第三章「死して生を学ぶ」 第十節

 重義さん、お元気でしょうか。

 これを読んでいるということは、あなたも、いまの私と同じように、その生涯を終えたところなのでしょうね。あら、でも、それだと元気という言葉はおかしいかしら。

 私があなたの元を去ってから、どれぐらいの時間が経っているのでしょう。

 もう何十年も経っていて、あなたはすっかりお爺さんになっているのかもしれませんね。もしそうなら、どんなお爺さんなのかしら。見てみたい。

 いま、私の目の前には神様がいらっしゃいます。死をつかさどる神様で、死神とおっしゃるのだそうです。私のように、死んだ方のお世話をするのが仕事だそうです。

 見たところ、義一と同じぐらいの年なのに、とても大人びていて、しっかりした方です。それでいて、可愛らしい。

 死神様はおっしゃってくれました。もし何か思い残すことがあればその願いを叶えると。私は、あなたとお話しがしたいとお願いしましたが、残念ながら、それは叶えられないことでした。ただ、あなたへのお手紙を残すことはお許しくださいました。

 重義さん、あなたにお伝えしておきたかったことがあります。

 それは感謝と、謝罪です。

 重義さん、ありがとう。あなたに出逢えて、私は幸せでした。とても。心優しいあなたと共に生きられたことを、誇りに思っています。

 そして、ごめんなさい。先立つ不孝を、どうかお許しください。

 あの日、いつまでも一緒にいようと約束したのに、叶えることができませんでした。

 自分が情けないです。もう少し、丈夫な身体に生まれてくれていたらよかったのに。

 この二つのことを、本当は直接、あなたにお伝えしたかった。それができなかったのが悔やまれます。本当に心残りでした。

 重義さん、覚えていますか、一緒になろうと言ってくださった、あの日のことを。

 とても嬉しかった。

 あなたは知らないでしょうけど、私、あの後、家に帰って泣いてしまったのよ。本当に嬉しかったから。お父さんやお母さん、妹や弟、皆がいる前で泣いちゃった。

 恥ずかしくてずっと秘密にしていたけど、最後だもの、教えてしまいます。

 実はね、私、お見合いをする前からあなたのことを見ていました。お慕いしておりましたの。本当よ。だって、あなたの写真を見せてもらった後、どんな方だろうと、こっそり見に行ったもの。あなたは道場で竹刀を振っていました。その勇ましい姿に一目惚れ。

 だから、本当に嬉しくて、それで泣いてしまったの。知らなかったでしょ。

 重義さんの妻になれて、義一を身ごもることができたときは、もっともっと嬉しかった。こんなに幸せでいいのかと、申し訳なくも思ったりして。

 ですが、その直後にあの戦争が起きました。そして、あの赤紙が届いた。

 受け取ったのは、私。

 忘れもしません、あれを受け取ったときのことは。あの血のような色。とても不気味で、恐ろしかった。

 友達のオチヨちゃんの旦那様は、お国のため、兵士として戦えることは大変名誉なことだと胸を張って喜んでいたけど、喜べませんよ。オチヨちゃん、私のところへ来て泣いていたわ。私も泣いてしまいました。

 大切なお勤めとはいえ、あなたを送り出したときは、心の一部を切り取られたようでした。痛くて、辛くて、悲しくて。できることなら、あなたを戦地になんか行かせたくはありませんでした。無理にでも引き留めたかった。たとえ、お国のためとはいえ、人間同士で争い合うのは愚かなことです。そんな哀しいことはありませんよ。恐ろしくて、そう叫べないことがまたとにかく歯痒くて、苦しかった。

 どうしてこの国は、間違いが正しいなんて国になってしまったのでしょうね。

 重義さんが戦われていた間に、大変なことが色々と起きました。嬉しいこともありましたが、辛いことのほうがずっと多かった。

 嬉しいことは、義一が無事に生まれてくれたことです。

 お産は痛いと教えられてはいましたけど、あんなに痛いものだなんて。お母さんたちや、オチヨちゃん、ご近所の人たちに支えられて、やっとのことでした。

 お話しましたが、義一は生まれてすぐに産声を上げなくて、まさかと思いました。

 お母さんがあの子の足を掴んで逆さに持ち上げ、お尻を叩いて泣かせたときは驚きました。驚いたからか、ホッとしたからか、眠ってしまって、気づいたらあの子が横で眠っていたので、また驚いてしまいました。

 辛いことですが、それはここには書かないでおきます。思い出したくもありませんし、あなたが知らなくていいことですから。

 だけど、一つだけ。

 あなたにはずっと黙っていましたが、私、光を見たの。山の向こうに見えました。昼間だったのに、太陽よりもまばゆかった。一瞬のことでしたが、あの光は忘れません。そのときはなんだかわかりませんでしたが、後に、あの光が新型の爆弾であると気づき、驚きました。だって、長崎からはずっと離れているのに、それでも見えたのですもの。いまになって思うと、本当に恐ろしいです。

 ごめんなさいね、こんなことを書いて。でも、ずっと打ち明けたかったの。

 この国が負けて、戦争が終わって、二年後、あなたが無事に帰ってきてくれたときは、生き別れになった我が子と再会したような、そんな気持ちになりました。

 あのとき、細くなってしまった腕で私を抱き締めてくれたときは、とっても嬉しかった。愛おしかった。もう二度と離すまいと思いました。笑顔を見せてあげたかったのに、どうしても涙が止まりませんでした。

 お勤めへ行かれている間に、あなたの心はすっかり荒んでしまわれた。よほど恐ろしい体験をなされたのでしょうね。辛い日々が続きました。一年も、二年も。でも、それは、あなたが悪いのではありません。すべてはあの戦争が悪いのです。

 憎かった。あなたを変えてしまったあの戦争が、この国が、とても憎かった。

 実は、ずっと気がかりでした。もしかしたら、あなたがそのことをずっと気に病んでいるのかもしれないと。

 重義さん、あなたはなにも悪くはありませんよ。もし、私があなたのことを恨んでいたかもしれないなんてお悩みなら、そんなものはさっさと捨ててしまいなさい。私は決して、あなたを恨んだりしませんよ。大好きなあなたを恨んだりするものですか。

 あなたと人生を共に歩めた。あなたの妻となれた。かけがえのないあの子を得られた。それだけでも充分幸せですよ。

 あなたが、私たちを傷つけまいと必死に戦っていたこと、知っていますよ。

 そしていま、あなたのお側で死ねました。

 あなたがずっと手を握ってくれていたことも知っています。いまも、あなたは泣きながら私の名前を呼んでくれています。こんなに嬉しいことはありませんよ。これ以上の幸せを望めば、それは贅沢というものです。神様仏様に叱られてしまいます。

 重義さん、残念ですが、もう、あまり時間がないそうです。もっともっと、いっぱい、あなたにお伝えしたいことがありますが、可愛らしい死神様にご迷惑をかけてはいけないから、そろそろ終わりにしますね。それに、あまり長くなってしまったら、読むのが大変ですものね。ごめんなさいね、おしゃべりで。手紙でもおしゃべり。

 重義さん、いま、死神様から興味深いお話を教えていただきました。私たちのように夫婦であったり、親子、兄弟、親しい友人になった方々というのは、強い絆や縁で結ばれているそうです。前世も、そのまた前世も、私たちは、実は知らない間に出会っていて、来世でもまた会えるかもしれないそうです。なんて素敵なのかしら。

 いつのことになるかわかりませんが、あなたとまた出会える日が訪れることを、心から願っております。できれば、私はもう一度、あなたの妻になりたいです。今度は、もっとずっと、一緒にいたい。もしも、天国で神様仏様にお会いすることがありましたら、そうお願いしようと思っています。

 それでは、義重さん、いつかまたどこかでお会いしましょうね。


「――良江より」

 麗子は、その一言を最後に語りを終えた。

 文面に向けていた視線を老人に移したところ、彼は震えていた。

「原田 義重さん、聞きましたね、義恵さんからの言葉を。いまの中に、あなたに対する恨み言は、ありましたか?」

 命がたずねると、老人は、おもむろにかぶりを振った。

「無い……無かった……義恵は……義恵は、私を恨んでなどいなかった……!」

 老人は、しわの多い顔をより一層しわくちゃにした。大声で泣き出し、心に押し込めていた長年の痞えを解き放った。

 しかし、いまの老人は精神の存在で、その目から涙が流れることはない。

「手紙を、見せてもらえませんか……?」

 しばらく泣いていた老人は、麗子を見つめて言った。

「はっ、はい」

 麗子はすぐに歩み寄り、老人が差し出している手に、手紙を持たせてあげた。彼は、壊れやすいものでも扱うようにそっと持ち、そこに書かれている文字を見つめた。

「ああ、義恵の字だ……彼女の字です。懐かしい。やっぱり、きれいだ」

 時間をかけて何度も何度も読み返すと、老人は手紙を胸に押し当てた。

「すまない……すまない、義恵! おまえが、私を恨んでいるだなんて、そんな馬鹿なことをずっと考えて、ずっと悩んで、おまえのことを信じてやれなかった!」

 老人は嘆き、悲しみ、心の底から悔やんだ。

 すると、その手の中にある手紙が光に包まれた。彼がそのことに気づいて手を広げたところ、手紙は、まるで蝶が飛び立つように舞い上がり、ゆっくりと天井に昇った。

「手紙が! 義恵の手紙が!」

 老人は咄嗟に手を伸ばすも、光を掴むことはできなかった。

 まもなく、光は細かい粒となり、消えてしまった。

「あああっ!」

 老人は両手を高く掲げたまま、石にでもなったように固まった。

「56年前の約束を果たしたため、手紙は役目を終えました。だからこそ消えた」

 命は、老人と同じ天井を見つめながら言った。

「うん……うん……」

 老人は、脱力したように両手を下ろし、何度も頷いた。

「……原田 重義さん、まだ怖いですか?」

 命は、ずっと小脇に挟んでいた黒い本を手に持ち、黄金色の天秤を上に向けて、老人に差し出した。

「……いいえ。もう、怖いことなどありません」

 老人は首を左右に振ると、手を伸ばした。

「私は大勢の人を殺した。だが、それは生きるためだ。家族の元に帰るため。罪には違いないが、もうそのことで恐れたりはしません。私は精いっぱい生きて、償ってきた。死んでいった者たち、殺した者たち、そして妻の分まで。もし、それでも足らずに地獄に落ちたとしても、悔いたりしない。甘んじて受け入れます。そうでなければ……」

 しわくちゃの手が表紙に描かれている黄金色の天秤の上に置かれた。すると光に包まれ、手の甲の上に同じ形の天秤が、まるで立体画像のように浮かび上がった。まもなく支柱の先端にある燭台に火が灯った。

 麗子のときに比べると勢いは穏やかで、その色も、夜明け前の空のようにやや黒が強い。

 二つの秤に、白と黒、二色の火が灯り、交互に上下に揺れ動いた。しばらくするとその動きが遅くなり、一方がわずかに深く沈んだ。

 それは、白い火のほうだった。

 つまり、老人は“善人”だと認定されたのだ。

「やった!」

 麗子は喜びの声を上げ、音のしない柏手を打った。命も満面の笑みを浮かべている。

「原田 重義さん、お喜びください。あなたの魂は善に傾きました。よって、あなたが進むべき道は地獄ではなく、義恵さんも進まれた天国です」

 命は、天井に向けて手を差し伸べた。

「え……私が、天国へ?」

 老人は茫然とし、本の上に置いていた手を引いた。途端に天秤が消えた。

「辛く、険しい生涯でしたね。ですが、義恵さんの亡き後、男手一つで家を支え、義一さんを立派に育て上げました。戦争とはいえ、生きて帰るためとはいえ、命を奪ってしまった人たちのことを決して忘れず、その方々や義恵さんの分まで精いっぱい生きてきたことを、神様はちゃんと見ていらっしゃいましたよ。そしてなにより、あなた自身の魂が知っています。原田 重義さん、善い人生を歩まれましたね」

 命は、まるで自分のことのように喜び、愛くるしいまでの笑顔を贈った。

「ありがとうございます……!」

 老人はゆっくりと立ち上がり、姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「善人として認められましたので、もしなにか思い残すことがございましたら、お手伝い致しますが、いかがなさいますか?」

「一つ、あります」

「なんでしょう?」

「義恵の墓参りをしてやりたいのです。もうずっと行ってやれてない」

「わかりました」

 命は大きく頷いた。

「あっ、あと、家を出るとき、家族の顔を見ても構いませんか?」

「もちろんです。ただ、こちらの姿は見えず、声も届きません」

「構いません」

「それでは、参りましょうか」

 命は先導するように歩きだし、扉に向かった。鎌を使って穴を作り、廊下に出る。

「あ、実際に空いてるわけじゃないので、ご安心ください」

 命は穴から顔を覗かせて、扉の前で少し戸惑っている老人に言った。老人は頷くと、その穴をくぐって外に出た。最後に麗子が部屋を後にした。

 薄暗い通路。向こうに見えるリビングの入り口から明かりが漏れており、賑やかな声も聞こえてくる。

 玄関にある古びた壁掛け時計を見ると、10時22分だった。

 老人は自らの足で廊下を進み、入り口の前に立って中を覗いた。命や麗子も、少し遅れて入り口の前に立った。

 リビングには、息子夫婦と孫夫婦、それに曾孫の姿があった。女同士でテレビを鑑賞しながら曾孫を可愛がっている。義一やその息子、つまり孫は、その微笑ましい光景を肴に、酒を飲み交わしていた。

 笑顔があふれている。

「………………ちょっと、義恵の墓参りに行ってくるよ」

 しばらくの間、家族のだんらんを眺めていた老人は、にっこりと笑ってその言葉を残し、きびすを返した。

 命たちはすでに玄関扉の前にいて、老人が振り返ったのに合わせて穴を拵えた。

 老人は一礼した後、先にその穴をくぐり抜けて、我が家を後にした。

「お邪魔しました」

「お邪魔しました!」

 二人も一礼し、原田家を後にした。

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