第14話 流点観測

「あと、二十七分ですな」

「なっ、何がですか?」

「嬢ちゃんの乗車時間がですよ。あと二十七分。おやっ、二十六分になった。もうじき帰れますよ 」

 ジョウシャジカン。すんなりと入ってこない。だけど、水に墨を入れたかのように、じんわりとその意味が広がっていく。

「えっ? 元の世界に戻れるの?」

「はい」

 ようやく実感が沸いてきた。帰れるんだ。だけど、何故だろう。あれだけ帰りたい、帰りたい、と思っていた筈なのに、今になって、まだもう少しここにいたいと思うのは。

 確かめたいことがある。わたしは女の子に手を差し伸べて

「握手しよう」

 女の子はハテナ顔で、しかし、ゆっくりとわたしの手を握った。

 温かかった。

「ねぇ、この子はどれだけかかるの?」

「三十分ほど前になるまで、わかりませんな。あと一時間か一日か一年か。それとも、もっと先か」

「一緒に帰ろうなんて、無理な相談なのね」

「いいよ、帰らなくても。結構気に入ってるんだ。この電車」

 わたしは瞳を見つめながら

「でも、待っている人がいるんでしょ。何時か帰らなくちゃ」

 わたしはすっかり会話の無くなった、でも寒い夜には部屋にストーブをつけてくれていた父と母を思った。

 男の子が悪態をつくように

「さぁね、待ってる人なんて居ないんじゃない?」

「じゃあ、わたしが待つわ。何日でも何年でも何十年でも、また会える日を思い描いて。何百年でも、死んだ後でも。英語の構文や、歴史の年表なんて直ぐ忘れちゃうわたしだけど、今日のことは忘れない。

 ねぇ、世界の片隅にでも、それがたとえ一人でも、再会を祈る人が居るって素敵なことじゃない?」

「また古いロマンチストなんだから」

 男の子の声には軽い嫉妬が感じられた。

「いいわ。あなたとの再会も待ってあげる。出来れば、あんまり早く会いたくないけどね。またどこかで会えることを信じてるわ。回転なんだけど。わたし、けん玉は、けっこう得意なの。一緒に遊んでくれないかな」

「へん!」

 少し照れているような、嬉しいような、そんな響きだった。


 時間は刻々と過ぎていった。わたしにはこんなに一生懸命にお喋りをするなんて、初めてのことだった。


 十四分後、世界は再び流れ始めた。


 朗らかな家族。

 遊園地帰りの紙袋。

「ジェットコースターなんて、ちっとも怖くなかっただろ」

「パパ、二回も乗るなんてズルい」

「はいはい」

 ああ、わたし、何でそんなにイライラしてたんだろう。そこには喜びがあった。それも豪華で贅沢なものじゃなくて、今でも手の届きそうな。お父さんお母さん……

 その奥にはドアに寄りかかりながら、携帯をいじくる人。

 空いた席の前で、吊り革に掴まっている人。

 でん、と座りながら漫画を読んでいる人。

 みんな色々な想いを抱えながら、それぞれの出発点から目的点へと、一本の線を流れていく。わたしもその一人。


 帰ってきたんだ。あの電車でのあの時間は、瞬きをするような一瞬だったのだろうか。平然と、何事も無かったかのように、日常が繋がっている。

 確かめると、携帯電話も財布も定期入れもある。靴も靴下もある。

 でも、くちびるにあのカレーのスパイスのピリピリした痛みは無い。

 ただ、瞳の奥を満たし、溢れてくるのは。 いけないっ!

 わたしはバッグに入れていた『でるでる英単語』を取り出し、前かがみになり、軽くあくびをするふりをした。

 涙がまぶたからこぼれ、ゆっくりと頬を伝い、膝元へと落ちた。

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流点観測 えんがわ @26095

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