第3話

(どうしてこんなことになっているんだろう……)

 テントの立ち並ぶ境内を背に、叱られた子供のようにとぼとぼと歩く詠史の視界には、何も語らない尊人の広く大きい背中が映っている。逃げるのを許さないとばかりに掴まれた手首を引かれて項垂うなだれて歩く様は、まるで罪を犯して刑事に連行される容疑者のようだ。実際、今の詠史の気分は、死刑台へと向かうようなものだと言っても過言ではない。

 鳥居を抜け古びた石段を下りきったところで、不意に尊人が振り返った。

「どこで話そうか。――詠史の家はこの近くなのか?」

 家でふたりきりになりたくないと思いながらも、話の内容が別れたときのことならばひとの居ない所が良いことはわかっている。俯いていた顔を上げれば、真っ直ぐに自分を見つめる尊人と視線がぶつかった。

「……あそこの住宅街だよ。畦道を通っていけばそんなに遠くはないけど、革靴が汚れちゃうから、ぐるっとまわらなきゃいけないかな」

 広がる田園地帯の向こうに見える住宅地を指さしながら、ぼそぼそと答える。

「靴の心配はしなくていい。おまえが普段通っている道を行ってくれ」

 そう言い切られてしまえば逃れるすべもなく、重い脚を引きずるように前へと押し出した。

 未だ離して貰えない、掴まれた手首から伝わる熱がじわじわと腕を遡って、辿たどりついた胸を締め付けてくる。変わらぬ温度に勘違いをしてしまいたくなった。――尊人もまだ詠史を想ってくれているのだと……。

(そんなことあるわけないのに……)

 草紅葉が色づく畔道に刻まれたわだちを、言葉を交わすことなく、ただゆっくりと進んでいく。刈り取られた稲の乾いた切り口から漂うわらの匂いが、拓けた田圃の上を気紛きまぐれに渡る風に乗って鼻腔びくうくすぐっていった。好きなはずの匂いも、今は詠史の気持ちを安らかにはしてくれない。

 刻一刻と近づく執行のときに、機械的に足を進めながらも、みっともない真似だけはするまいと密かに心に誓う詠史の脳裏のうりには、幸せだった日常とそれが暗転したあとの記憶が鮮やかによみがえっていた。



 10年前、大学4年になったばかりの頃だった。同じ教授に師事していた尊人と付き合うことになって1年が経ったその日に「法的には結婚できないけど、生涯を共に生きたい」と小さな天鵞絨ビロードの小箱を手渡された。その頃には既に、尊人以上に想える相手に出逢うことは無いと思っていたから、驚いたのと同時に同じ想いを抱いてくれたことが、天にも昇るくらいに嬉しかったのを覚えている。

 小さく頷いた詠史の左手薬指に、シンプルなプラチナの指環をめてくれた節ばった尊人の指先が緊張に震えていた。

 両親が居らず施設で育った詠史は、初めて得た家族と等しい存在に浮かれていたのだと思う。尊人が永嶺グループの御曹司だということを忘れてしまうくらいに。

 奨学金を貰いながらも、生きていくためにバイトに明け暮れる詠史を心配した尊人にわれてマンションで共に過ごした幸せな日々。

 誰に恥じることも無いとペアの指環をしたふたりを、あるがまま受け入れてくれた友たち。生きていて良かったと思えるような幸福は、尊人が実家に呼ばれて不在のときに訪ねてきた人物によって繊細なガラス細工のように、もろくも崩れ去ることとなる。

 永嶺家の執事だと名乗った男は、ふたりの生活が単なる同居ではないと知っていて、永嶺家の嫡男の伴侶がどこの馬の骨ともわからない男では困ると告げた。尊人には、しかるべき名家の女性をめとって、跡継ぎをもうけてもらわなければいけないという。男と付き合っているなど前代未聞の永嶺家の恥だと言われてしまえば、詠史に返せる言葉はなにも無かった。

 尊人に知られぬように姿を消して欲しいと請われ、差し出された手切れ金の小切手を目の前で破り捨てる。幸せな日々を金でけがして欲しくはなかった。

 執事の帰ったあと、小さなボストンバックに荷物を詰めながら堪えきれない涙が零れ落ちるのにまかせて一頻ひとしきり泣いてから、顔を洗い涙の痕跡こんせきを消し去った。

 見合いの話だったと憤慨ふんがいして帰ってきた尊人に、自分の住むべき世界に帰れと指環を突き返し、私物を纏めたバックをひとつ手にしてマンションを飛び出した。その足で大学に退学届けを出して駅に向かうと、一番高い切符を買って普通列車に飛び乗り辿りついたのがこの町だった。行き先はどこでもいい。ただ、尊人から遠く離れることしか考えていなかった。近くに居ればみっともなく追いすがってしまいそうだったから――。

 尊人のことは忘れて、新しい相手を探そうと考えたこともある。同じ嗜好の者が集まる場所に顔を出してみたことも。

 それでも、いざとなると尊人の顔がちらついてダメだった。

 時間が忘れさせてくれるだろうという願いもむなしく、尊人以上に想える相手も現れない。忘れることを諦めて想い続けることを選んだ。

 余所者よそものの詠史を受け入れてくれたこの町で、ひっそりとなんでも屋のようなことをしてこの10年を過ごしてきた。同じ嗜好を持つ友もできた。

 それでも、心は尊人を求めて悲鳴を上げる。そんな日々を繰り返すうちに、やっと幸せだった記憶を噛み締めて生きる術を見つけたところだった。



 無意識でもなれた道はあっという間に歩けてしまうらしい。目の前に見えてきた古びたアパートに、我知らず溜息が零れ落ちた。ペンキの所々剥げ落ちたドアの前で足を止める。

「――ここだよ。狭いところだけど、入って」

 ジーンズのポケットから鍵を取り出して開錠したドアを開けて、半歩後ろで立ち止まる尊人を促した。 

「お邪魔します」

 待っているひとなど居ないというのに、律義に挨拶をしてドアをくぐる尊人に育ちの良さを感じる。やはり住む世界が違うのだなと、改めて思った。

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