向けてゆっくりと昇り始めた。その光の中心には異国の服をまとった少女の姿があった。

「あの光の模様は御始祖様の紋章・・・あの御方はユカリ様?ユカリ様がアーディティヤ十二将を遣わせて私達を護ってくだされた・・・」

昇っていく武将達を見つめながら桔梗は呟くと、光に向かい手を合わせた。幼い菫も母の傍らで同じように手を合わせている。やがて空中の光が消えると、晩夏の空に夕闇が迫っていた。


「兄者、ユカリ殿の言い伝え、本当だったのだな・・・」

朝武が既に光が去り暮れなずむ空を見つめながら朝信に話しかける。

「ああ、俺はユカリ殿の話を信じていなかった。遥か先の世に生まれ、時代を遡りコカゲ殿の御子孫の危難を救うなどど・・・ヴァイシュラヴァナやアーディティヤ十二将の話も伝説だと思っていた。だが、桔梗殿がこれまで話して下さったこと、親父殿が話してくれた我が一族に伝わる伝承も全て真実なのだろうな・・・さて、桔梗殿と菫殿を救出すことができた。小次郎主の所在は未だつかめぬが、まずは桔梗殿と菫殿を縣郷にお連れしよう」

朝信は朝武の肩を叩くと、桔梗の傍らに赴いた。

「桔梗殿、小次郎主の所在が未だわからぬ故、石井郷にいらしては危険です。小次郎主が再起するまで縣郷の我々の館に来ていただきたい。館には百合殿もいます故」

「わかりました。このまま縣郷に参ります。御始祖様の着物はここにありますので、これさえあれば私は何も要りません」

「三郎、こちらの被害を報告しろ」

朝信は振り向くと朝久に声をかけた。

「兄者、軽傷が9人、重傷が3人、死者はいません。重傷の3人は命に別状ありませんが歩行は無理です。なお、敵の死者31人、負傷者多数!」

「わかった。重傷の3人は垣盾に寝かせて運べ。敵の負傷者は武装解除したうえで捨て置け。死者の武装解除も忘れるな!桔梗殿、菫殿と私の馬に御乗りください」

伴類達は敵兵の武装を解除し、武具を運搬する準備を始めた。準備が整うと桔梗と菫は縣勢と久平一族に護られて、縣郷に向かった。


3年の時が経ち、天慶2年11月21日(新暦で940年1月3日)の将門による常陸国府攻略以降、坂東独立を目指し縣一族は将門と共に坂東各地を転戦する。下野国府と上野国府を攻略した後の天慶2年12月19日(新暦で940年1月30日)、八幡大菩薩の神託を受けた将門は上野国府で即位し新皇となり、坂東の独立を高らかに宣言した。この時、将門は伯父であった平国香と良兼の本拠地である常陸国と上総国を直轄地にして介を任命、他の坂東諸国には親王任国である無しに関わらず守を任命した。しかし、将門の宿敵となっていた平貞盛の説得を受けた藤原秀郷が将門に敵対するに至り、緒戦で将門勢は秀郷・貞盛連合軍に敗北を喫する。その結果、ほぼ全ての伴類が離反してしまい、将門勢は従類と若干の伴類が従っているに過ぎない状態になる。将門は秀郷・貞盛連合軍4000に最後の決戦を挑むために、北山の地に陣を敷いた。そして、将門勢407と昨晩、秀郷・貞盛連合軍により焼き払われてしまった石井営所南方に後衛として陣を敷いた縣勢108は、運命の天慶3年2月14日(新暦で940年3月25日)の朝を迎える。


現在、将門が戦死した北山は坂東市岩井の國王神社、あるいは坂東市辺田の北山稲荷大明神に比定されている。関東の平野部では[山]と[森]は同義であることから、北山とは[石井営所の北の森]と解釈することができる。また、当時の下総国幸島郡は沼沢が南北に幾筋も入り込み、石井営所への攻撃を南方から行うのは困難であった。実際、平氏一族の私闘の際には、下総国北部で軍勢が行き来している。また、幸島郡の川口の合戦が茨城県結城郡八千代町周辺であることも踏まえれば、國王神社周辺が北山であった蓋然性が高い。


「もはやこれまでか・・・」

将門戦死の報を受け、朝信は天を仰ぐ。坂東独立を賭けた北山での決戦が始まる前、それまで降っていた小雨が止み、空には鮮やかな虹が出ていた。その虹を見た将門勢の誰もが将門の勝利と坂東の独立を信じて疑わなかった。しかし、今の空にはその虹の痕跡すらなく、悲痛な重い雲が空一面を覆っている。朝信達の坂東独立の夢は春の虹の如く儚く消えていった。

(こうしてはいられない。桔梗殿と菫殿を残党狩りから御護りせねば・・・)

「次郎!お主の部隊を率いてこの地を死守しろ!誰も通すな!」

(兄者・・・)

「心得た!」

朝武は一瞬躊躇したが即座に応える。朝武の個人的な武勇もさることながら、歴戦の従類と伴類で構成された朝武の部隊は縣一族の中でも最強の部隊であった。

「さらばだ、次郎」

朝武が朝信の顔を見ると、朝信には躊躇の欠片もない。

(そうだったな・・・指揮官には私情は無用。兄者よ、桔梗殿と菫殿を頼む!必ず護り抜いてくれ!)

「残りの者は俺に続け!桔梗殿と菫殿を御護りするのだ!」

朝信は叫ぶと、桔梗達を避難させている菅生沼に向けて馬を走らせた。


「さて、どのように戦いましょうかのぅ?」

最古参の従類が朝武に声をかける。

「矢はどれだけある?」

「各自24、太郎殿からいただいた予備が500、計716です」

朝武が問うと、装備係の従類が答える。

(敵が200以上だと足りないな・・・)

「そうか・・・よし、お主は4人を率いて正面で敵を拘束してくれ。俺は3人を率いてあの森に伏す。敵が1町以内に入ったら同時に射撃を開始する。真っ先に指揮官を狙い必ず射殺するのだ。指揮官を射殺した後は、矢が尽きるまで射続けてくれ。矢が尽きたら一斉に斬り込むぞ」

朝武が古参従類に指示する。

「それが一番ですな」

古参従類はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「今こそアガタの武勇を示す時ぞ。ここで獅子奮迅の働きをし、後世に名を残さん!」

「おおっ!」

古参従類の叫びに、他の従類と伴類は握り締めた右手を宙高く突き上げた。

「各自、予備の矢を受け取れ!陣地構築後、俺が射始めるまで待機しろ!わかったか!」

朝武が指示を出すと、従類と伴類は二手に分かれ戦闘準備に入る。

(かつてコカゲ殿が漢の包囲を破り旧仲国王宮から脱出した時、バイシャジャ殿が採用した捨て身の戦法・・・まさか俺が再現することになるとはな・・・一瞬躊躇ったが、兵としてこれ以上の舞台はない。それに、ユカリ殿に御会いすることもできた・・・兄者、感謝する!)

紺糸威の着背長を着用した朝武は、腕を組み盾の前に仁王立ちになったまま、追手の到来を待っていた。


追手の先鋒がやって来た。その数200程。全て藤原秀郷配下の兵達である。距離が1町程に詰まった時、朝武率いる縣勢は2方向から射撃を開始した。敵は応戦しようにも弓の有効射程を超えているために矢は盾や地面にぷすぷすと力なく刺さるだけで縣勢に損害を与えることができず、逆に縣勢の正確かつ濃密な射撃によりなすすべもなく次々と倒されていく。縣勢は手持ちの矢を使いきると盾や地面に刺さった敵の矢を回収して射続け、それもできなくなると弓を捨て太刀を抜き、勝鬨を上げながら正面と側面から敵陣に突入した。残敵は40程。例え40程度でも生かしておけば、やがて桔梗と菫を護衛する縣一族の本隊が捕捉されてしまう。桔梗母娘が逃れる時間を稼ぐためにも、必ずここで敵を殲滅しなければならない。朝武達にとっては生還することが望めない、絶望的な突撃であった。


後続部隊が到着した時、そこには夥しい数の屍が散乱していた。

「これは・・・一体何が起きたというのだ・・・調べてこい」

唖然とした指揮官は配下の従類に命じる。

「御味方の死者193人、御敵と思われる死者9人、生存者はいません!」

従類は暫くすると戻ってきて、悲痛な顔で指揮官に報告する。

「何、先鋒が全滅だと?伝令!このことを至急藤太殿に報告しろ。我々は引き続き残敵を掃討する!」


秀郷の本陣に伝令が到着し、報告が入る。

「何てことだ。その9人は何処の配下の者か?」

秀郷は伝令に尋ねる。

「恐らく縣殿配下の者かと・・・」

「各部署に伝えよ。縣勢とは戦うな。遠巻きに包囲しろ」

秀郷は暫く考え込んだ末、伝令に伝える。

暫くすると、更に報告が入る。今度は後続部隊の186人が全滅し、それに対する縣勢の死者は今回も9人だとのこと。

「・・・とてつもない戦闘力だな、縣は・・・速やかに各部署に伝えよ。とにかく縣勢とは戦うな。必ず遠巻きに包囲しろ」

秀郷は縣勢の驚異的な戦闘力に絶句したが、すぐさま伝令に強く命じた。

「縣の当主は誰だ?」

「確か太郎朝信だったかと」

側近は無表情に答えた。


朝信をはじめとする8人の縣一族と22人の従類、50人の伴類、桔梗と菫、12人の久平一族の一行はついに秀郷の軍勢に包囲された。しかし、秀郷勢は遠巻きに包囲しているだけで一向に攻撃してこない。暫くの間、膠着状態が続いたが、やがて包囲している秀郷勢から丸腰の武将が1人で朝信達に近付いてくる。太刀はもちろん腰刀も帯びず、脇楯も着用していない。

「太郎主はいるか?」

武将が叫ぶ。

「我が太郎朝信だ。貴殿は藤太主か?」

赤糸威の着背長を着用した朝信が武将に歩み寄りながら聞き返す。

「いかにも。話がある」

「話とは何か?」

「太郎主、貴殿の望みは何か?可能なことはできる限り叶えよう。既に379人もの兵達が縣勢に討たれている。坂東の兵同士で争い、もうこれ以上犠牲者を出したくないのだ」

「ならば、何故新皇に敵対したのだ!藤太主が新皇に御味方していれば、我々はほとんど犠牲を払うことなく坂東の独立を達成し得たのだ!今更綺麗ごとを言うな!」

「それは違う!わしの志も小次郎や太郎主と同じだ。しかし、小次郎は性急に過ぎた。それ故、坂東を治めるために必要な軍勢を十分整えることができなかったではないか!小次郎が新皇として坂東を治め続ければ、必ず朝廷は大軍を坂東に派遣する。小次郎の軍勢は最大5000、わしの軍勢を加えてもせいぜい8000。この程度の軍勢で朝廷軍と戦えるものか!あえて軍勢を分散させ小規模戦闘を繰り返して朝廷軍を消耗させる手もあるが、そうなれば坂東全域が戦場になり、兵達だけではない、多くの民が犠牲になる。それでもよいのか!太郎主と同様、わしにとっても坂東の独立は悲願、だが、それ以上に民達が大切なのだ!多くの民が犠牲になりかねない禍の芽は小さいうちに摘まなければならない。わかってくれ!」

(誠実そうな弁を弄するが、本心は何処にあるのだ・・・我々を包囲している藤太の軍勢は概ね800・・・この程度なら包囲を突破することは容易だ。しかし、こちらも少なく見積もっても20人は犠牲になる。追撃を振り切るために更に20人から30人・・・予備の矢も3000程度しか残っていない・・・残された者達だけで桔梗殿と菫殿を長期にわたり護りきれるだろうか・・・)

朝信は即答することができないでいた。

「藤太主、貴殿が桔梗殿と菫殿、久平一族と我が伴類達の身の安全と自由の保証を確約するのであれば、我が一族と従類達の扱いは藤太主にお任せしよう」

思案の末、朝信が重い口を開ける。

「わかった。太郎主の望みは叶えよう。ただし、縣一族は小次郎に与し朝敵の身、大人しく降伏するがよい。従類達も同様だ」

秀郷の降伏勧告を受け入れた朝信は、縣勢の武装を解き秀郷の軍門に下った。


朝信と生き残りの縣一族と従類達は捕えられて秀郷の館に連行される。暫くの間、秀郷の館では縣一族が使用した武具、特に弓と縣一族が用いた戦術が吟味され、朝信をはじめ縣一族と従類達に対する尋問が続けられた。桔梗と菫は終始客人として扱われ、久平一族と伴類達は再武装しないことを誓約させられた後、放逐された。


半月後、吟味と尋問が終わり秀郷は側近から報告を聞く。

「縣勢の甲冑に使用されている小札は大型で、御味方の甲冑のように革小札だけではなく2枚に1枚の割合で鉄小札が使われています。これは全面が鉄で覆われていることを意味します。試射をして比較したところ、御味方の強弓で縣勢の鎧を射貫くには25間(約45m。1間=約1.8181m)以下まで距離を詰めなければなりませんでしたが、それでも2分(約6mm。1分=約3.0303mm)程射貫いただけです。縣勢の弓は御味方の鎧を1町以上の距離から楽々射貫くことができ、3寸(約91mm。1寸=約30.303mm)以上射貫きました。したがって、戦場では御味方は有効射程外から縣勢に一方的に射掛けられることになります。縣勢の矢は重く箆の工作精度が高いため、遠距離でも風の影響を受けることなく正確に射ることができます。矢が重ければその分威力が増すことは言うまでもありません。この弓と矢を縣勢は伴類に至るまで全員が装備していますので、射撃密度が御味方と比べて極めて濃密なものになります。縣勢は包囲殲滅を得意としていますので、彼らに包囲されたら遠距離から一方的な射撃を受けて御味方の全滅は確実です。結局のところ、残念ながら同じ兵力では縣勢に対抗することはできません。縣勢への対抗策として有効と思われるのは最低3倍、できれば5倍の兵力で包囲しての兵糧攻めですが、包囲した場合でも縣勢には一定の犠牲を覚悟のうえで包囲を突破する策がありますので、包囲も確実な手段ではありません。驚くべきことは、従類はもとより伴類の一人一人に至るまで徹底的に訓練と教育を受けており、指揮官が戦死しても最後の1人になるまで戦闘継続が可能ということです。また、こうした高い士気の源になる縣一族と従類達が共有している何か目的があるようなのです。更に、縣一族は伴類が戦場で負傷した場合には完治するまで労役を免除・軽減したり戦死の場合には遺族に対してできる限りの補償をしていますので、こうした措置が従類に匹敵する高い士気と戦闘力を伴類が発揮できる基盤になっています」

「難儀な連中だな、縣一族は・・・しかしだ、我々が縣一族を取り込むことができるのであれば、それこそ無敵の軍団を造ることができる。小次郎が果たせなかった坂東独立も可能となるのだが・・・何か妙案はあるか?」

「先程の縣一族と従類達が共有している目的ですが、彼らは皆口を濁しているので推測の域を出ないものの、恐らく、朝廷の支配から坂東を独立させることかと思われます。実際、彼らは常に朝廷のことを倭と呼んでいました。坂東の独立は太郎の個人的な願望ではありません。縣一族が小次郎だけに最新の武具を提供し、小次郎もあれだけの戦闘力を有する縣一族を最前線に投入することなく温存していたことを考えれば、今回の反乱に至る原因は根が深いものかもしれません。それはさておき、縣一族を取り込むためには、坂東の独立をちらつかせ、かつ縣一族から条件を引き出し、太郎を殿の養子にしてしまうことが確実です」

「そうかもしれんな・・・」

秀郷は呟くと溜息をついた。

「ところで、小次郎の倅2人は見つかったか?」

「子息達は未だ見つかっていません。だた、縣一族のうち、2人の行方が知れず、従類も8人程所在不明なのです。推測ですが、小次郎の子息達を連れて何処かに落延びたのではないかと・・・四郎(将門の弟、平将平。大葦原四郎)の所在も不明のままです」

「たぶん、四郎は倅2人と一緒だろう。縣勢がその護衛をしている・・・既に保護している小次郎の娘2人は石井郷界隈にある寺に出家させろ。そのうえで、四郎と倅2人は逃亡先、そうだな・・・武州(武蔵国)の秩父郡あたりがよい、ここの隠れ家で我が兵達と交戦したうえ隠れ家に火を放ち自刃、娘2人は出家したと朝廷に報告しておけ。首級が欲しいと言うのであれば、死罪にした罪人を焼いてから首を跳ね、樽に入れ京に送りつけてやればよい。既に小次郎の弟達も四郎以外は皆討ち取っているし、四郎は小次郎の新皇即位を諌めたと聞く・・・これで終わりだ・・・もうこれ以上坂東の兵の血を流したくない・・・」

「為憲(藤原為憲。常陸介藤原維幾の子)が騒ぎませんか?」

「捨て置け。彼奴は1人では何もできない臆者だ。何か言ってきたらこの館に呼びつければよい。我が兵達を見せ付ければ肝を潰して逃げ帰るであろう」

「かしこまりました」


「太郎主、わしの養子にならぬか?」

その日の夕刻、秀郷は朝信を主殿に招くといきなり話の本題を切り出す。

「縣郷と葉苅郷はどうなっている?民達は無事なのか?」

朝信は唐突で全く予期しない秀郷の言葉に戸惑いながらも逆に秀郷に尋ねる。

「心配するな。下野国は此度の戦場から離れているうえにわしの兵達が警護している。当然、縣郷と葉苅郷もだ。安心せい」

秀郷は微笑みながら答える。事実、秀郷の軍勢の規律は高く、狼藉を働く者はいなかった。

「太郎主、坂東の独立はわしにとっても悲願だ。だが、新皇、いや、小次郎は性急にすぎた。わしらは小次郎よりも更に政治的な力と兵達を蓄え、いずれ朝廷に代わり坂東を治めねばならぬ。そのためにも太郎主の家に伝わる武術、軍略、武具が必要なのだ。このままでは縣一族は皆朝敵として処刑し、従類達は坂東から追放せねばならぬ。太郎主がわしの養子になれば、いや、息子であったことにすれば、縣一族が古より伝えてきた様々な武術や軍略、武具を後世に伝えることができる。十分に力を蓄え、再度、我々と坂東の独立を目指さないか?」

「弟や他の一族の者、従類達はどうなるのだ?自分1人藤太主の養子になり生き恥を曝したくないわ!」

朝信に酒を勧めながら秀郷はしみじみと語るが、自分1人助かることを潔しとしない朝信は激高して言う。

「三郎主と他の一族の者や従類達は形の上だけ太郎主の家人とすればよい。朝敵の咎は家人には及ばぬ。ましてわしの息子の家人だ」

秀郷は静かな口調で朝信を諭す。

(此度の戦で我々は敗れ、虹が消えるが如く我々の夢も潰えた。確かに藤太の養子になり縣郷と葉苅郷を今後も維持することができれば再起は可能かもしれぬ。今すぐに坂東の独立ができなくとも、我が子孫にそれを委ねることも一考かもしれぬか・・・)

「藤太主、条件がある」

暫しの沈黙の後、朝信は重い口を開ける。

「何か?」

「桔梗殿と菫殿の安全を末永く保証していただきたい。更に、桔梗殿の故郷である筑波の豊浦郷に安住の地を約束していただきたい」

朝信は秀郷に詰め寄る。

「何故そこまで桔梗やその子のことを案ずるのだ?」

「我が一族と桔梗殿とは古の昔、倭の侵攻により祖先が故郷豊浦を共に追われた身だからだ。故に、せめて桔梗殿と菫殿だけでも故郷に戻して差し上げたいのだ」

北山の決戦以来、縣一族の行動が理解できないでいた秀郷が朝信に尋ねるが、朝信の返事は答えになっていない。

(話をはぐらかせおって・・・かと言って追及しても口を割るまい・・・)

「よかろう。このことは平太(将門の従兄弟である平貞盛。常陸国が本拠)に伝える。桔梗と菫の安全と豊浦郷への帰郷は約束する」

怪訝に思いながらも自らが主導する坂東独立のために縣一族の軍事技術を吸収したい秀郷は朝信のこの要求を認める。

「まだある。縣郷と葉苅郷の民達との取り決めは縣一族が執り行うこと、縣郷で培われし技術を今後も守ること、藤太主の養子になるにせよ、古より伝わるアガタの姓を我らが今後も名乗ることを認めることだ」

「左様なことか。もちろん許す」

「ありがたい。これからは藤太主の子として振る舞うことを約束する」

朝信は秀郷に誓った。


それから半月後、初夏の明るい日差しが差し込む中、主殿の庭先で秀郷に見送られた桔梗と菫が豊浦郷へ向かうために館の門を出ると、そこには朝信、朝久、百合をはじめとする縣一族と従類達、久平一族が待っていた。

「桔梗殿、豊浦の地で是非とも旧仲国の絹織物を再び造ってくだされ。我らもいずれ、古の豊浦郷のような、誰にも支配されない平和な坂東を必ず築いてみせます」

朝信が力強く桔梗に語る。

「太郎殿、私もその日を楽しみにしています。三郎殿、百合を末永くよろしくお願いしますね。皆さん、お元気で」

桔梗は哀しげに朝信と朝久に声をかけると、暫く朝信を見つめていた。やがて、小さく会釈すると桔梗は菫を連れ久平一族と共に豊浦郷に向かった。

「兄者、いいのか?」

「・・・」

「行ってしまうぞ・・・」

朝久が朝信に語りかけるが、朝信は黙ったまま、桔梗・菫親子の後姿をいつまでも見守っていた。


4年後の天慶7年(944年)の秋、朝信は朝久に家督を譲り未婚のまま出家して豊浦郷に居を移し、466年の倭の侵攻以来廃寺状態になっていた蚕影山桑林寺を復興して住職となる。その後、蚕影山桑林寺の住職は縣一族の者が代々務めていたが、縣一族が縣郷を失うとその系統も絶えることになる。


一旦は潰えた朝信達の坂東独立の悲願は、240年後の治承4年11月17日(新暦で1180年12月5日)、坂東の武士達が樹立した国家、[関東](源頼朝は自らの政権を[関東]と称した。ちなみに、武家政権を幕府と称したのは江戸時代以降であり、鎌倉幕府という概念ができたのは1887年(明治20年)以降とされる)の誕生により成就されることになる。この[関東]を樹立した武士達のうち、大武士団を形成した両総平氏と秩父平氏の祖は、将門の叔父達の中で唯一将門に理解を示した平良文の子、平忠頼と将門の娘春姫(如春尼)との間に生まれた平忠常、平将恒の子孫である。将門の志は240年の時を経てその子孫達の手により成就したのであった。

=====


優花里は目を覚ました。

(これは本当に夢なのだろうか・・・)

優花里は自問する。まるで直接体験したかのような具体的かつ鮮明で生々しい記憶が残っていて、単純に夢と片付けるわけにはいかない。しかし、優花里にとって1000年以上前の出来事を検証する手立ては何もない。将門や承平天慶の乱に関しては、将門記以外に詳細な史料がほとんどないのである。優花里は将門記を何回か読んでいるが、縣一族に関する記述は全く記憶にない。

(忘れよう・・・これはきっと単なる夢なんだ、そうに違いない・・・)

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