第三章「死して生を学ぶ」 第八節

 夜の帳が下りて、しばらくのこと。

 かすかに聞こえていた老人の呼吸が、途絶えた。

 そのことに気づいた麗子は、老人を見つめ、すぐに命の顔をうかがった。彼は一度だけ頷いて、老人に注目した。彼女もそうする。

 1分、2分、3分……10分が経過したとき、変化はあった。老人の身体から漏れ出していた黒煙――死相もまた、途絶えたのだ。

 それは、つまり……。

 麗子はもう一度、命の顔をうかがった。

「いま、原田 重義さんは、その生涯を終えられました」

 命も、麗子の顔を見返して、小さく頷いた。

「死んだ……お亡くなりになったんだね」

 遺体となった老人を見つめている麗子だが、ふと、あることに気づいた。ほんの少し前までは人として見えていたはずなのに、いまは、その姿が、ベッドやその向こうにある棚と同じ、物の一つとして見えている。

 これまで家族を含め、誰かの死を目の当たりにすることなく生きてきた麗子にとって、これが初めて目にした“死”だった。彼女は思い知った。これが死ぬということで、それは、人が、人ではなくなる瞬間なのだと。

「……?」

 老人の遺体を見つめていた麗子は、ふいに目を細めた。その理由は、目の錯覚。老人の姿が二重に見えるのだ。

 それは錯覚ではなかった。老人の姿は確かに二重に見えている。どういうことなのかと訝しんだそのとき、老人の身体からもう一人の老人が現れて、転がり落ちるようにベッドの端に移動した。

 二人は、瓜二つだ。

「いま現れたのが、“肉体”から乖離した、原田 重義さんの“精神”です」

「あれが、精神……」

「麗子さん、心の準備はいいですか? まずは、ボクが実演してみせますので、手順など、流れを覚えてくださいね」

「うん!」

 麗子は、顔つきを真剣なものにした。

「では」

 命はベッドに歩み寄った。

「肉体から乖離し、精神の状態になった死者の方には、ボクたち死神の声が聞こえ、姿も見えます。麗子さんも経験しているからおわかりでしょうが、亡くなってまもない方は、亡くなったことに気づいていない方がたいていなので、まずはそれに気づかせるためにも、声をかけてこちらに意識を向けさせます」

 命は、うつ伏せになっている老人のそばに立ち、その顔を覗き込んだ。

「原田 重義さん、ボクの声が聞こえますか? 原田 重義さん?」

 名前を交えて繰り返し呼びかけていると、うつ伏せのままだった老人が動いた。身体を横に向けて、その目を開け、命の顔をじっと見つめた。

「原田 重義さん、ボクの声が聞こえますね? ボクの姿が見えますね?」

 たずねたところ、老人は小さく頷いた。だが、何かに気づいて怪訝な顔を浮かべると、自分の顔に手をやった。

「メガネ……手が、動く……苦しくない……」

 老人はうわ言のようにつぶやくと、ベッドに手をついて身体を起こし、柵に掴まりながら、座る姿勢にまで持っていった。

「………………信じられないが、しかし……」

 広げた両手を見つめたり、身体に触るなどして、老人は何かを確かめている。

「……ボウヤ、その背中にあるのは、もしや、鎌じゃないのか?」

 老人は、命を見つめ、背負っている鎌を指差した。

「はい、これは鎌です」

「そうか……違っていたらすまないが、ボウヤは、その、死神なのかな?」

「はい、そのとおりです。ボクたちは死神です」

 命が肯定すると、老人は驚いた顔をし、命と麗子、二人の姿を交互に見やった。

「……そうか。それじゃあ、やっと……ついに、私にもお迎えが来たのですね」

「ご理解いただきまして、ありがとうございます。原田 重義さん、あなたはたったいま、お亡くなりになられました。後ろをご覧くだされば、よりご理解いただけると思います」

 老人は後ろを振り返り、ベッドに横たわるもう一人の自分に気づいた。

「それは、この世の原田 重義さんです。いまのあなたは、あの世の存在です。おわかりいただけますでしょうか?」

「はい、わかります」

 老人は前を向き、頷いた。

「自己紹介が遅れましたが、ボクの名前は命と言います。命と書いて、命です。こちらにいるのは立花 麗子さんです。この度、原田 重義さんの死出のお世話を任されました」

「死出のお世話というのは、どのようなことでしょうか?」

「ご説明致します。ボクたち死神は、その生涯を終えられた方にその事実を伝え、この世、つまりは現世から旅立つお手伝いをしています。原田 重義さんにはこれから、この――黒い本の表紙に描かれている、天秤の絵に触っていただきます」

 命は、会話の途中で黒い本を取り出し、表紙に描かれている黄金色の天秤を見せた。

「これは、死者の方の魂に記憶されている、一生における善悪の値を量るものです。つまり、あなたが善人であるか、はたまた悪人であるかを調べるわけです」

「善人か、悪人か……」

 老人の表情が強張った。

「あの、もしも、悪人だった場合はどうなるのでしょうか? やはり、地獄に落ちなければいけないのですか?」

「はい。もしも悪人だった場合は、一生の間に犯した罪を償うためにも、地獄に落ちなければいけません。ですが、善人であった場合は天国に進んでいただきます」

「そう、ですか……」

「あと、善人となった方のみ、現世と決別する前に、一つだけ願いを叶えてあげられます。これは、その生涯を真っ当に生きられた方への、神様からの贈り物とお考えください」

「願いを叶える……? それは、どんな願いでもですか?」

「叶えられる願いには限りがあります」

「あっ、では! 妻に! 死んだ妻の義恵に、一目会うことはできませんか!?」

 老人は急に語気を強めた。

「……残念ですが、すでに現世から旅立たれている方に会うことはできません。生きておられる方でしたら、その姿を見ることはできますが、会話をするなどは許されません」

 命は首を横に振った。

「そんな、どうして!? どうしてダメなんだ!? 神様なら、それぐらいのこと許してくれたって!」

 老人は興奮するあまり、ベッドを降りて、その枯れ枝のような足で立った。

「申し訳ありません……」

 命は顔を俯かせた。

「……いや、無理なものは無理なのでしょうね。わがままを言いました、申し訳ない」

 憤りを見せた老人だが、自らを押し殺して無理にでも気を静め、ベッドに腰かけた。

「……自分の足で立ったのは、久しぶりだ……」

 老人もまた俯くと、自分の足を見つめ、うわ言のようにこぼした。

「原田 重義さん、あなたの善悪を査定してもよろしいでしょうか?」

 命は黒い本を、黄金色の天秤を上に向けて両手で抱え、老人に差し出した。老人は、その顔を上げて、本と命を交互に見やった。

「この上に、手を置いてください」

「は、はい」

 老人は誘われるように手を伸ばすも、後少しというところで止めてしまった。そのまましばらく。石にでもなったように固まった。

「……どうされましたか?」

 老人の顔はひどく強張っている。なにやら思いつめた様子だ。それに気づいた命がたずねたところ、老人は手を引っ込めてしまった。

「すみません……できない。怖くて、できません……」

 老人は、その手を拳に変えると、もう片方の手でそれを包み、口元に押し当てた。

「怖い……? それは、悪人になるかもしれないと、そうお思いだからですか?」

 老人は小さく頷いた。

「どうしてそう思われるのか、お話をうかがってもよろしいですか?」

 老人はまた頷いた。そして、押し当てていた拳を少し離した。

「昔……私は、若い頃に、大勢の人を殺しました」

 老人は消え入るような声を漏らすと、背中を丸め、頭を抱えてしまった。

 そのとき、老人の姿に変化が現れた。

 外見が、後ろに横たわっている肉体とは異なるものに変化したのだ。

 真っ白で、禿げたように地肌が見えていた頭は、黒々とした髪に覆われた。骨と皮しかなかった枯れ枝のような腕や足には肉がつき、太くなった。全身を覆っていたしわが消え、血色の悪さは相変わらずだが、みずみずしさを取り戻した。

 老人は若返った。88歳のはずが、いまでは10代か20代で、麗子よりも若い。着ている服も、着物のような寝間着ではなく、何故か軍服。

 旧日本軍は陸軍の、二等兵のいでたちである。

 その姿を目の当たりにした麗子は、驚いて目を見張った。

「原田 重義さん、あなたの過去に何があったのか、教えていただけませんか?」

 老人を目の前にしている命は、なんとも哀しい表情を浮かべていた。そんな彼の言葉に反応し、視線を移した麗子はふと気づいた。彼の老人に向けられているその眼差しは同情心に満ちあふれている。それで思った。もしかしたら彼は、老人の過去に何があったのか、すでに知っているのではないかと。


「あれは、私が19のことでした……」

 まだ若い旧日本兵は、自らが犯した罪とその苦しみを語り始めた――。

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