異世界への転移

0−1

「いやあ、充実の二日目だったな!」

 ニコニコ笑顔で歩く男の背には、大ぶりのリュックサック。容量いっぱいに薄い本や薄くない本が詰め込まれているが、彼は肩に食い込む重量を物ともせず、軽快な足取りで混雑した通路を進む。

 彼の名は大山おおやま丸雄まるお

 周囲の平均的な身長を持つ日本人が見上げるほどの長身と、ガッチリ、むっちりとした体格の大柄な男だ。幼い頃から体が大きく、初対面の人物からは名乗る度に「本当に、大きくて丸いねえ」と言われ続けてきた。

「カナちゃんの分って、どこで渡すんだっけ?」

 大山の斜め後ろからは、やはりリュックサックと片手に大きな紙袋を下げた男が、こちらはフラフラと定まらない足取りで続く。

 細田ほそだ貞春さだはる。大山とは対照的に、小柄で細身の男だ。一見して、ちょっと栄養が足りていないような体つき。度の強い銀縁の眼鏡をかけていても、目の下の隈がはっきりとわかる。

 しかし彼もまた、大山と同じように満開の笑顔だった。

「今日はカナちゃん、友達と打ち上げがあるって言ってたからなあ。とりあえず、俺たちの部屋に置いときゃいいんじゃないか?」

 大山が答えると、細田はわざとらしく肩を落とした。

「マジかー。その辺に積んどくわけにもいかないし、紙袋も余分に買っとけば良かった」

「そんなに、何買ったんだよ」

「むふふー。ナイショ」

「うわ、キモ」

 大山は、ドン引きですわ、という顔をしつつも、遅れ気味の細田に合わせて少し歩調を緩める。

「まあ、そんなに遅くはならないだろ。明日はカナちゃんだって、俺らのお使いがあるんだし」

「助かるよなー。女子なのに男島を回ってくれるとか」

「持つべきものは友ですなー」

 うんうんと頷き合って、また笑う。

 真夏に三日間の日程で行われるオタクの祭典、コミック・マーケット。通称コミケとは、この三日と、年末の三日の合わせて六日間にのみ使用される名称である。

 大山と細田は、そのコミケが年に合計四日間だった頃から通い始めた、やや年季の入ったオタクだ。

 特徴的な逆三角形の連なる会議棟、その二階にある解放から屋外に出ると、まだ明るい夏の空が目に刺さった。

 大山と細田は一瞬だけ目を細め、口を閉じて蒸し暑い空気を堪える。雨降りよりはマシだが、海沿いの熱された空気はもったりとした重みを伴って、疲れた体に襲いかかるのだ。

 二人は近場にホテルをとっているので、ひとまずは駅に向かう予定だ。人波の流れに逆らわず、特に横幅の大きな大山は人にぶつからないよう気をつけながら、のんびりと進む。

 会議棟の正面玄関前にあるエントランスプラザは、一部がコスプレをする人たちに解放されている。そういえば、今日は買い物に忙しくてコスプレイヤーをまともに見ていなかった。ロープの張られたコスプレエリア内に視線を向ければ、黒尽くめのスーツを着た男性コスプレイヤーが、地面に倒れた自宅警備員の頭に拳銃を向けていた。

 黒いスーツ……サングラスをかけていないから、スミスさんじゃないよな。なんのコスプレだろ……あ、そうだ。

 コスプレイヤーからの連想で、いつも黒いスーツを着ている知人を思い出した大山は、細田を振り返って口を開く。

「そういや、ユージさん明日は無理かもって」

「え、いつ?」

「昼頃に連絡が入った。また腹下したんだと」

「またかー」

「あの人、いっつも体調悪いよな」

「一度、病院に行けってのなー」

 自身も頑丈そうには見えない細田が、呆れた口調で返す。とは言え、彼は外見に似合わず病気知らずで、コミケ以外にも毎月のようにある同人誌即売会を元気に渡り歩いている。彼は単純に、驚くほどの少食なのだ。もう少し食えば見た目も頑丈そうになるのにな、と大山は思った。

 まあ、食い過ぎの俺が言うこっちゃないか。

「お使いメンバーに入れなくて正解だったね」

「いや、買って欲しいリストも送って来た」

「はあー? マジでなんなのあの人」

「交通費、片道持つからって」

「まったく、しょーがねー先輩だな……おっと」

 熱い手のひら返しを見せた細田が、前を歩いていた人の鞄にぶつかりそうになった。大山がふらつた友人を支えてやると、今度はその横を早足の誰かが引っかかり気味に通り過ぎる。

「ダダ、ちょい横」

「おう」

 ちょうど、明かり取りの突起物に近い場所だったので、半透明のパネルに身を寄せながら歩みを止める。

「ふう、山ちゃんありがと」

「そっちの袋、俺が持とうか」

「いやあ……うん、頼んでいい?」

 細田は、見た目そのままに力が無い。健康であることと、重い荷物を持ち歩く体力のあることは別の話なのだ。

「カナちゃんのも入ってるから、乱暴に出来ないんだよ」

「あー、そんじゃ抱えとくわ」

「ありがてえ、ありがてえ……お、あれ剛力サンダーじゃね?」

「マジか」

 大山は重い紙袋を受け取って、細田が見やる方向に振り返る。

 剛力サンダーは、とあるアニメの登場人物だ。ちょっと昔のプロレスラーっぽい名前だが、口髭を生やした筋肉モリモリの紳士なおじさまで、男女を問わずとても人気がある。

「おおー。すごい、本物っぽい」

 剛力サンダーの衣装は、深みのある黄土色のマントが特徴だ。彼は砂漠の国の剣士なので、アニメの中では迷彩色なのだが、現代社会ではとても目立つ。すぐに目的のコスプレイヤーを発見した大山は、背を向けて立つその男性に感心の声を上げた。

 距離は三メートルも離れていないのだが、いかんせん大山たちが立っているのはコスプレエリアの外側だ。両足を開き、腰から吊るした大剣に手を添えたポーズの剛力サンダーは、体格も良くて素晴らしい出来栄えだろうと思うのに、肝心の顔や衣装がほとんど見えない。

「ブーツとか剣もすげえな。すごく凝ってる。こっち向いてくれないかな」

「奥に居るの、ジャリーエ姫じゃね。マジでこっち向いて欲しい」

「この暑いのに、姫さんまで居るのか。あ、本当だ。ちっちゃい! 可愛い! たぶん」

 ジャリーエ姫も砂漠の国のお姫様で、剛力サンダーと共に旅をしているアニメのヒロインだ。まだ十五歳という設定なので、コスプレイヤーも小柄な女性らしかった。真っ白なフード付きのマントは陽光を遮るための物だが、ここは砂漠ではなく湿度大国の日本だ。あんなに厚手の布を使っていたら、蒸し暑くて堪らないだろう。

 コスプレイヤーさんって、本当にすごいな。あんなに上等な布で複雑な衣装を作って、さらに着こなして、季節という敵にまで真っ向から立ち向かう。実に素晴らしい。こっちを向いて欲しい。

 大山が、声を掛けるのは遠慮しつつも念を送っていると、白くて細い布の塊にしか見えていなかった女性が、ひょいとこちらを振り向いた。

「いや……マジで可愛いわ」

 どうやら撮影のために別のポーズをとるらしく、ジャリーエ姫が剛力サンダーと相談をしている。彼女は、少し日本人離れした顔立ちの美人だった。小麦色の肌とくっきりとした黒い眉で、暑い国の雰囲気が良く出ている。小作りな顔にぱっちりとした目、さくらんぼのような唇が愛らしい。両肩にこぼれ落ちる髪はアニメと同じ茶色で、ゆるいウエーブがかかっている。

 一所懸命に長身の相手を見上げる彼女と、背を屈めて頷き返している剣士は、とても絵になっていた。

「さあ、そのままこちらを向くのです……サンダーさんも向くのです……」

「山ちゃん、なに言ってんの?」

「姫さんがめちゃくちゃ可愛いから、サンダーさんも見たい」

「わかるけど」

 その時、大山たちの頭上から冷たい風が吹いた。

「うん?」

 細田も気づいたようで声を上げるが、視線はコスプレイヤーたちに向いたままだ。風は、彼らの上からそよそよと吹き続けている。

 通りすがりに開いた自動ドアから、冷房の効いた屋内の空気が漏れ出したような微風だ。しかも、それが頭上から。おかしいな、と思うものの、大山も目の前の二人から目が離せない。もうちょっとで、サンダーさんの顔も見えるんだけどな。

 と、今度は無視できない異変が起きた。

 地面から、それとわかるほど明るい光が立つ。午後の早い時間、それも晴天の屋外だというのに、思わずぎょっとして下を向いてしまうほど強い光が、大山と細田を取り囲んだのだ。

「は? なにこれ」

「え、なになに。おかしくね?」

 困惑して突っ立ったまま足元を見やれば、タイル敷きの床面を切り取るようにして、光り輝く真円が刻まれている。ちょうど、大山と細田の間を中心にして、半径一メートルほど。光は、途中にあるパネルを物ともせずに円形のまま真っ直ぐに立ち上り、あれよあれよと言う間に彼らの胸より高く登ってくる。

「はあ? いやいや、ちょっと待って」

「なんじゃこりゃー」

 頭上から吹いていた風も、さらに強くなる。真上で、巨大な扇風機が回っているのではと疑うほどの風量だ。周囲の人たちも異変に気づいたらしく、大勢の視線とざわめきが彼らを取り囲んだ。

 そして、剛力サンダーとジャリーエ姫も。

 間抜けな声を上げて立ち尽くす大山が最後に見たのは、一幅の絵のような光景だった。

 黄土色のマントに革の鎧。襟の高い上着と幅広のズボンを身に着けた長身の男性は、片手を長剣の鞘にかけたまま、困惑げにこちらを凝視している。やっぱりカッコイイじゃねえか、と大山は思った。アニメのお髭紳士に比べればかなり若いが、堂々とした体躯が実に「らしく」見える剛力サンダー。

 白のフード付きマントと、引きずるようなワンピースの衣装を着たジャリーエ姫は、赤い胴着の前で両手を組み合わせている。祈るような仕草は可愛らしいが、その顔は驚きに目も口もまん丸に開けていて、ちょっと間抜けだった。

 しかしそんな光景もすぐに、目に痛いような光で遮られる。

 床から登ってきた光の輪は、円筒形に伸び上がって大山たちを包み込むと、唐突にかき消えた。

 同時に二人のオタクも、衆人環視のなか跡形もなく消えてしまった。



「はいはい……なるほどね?」

 大山は、眩しい光が消えて五秒後には、我が身に降り掛かった事態を理解していた。

 周囲は、冷たく乾いた空気に満ちている。真冬の倉庫がこんなだよな、と職場を思い出しつつ、周囲をぐるりと見渡してみた。どこもかしこも、石、石、石材ばかりで構築されている。削り出した石材に特有の冷たい鉱物の匂いが鼻をくすぐって、大山はくしゃみをしそうになった。そうでなくとも、ものすごく寒い。

 なかなか広い建物だ。黒っぽい壁で正方形に囲まれた敷地は、ちょうど学校の体育館を二つ並べたくらいの面積がある。正面には、この建物で唯一の解放らしき、彫刻のある両開きの扉がそびえていた。

 まさに、そびえるという形容詞が相応しい巨大さである。手前に立ち並ぶ人々の身長が、平均で一メートル半はあるとして、扉はざっと十メートルの高さといったところだろうか。

 だが、柱はどこにもない。四隅や壁を支える太い柱は等間隔にきちんと並んでいるのだが、天井を支える柱は一本もないのだ。はて、この広い空間と同じだけの梁をどうやって掛けたのだろうか。

 疑問のままに頭上を振り仰いで、大山はずっこけるかと思った。

「天井、無いのかよ」

 建物の上部は、そのまま薄雲の流れる真昼の空だった。巨大な扉の倍はあろうかという高さまで壁が続いた先は、ぽっかりと開けた空間なのだ。道理で、照明もないのに明るいはずである。太陽は見えないが、左手から陽光が斜めに差し込んで、反対の壁にぼんやりと影を落としていた。

 陽光が弱い。先ほど見ていた日本の真夏の太陽とは違う色だ。

 気温も低すぎるし、まさかここは冬なのか?

「山ちゃんよ、これ、なんだと思う?」

 隣に立つ細田が言うのに、大山は頭を戻して答える。

「そりゃあ、ダダくん。アレだろうよ」

「アレかあ」

 それだけで意味は通じたので、大山はまたぞろ観察に戻る。

 二人の立つ周囲には、壁に沿って大勢の人々が立ち並んでいた。みな一様に灰色のローブを纏い、その広い袖口を合わせるようにして両手を組んでいる。ゆったりとしたフードの下から覗く視線は、全てが自分たちを注視していた。

 の話だと、相手が神様だったり、数人の代表者だったり、大勢だったりする。自分たちが遭遇したのは、大勢のパターンらしい。

 大山は、ひとり周囲の者たちから外れ、自分たちの正面に立つ人物に視線を向けて考える。はてさて。こいつは自分の失態に、どういう対応をするのかな?

 その人物も灰色のローブで全身を覆い隠しているが、フードは背中に下ろされていた。面差しは、地球で例えるなら中東風と言ったところ。皺深く鼻の大きな顔は日に焼けて浅黒く、長くうねった白髪を後ろに垂らしている。眉や、もじゃっとした髭も白いので、かなりの高齢なのだろう。額には黒い鉢巻を締めており、結んで余った布が右のこめかみから垂れ落ちていた。時代劇などで、病気療養中のお殿様が頭に付けているやつに似ている。あれは紫色だが。

 いかにも、魔術的な組織で代表者を勤めています、といった風情の老人だ。彼のローブだけは肩から別布がマントのように掛けられているし、ふちに濃い緑色で細かな刺繍が入っている。身分が高いほど衣服の布が増える、の法則で言えば、彼がこの場で最も地位が高いと見て間違いないだろう。

 その代表者的老人の前には石を削り出した水盆があり、盆を支える台だけは木製だった。と言っても、四本の棒を紐で組み合わせただけの簡素なものだが。

 うーん、文明のレベルが良くわからんな。衣服の布は厚手でしっかりしているし、縫製に歪みもない。建物に使われている石材も滑らかに整えてあるが、ぴかぴかに磨き上げられている、というほどではないし……まあ、ここで考えていても埒は明かないか。

「間違えたんですよね」

 大山が、老人にしっかり視線を合わせて言うと、彼はびくりと肩を揺らした。

「あ、そのパターン?」

 のんきな口調で返した細田は、そっかーと納得の頷きをひとつして、老人の前にある水盆をひょいと覗き込んだ。

「遠見の術かなにかかな。事前に対象を確認して、座標を合わせてから転移させるやつ。てことは、狙ってたのは剛力サンダーさんたちか」

「じゃね? あの人たちなら、この手の現象に巻き込まれても納得だもんな」

「まあねえ。俺たちみたいなオッサン、わざわざ呼んでも役に立たないし」

 オッサン、と細田が言う通り、大山たちは不惑を前にした中年だ。定職を持ち、金銭的にも不自由していないので精神的には落ち着いてくる年齢だが、伸びしろは期待できない。王道の展開で、これから魔王的な存在を倒して来てください、などと請われても困ってしまう。

 その点、剛力サンダーとジャリーエ姫を演じていたコスプレイヤーの二人なら、気力、体力共にこれからの年齢だろう。サンダーさん、二十代の前半に見えたし。若者らしく肌艶が良すぎて、付け髭が似合っていなかった。

「なので、チェンジで」

「だよなあ。ここはチェンジで。あ、言葉は通じるのかな? ええと、呼び出す相手をお間違えみたいなんで、選手交代してもらえませんかね」

 お願いします、と大山が丁寧に頭を下げても、老人は返事をしない。彼はここまでずっと、大山たち二人に視線をふらつかせたまま、ぽかんと口を開けているばかりだ。

 なにか反応しろよ。大山は少し苛立ってきた。

「おじいさん、聞こえています?」

「なんという……なんという逸材じゃ」

 お、返事した。

 細田が小声で、言葉がちゃんと通じるやつだーヤッター、などと場違いなことを言っているが、ひとまずは無視する。

「闇の召喚とは、かように強大な力を呼び寄せる術であったのか……わしは間違っていなかった」

「いや、間違ってるだろ。なに言ってんだこいつ」

 おっと、考えたまま口にしてしまった。

「ちょっと、おじいさん。呼び出す相手を間違えましたよね。俺たちね、チェンジして欲しいんです。交代。ほら、俺たちのそばに、もっと良い人材がいたでしょ?」

「我が同胞はらからたちよ!」

 突然の大声に、大山は驚いて口を閉ざしてしまう。老人は、ばっと両手を高く挙げると、細い喉が張り裂けそうな勢いで叫んだ。

「いまここに、我らの術は成った! 我が同胞たちよ!」

 おお! と応じる声が、周囲の大勢から発せられて大山たちの全身を打つ。石の壁に囲まれた空間なので、空気がびりびりと震えるほど反響して耳に痛いほどだ。

「ちょっと、じいさん。人の話を……」

 身を乗り出して声を上げるが、大山がはっきりと言葉を発せたのはそこまでだった。

 老人の目が鋭い光を発したかと思うと、口髭の奥でもごもごとつぶやく。

「しまった、魔法だ……」

 こいつなにか、と続けた細田の声は、ささやき声ほどの大きさにすぼまってしまう。

「ちっ、空気の振動を遮りやがったな。おい、山ちゃん聞こえるか」

「ギリギリ。これでも、大声出してるんだけどな」

 なんとも気持ちの悪い現象だ。大山は職業柄、この程度の建物内なら隅から隅にまで届く声が出せる。ところが、いまは胴から精一杯に声を張っても、隣に立つ細田になんとか聞こえる程度の声量しか出ていない。

 細田など、声が裏返って叫んでいるような状態なのに、大山の耳に届くのはキーキーとした小さな音だ。

「俺もだ。こら、じいさん。いくら俺たちを口封じしたところで、ミスを挽回は出来ないぞ。いいから、さっさとチェンジしろ!」

「ちょっとー! みなさーん! このおじいさん、自分の失敗を無かったことにしようとしてますよー!」

 大山が手に持った紙袋を振り回し、その場で飛び上がって必死のアピールをするも、周囲の灰色ローブたちは見向きもしない。それどころか、視線が合ったと思った数人が、あからさまに顔を背けた。

「こいつら、俺のこと無視しやがった! おいダダ、あいつら、じいさんが失敗したの気づいてるぞ!」

「ちっくしょう、全員で見て見ぬふりをするつもりか! 冗談じゃないぞ」

 細田が老人に掴みかかろうと前に出ると、なにか目に見えない壁にぶち当たった。あだっ、と情けない声を上げて、細田がその場でうずくまる。

「いってー。手首が折れた」

「いや、そこまでじゃないだろ」

「絶対に折れた。医療費を請求してやる!」

 こしょこしょと小さな声しか出せない状態で、二人が間抜けなやりとりをしている間にも、目の前の老人は周囲の仲間たちに向けて演説をぶっている。

「我らが星山道会せいさんどうかいは、本日この時より、再び国教会の頂点に返り咲くであろう! 我らの長き苦難の日々は、二人の勇者によって終わりを告げるのだ!」

「勇者よ! 勇者よ!」

 灰色ローブたちが、声を揃えて応じる。事前にやりとりが決まっていたような反応の良さだ。

「勇者たちに祝福あれ! 星山道会に栄光あれ!」

「星山道会に栄光あれ!」

 この魔法の腹が立つのは、老人や灰色ローブたちの声だけは、しっかり自分たちの耳に届くところだ。勝手なことを言いやがって。しかも、やっぱり勇者がどうとかいう話かよ! いい加減にしろ!

「やっべえ、宗教絡みかよ。おい、山ちゃん逃げるぞ」

「どうやってだよ。なんか、壁みたいなものがあるんだろ?」

「お前の怪力でぶち壊せ! 魔法の壁は、物理で殴れば破れると相場が決まってる!」

「どこの相場だよ!」

 言い合っている間にも、灰色ローブたちに動きがあった。壁際で綺麗に整列しているだけだった彼らが、ぞろぞろとこちらに集まって来たのだ。

「しょうがねえ、やってみるか」

 このままでは、人数という物量で取り囲まれてしまう。外国人のような風貌をしているが、老人や灰色ローブたちの身長は百五十五センチの細田とどっこいだ。体格も良くないので、自分ならワンパンで倒せるだろうとは思う。

 しかし、大山は対人の格闘技など身に覚えがない。手加減が全く出来ないのだ。いきなりぶん殴って、相手の当たりどころが悪くてお亡くなりになりました、なんて結果になったら目も当てられない。

「えーっと? お、このへんか」

 慎重に前に出て、先ほど細田が右手を当ててしまった辺りを触ってみる。そこには、確かに壁のようなものが存在していた。手のひらで撫でてゆくと、見えない壁は湾曲しており、ぐるりと大山たちを囲んでいるとわかる。

 さっきの、光の円柱と同じくらいか。あれが転移の範囲を決めると同時に、俺たちを閉じ込める障壁の役割をしているんだな。

 見えない壁の範囲がざっと掴めたので、大山はひとつ頷くと、大切な戦利品の入った紙袋を下ろした。

 逃げよう。とにかく逃げよう。そして、なんとかして地球に帰り、リュックと紙袋の中身をカナちゃんに渡さなければ。

 あの女傑に、血が出るまでデコピンされる。

 大山は、ぶるっと背筋を震わせた。突然の異世界転移や、なんとか言う団体や、勇者と呼ばれた自分たちの行く末などよりも、よほど恐ろしい未来が想像できてしまったのだ。

 カナちゃんの機嫌を損ねる真似だけはしないと、大学生の頃から決めていたのに!

 まだ、なにやら大声を上げている老人をしっかと見据えて、大山は腰を落とすと右腕を振りかぶった。

 殴る。絶対にぶん殴る。この老人たちを吊るして、カナちゃんに詫びを入れさせるのだ。

「どっせい!」

 大山の不格好な右ストレートが、見えない障壁にぶち当たる。

 その瞬間、ビシッと嫌な音が響いた。

 ガラスにヒビが入ったような、軋んだ音だ。大山たちの耳にも聞こえるほどなので、障壁の外ではもっと大きく響いただろう。老人が両手を上げたポーズのまま、口をぽかんと開けてこちらを見つめる。

 灰色ローブたちも歩みを止めていたが、大山は気にすることなく障壁を殴った右手を見つめた。痛みは少ない。関節が少しヒリヒリする程度だ。当たった感触からすると、この見えない壁は自動車のフロントガラスに似た素材であるらしい。細かく飛び散らないよう、中間膜を入れた合わせガラスにしてあるアレだ。

 フロントガラスなら、過去に二度、素手で割ったことがある。同じ場所を何度か殴れば、後は手で引き裂くことも出来るだろう。

「よし」

 そうとわかれば、さっさとぶち破るだけだ。大山は気合を入れて右手を繰り出した。二度、三度と、狙った場所に拳を入れる。さすがに指と手首が痛み始め、肘か踵にすれば良かったかな、と思い始めた四度目で、パンッと大きな音がして拳が障壁を突き抜けた。

 目に見えない、というのは厄介である。おそらく障壁そのものにもヒビが広がっているとは思うのだが、見えないものは確認のしようが無いので、仕方なく穴に両手を突っ込んで左右に思い切り力を入れた。

 それが止めになったらしい。一瞬だけ目の前に白っぽい壁が現れたが、その壁は即座にクモの巣状のヒビに覆われ、後はバラバラと宙に砕けて消えていった。同時に、周囲の圧力が変化したような感覚を覚える。

「おおー! 本当に物理で壊した。さすがは山ちゃん!」

 細田のはしゃいだ声も元通りだ。

 パチパチと拍手をしてくれる友人に笑顔で手を振り、大山は老人に向き直る。老人はもはや、浅黒い顔を白っぽく青ざめさせて固まるばかりだ。両腕はぶらんと下がり、その手も小刻みに震えている。

「おい、じいさん。よくもやってくれたな」

 大山は邪魔な水盆を避けて老人のそばに立つと、精一杯に怖そうな表情を作って、冷や汗をかく顔を見下ろした。この老人も小柄なのだ。額の後退した頭は、大山の胸までしかない。腰に手を当て、ずいっと上半身ごと顔を近づける。

「ちったあ人の話を聞けよ。その耳は飾りか?」

「す……すみませんでしたー!」

 だが、悪ぶった大山の演技も役には立たなかった。

 いきなり土下座をして謝る老人と、追随するようにひれ伏した灰色ローブたちに、二の句が継げなくなってしまったのだ。

「平に、平にご容赦を! 勇者様!」

「ええー……」

「ひどい。ずるい。なにこの展開」

 細田が、がっくりと肩を落としてぼやく。

 本当にひどい話だ。これでは、彼らを千切っては投げで、無理やり逃亡するわけにもいかないではないか。

 大山は子供の頃から漫画やアニメが大好きな、生粋のオタクなのだ。図体が大きいので不良に絡まれることもあったが、暴力など一度も奮ったことがない。細田も同じく、中高と帰宅部を貫いた孤高のぼっちだったと聞く。

 そんな二人が、あっさりと無条件降伏してきた老人たちに困って立ち尽くしていると、当の老人がおずおずと顔を上げた。

「その……間違えたわけではないのです」

「いや、今さら言われても」

まことに! 星神せいしんの名に誓って!」

「そんな、聞き覚えのない謎の存在に誓われましてもね」

「間違えたわけではないのです!」

 細田もすげなく返すが、老人は譲らない。彼は土下座のままにじり寄ると、仁王立ちで見下ろす大山の脚に縋りつく。

 大山は、思わず老人の枯れ木のような手を蹴り飛ばしたくなった。

「交代も……出来ないのです。この術には、我々の力を持ってしても、十年の歳月と入念な準備が必要でして」

「おい、蹴るぞ」

「そこをなんとか! まずは、我々の話をお聞きいただけないでしょうか」

「だとよ、ダダ」

「しゃあねえなあ、もう」

 ガリガリと頭を掻いて、細田がため息をつく。

「言っとくけど、俺たちは頭から疑ってかかるから、そのつもりでいて下さいよ」

 細田が譲歩したなら、大山に否やはない。

 二人は老人たちが招くままに、巨大な扉から壁だけで構築された建物を後にした。

 その間、灰色ローブたちが怯えた様子で老人と二人から距離を置いていたことだけは、心底からムカついたが。

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