39 黒い希望と乾いた水彩画

 12月31日の大晦日、一井は山口宇部空港に降り立った。

 海と住宅地しか見えない地方空港の滑走路を眺めると、とてつもなく遠くに来たような感覚に胸が締め付けられる気がした。

 トレンチコートの襟を整えながら、1カ所しかない到着口を抜けると、そこには紫倉が待っていた。

「久しぶりだね」

 一井は右手を小さく挙げた。

 ベージュのコートを着た紫倉は、笑顔を浮かべて出迎えてくれた。


「山口って、思ったよりも寒いんだね」

 紫倉の運転するプリウスが空港出口の信号で停まったとき、一井は口を開いた。

「よく言われますね。でも、京都はもっと寒かったです」

「まあ、ね。あそこは丸々冷凍庫の中だったからね」


 宇部うべから自動車専用道路に乗り、山口市まで1時間のドライブをした。平常なら30分で着くはずが、一昨日までの雪が路肩に残っていて、慎重なドライブとなったのだ。

 山口に入るとまず、2人は市内を流れるいちさか川沿いのレストランに入った。店内はアンティークな雰囲気で統一され、テーブル席は半地下にセットされていた。


「静かな町だね」

 夏みかんのサワーで乾杯した後、一井は言った。薄暗い店内にはビル・エヴァンスのジャズトリオの曲が流れている。日中であることを忘れてしまう。

「山口は、『西の京』とも呼ばれるのです。昔ここを治めていた大内おおうち弘世ひろよという大名が、京都に似せた街作りをしたという話を亡くなった祖母が得意げに話しておりました。お店の外に流れる川は、鴨川を意識しているようです」

「たしかに、そんな感じもするね。いや、むしろ京都みたいにゴミゴミしていない分、こっちの方が落ち着くかもしれないね」

 一井はそう言って、ウニのパスタをフォークですくった。紫倉も追従して食事に手を付けた。

「ご自宅もこの町にあるの?」

「いえ、住んでいるのは、ここから車で1時間ほどの所です」

 紫倉は店内の雰囲気に調和するような静かな声で答えた。

「それにしても、プノンペンからいきなり故郷に帰ってくるとは、ほんとうに大変な思いをしたね」

 紫倉は紙ナプキンで唇の端を拭いた後、こう言った。

「たしかに大変でしたが、今思えば、運命だったのかなと思っております」

「どういう意味で?」

「人生の節目で、ふと気がつけば、私はいつも1人なのです」

 一井はミネラルウォーターに口を付けた。

「僕は、君とずっと会いたいと思っている」

「そう言っていただいて、私は素直に喜んでもよろしいのでしょうか?」

「もちろんだよ」

 紫倉の表情には安堵の光が差し込み始める。

 すると、その瞬間、満たされた紫倉の心と反比例するかのごとく、これまで長いこと自分を縛り付けていた鎖の一部がほどける音を聞いた。

 あれっ、何だろう、と思った。


 食事を終えた後、2人で市内の老舗旅館に入った。明治維新の志士たちの密談にも使われた歴史ある建物の一室で2人は抱き合った。

「あなたのことがどうしてこんなに好きなのか、未だに理由がつかめないんだ。あなたは普通の女性じゃない。きっと何かを持っている。だから僕の心をこんなにも惑わすんだよ」

 紫倉はおのずと笑みがこぼれる。さすが一井晴明、洞察が鋭い。人を見る目をもっている。

「こんな私ですけど、それでもそう思ってくださるのですか?」

「今のままでいい。十分だ。変わる必要なんてない」

「では、これから私はどうすれば良いのでしょう?」

「あなたはどうしたい?」

「私には意見を申し上げる権利などございません」

「こうやって、会いたいときに会いに来るよ。それでいいかい?」

 紫倉は雲のような曖昧な笑顔を浮かべる。

「一緒に住むことができなくてもいいかい?」

 雲は次第に重くなっていく。

「僕にもいろいろと事情があるんだ」

「薄々分かっております。一井部長が私を選んでくださることなどありえないこともです。私は、人生に対して大きな希望を持つことはできません。でも、できれば、小さくても希望は持ちたいと思うのです」 

 一井はいったん立ち上がり、冷蔵庫からジントニックを取り出して飲んだ。

「私はこれから、この山口で、世間の日の当たらぬように、ひっそりと、自分の人生を生きていきます。でも、やっぱり、希望は持っていたいのです」

 一井は紫倉を見てうなずく。

「また来てもいいかい?」

「こんな遠くまで来てくださるのですか?」

「もちろんだよ」

 雲のような笑顔からは、うっすらと日が差してきた。


 その表情を見て、一井の身体から力が抜けた。これまで長い旅をしていた。この女性の本心を自分の目で確かめるための旅だった。

 ふとため息をつく。一井を見つめる紫倉の背後には、真昼の山口市内の風景が乾ききった水彩画のように広がっている。

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