第三章「死して生を学ぶ」 第九節

 大東亜戦争――後に、第二次世界大戦の、太平洋戦争と呼ばれる戦争が勃発したとき、彼は19歳だった。

 まだ若く、農家の長男として生まれた彼は、本来ならば徴兵にはまだ間があり、免除もされるはずだったが、召集令状――いわゆる“赤紙”が届いてしまい、兵士として、お国のために戦わなければいけなくなった。

 すでに結婚していた彼は、我が子を身ごもってくれた妻を残し、祖国を後にした。

 そんな彼を待っていたのは、銃弾と血の雨が降りしきる戦場だった。

 敵も味方も無い、いつ死んでもおかしくないまさしく地獄を、彼は生き抜いた。


「五体満足じゃなくてもいい。とにかく生きて、生き抜いて、家族の元に帰ろう。どうせ死ぬのならば、家族の元で!」

 そう誓い合った友が、敵兵の銃弾に倒れる姿を目の当たりにした。

 腹に空いた風穴を必死に押さえたが、口から次々にあふれ出して、友も、自らの手も、朱に染まった。


 死を恐れ、生きるために銃を捨て、身を隠していた仲間がいた。

 その者は不運にも捕まり、反逆者と罵られ、敵前逃亡の罪で額を撃ち抜かれた。

 処刑だ。それも、公開処刑だった。

 彼を含む兵士たちは、見せしめとして、その一部始終を見るように強制された。


「大日本帝国、万歳! お国のために、この命を捧げよう! 死を恐れること無かれ! お国のために死ねることは、最大の喜び! 死ぬときは、敵もろとも!」

 この言葉を何度も聞かされ、何度も叫ばされ、何度も誓わされた。

 夢の中までも。


 人を、殺した。何人も、何十人も、殺した。敵だけではない、味方もだ。

 覚悟と愛国心を試すという理由で、罪人となった仲間に銃を向けさせられて、引き金を引かされた。


 敵と味方の区別は曖昧だった。否、味方などいない。全てが敵。全てが死だった。

 いつの頃からか、世界は灰色でしか見えなくなった。目につくものは、どれもこれもが死だった。そこら中にあふれていた。死が、世界を覆い尽くしていた。

 生きること。死なないこと。殺されないこと。ただそれだけを必死に守った。

 数年間、守り続けた。

 すでに戦争が終結していることを知るまで、ずっと……。


 彼が祖国の地を踏んだのは、終戦から2年後のことだった。

 23歳になっていた。

 帰還船の中は喜びに満ちていた。光にあふれていた。極楽浄土の光の如く。だが、一部には闇が存在した。部屋の明かりを点けたとき、物の影など、光の当たらない場所の闇が色濃く染まるように。

 彼は、その中にいた。

 彼の目には、周りのすべてが自分の命を脅かす存在に見えていた。

 現に、船内でも死者は出た。気づけばいなくなっている人間などざらだった。海に捨てられたのか、はたまた食われたのか……。

 彼は、誰かを傷つけたり、ましてや人殺しなどしなかった。そんな気力はもはや無かったのだ。けれど、決して心は休めず、手負いの獣のように常に目を光らせて、すべてにおいて警戒していた。

 船が港に到着し、ついに祖国の地に降り立った。

 世界は、未だに灰色。虫が蠢いているようにしか見えない群衆の中で立ち尽くしていたところ、色が見えた。

 愛する妻が、無事に生まれて成長してくれた我が子を抱きかかえて、立っていたのだ。その姿を見つけて注目したとき、世界は色であふれた。

 そこでやっと、人を、人として見られたのだ。

 とっくの昔に枯れてしまったはずの涙があふれ、世界のくすみを洗い落としてくれた。

 数年ぶりの妻と、初めて出逢う我が子を抱きしめたとき、彼はやっと、自分がまだ生きていることを実感した。

 友と交わした約束を果たし、家族の元に帰ってきたのだと理解した。これが夢や幻覚ではないことを、心の底から願った。

 ついに安らぎが訪れると思った。ついに地獄から抜け出せたのだと安堵した。これで、苦しみから解放されると信じていた。……だが、それは間違いだった。考えが甘かったのだ。戦争はまだ続いていたのだ。

 彼の、心の中では……。


「本当の地獄が始まったのは、それからだった……」

 彼がそうつぶやいたとき、その姿にまたも変化が現れた。

 彼の姿にはすでに変化が現れていた。語り続けることで歳を取り、19歳が、23歳になっていた。

 黒々としていた頭には白髪が目立ち、ストレスによる円形脱毛症が複数見られた。着ていた軍服はひどくボロボロになり、服にも身体にも無数の傷があった。肩には銃創まであった。その身は病的なまでにやせ細り、一目でやつれているとわかるのに、その眼だけはギラギラとし、墨を塗りたくったようなクマまでできていて、なんとも恐ろしい。死線を幾度も掻い潜ってきたとしか思えないその姿に、変化は現れたのだ。

 痩せていることに変わりは無いが、少し肉が付いた。猛獣を思わせるような眼は、鋭さだけが無くなり、光を失ったように濁って、さらに病的が増した。髪はボサボサで、髭も伸び放題。軍服は消えて、ツギハギだらけの和服となった。

 そんな、身なりに無頓着な風貌となった彼は、どこを見ているかもわからない虚ろな目を浮かべながら、うわ言のようにまた語り始めた。

「やってくるんだ……。寝ても覚めても……。やってきては、恨めしそうな目で見てくる。死んでいった者たちだ。この手で殺した者たちがやってくるんだ。生きて、家族の元に帰ってこられた私を憎んで、恨んで、嫉んで、やってくるんだ……」

 彼は自分の前髪を掴み、千切らんばかりに引っ張っている。それが癖になっているのか、掴んでいる部分だけ髪の毛の量が少なく短い。

「これは幻覚だ、頭がおかしくなっていて、ありもしないものが見えているだけだ……。そういくら言い聞かせても、大丈夫だと励まされても、恐ろしいことに変わりはない。割り切ることなんかできないし、諦めることもできない。いっそ死んでしまえたらどんなに楽か……。でも、死にたくない。死んだら、なんのためにあの地獄を生き抜いてきたのかわからない。それだけは、絶対にできない……」

 言葉を口にする度に、ゆっくりと年を取ってゆく。一日一日が過ぎるように、髪や髭の長さも伸びる。

「義恵に再会できて、義一の成長した姿をこの目にできて、本当に嬉しかった。心から嬉しかった。ろくに信じてこなかった神に感謝までした。それなのに、地獄から遠ざかれば遠ざかるほど、あちらから近づいてくる……。いつからか、どれが幻覚なのかわからなくなって、また世界が灰色に見えるように……。周りの人間が、皆、敵兵に見えた。彼女でさえ、私を殺そうとしているんじゃないかと思えて……。そんなはずがないのに、私の中にいる、もう一人の私は……」

 彼は奥歯を噛み締め、胸を両手で鷲づかみにした。

「彼女にひどくあたった。ひどいことをした。時々、どうしても自分が抑えられず……。毎日が戦いだった。あの地獄にいたほうがマシだとまで思えた。そんな私に、彼女は献身的に尽くしてくれる。それがまた信じられなくて、そばにいたいのに、もう一人の私は彼女を疎ましく思い、遠ざけようとして……。でも、離れるのは怖くて……。いっそ、彼女から見限ってくれたらどんなに幸せだろうかと、そんなバカなことまで思っていた。それをぶつけもした。そんな私を、息子は恐れた。いつしか、近づこうともしなくなった。当然だ。それが普通だ。私は異常だ。狂っていた。でも、だからこそ、息子が距離を置いてくれたことに安心を得た。あの子が近づきさえしなければ、傷つけなくて済む……」

 彼は、脈絡無く、思ったことをそのまま口に出しているようだが、違った。徐々に年を追っている現象もそうだが、過去から未来にさかのぼり、見た、聞いた、感じたことを、それそのまま語っているのだ。

 恐怖、葛藤、後悔ときて、次に訪れたのは“悟り”だった。

「疲れたよ、すべてに……。戦うことにも、逃げることにも……。諦めたわけじゃない。諦めたりはしない。死ぬわけにはいかない。それだけは曲げられない。憎むなら憎んでくれていい。恨んでくれていい。嫉んでくれていい。犯した罪は消せないんだ。償うことしかできない。でも、この命をやるわけにはいかない。もう、私だけのものじゃないんだ。ここは戦場じゃない。地獄じゃないんだ。恐れる必要などない。恐れてはいけない。受け入れよう。死んでいった者たちの分まで、私が生きるために奪った命の分まで、精いっぱい生きるんだ!」

 その力強い言葉の後、彼の姿が劇的に変化した。

 年の頃は三十代。病的で、まるで死人のようだった目には光が戻り、その顔は活き活きとした。全体的に肉づきが良くなり、髪は黒さを取り戻し、量も増えた。きれいに整えられてもいる。髭も剃られてサッパリした。服装は、農業を携わる者の格好だ。

「義恵のおかげで立ち直ることができた。まだ夢に見るが、彼女がそばにいてくれる。深夜に目が覚めても、もう怖くはない。孤独でもない。尽くしてくれた彼女のためにも、義一のためにも、しっかり働いて、今度は、私が二人を支えるんだ。……そう心に決めた矢先だった。彼女が倒れた。私の分まで仕事をし、家を守り、息子を育て、その上、私の世話までしてくれていた無理がたたったんだ……」

 希望に満ちあふれた顔から笑顔が消え、泣き顔に変わった。

「まだ三十になってまもないというのに……。本当なら、まだまだ先があったのに……。私がそれを奪ってしまった。また奪った。私が……殺したも同然だ……」

 姿が、またも変化する。急速に年を取り、元の老人の姿に戻った。服も寝間着だ。

「彼女は……義恵は、私を恨んで死んでいった。そうに違いない。そうに決まっている。もっと生きたかっただろうに……。楽をしたかっただろうに……。あの子の成長を見届けたかっただろうに……」

 老人は手で顔を覆った。

「私は人を殺した。生きるためとはいえ、何人も、何十人も……。その上、義恵まで……。そんな私は悪人に違いない。間違いない。地獄に落ちるに決まっている。だからこそ、怖いのです。やはりそうだったと知ってしまうのが、なによりも怖い……怖い……」

 老人は頭を抱えると、語るのをやめてしまった。


「……」

 老人の過去を聞いた麗子もまた、言葉を失くしていた。

 自分の知らない世界を耳にした。想像することで、その光景を目の当たりにした。けれど、そんな想像も絶するような世界に違いなく、いまの自分たちが生きている――生きてきた世界が、どれだけ幸せだったのかを思い知った。

 無数の苦しみの礎により成り立っている平和なのだと、感謝もした。

 これほどの過去を背負って生きていた人に、自分はなにかを語る資格がない。できることは、この場にいることだけだ。そう思い、命に後を託すことにした。老人の何倍もの時間を過ごしてきた彼ならば、どうするのだろうかと注目する。

 命は、そんな麗子の視線に気づき、チラリとこちらをうかがうと、小脇に抱えていた黒い本を、金のしおりのところから開いた。

「原田 重義さん、あなたの妻である義恵さんが、あなたのことを恨んでいると、本当にお思いですか? ……もしそうであれば、ボクは、あなたを軽蔑する」

 命は、老人を一瞥した。

「えっ!?」

 声を上げたのは麗子だった。そんなことを言うとは思ってもみず、驚いてしまった。

「麗子さん、ちょっとよろしいですか?」

 命が手招きするので、麗子は戸惑いながらも近づいた。

「これを」

 命は、黒い本の間に挟まっていた例の手紙を、麗子に差し出した。

「これは……?」

 麗子は、両手で手紙を受け取った。

「それは、原田 重義さんの妻の義恵さんが死後に残した、愛する夫への手紙です」

「えっ!?」

 麗子はまた驚きの声を上げた。だが、その声には別の声が重なっていた。老人のだ。

「義恵の、手紙……?」

 老人は顔を上げると、麗子の手にある手紙を見つめた。

「56年前、ボクが義恵さんの死出のお世話をしました。これは、そのときに預かったものです。必ずあなたに読ませると誓って」

 命は、老人に向けて手を差し伸べた。

「これを、どうすればいいの……?」

 麗子は不安そうにする。

「そこに書かれていることを読んでください。声に出して。女性の手紙ですから、女性である麗子さんが読んだほうがいい。それに、いまの彼には、これを読む勇気が無い」

「やっ、やめてくれっ!」

 老人は立ち上がった。

「聞きたくない! 怖い! 知らないままでいたい!」

 耳を塞ごうとするも、命がそれを許さなかった。

「原田 重義さん! 聞きなさい、彼女の言葉を! どうして彼女のことを信じてあげられないんです!? どうして、そんなはずがないという自分の想いを信じてあげられないんですか!? あなたにとって義恵さんは、生涯でただ一人愛した女性でしょう!」

 喝を受けた老人はたじろぎ、言葉を失った。

「麗子さん、読んでください。彼女の想いを伝えてあげてください」

 命は、麗子の手にある手紙を指差した。

「……うん!」

 麗子は手紙を開けて、そこに書かれている文字を読みあげようとした。だが、そこに書かれているのは一昔前の日本語で、知識の無い彼女には読めなかった。

 どうしようかと思ったそのとき、麗子の赤い瞳が怪しく輝いた。

 まもなく、手紙もまた淡い光に包まれる。

「!?」

 それに気づいた瞬間、誰かの意識が頭の中に流れ込んできた。

 映像が浮かび、心が、誰かの想いで満たされる。

 読めない文字が解読できる。それ以前に、そこに何が書かれているのか、頭の中では、すでに理解していた。

 手紙を読み上げるのではなく、老人の妻、義恵の想いを代わりに語りだした――。

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