第2話 

 忘れたことなどなかった声は記憶の中よりも落ち着いた深みを増して、離れていた10年という歳月を感じさせる。

 なんでこんなところにいるんだとか、相変わらず良い声をしているななんて纏まりのない言葉が、詠史の頭の中をぐるぐると駆け巡った。軽い混乱状態におちいる。それを悟らせまいと、肺の中を空っぽにするように細く息を吐き出して気持ちを落ち着かせると、ゆっくりと顔を上げた。

 座ったまま見上げれば、場違いなスーツを纏った相手と視線が交わる。

「やっと見つけた」

 にやりと不敵な笑みを浮かべながら詠史を見下ろすのは、二度と顔を合わせることは無いと思っていた元恋人、永嶺尊人ながみねたかとだった。

 昔は短く刈りあげていた黒髪は伸ばされて、後ろに流した前髪が一筋額にかかっている。記憶にないフレームレスの眼鏡をかけた姿は仕事のできる男そのものという感じで、すっと背筋の伸びた長身にダークグレーの細くストライプの入ったスーツが嫌味なくらい似合っていた。

「……久しぶり」

 視線をらすこともできない詠史の口を割って出た小さくかすれた声は、いつもの飄々ひょうひょうとした明るい声とは別人のもののように耳に届く。簡単に揺さぶられるままならない心に舌打ちしたい気持ちになった。

 視線を外さないのが己の意地だとばかりにじっと、切れ長の涼し気な双眸そうぼうにらみつけるように見つめる詠史の瞳を真っ直ぐに見つめ返す尊人の瞳は静かにいで感情を読ませない。

 突然別れを告げて姿を消した自分を憎んでいるだろうとずっと思っていたけれど、怒りや憎しみといった負の感情は見受けられない気がする。

 戸惑いを隠せずにただ見つめる詠史の前で、尊人はゆっくりとその長い脚を折ってしゃがみ込んだ。近くなった視線に居心地の悪さを感じた詠史が俯こうとするよりも早く、大きな手がおとがいを掴んでそれをはばむ。

「探したよ詠史。まさかこんなところに隠れてたとはね」

 逃げることを許さないとばかりに、細い顎を掴む指に力が籠った。

「ちょ……離してよ。ボクたちはもうなんの関係もないでしょ? 隠れてたとか人聞きの悪いこと言わないでよ」

 頤を掴む記憶と変わらない長い指から頭を振って逃れた詠史が、辺りをはばかるように小さく異議を唱える。

「俺はあんな言い逃げ認めてないからな。じっくりと話し合おうじゃないか」

 精一杯の虚勢を鼻で笑った尊人の瞳に揶揄からかいの色がないことに戸惑う。

(話し合うもなにも、結婚したんだろ? 結婚が決まっているって聞いたから、ボクは別れを告げて姿を消したんじゃないか……)

 言葉にできない想いを胸の中で呟きながら、こっそりと折った膝の上に置かれた尊人の左手薬指を盗み見た詠史は、そこに光るものを見とめた。

(ほら、やっぱり結婚してるんじゃないか。今更なんの用だよ)

 永遠の象徴である輝きを見た瞬間、胸に走った鋭い痛みを口唇くちびるの内側をきつくみ締めてこらえる。

「――ボクには話すことは無いよ。尊人みたいな大きな図体をしたやつがいると子供たちが近寄れないだろ。さあ、こんな場違いなとこにいつまでも居ないで帰った帰った」

 追い払うように振った手を掴み取られて、立ち上がる尊人の動きにつられるように引き上げられた躰がパイプ椅子から浮かび上がった。水槽越しに引かれた手にバランスを崩して蹈鞴たたらを踏む。

「なにするんだよ!」

 どうにか踏ん張って水槽に突っ込むことは免れた詠史の非難の声に、

「ここで話してもいいなら話すけど? 心配そうに見てるおばさんたちに聞かれてもいいならね」

 掴んだ手を離すことなく挑発的に返された。

 突然に消えていた喧騒が耳に戻ってくる。周りを見渡した詠史の視界に、近づいてくる役員の法被を着た中年女性の姿が映った。

「詠史くんどうしたの? トラブルでもあった?」

「あ、ごめん瑛子さん。偶然大学時代の友達に会ってちょっとびっくりしただけだよ。あんまり久しぶり過ぎて、驚いてバランスを崩したところを支えてもらったんだ」

 心配そうに問いかけながら、ちらりと尊人を見る瑛子に笑みを浮かべて謝る。ぺろりと舌を出す詠史の様子に安心したように笑顔を返す様は、まるで母と子のやり取りのようで、ふたりが親密な関係であるとうかがえた。体勢を立て直してそっと掴まれた手を抜き取った詠史の言葉に、尊人もまた口元に笑みをいて小さく頭を下げる。

「お騒がせしてすみません」

「いいのよ。勘違いしちゃってごめんなさいね」

 ふっくらとした顔に優し気な笑みを浮かべた瑛子が申し訳なさそうに頭を下げた。

「そうだ。詠史くん、久しぶりに会ったお友達ならここはもういいわよ。私が代わるからお祭り楽しんでらっしゃい」

 にこにこと笑う瑛子が、立ち尽くす詠史から法被を脱がせる。

「あ、いや……でも……」

「気にしなくていいわよ。たまにはお客さんになるのも楽しいわよ」

 戸惑いの声を上げる詠史の大きめのパーカーに包まれた背中を優しく押して、詠史の座っていたパイプ椅子に腰を下ろした。ふくよかな瑛子の重みにぎしりとパイプ椅子がきしんだ音をたてる。

「すみません。お言葉に甘えて詠史をお借りしますね」

「気にしないで、小さなお祭りだけど楽しんでいってくださいね」

 どこか遠いところから聴こえるふたりのやり取りに、詠史は逃れられないことを悟って小さな溜息をひとつ零した。

 

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