第三章「死して生を学ぶ」 第七節

 黄昏色に染まった空に現れた、黒い影。

 とある郊外の住宅地に舞い降りたのは、二人の死神だった。

「こちらにお住いの、原田 重義さんという88歳の男性のお世話をします」

 命は、《原田》という表札がかけられた二階建ての家の前に立ち、言った。

「88歳? じゃあ、米寿だね」

 麗子はまず表札をうかがい、次に周囲の風景を眺めた。

 幼い子供たちが元気よく駆けてきて、別れ、我が家へ帰ってゆく。

 二人の姿は見えてないようだ。

「半年前、リンパ節に癌が見つかり、検査の結果、全身に転移していることが発覚。もう手の施しようがない状態でした。本人の願いもあって入院はせず、自宅でその時が来るのを待っていらっしゃいます」

「ご家族が面倒を見てるの?」

「はい。医師をされている息子さん夫婦と、その息子のお孫さん夫婦。そのまた子供の、一歳になってまもない曾孫さんと同居されています。六人家族です」

「曾お祖父ちゃんなんだ。……え、息子さんって何歳?」

「69歳です」

「定年を越えてるんだ。……ということは、19歳のときの子供ってことね」

「戦時中に――終戦の数年前にお生まれになられました」

「ああ、あの頃で19歳は普通か」

「原田 重義さんに死が訪れるのは、4時間後の、9時19分です。死因は急性心不全で、老衰と言っていいでしょう。いまはもう寝たきりなので、眠りながらお亡くなりになると思われます」

「苦しまずに死ぬってこと?」

「実際にそうかはわかりませんが、いままでの経験からすると、苦しまずにお亡くなりになると思います。もしかしたら、死んだことに気づかないかもしれません」

「じゃあ、私たちがその死を教えてあげるんだね?」

「そういうことです。それが、ボクたちの仕事です。――では、入りましょう」

 命は、閉じられた門扉に歩み寄り、軽々と飛び越えて敷地内に入った。一方の麗子は、よじ登って侵入した。

 命は、鎌を手に玄関扉に近づき、柄の先端にある赤い宝石で軽く突いて、通り抜けるための穴を拵えた。

「お邪魔します」

 命は頭を下げてから、穴をくぐり抜けた。

「お、お邪魔します」

 麗子も見習って頭を下げた後、玄関に足を踏み入れた。

 不法侵入を意識してしまうため、どうしてもためらってしまう。

 玄関扉にあるガラス窓や、二階に続く階段から降り注ぐ夕陽に照らされているので、玄関や、その先の廊下もまた黄昏に染まっている。

 右手にどこかの部屋の入り口がある。扉が開いており、蛍光灯の明かりが漏れていた。人の会話も聞こえてくるが、それはどうやらテレビの音。それに混じり、誰かが包丁を使っているらしい気配がする。

「原田 重義さんの部屋は一階で、あの洗面所のそばの部屋です」

 命は正面の、階段横の通路の奥にある二つの扉のうち、左手の引き戸を指差した。

「なんで知ってるの?」

「先ほど黒い本を見たじゃないですか。あれは“死神のリスト”なんですが、お世話をする方の情報を確認することができるんです。頭の中に映像が浮かび、その方が住んでいる場所や、家の間取りなどを見ることができるんですよ」

 命は土足のまま上がり框をのぼった。

「ふーん、そうなんだ。あ、そういえば、その死神のリストはまだもらってないけど?」

 麗子も後に続くが、土足で上がることにまたためらってしまった。

「これは、死神として一人前だと認められ、独り立ちすることを許されたとき、ハデス様から直々に頂戴するものです。麗子さんはまだ見習い。研修生ですから、一人前と認められるまでは、ボクが任された方のお世話をしていただきます」

 命は、明かりが漏れている入り口の前を通り過ぎ、奥の階段横の通路に向かった。

「なるほどね。研修かぁ、なんか懐かしいなぁ……」

 麗子は、命の後についてゆき、明かりが漏れている入り口の前を通る。明かりの向こうにはリビングがあった。

 ソファの背もたれが見える。その上には人の後頭部があり、奥には大きめのテレビがあって、夕方のニュース番組が映っていた。

 人がいることをあらためて意識した麗子は、抜き足差し足でその場を後にしようとした。すると、何かが床を転がる音がし、それが近づいてきたかと思えば、歩行器に入れられた赤ん坊が入り口の前に現れた。

「あう……」

 麗子は思わず身を固め、赤ん坊に注目した。すると、赤ん坊も彼女に注目する。

 じぃ~~~~~~。

 赤ん坊にまっすぐ見つめられた麗子は、もしかしたら見えているのかもしれないと思い、とりあえずにこりと笑った。気まずさがあるので、やや笑顔が歪んでいる。

 その途端、赤ん坊は泣き喚いた。

「えええっ!?」

 麗子は驚き、慌てて逃げ出した。

「はいはい、どうしたの~?」

 赤ん坊の泣き声と、それを宥める若い女性の声を背中で聞きながら、麗子は、なにをしているんだ、と言わんばかりの顔をしている命の元へ急いだ。

「赤ん坊は勘が鋭いですから、気をつけてくださいね」

 命はそう注意すると、鎌を使って、目の前にある引き戸に穴を拵え、すぐにくぐった。

「そういうことは先に言ってよね!」

 麗子も逃げるようにして穴をくぐり抜けた。

 白い壁と、フローリングの床の、六畳ほどの洋室。中央に介護用のベッドがあり、その上には、痩せ細った老人が一人、着物のような寝間着姿で横たわっていた。

「あの人が、原田 重義さん?」

 麗子は、老人に注目した。

 ミイラかと思うような痩せこけた顔。年輪のように刻まれたしわが顔全体を覆っている。布団で隠れているので、顔や首など一部しか見えないが、肌の色は血色が悪く、唇も青ざめていた。頭は真っ白で、髪の毛が細いのか、数が少ないのか、地肌が透けて見えている。

「はい」

 命はベッドに歩み寄った。麗子もついてゆき、すぐ横に立って寝顔を覗き込んだ。

 呼吸音がとても小さく、かすれてもいる。

「ねぇ、なんか、黒いものが見えない? 靄みたいな、煙みたいな……」

 麗子は、布団の隙間から黒煙のようなものがあふれ出しているのに気づいた。

「はい、確かに見えます。これは、死が近い方に現れるもので、いわゆる“死相”です。人にもよりますが、だいたい数日前から出現します」

「私のときもこれが出てたの?」

「もちろん」

「そう、なんだ……」

 麗子は自分の死を思い出し、表情を強張らせた。

「……これから、どうするの?」

「死が訪れるまで待ちます。何度も言うようですが、ボクたちは死を齎しません」

 麗子は頷くと、軽く室内を見回した。それで気づいたが、目につくものは、ベッドの近くに置かれた一脚の椅子だけだ。

「……なんか、質素って言うのかな? 物が全然無いんだね」

 有るのはその椅子と、奥の窓側の壁のその角に備え付けられた棚と、そのベッド側に向いている壁面に貼られた数枚の家族写真だけだった。

「それに、なんか違和感。88歳のお祖父ちゃんなのに、和室じゃないんだね」

「それは、下のお世話をするためじゃないでしょうか」

「シモ? ……あ、そっか」

 麗子は大いに納得したが、それに気づけなかった自分の浅はかさを情けなく思った。

「ここは元々、原田 重義さんのお部屋ではなかったと思います。前がなんだったのかは知りませんが、一階で玄関からも近く、洗面所にも近いこの部屋は介護に適しています。だからこそ、この部屋なのでしょうね、きっと。質素とおっしゃいましたが、確かにそうだと思います。でも、家具が無いほうが掃除はしやすい。その証拠にきれいです。どこにもホコリがたまっていません。椅子しかないのも、あえて椅子を置いてあるとも考えられます。誰かがそこに座って常に様子を見たり、時に話しかけたり、食事の世話をしたり、生まれてまもない曾孫さんを抱いて見せてあげたりしているのかもしれませんよ。ほら、そこの壁に貼ってある家族の写真。少し横を向けば見えますよね。距離が近いので、目が悪くなっていても見えるかも」

「……本当、だね」

 麗子は、命の言葉からその光景を頭に思い浮かべ、きっとそうに違いないと思った。

「――ただいまぁ」

 そのとき、部屋の外から扉の開く音がし、男の声がした。年季を感じさせる低い声だ。

「――おとうさん、おかえりなさい。ほらほら、おじいちゃんが帰ってきたよぉ。おかえりなさいって」

 若い女性の声がし、幼い声もした。

「――あなた、おかえりなさい。ビール、用意します?」

 別の声がした。また女性で、年配と思われる。口調はおっとりとしている。

「――ああ、頼むよ。手を洗ってくる」

 また男の声がした。するとまもなく、足音がこちらに近づいてきた。扉の前を横切る。扉が開いたので、洗面所に入ったと思われる。

 水の音がし、それが途絶えてしばらく、扉が閉まる音がした。まもなく、この部屋の扉が静かに開いて、一人の男性が入ってきた。年配の男性だ。メガネをかけた、中肉中背。頭は白髪のほうが割合として多い。笑うことが多いのか、目尻や口角のしわが深い。

「息子さんの、義一さんです。――大丈夫ですよ、喋っても。ボクたちの声は聞こえませんからね」

 命は、麗子を連れてベッドの前を離れ、部屋の隅に移動した。

 義一は、二人の存在に気づかず、入れ替わるようにベッドの前に立ち、父親の顔を覗き込んだ。額に手を置いて、熱をはかるような仕草をした。次に、首筋に手の甲をそっと押し当てる。続いて、布団を少しだけめくって腕を出し、脈を調べた。

「………………弱い。熱も相変わらずか」

 義一は、眉間にしわを刻んだ。

「そろそろかもしれないな。もう、楽になってほしいとは思うけど……」

 腕を戻し、布団の乱れを丁寧に直した。

「でも、もう少し、こっちにいてくれよ。……父さん……」

 義一は、父の寝顔を見つめ、ぽつりとつぶやいた。

「……お父さんの死を望む自分と、望まぬ自分。その葛藤に悩まされているようですね」

 部屋を出て行く義一の姿を目で追いながら、命は言った。

 麗子は、扉が閉まってから、「うん」と返事をした。

「麗子さんは、どちらが正しいと思いますか? 望むのか、望まぬのか……」

 命は、隣にいる麗子の顔を覗いた。彼女は押し黙った。

「………………正しいとか、正しくないとか、そんなことじゃないと思う。だけど、どっちも正しいと、私は思うよ」

 長い沈黙の後に、麗子は自らの考えを述べた。その答えに対して、命は小刻みに頷き、穏やかな笑みを浮かべた。

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