第5話 第六車両

「足元に気をつけて! 」

「うっ、うん……」

 何があるのだろう。扉を開ける。


 床が真っ黒だ。真っ黒。それも色を塗った感じではない。

 右足をゆっくりとそれへと向ける。

 透けた。いや、透けたんじゃない。

 床が無い。闇なのだ。


「わっ!」となり、重心が後ろへと傾く。しりもちをついてしまった。

「だから、気をつけてって言ったのに」


「だ、だって、床が無いのよ! 驚くわよ! どうやって進めばいいの? そもそもこの電車、何なの? まるで遊び道具を、滅茶苦茶にばらまいたみたい! そう! 子供がクレヨンで散らかしたラクガキよ!」

 女の子は不思議そうな顔で

「電車は電車よ。ずうっと昔からこうなの。そう言えば何か巨大な昆虫にかまれた跡だとかいう噂もあったわね。車掌さんが気を抜いたスキにね、昆虫が下からガブリ!」


 ちぎれた床には羽虫が彷徨っていた。


「進み方はね。イスとツリカワを使えばいいのよ」

 確かに電車には壁にくっつけたかのような椅子が、乗車扉を挟んで並んでいる。そしてそれを補うかのように吊り革が、天井から真っ直ぐに連なっている。

「いい? こうするの」

 女の子はそう言ってシルバーシートに飛び乗った。そこから手でわたしを招いている。

 椅子の上を土足で歩くのは、少し抵抗がある。ただ木製の椅子だからか、それ程に罪悪感は無い。わたしは女の子を追いかけるようにシルバーシートに乗っかった。椅子は乗車口の前で途切れている。あるのは吊り革だけ。

「ウンテイの要領でやるの。さっ、行くよ」

 女の子は器用に吊り革を掴み、進んでいく。ストン。五つ目の吊り輪であちら側の椅子に辿り着いた。

「じゃ、やってみよう!」

「無理よ。わたしには出来っこない」

「ダイジョウブ、ダイジョウブ。失敗したらそれなりにサポートするから」

 そんな言葉を明るく軽い調子で言われると、却って信用できない、不安な気持ちに満たされてしまう。

 それに大丈夫じゃない。わたしは体育は得意ではない。クラス全員参加のリレーだって、ドべ用の走行順番だったのだ。通信簿は何時も「2」だった。はっきり言えば、運動音痴だ。

「駄目っ、途中で落ちちゃうよ」


 五分経ったのか、十分経ったのか、気まずい沈黙が流れた。


「もうっ、意気地なし。カレーの下準備しないといけないし、先に行っちゃうよ」

 ここに取り残されるのは、一番困る。

「やるわよっ!」

 半ば怖気づいているわたし自身を奮い立たせるように怒鳴る。


 手を運ぶ。足を宙に置く。

 右手に一つ目の吊り輪。

 手繰り寄せるようにして左手で二番目の吊り輪。

 指がしびれるほど痛い。もう一度、右手。あと二つ。でも、もう手は言うことを聞かない。

「ダメみたい」

 泣き言を言いながら、四番目の吊り輪に左手を伸ばそうとする。

 だが、手は宙をきった。吊り輪を掴みそこなった。片手だけになる。

 その右手はもう限界だ。

 手が離れる。

 落ちる。闇の底へと落ちる。


 網。

 わたしはハンモックのような網の中に居た。

 茶色の細い茎で出来た網だ。女の子が、ぽつり。

「アミクサ、間に合ったみたいね」

「そんなのあるなら、最初から出してよ!」

「いやいや、世の中そんなに甘くないんだな」

「だからって、危うく落ちるところだったのよ。死んじゃうところだったのよ」


 女の子は意に介さずに

「じゃあ、先に行っちゃうよ。カレーの下ごしらえしなくちゃね」

「ちょっ、ちょっと待ってよ」

「車掌室で待ってるから」

 そう言うと、女の子は次の車両へと行ってしまった。

 その後ろ姿はどこか頼もし気だった。

 わたしは網にからまって、這いずるように前へと進む。それが酷くコッケイに思えた。自分でも笑ってしまうくらい。

 帰りたい。 今すぐ日常に帰りたい。

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