第3話 第八車両

 前の連結部へと扉を開け閉めする。子供のころ、訳も分からず、そうやって前へ前へと遊んだ記憶。

「あらあら」

「行こう! 行こう! お母さん」

 確か小学生の時だっけ。


 次の車両への扉を開く。すると、こぼれ落ちそうなほどの人、人、人。黒色や灰色のスーツ、そこにアクセントのようにネクタイ色が、車両一杯に詰めこまれていた。月曜のラッシュアワーよりも混雑している。それぞれ無表情にどこか遠くを見ている眼。くたくたになった背広。顔には表情の色こそ無いが、何処か疲れているように感じられた。

 女の子はためらわずに、群れへと向かう。そして何のてらいも無く、その中へと溶けていった。

「早く、早く、お姉ちゃん」

 車両の中央から声がする。

 わたしは人差し指を伸ばし、 恐る恐る目の前のサラリーマンを突っつく。灰色のスーツの尖った右肩を。

「えっ」

 透けた。

 指先から伝わるのは、ほんのりと湿った冷たさ。

「早く! 早く!」

 怖い。それは確かだ。けれど、奇術の観客のようなふわふわとした不思議さの方が大きい。それに目の前は異常事態だが、それより悪いのはここに一人、置き去りにされることだ。

 わたしは意を決して、息を止め、人の群れへと身体を乗り出す。プールの中に居るみたいだ。色はビニールのように透けて、でも透明な人の塊で、わたしは両の眼をつむり、駆け足になった。ひたすら走る。息が持たない。堪えきれない。

 群集の途中で、口を開き、大きく息を吸う。じんわりと加湿器から直に空気を吸う感覚。決して心地いいものではない。床への足の蹴りは速くなっていく。走って。走って。湿っ気から抜け出し、肩で息をして、眼を開けると、女の子がクスクスしていた。

「そんなに急がなくもいいのに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る