第2話 第九車両

 高校の頃の友人が言った。

「西に行こう」

 少し日に焼けた茶色の肌が楽しそうだった。

 わたしはつられるようにバスに乗った。

 やがて赤、黄、紅。

 手の平大のモミジが綺麗に見えるところまで来た。

 でも何故か「綺麗」とは口には出来なかった。何時からか、わたしの中にはそうした躊躇いが確かに育っていた。

 友人も何も喋らない。

 やがて透明になり。

 影のようになり。

 酸素に溶けるように消えていった。

 旅の終着点は雪に覆われた山だった。

「オネエチャン」

 緑の皮膚をした馬守に先導され、トロッコのようなもので滑走した。

「お姉ちゃん!」

 その麓で、屋台のような所で射的をした。引き金が驚く程に軽かった。手に入れた商品はガチャガチャのようなもので、カプセルを開けると鉄の塊でわたしにはそれは組み立てると鉄橋になるパーツの一部だと

「お姉ちゃん! カボチャのカレー食べる?」


 ふと目を開けると、電車だった。女の子がわたしの肩を揺すっていた。どことなく広がる違和感。

「やっと、起きた」

 女の子はほっとしたような膨れっ面で、こちらを見つめている。

 小学校高学年くらいか、もしくは中学生くらい。まだ頭がぼやけていて曖昧なままだ。いや冴えていても、こんな児童の年齢なぞ、見当がつかないほどに、触れ合うことも無かった。少しずつ景色に色がついてくる。ブラウン。

「心配したんだから、もう!」

「ごっ、ごめん」

 ブラウン。茶色と焦げ茶色の間。わたしは周囲を見渡す。

 違和感の正体。

 それは椅子も床も天井も、全て木で出来ていることだった。

 木の椅子はコツコツ、ゴツゴツと座り心地が悪い。

 不安の中、ジーンズのポケットに手を入れる。

 ケイタイを探す。

 無い。

 財布を探す。

 無い。

 定期入れを探す。

 無い。

 膝下の鞄は。

 無い。


 ナイナイ尽くしだ。

 急に訪ねて来た恐怖がひたひたと喉元にこみ上げてくる。代わりに声を吐き出す。

「ねっ、ねえ、ここはどこ?」

 不思議そうな顔の女の子。

「電車よ」

「だから、どこの電車?」

 目をぱちくりさせて

「ねえ、お姉ちゃん、はじめてなの?」

「えっええ……」

 何が初めてなのかわからないのも、また、〈はじめて〉の特徴の一つなのだろう。

「じゃあ、窓の外、見てみる? 特別サービスだよ!」

 こうなると会話の主導権は相手のものだ。

 わたしはたくさんのクエスチョンを抱えながら「うん」と答えるしかなかった。


 女の子は窓を横に滑らせる。

 すると網戸がある。

「えっ? 網戸? がある?」

「こうしないと入ってきちゃうからね」

 少しずつ闇に慣れて、闇以外の色や輪郭が滲んでいく。目を押し出すように凝らすと、せわしなく動く足が、妙に艶めいた腹が、網戸をびっしりと覆っている。

「やっ!」

 昆虫の群れ。

「光が恋しいのよ。ここら辺じゃ、ここだけだからね」

 大柄なカブトムシやクワガタ、カナブン。男の子だったらダイヤモンドなのだろうか。わたしには無理だ。ゴキブリと同類のキモチ悪い生き物だ。この女の子にとっては、どうなのだろう?

 と見てみると、女の子はポケットをごそごそと探っていた。そして澄んだ緑色のビー玉みたいなものを取り出した。それを手の平の上に置いて、ぶつぶつと唱えて

「ショクチュウカ!」

 女の子の勇ましい声と共に、 手の平からエメラルドグリーンのツタが伸びていく。それは網戸の隙間へと、一つ一つの穴の中へと、ぎっしりと覆い、絡まっていく。鮮やかな緑の線が昆虫の黒を包み被さり、やがて先端から白い花が次々と咲き、虫たちを吸い込んだ。そして役目を終えた緑は茶色へと枯れ、花びらは白そのままで虚空へと散っていった。

「なっ、何これ?」

「ショクチュウカ!」

 もう一度ゆっくりと繰り返してくれた。今度は意味をなんとか汲み取れた。食虫花。

「虫を食べてくれる花よ」

 あのビー玉のような丸いものは、植物の種だったみたいだ。


 しかし、こんなことは。

 奇術どころかファンタジーではないか。

 こんなことはありえない、これは夢だ。夢だ。きっと。

 頬をつねってみる。痛い。

 まばたきをしてみる。視界は変わらない。

 現実はやって来てくれない。

 これは抜け出すことのできない、覚めることのない夢、なのだろうか……


 女の子は、虫のいなくなった網戸をスライドする。

 外は真っ暗だった。光ない深海の底のような景色に、電車の窓の明かりが寂しそうにぽつぽつと続いている。けれど、それら窓の明かりは、水中のペンギンのように驚くほど速く流れている。

 目を凝らすと、電車の後ろの最奥に、揺らめくものがあった。

 思わず窓から身を乗り出す。

 風はない。

 そこには青白い炎が蛇のように絡み付いていた。炎がとぐろを巻いていた。ゆらゆら。ゆらゆら。ほのお、炎。

「火事?」

「これが、火が動力源なの」

「だって! 燃えてるわよ!」

 炎は最後方の車両を包んでいて、黒い煙がそれに照らされていた。疑問が自然と声になった。

「炎、ここまで来ちゃう?」

 ちょっとした沈黙。

 やがて、女の子は少し顔を上げ、何か閃いたように

「車掌室へ行こう! あそこなら火は届かないし、カボチャのカレーも食べれるし」

「かぼちゃのカレー……」

 カレーはともかく、火の届かない所まで行くというのには、大賛成だ。それに車掌さんなら、帰る方法を知っているかもしれない。

「そうね。行ってみようか」

 久しぶりに心臓が走っていた。

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