掌から零れ落ちたものは……

篁 藍嘉

第1話 

 青々と茂っていた木々の葉が色づき始め、重そうにこうべを垂れていた稲穂が刈り取られた田には、所々に晩稲おくて稲木干いなきぼしが蓑をまとったひとのような姿で立ち並んでいる。

 そんな風景の広がる田圃の真ん中の小高い丘の上にある氏神を祀った神社は、普段の静けさとは裏腹にお囃子はやしの音色が響くなか、香ばしい焼きとうもろこしやたこ焼きなどの食欲をそそる香りも漂い、楽し気な喧騒に包まれていた。

 新嘗祭にいなめさいと言えば大仰に聴こえるが、豊作の感謝を込めた地元のお祭りで、地域住民の交流を兼ねたもので出店などもある。

 都市まちからそう遠くないため、ベッドタウンとしての一面も持つこの町は、過疎化に悩む田舎町とは異なり子供の姿も多かった。

 子供相手の出店も、地域の役員たちとその手伝いの者で成り立っている。

 地域の名が入った白いテントの下、水色の安っぽいプラスチック製の水槽の前に置かれたパイプ椅子に腰かけた皆藤詠史かいとうえいじもまた、手伝いを頼まれたうちのひとりだった。華奢きゃしゃからだに祭りのスタッフだとわかるように濃紺の法被はっぴを纏い、水の張られた水槽の中を、色鮮やかな小さな金魚がゆらゆらと短い尾鰭を揺らしながら子供たちが突っ込むポイから群れを成して逃げる姿をぼんやりと眺めている。

 ぽかぽかとした小春日和の陽気に温まった柔らかな風が、顔半分を覆い隠すくらいに伸びた柔らかそうな栗色の前髪を掻き上げるように吹くたびに、大きな瞳が印象的な中性的なかおが露になった。

 頓着せずに心地よい風に髪を嬲られるままに水面を眺めていると、上手く金魚を掬えずに穴の開いたポイに悔しそうな声を上げる子供の高い声が聴こえてくる。無造作におたまで掬った金魚を1匹入れたビニールの袋を渡しながら、

「残念だったね。はい、大事に育てるんだよ」

「ありがとう!」

 微笑む詠史に元気よく返事をして去っていく子供の後姿を見送って、再び水槽の金魚に視線を落としたときだった。

「――詠史えいじ?」

 ふいに聴こえた懐かしい声に名を呼ばれた瞬間、それまで耳に入っていたはずの祭りの喧騒が消える。

 忘れようとして忘れられなかった低くて甘い声。地元を離れてからは、耳にすることなどもうあり得ないと思っていたそれ――。

「詠史だろ? 無視するなよ」

 とうとう幻聴まで聴こえるようになったのかと、視線を上げることもせずに目の前の水槽を泳ぐ鮮やかな金魚の群れを眺める詠史を呼ぶ声が再び耳に届いた。

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