第三章「死して生を学ぶ」 第六節

 人類が初めて宇宙という無限の海を訪れたのは、1961年の4月12日のことだ。

 その偉業を成し遂げたのは、かの有名なユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン。旧ソ連の軍人であり、伝説の宇宙飛行士である。

 外の世界から母なる大地を目にしたガガーリンは、ある言葉を残している。それは後世でも語り継がれる名言となった。

 その名言とは、次の言葉である――。

「――地球は、青いヴェールをまとった花嫁のようだった。――私はまわりを見渡したが、神は、見当たらなかった……。by、ガガーリン」

 偉業からおよそ50年後、同じ景色を眺め、同じ名言を口にする者がいた。

 それは、死神になってまもない麗子である。

「難しいほうの名言をご存じとは、お見逸れしました。麗子さんって、博識な上、意外とマニアックですね」

 それを傍らで聞いていた命は、母なる大地から視線を逸らし、麗子を見やった。

「雑学が好きなのよ。広くて浅い」

「なるほど。――では、ご存知ですか? 国際宇宙ステーションが地球の周りを一周するのにどれぐらいの時間がかかるのか」

「えーっと、確か、90分じゃなかった?」

「正解。90分で一周します。では、時速に換算するとどれぐらいでしょう?」

「時速……多分、27,000キロ、ぐらいじゃなかったっけ?」

「また正解です。だいたい、27,700キロほどらしいですね。つまり、拳銃で発射された弾丸よりも遥かに速く、それはもう物凄い速度なわけですが……それなのに、麗子さん、よく掴まりましたよね」

 命はもう一度、麗子の姿を見やった。彼女はいま、国際宇宙ステーションのソーラーパネルにしがみついている。

「ええ、まったくよ……厳密には、あっちからやってきたんだけどね!」

 麗子はムッとし、命を睨むように見返した。一方の彼は、無重力を無視してソーラーパネルに座っている。彼女はしがみついているのが精いっぱいなのに。

「まさか、宇宙服も無しに宇宙遊泳する日が来るなんてね……」

 麗子は、全方位が満天の星空の宇宙を眺めて、溜め息を漏らした。

「死んじゃいますからねぇ」

 命は苦笑した。

「死神って宇宙にも出られるんだね」

「当然です。宇宙にも人はいらっしゃいます。これ、叶えられる願いの説明のときに言いましたよね」

 命は、向こうに見える国際宇宙ステーションの中央部分を指差した。

「そういえばそうだった。じゃあ、人がいないところは無理なの?」

「無理ではないと思いますが、宇宙旅行しようとしたら、ハデス様が職務放棄と見なして地獄に叩き落としちゃうので、可能なのはせいぜい月に行って帰ってくるぐらいじゃないでしょうか。気になるなら試してみますか? どうなっても知りませんけど」

「やめとく」

 麗子は首を横に振った。無謀なのは、火を見るよりも明らかだ。

「飛行訓練のついでに地上に戻りたいところなんですが……麗子さん、力はお強いですが、コントロールが下手っぽいので、こんな無限に広いところで訓練するのは危険です。まず迷子になってしまうでしょう。なので、まずは地上に戻り、周りが天井や壁に覆われたところであらためて訓練しましょう」

「うん、私もそれがいいと思う。……っていうかさぁ、最初からそうすべきだったんじゃない? そもそも、なんだってあんな上空に出るのよ? 最初から地上でいいじゃん」

「あれは、ハデス様が、人は追い込まれると上達が早いとおっしゃって……」

「嫌がらせか……」

 麗子は悔しそうに奥歯を噛み締めた。肉体があれば、ギリリと音が鳴っただろう。

「当たらずとも遠からず、という気がします」

 命はくすりと笑った。

「あいつ……」

「こらこら、曲がりなりにも神様なんですよ」

 言葉が過ぎると、命はすぐに注意した。

「……キミも大概よね」

 麗子は、曲がりなりにも、という言葉を聞き逃さなかった。

「よく言われます。――ところで、いい加減、名前で呼んでいただけませんかね? ボク、一応は教育係なんですよ? 敬語を使えとは言いませんけど、せめて、名前で呼んでください。命、と」

「じゃあ、命……クン?」

「はいはい」

 命は嬉しそうな顔をした。

「……いまなんか、飼い犬の名前を呼んだ気分だった。小型犬の」

「教育係を前にして、いい度胸です」

 命は微笑んだ。

「お、微笑みの鬼が出た」

「ほほう、さらにいい度胸です。――では、鬼らしく先に地上に帰り、麗子さんが自力で戻ってくるのを待ちましょうかね」

 命はむくりと立ち上がった。

「あー、ごめんなさい! 助けてください!」

「まったくもう……」

 命は、溜め息交じりに右手を掲げ、鎌を手にした。そうかと思えばぴょんと飛び出し、一気に国際宇宙ステーションから遠ざかった。いや、正確には、国際宇宙ステーションのほうが彼から遠ざかったのだ。

 それからまもなくして、鎌に乗った命が追いかけてきた。国際宇宙ステーションよりも早く飛んで真横につき、ソーラーパネルにしがみついている麗子のそばに移動した。手を掴み、そのまま離れた。

 徐々に速度を落とし、静止。

 そのとき麗子は、宇宙空間に浮かんでいて、自分の身体をコントロールできず、見事に翻弄されていた。

「うわっとと。キミ――じゃない、命クンは、どうして平気なの? なんか、重力があるみたいだけど、ってうわわっ」

 その場に留まれない麗子とは対照的に、命はその場から動かず、姿勢も崩さない。

「訓練の賜物ですよ。一千年も死神をやれば、麗子さんもできるようになります」

「一千年かぁ。先が長いなぁ」

「そうですねぇ、永久にも等しい。――では、地上に戻りますね」

 命は、麗子の手を引いたまま鎌の向きを変えて、地球に飛んだ。

「宇宙服も無しに大気圏突入するなんて、生きているときには絶対できない経験よね」

「死んじゃいますし、燃え尽きちゃいますからねぇ。そもそも、宇宙服が有ろうが無かろうが、関係ないです」

 二人は、まるで隕石にでもなったように直滑降に飛翔し、あっという間に大気圏を突破。空と呼べるところへ戻ってきた。

 世界は夜。見上げる位置にある空には、宇宙に等しい満天の星が輝いている。

「ねぇ、そろそろ乗せてくれない? こうふわふわしてると落ち着かなくて」

「では、一度止まりますね。落ちますよ」

 降下する速度を徐々に緩めたところ、引っ張られる形で浮いていた麗子の身体が徐々に下がり、急にストンと落ちて、空中に留まっている彼を越えてぶら下がった。

「いよっと!」

 麗子は、足を伸ばして柄に引っかけ、よじ登り、命の後ろに跨った。

「ちゃんと座りましたか?」

「うん、オッケー」

 麗子は、命の肩に手を置いた。

「それでは、日本に戻りますね」

 命は、星空を見上げて方角を確認し、前進を始めた。徐々に速度を上げる。

「ねぇ、いまってどこなの?」

 麗子は、遠くに見える陸地をうかがった。

「あれは……アフリカ大陸ですね」

「アフリカか。あっ、サバンナを見てみたいなぁ。エジプトに行ってピラミッドを見てもいいねぇ」

 楽しそうにする麗子だが、一方の命の顔からは笑顔が消えた。

「……麗子さん、お忘れですか? ボクたちは遊んでいるわけではありませんよ。仕事をしているんです。いままではともかく、今後は、死神であると――神の奴隷であるという自覚を持っていただかなければ困ります」

 命の言葉からは、それまでの優しさが薄れた。

「ごっ、ごめんなさい……」

「いえ……。きびしく聞こえるでしょうが、麗子さんのお世話をした者として、教育係として、不甲斐無い結果に終わってしまうことは避けたいんですよ。誤解を抱かせるようなことをしてしまった身としては、申し訳ないのですが……」

 命は責任を感じているのか、しゅんとしてしまった。

「いや、ううん! 私が悪いの! 気が緩んでた、ゴメン!」

 麗子は自分の頬を叩いた。気を引き締めるためにしたのだが、肉体が無いので何も感じられず、得られたのは虚しさだけだった。

「ほんとにゴメン! ごめんなさい! これからはもっともっと厳しくしていいからね! 私だって地獄に落ちたくないし! それに将来、もし家族の世話をすることになったとき、死神として立派に働いている姿を見せたいし、胸を張れるようにならないとダメだし!」

 必死さを感じる麗子の言葉を受け、命はその表情に笑顔を戻した。

「わかりました。では、これからは、いままで以上にきびしく指導しましょう。例えば、新米を指導する鬼軍曹のように」

「えっ!? いや、あの、お手柔らかにお願いします……」

「フッフッフッ」

「うう、その微笑みが怖い……」

「フッフッフッ。――あっ!」

 わざと意地悪な笑い方をしていた命だが、鎌を急停止させた。

「うわっとぉっ!?」

 麗子は放り出されそうになり、慌てて命にしがみついた。

 もう少し遅かったら、シートベルトの実験に使われる人形のようになるところだ。

「ちょっと、どうしたの!?」

 身を乗り出し、命の様子をうかがうと、彼は左手首にある黄金色の腕輪を見つめていた。腕輪は光り輝いており、鈴のような音色を鳴らしている。

「麗子さん、申し訳ありませんが、空を飛ぶ訓練は後回しです」

 命は、いつぞやのように黒い本を取り出した。その間に挟まっている金色のしおりが、腕輪のときのように光り輝いている。

「なに?」

「仕事です。死出のお世話。これは、ボクが任される予定の方が数時間後にお亡くなりになる場合に知らせてくれる、ようはアラームです」

 命は、金色のしおりのところから本を開いた。すると、その目をより大きく見開かせた。

 覗き込んでいた麗子は、開かれた本の間に何か挟まっているのに気づいた。

 それは、真紅色の封蝋が施された、真っ黒い一通の封筒だった。

「これは……」

 命は手紙を手に取ると、金色のインクで書かれたような宛名を確認した。

「ああ……そうですか、今日でしたか。これはまたなんという偶然……いや、運命というべきなのかもしれませんね」

 命は感慨深くつぶやくと、横目に麗子を見た。彼女が気づいて彼の顔をうかがったところ、にっこりと笑った。

「麗子さん、初仕事ですよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る